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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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えすのサカエ『未来日記』 

えすのサカエの『未来日記』(角川書店、全12巻、2006-2011年)は難解な漫画だ。
筋書自体にさほど込み入ったところはない。要約すると―人生の「傍観者」にすぎなかった内気な中学生・天野雪輝(1st)は、日頃からつけていた携帯電話の日記に未来の出来事が書かれていることに気づく。それは時空王「デウス・エクス・マキナ」が桜見市の人々に与えた12種類の「未来日記」の一つで、公平無私な予知を可能にする「無差別日記」だった。有頂天になる雪輝だったが、やがて彼を慕うストーカーの少女・我妻由乃(2nd)が現れ、彼女の「雪輝日記」の助けで辛くも死地を脱するに及んで、デウスの狙いに疑問を抱くようになる。実は、寿命の尽きかけたデウスは未来日記の所有者たちに「サバイバルゲーム」をやらせ、最後まで生き残った者に神の座を譲ろうとしていたのだ。否応なくゲームに巻き込まれた雪輝は、自身の安否に関わる予知は由乃に頼りつつ、徐々に当初の戸惑いを振り捨て、家族や友人を失いながらも必死で優勝を目指すようになる。「神」になれば全てを取り戻せると信じて―といったところか。
また、予知に抗うことによる未来の改変や、平行世界への移動などがややこしいのでもない。そういった事象に関しては作中に十分な説明がある。
『未来日記』の複雑さは、もう少し違う次元に存在している。

この作品においては、空虚の確保が「生」や「希望」や「正義」に通じ、逆に充満の強制が「死」や「絶望」や「悪」に通じるという構図が一貫して成り立っているようだ。
試みに、概要を以下に示す。

まずは「空虚=生・希望・正義」の等式の実例から。
第1巻68-69頁:3rd(火山高夫)の追撃からの戦術的な一時撤退(雪輝と由乃は屋上の壁面にはりついて身をひそめ、二人を追ってきた火山は無人の光景に驚いて隙を突かれる)
第3巻16頁:「こんな世界は/無くていい……」
同187-189頁:口移しによる空気の補給(雪輝→由乃)
第4巻56頁以下:展望台への籠城、犬たちの侵入の阻止
第5巻78-82頁:投身自殺めいた逃避行
同88-90、119-122頁:ドーナツ(「………/昔父さんが」「よくドーナツを/あげてくれたっけ」)
同114-117頁:穴の縁で結ばれる「雪輝‐由乃‐みねね」同盟
第6巻153頁:「とにかくこの作戦には/敷地の広さが/必要になる」
第7巻16-17頁:「こうなりゃ」「奥の手!」「退っ」「却っ!」
同71頁:ドーナツ
同132-143頁:雪輝はあえて由乃一人をマルコ‐愛の二人組(7th)に立ち向かわせた上で二人を分断し、一人きりになった愛に改めて二対一の有利な戦いを挑む。この作戦の成否は、偽の情報でマルコを騙し、彼を無人の放送室に誘導する一手にかかっている。空虚を制御できる者が勝利するのだ。逆にこれをマルコたちの側から見れば、てっきり放送室に隠れているとばかり思っていた雪輝が突如衝立の背後から現れて由乃に加勢するせいで、勝てるはずだった二対一の戦いの形勢が逆転するまでの過程ということになる。充満は脅威なのである。
同154-156、181頁:パラシュート
同172-177頁:瓦礫からの脱出
第9巻65-66頁:桜見中央大学のドームに爆弾が開けた風穴
同131-132頁:「ムクドリ作戦」が功を奏し、無人のまま敵の包囲網に到着したエレヴェーター
同162頁:雨流みねねをかばい、蜂の巣になって死んだ西島
第10巻20-22頁:我妻銀行大金庫への11th(桜見市長ジョン・バックス)の籠城
同103-105頁:大金庫の扉を開けるためのみねねの自爆
同130-131頁:「全てを“0”(チャラ)に」「それがユッキーの/目的でしょう?」
第11巻102-107頁:大空を背景に、首をはねられながら雪輝に貴重な真実を伝達する秋瀬或

続いて「充満=死・絶望・悪」の等式の実例。
第1巻118-119、166頁:校舎を満たす爆風
同156-157頁:雨流みねね(9th)の要求に屈し、雪輝をよってたかって組み伏せる生徒と教師たち
同188頁以下:地雷原
第2巻42-43、89-90頁:ふすまの向こうの三体の死体(第6巻64-65頁に至って「多すぎる」ことが判明する)
同110-113頁:巻物を埋め尽くし、正確な予知を妨げる大量の攪乱情報
同132-133頁:「死体が死んでないわっ!!!」=「『死体のフリ』をする催眠術」
同161-163頁:5人の12th(4人は催眠術で調達した影武者)
第3巻36-37頁:巻物を埋め尽くし、新規の予知を妨げる大量の攪乱情報
同58-63頁:押し入れから出てこようとする由乃
同106-107頁:毒薬分だけ「重い」トマト
同155頁以下:家の中に満ちる青酸ガス
第5巻52-58頁:ロシアンルーレット(「さて雪輝」「5発中4発撃って/いずれもハズレ」「次はお前の番な/わけだが―」)
第6巻40頁以下:部屋に流れ込むコンクリート
同146-149頁:一膳分余計な皿
第9巻72頁以下:全市民への「未来日記」の普及
第10巻5-6頁:肩まで地面に埋まった雪輝の父の遺体(雪輝が穴を「掘る」場面は省略され、埋葬はすでに完了しかかっている)
同111-114頁:11thの予想を裏切り、我妻銀行大金庫に由乃が潜入して彼を殺害する
第11巻178-180頁:由乃が平行世界の彼女自身のもとを訪れ、直後に殺害する

以上は網羅的なものではないし(特に第12巻の検討は論述の都合上後回しにせざるをえない)、そもそも誰の視点に立つかによっても結果は違ってくるはずである。
とはいえごくおおざっぱな傾向としては、空虚が「生・希望・正義」の原理であり、充満が「死・絶望・悪」の原理であるという対照関係を認めてよいのではないか。
なるほど一見すると、後者の事例は前者のと比べてやや生彩を欠くようにも思える。
しかしその理由は、我妻由乃一人だけがこの対照関係の例外であり、かつ彼女が作品の終盤でしだいに存在感を強めてくるからだ。養父母の死体を隠蔽すべく「底が見えない」ほどの深い穴を自宅の中庭に掘り(第5巻1、30-32頁)、食欲のわかない雪輝の口に無理やり食べ物を詰め込む(第6巻53-55頁、第10巻130-131頁、第11巻5頁)由乃にとっては、空虚こそが死の原理であるように、充満こそが生の原理である。たしかに、雪輝を慕うあまり彼の恋路を邪魔し、養父母の折檻に耐えかねて彼らを殺すという彼女の行動は、十分それ自体として理解することが可能であろう。だが、その際正体を隠そうとわざわざ着ぐるみに身を包んだり(しかも私物らしく、そのままの格好で帰宅している)、檻に養父母を閉じ込めて餓死させるという殺し方を選んでいるあたり(第8巻18-37頁)、どうもさらなる説明が必要ではないかと思えてくるのだ。ことによると、着ぐるみを己の四肢で隙間なく満たすことはそれ自体が成功の保証(あるいはまじない)として機能しているのかもしれないし、また養父母の殺害手段が加算的(刺殺や毒殺など)ではなく減算的(食料と自由を奪い、空気のみを与える)であることにも―単に自分が受けたとおりの仕打ちをやり返すという以上に―おそらく彼女なりの必然性があるのである。しかも彼女は、一見して怪しい巨大な穴を埋め直さず、底に寝かせた死体に申し訳程度に土をかぶせるだけで済ませるという異様な処置を採用しているらしい(第6巻59-61頁)。これではまるで隠蔽になっていない。雪輝の父親の遺体が穴掘りの段階を省略した迅速な埋葬の描写に与る(第10巻5-6頁)のとは対照的に、由乃の養父母の墓穴はぽっかりと口を開けたままで、決して蓋をする者がいないばかりか、後述するように由乃がかつて犯した罪深い所行を明かす「過去から未来への映像(ビジョン)」(第11巻155-188頁)に通じているのだ。
このような観点を念頭に置いた場合興味深いのは、同じく口づけを介した伝達でありながら、雪輝が由乃に与えるものは空気であるのに対して、由乃が雪輝に与えるのは水であるという事実だろう(第3巻187-189頁、第8巻92-93頁)。いやそれどころか、「台本」を準備して11thを追いつめる雪輝の勇姿を演出したのも(第8巻118-119頁)、彼に「おかしな事を吹き込む」策略を弄して友人を銃撃させたのも(第11巻62頁)彼女にほかならない。たとえ全面的にではないにせよ、雪輝の内面はかなりの程度まで由乃による充填作業のたまものなのだ。
由乃の一連の行動を導く動機は、雪輝に対する狂気のような愛情であり、ひいては未来日記所有者たちの「サバイバルゲーム」を制し(したがって最終的には雪輝をも殺し)、なおかつ「神」の地位には就くことなく新たな平行世界に移動して、再び彼と束の間の共闘を生きることである。それができるだけの膂力と冷酷さが、中学生、それも女性とは思えぬほどの強度で彼女には具わっており(片手に持った携帯電話で通話しながら、歩度を緩めずに成人男性を一刀両断する描写さえある)、戦闘の場面はしばしば彼女の独壇場の観を呈するほどだ。したがって由乃の活躍が作品の終盤に近づくにつれて増えてくるということはそのまま、充満の原理が殺伐とした血生臭さに通じることの証明たりえている。
おそらく由乃が迷いなく残酷な行動に踏み切れるのは、すでに一度同様の体験を経ていることとも無縁ではない。すなわち作品の開始の時点で、実は彼女は一回目の「サバイバルゲーム」を勝ち抜いて「神」になりかけながらも雪輝の復活が不可能事であることを知り、窮余の一策として新たな平行世界(本作の舞台)に移動した上で、そこにいた由乃自身を―「『私』は二人もいらない」という信念にもとづいて―殺害し(第11巻178-180頁)、まんまと入れ替わっていたのである。これが、我妻邸の巨大な穴に養父母の死体とともに横たわる、三体目の死体の正体である。「充満」こそが善であるという価値観から、恩恵の独占・飽くなき追求という欲望まではほんの一歩なのだ。そして我執の空転には、逆説的にも個体性の価値の下落という代償が伴っている。

じゃあ/私が「神」になっても/いいじゃない
そうすれば私は/“三周目の世界”のユッキーと/また「ゲーム」が出来る〔…〕
―どうせ皆/世界と一緒に/回り続ける
「駒」じゃない(第11巻204-205頁)

由乃は雪輝を愛するあまり、新たな雪輝に会いたいあまり、唯一無二の恋人であるはずの目前の彼を是が非でも「駒」とみなして殺さなくてはならない。ここには悲劇的な逆説がある。
おぞましい真相を知った雪輝に狂人呼ばわりされても、「狂ってるのは/私とユッキーが/結ばれないっ/この世界の方だよっっ!!!」と言い放つ由乃の狂気は、ただ単に、雪輝への愛着が常軌を逸していることや、躊躇なく邪魔者を排除できる殺人への忌避感の薄さだけに由来するものではない。彼女が「狂っている」理由はたぶんもっと根深いところにあり、空虚と充満の帯びる価値が、他人と彼女とでは正反対になっているからにほかならない。別世界からやって来た(そして、養父母を殺した自分自身を殺した)という経歴のためばかりでなく、このようにもっと本質的な水準で、由乃は身寄りのない異邦人なのである。ゆえに彼女はいかなる喪失をも恐れることなく、一目散に前途の獲物に向かってゆくことができる。平然と「皆」を「駒」と呼んではばからない(あるいは、そのようなふりをせざるをえない)由乃にとっては、「もうっ“天野雪輝”を/追いかけるなっ!」(第12巻70頁)という雪輝自身の叫びからも分かるように、固有名が個体性を失い、いわば普通名詞化しているのだ(しかし普通名詞でしかない恋人の名に、はたしてどんな値打ちがあるというのか)。
問題は、ここまで割り切った考え方を貫き通すのは、由乃といえども至難のわざだという点である。彼女の「雪輝日記」をもってすれば雪輝を追いつめること自体はたやすいのだが、日記の文面はつねに彼の身に迫る間近な危機を心配するという体裁になっており、そのことが由乃を悩ませる。他方で雪輝も、「由乃と同じじゃ/ないか―…」「僕は自分のために/皆を殺した……!」(第11巻212頁)という反省を経てなお、「三周目」への執念を燃やす由乃を止めようとしてあがく。個体性の閑却は、たとえ全くの無理難題ではないにせよ、我々にとって容易なことではないのだ。

君にとって
僕はいくつもある/「駒」の一つかも/しれない……〔…〕
でもっ
僕にとって君は/大切なただ一人の人/なんだ……!(第11巻218-219頁)

雪輝は決して、由乃の目的が邪悪だから彼女を憎んでいる、というわけではない。「僕は君を救う!」という決意(第11巻220頁)からこの上なく明瞭にうかがえるように、彼女が個体性の抹消(雪輝自身と平行世界の由乃の殺害)という罪を重ねるのを何とかして防ごうとしているのだ。あくまでもそれに反論し続けようとすれば、由乃は必然的に己の恋愛を否定することを余儀なくされる。

私は依存出来る人間なら/誰でも良かった
あなただって/守ってくれる人間なら/誰でも良かったはずよ(第12巻102-103頁)

このような恐るべき台詞を、誰に命じられたわけでもないのにほかならぬ自分の口から言わざるをえないということが、由乃の真の悲劇性であろう。あらゆるものを犠牲にして未来の充満を追い求めた結果、過去は一切の意味を失って空虚になる。

ところでグレゴリー・ベイトソン(この人はなまなかな分類を受けつけない曲者だが、強いて肩書を決めるなら文化人類学者だろうか)によると、「意味」とは「冗長性(redundancy)」にもとづいて考えるべき概念であるという。

音素の連なりでもいい、一枚の絵でもいい、一匹のカエルでも、一つの文化でもいいが、なんらかの出来事または物の集合体に、とにかくなんらかの方法で「切れ目」を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき、そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。これを、切れ目の片側にあるものが、もう一方の側にあるものについての情報を含む、あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。(注1)

英文中に現れるアルファベットのTは直後にHやRが続くことを推測させ、地上に現れた樹木は地下の根を推測させ、円弧は円周全体の姿を推測させる。このように、冗長性としての意味はいたるところに遍在しており、なかんずく人間同士のコミュニケーションのあり方から如実にうかがえる。「雨が降っている」という発言は、聞き手に窓の外の雨粒の存在を推測させるのみならず、窓外に雨粒を認めて発言の正しさを確かめた人は、同時に自分と話し手との信頼関係についても再確認することになるのだ。このことをベイトソンは、コミュニケーションにおいては「部分によって全体をあらわす」コード化の作用が成立している、と表現する(注2)。
さて、作中に登場する未来日記には、雪輝の「無差別日記」や由乃の「雪輝日記」以外にも、持主の性向に応じたさまざまな種類のものがあるが、いずれも近い未来の出来事をあらかじめ持主に知らせ、場合によっては回避すべき危険な運命―その最たるものは「DEAD END」、すなわち迫りくる他の日記所有者の脅威を反映した殺害予告である―を教えてくれるという機能を有する点は変わらない。これがベイトソンの語彙を借りれば、「冗長性」を増やし、個人の生涯における予測可能性を飛躍的に向上させる道具であることは一目瞭然だろう。この点で示唆的なことに、全市民に予知能力を授けんとするジョン・バックス(11th)が利用した「HOLONIII(ホロンスリー)」(桜見中央大学にあるスーパーコンピュータで、演算能力は国内第三位らしい)は、一部の破壊が全体の機能不全に直結しないで済むよう、名前通り「部分が全体を兼ねる」構造になっている。
しかし、「未来日記」の所有者たちにデウスがやらせようとしているのは、生き残りを賭けた「サバイバルゲーム」であった。この場合、いたずらに予測可能性だけが増しても、単に座して死を待つ恐怖がその分大きくなるにすぎない。このゲームがゲームたるゆえん(あるいは、読者にとっての醍醐味)はむしろ、いかに死力を尽くして「DEAD END」の予告を覆すか、いかに情報戦を制して他の日記所有者の予知を欺くかにある。もし上述のごとく「空虚」が「生・希望・正義」の原理に等しいのだとしたら、その理由はおそらく、空虚(何らかの出来事が起きないこと)が予知の端的な失敗の、最も分かりやすい実例であるからに違いない。空虚の発生は、それまで敵が掌握していた冗長性(予測可能性)を首尾よく奪回できたことの、動かぬ証拠なのだ。
もっとも第10巻では、各地に名状しがたい「穴」(強いて似ているものを挙げるとすれば小型のブラックホールだろうか)が大量に発生して建物や人を呑み込むさまが描かれているが、これとて別に反証ではなく、デウスの衰弱を反映して空虚と充満との概念的な境目が乱れたと判断すべきであろう。球体状にまとまって回転しながら家屋をすりつぶす黒々とした「穴」は、いわば「空虚の」充実(空虚からなる一様な集合)なのである。ベイトソンは"inform"(情報を与える)という語の「形づける」という意味に注目している(注3)。全てが穴(空虚)であれば世界は文字通り形を欠き、無意味な混沌へと溶解してしまうはずだ(球は最も単純な立体である)。
しかし、自分一人が「二周目」のゲームを生きていることも、最終的には雪輝を殺すつもりでいることもひた隠しにする由乃の場合のように、世界そのものがいわば巨大な冗長性であっても事情は同様のはずである。「分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができる」どころではなく、彼女はゲームがたどりそうな成行を「すでに」知っているのだ(「サバイバルゲーム」の参加者の顔ぶれも、一回目と二回目で全く同じらしい。ただし勝負の細目には違いがある)。由乃が充満にこだわるのは、彼女に空虚が不足しているからであり、いわば「後がない」からである。
ベイトソンによれば、情報とは「違いを生む違い(a difference which makes a difference)」である(注4)。だとすれば充満の極致であれ空虚の極致であれ、完全な一様性は情報量の点ではこの上なく貧しく、無意味な状態であろう。しかし、空虚の中では新たに何事かが起きるかもしれないが、充満に対してはそれも期待できない。あえて上記の一覧表からは外した第12巻をひもといてみよう。雪輝の殺害をついに果たせないまま彼を球体状の幻覚空間―これに関して見落とせないのは「ユッキーの望むものは/全て手に入る/『夢の国』よ」という説明があることで(第12巻97頁)、例えば「まやかしの充満」という定義をこの説明から引き出してもさほど的外れにはなるまい―に幽閉し、もう一人の彼女自身をかばう養父母に襲いかかる由乃を狙って刑事が撃った弾丸は、奇妙に大きな黒い真円として(底面から、遠近法を誇張して)表現されており、頁をめくると今度は大きく引いた俯瞰的な構図で、さながら卵の殻を破るように幻覚空間から脱出した雪輝のおかげで彼女が一命を取り留めた様子が描かれている(第12巻152-155頁)。由乃単独ではまがまがしい金属の充実に抗うすべはなく、雪輝がまやかしの充満を拒絶して空の球体にひびを入れ、広々とした外界の空間に復活を遂げることが必要なのだ。単なる作者の気まぐれと呼んで片付けるには、このあたりの形象の振舞(死をもたらす充満した円と、破裂して生をもたらす球体)は少々整然としすぎているように思える。
ここに至って由乃は、驚きのあまり「嘘……」「夢より私を/選んだって事!?」と問い、雪輝の信じがたい行動の意味を解釈しようと努めざるをえなくなる。もとより彼が自分を愛しているということ自体は、由乃は先刻承知している。ここで改めて推測の対象となるのは、その愛情がいかほどのものかという強度である。一切の進展や変化の余地が失われたかに見えた充満の極致に空虚が生じ、未知の冗長性を新たに呼び起こす。再びベイトソンを参照すると、目前の相手と自己との関係に関わる事柄(愛情もその一例だ)は、非言語的な身体的行動によってこそ十全に伝わり、しかもその伝達行為には帰謬法的な性格がつきものだという(注5)。いわば「雪輝は由乃よりも夢(幻覚)を選ぶ」という暗黙の命題に対して、彼の行動が口頭では到底達しえないほどの自明さを伴う反証を突きつけたのだ。もしも、由乃の決定的な改心に通じるこの場面が、小さからぬ喜びを読者に(そして由乃に)覚えさせるのだとすれば、その理由は、登場人物による有意味な行動(あるいはむしろ行動による意味の創造)という芸術作品の原理そのものが凝縮されて主題と化し、具象的に実演されているからではないかと思える。

充満と空虚の微妙な均衡に潜む逆説的な調子は、雪輝と由乃の大詰めでの台詞に、どこよりも顕著に露呈している。他人を「駒」としかみなさない由乃の非情さが、そもそもの動機だったはずの自己の恋愛を否定せざるをえなくなる一方で、雪輝はなぜ自分は由乃が好きなのかを自問した果てに、彼女が「ずっと側にいて/くれたから……」(第12巻118頁)という一見ひどく空疎な答えを見つける。肝心なのは、これが彼にとっては「僕が父さんと/母さんを好きな/理由と一緒」(第12巻117頁)だということだ。愛情というものを一般的に定義しようと試みるならば、我々は習慣が血縁をしのぐと考えなくてはならないのである(だからこそ、元来孤児だった由乃による養父母の殺害も、深刻な事件でありうる)。たとえ血縁関係はおろか、相手の何らかの特長(容姿や性格など)という根拠すらあやふやだとしても、それは愛情が無価値であるということと同じではない。他人を「駒」と考えるか自分と対等の人格と考えるかは、事実我々の裁量に任されているのだが、それでいてそのような主観的選択は決して些細なものではなく、はっきりと客観的な結果をもたらすような、換言すれば我々を取り巻く世界の表情にはね返ってくる選択である。偶然が敷いた関係を、因果の蓄積が時間の経過につれて必然へと熟成させるのだ。
この理を知るとき、雪輝はごく自然に、「僕が死んで/君の居場所を作る」(第12巻170頁)という倫理的な決断を発することができるし、由乃もまた彼の代わりに自殺することでゲームを終わらせることができる。もはや発端の偶然が唯一無二の相手への愛情を懐疑で蝕む恐れはなく、しかも自己の進退と相手の運命との間に収支の釣合いが成り立つことが判明しているからだ。
つねに全体的な回路を見失わぬことを重んじ、惑星の生態系そのものを一つの「精神」として考えることさえ提唱したベイトソンは、人間が一方的に環境を支配できると信じることの愚かさを指摘し、自己よりも大きな「システム」を自覚しつつ謙虚に振る舞うことの大切さを説いた。我々自身による主観的選択が環境のあり方となって我々に反射してくるような事態は、少なくとも正負二通りの場合を含んでおり、したがって必ずしも破壊的とは限らない。例えば「全体対部分の関係が与えられんことを祈るとき、その祈りはすでに実現されている」(注6)。彼の信念を支えていたのは、次のごとき予感である。

人間とは何なのか?わたしが「わたし」というとき、わたしは何を意味しているのか?―おそらく、われわれが「自己(セルフ)」と呼ぶものは、われわれの知覚と適応的行為の習慣の集体に、その瞬間瞬間の「行為に内在する状態」をプラスしたものなのではないでしょうか。(注7)

このように問うベイトソンは、なにも自我の輪郭を希薄にしようともくろんでいるわけではなく、自我を何らかの所与の文脈から孤立させて把握してしまうことの危険性に注意を促しているのだ。

自分の関心は自分であり、自分の会社であり、自分の種だという偏狭な認識論的前提に立つとき、システムを支えている、他のループはみな考慮の“外側”に切り落とされることになります。〔…〕精神を内在させている構造から精神を切り離す―つまり、人間関係、人間社会、エコシステムの全体から精神を抜き取る―ことは、非常に深い誤謬にさまよい込むことであり、この誤りに陥ったものは、いずれ深い痛手を負うことは避けられない、とわたしは信じるものです。(注8)

自我は周囲の環境や人間関係から孤立しては平常心を保てず、両者がともども相まって初めて真に精神の名で呼ばれるに値する尊厳が生まれること、このことをいまや心ならずもただ一人生き残ってしまった雪輝も、自分一人では解決できない孤独という難問に直面して、痛感しているはずである。
だからこそ、「神」の座を手に入れながら恋人の不在を嘆き、一万年間の無為を過ごしてきた雪輝のもとに、由乃(「三周目」の世界の由乃)が「時空の壁を壊して会いに来た」(第12巻202-207頁)瞬間の、一様な暗黒の中に亀裂が走る光景は非常に感動的なのだ。誰よりも充満に執着していたはずのほかならぬ由乃の手で、空虚(暗黒)に空虚(亀裂)が到来するという奇蹟が実現せしめられる。そしてこれは、いかに読者にとっては意外であろうとも、由乃の行動原理を熟知している雪輝にとっては、ハンマーが振り下ろされるたびに拡大する亀裂を認めた瞬間に自然と予感できた展開である。「なんらかの方法で『切れ目』を入れることができ、かつ、そうやって分割された一方だけの知覚から、残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができる」という、意味の生成の条件が忠実に守られていることはわざわざ指摘するまでもあるまい。


(1)G. ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』(佐藤良明訳、新思索社、2008年第4刷)203頁。
(2)同書554頁。
(3)同書543頁。
(4)同書602頁。
(5)同書551、565-566頁。
(6)同書450頁。
(7)同書337頁。
(8)同書640-641頁。
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