Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

カンギレム『正常と病理』…の誤訳 

フランスの科学史家ジョルジュ・カンギレムの主著である『正常と病理』は、法政大学出版局から翻訳が出ている(滝沢武久訳、1987年初版第1刷刊)。
それの中で、読んでいて特に気になった箇所を原文と照らし合わせ、見つかった齟齬を書き留めておくことにした。
なお、使用した原著は第四版(Georges Canguilhem, Le normal et le pathologique, 4e édition, Paris, P.U.F., 1979)である。また、原文中に割注で挿入される文献への参照指示は引用時に略した。

(1)115-116頁から

異常は、二つのものが相互に完全に入れ代わることのできない、個体変異の事実である。異常は、ライプニッツの「区別しがたきもの」(indiscernables)の原理を、生物学的次元で例証している。しかし多様性は病気ではない。「異常なもの」は病理的なものではない。病理的なもの(Pathologique)は、「哀愁」(Pathos)を意味する。すなわち、苦痛と無力の直接的具体的感情や、妨害を受けている生命の感情を含んでいる。しかし、病理的なものはまさしく異常なものである。ラボー(E.Rabaud)は、最近のまちがった用法に従って、異常な(anormal)を異常(anomalie)の形容詞にしているために、「異常であること」と「病気であること」とを区別している。そしてこの意味で、病気の異常者たちについて語っている。しかし、彼が別のところで非常にはっきりと、適応および生活力という基準で、病気と異常とを区別しているので、わたくしは、語と意味についてのわたくしの区別を変える理由を持たない。

おそらくここが、この訳書全体を通じて最も問題含みの部分ではないかと私は想像する。というのも、まさしく原文が二つの概念の決定的な区別を提案しているくだりで、訳文が両者を混同しているからだ。その二つとは、"anomalie"(名詞)と"anormal"(形容詞)である。著者の語源学的な説明によれば、前者(「アノマリー」)は土地に関して「不均等な、でこぼこした、不規則な(inégal, rugueux, irrégulier)」を意味していたのに対し、後者(「アノルマル」)は規範にかなっていないことを意味していたという。つまり、前者は事実を指示するだけの記述的な用語だが、後者は価値への参照を暗に含む、評価的・規範的な用語なのである。しかるに訳書においてはどちらも「異常(な)」という日本語で表されるので、必然的に両者の違いが見えにくくなる。
原文は以下のとおりである。

L'anomalie c'est le fait de variation individuelle qui empêche deux êtres de pouvoir se substituer l'un à l'autre de façon complète. Elle illustre dans l'ordre biologique le principe leibnizien des indiscernables. Mais diversité n'est pas maladie. L'anomal ce n'est pas le pathologique. Pathologique implique pathos, sentiment direct et concret de souffrance et d'impuissance, sentiment de vie contrariée. Mais le pathologique c'est bien l'anormal. Rabaud distingue anormal et malade, parce qu'il fait de anormal, selon l'usage récent et incorrect, l'adjectif de anomalie, et en ce sens il parle d'anormaux malades; mais comme il distingue par ailleurs très nettement, selon le critère donné par l'adaptation et la viabilité, la maladie de l'anomalie, nous ne voyons aucune raison de modifier nos distinctions de vocables et de sens.(注1)

上記の訳文への疑問点を意識しつつ訳すと、次のようになった。直訳調で不格好だが、明晰にはなっているはずだ。

異例性(アノマリー)とは、二つの存在者が互いに完全な仕方で置き換わりうるのを妨げる個体的変異の事実である。それは生物学的秩序の中で、識別不可能なものらに関するライプニッツの原理を例示している。しかし多様性は病(マラディー)ではない。異例なものとは病理的なもののことではない。病理的(パトロジック)〔という語〕は受苦(パトス)を、苦悩と無力との直接的かつ具体的な感じを、阻止された生命の感じを含意する。しかし病理的なものとはまさしく異常な(アノルマル)ものである。ラボーは「異常な(アノルマル)」と「病める(マラード)」を区別する、なぜならば彼は異常(アノルマル)を、最近のしかも不正確な用法にしたがって、異例性(アノマリー)の形容詞に仕立て上げるからであり、そしてこの意味で彼は病める異常者たちに関して語るのだ。しかし彼は別の箇所で非常にはっきりと、適応と生存力とによって与えられる基準にしたがって、病(マラディー)を異例性(アノマリー)から区別しているのだから、我々は語彙と意味とに関する自分たちの区別を変更すべきいかなる理由も見ない。

蛇足かもしれないが一応原文の趣旨を要約しておく。まず、「異例性(アノマリー)」は単なる個体間の多様性の事実にすぎないので「病(マラディー)」ではなく、したがって「病理的(パトロジック)」ではないのに対して、「病理的(パトロジック)」はそのまま「異常(アノルマル)」に通じるというのが第一点。ついで明文化されていないものの、このように「異例性(アノマリー)」は「病理的(パトロジック)」ではないが「異常(アノルマル)」は「病理的(パトロジック)」なので、結局「異例性(アノマリー)」は「異常(アノルマル)」とは違うというのが第二点。最後に、ラボーが「異例性(アノマリー)」と「病(マラディー)」を区別しているのは結構だが、「異例性(アノマリー)」と「異常(アノルマル)」を同一視しているのは感心できないというのが第三点。こんな風に、三段階に分けると見通しがよくなりそうである。
いずれにせよ一番の要点は、「アノマリー(anomalie)」(名詞)には「アノルマル(anormal)」(形容詞)が対応する、という通念を見直し、二つの概念を切り離すことなのであって、そうである以上邦訳がこの区別をぼかしてしまう結果になっているのは惜しい。もっとも、「アノマリー」は今日では「異例性」や「変則性」と訳すなり、なんならカタカナで音写するなりしてもよさそうで、その分この訳書の出版時(1987年)よりは状況が楽になっているという違いはある。それにしても意味を通りやすくするために、せめてルビなりと振っておくべきではなかったか。また、ライプニッツの唱えた"principe d'identité des indiscernables"が一般に「不可識別者同一律」と訳されることや、「パトス」は語源的にも現在の文脈でも、単なる「哀愁」の情感よりは広く、いわば不幸としての受動状態を指すと思えることなどにかんがみ、他にもいくつか訳語を改めざるをえなかった。

(2)116頁から

たえず完全である健康は異常だといわれるとき、生物の経験に事実上病気がふくまれるという事実が、言い表わされているわけである。異常だということは、まさに、存在しえないし観察されることもできないということを、意味している。だから、いいかえれば、健康の持続は一つの規範であり、規範は実在しないということにほかならない。こういう不当な意味では、明らかに、病理的なものが異常でないことになる。病気に対して防衛したり病気と戦ったりする有機体の正常な機能を、少しでも語ることができるとしたら、それこそ異常である。

ここの訳文は、それ自体として意味が通らないわけではない。が、原文は次のようになっている。

Quand on dit qu'une santé continuellement parfaite c'est anormal, on traduit ce fait que l'expérience du vivant inclut en fait la maladie. Anormal veut dire précisément inexistant, inobservable. Ce n'est donc qu'une autre façon de dire que la santé continue c'est une norme et qu'une norme n'existe pas. En ce sens abusif, il est évident que le pathologique n'est pas anormal. Il l'est même si peu qu'on peut parler de fonctions normales de défense organique et de lutte contre la maladie.(注2)

この原文を私なりに訳してみるとこうなった。

絶えず完全な健康というものは異常(アノルマル)だと言うとき、人は生物の経験が事実上は病を包摂するものであるというこの事実を言い直しているのである。異常とは正確なところ、実存しないとか、観察不可能という意味だ。ゆえにそれは、連続的な健康とは一つの規範であること、そして一つの規範は実存するものではないことを言う、別の仕方にすぎない。この不当な意味でなら、病理的な(パトロジック)ものが異常(アノルマル)ではないことは明らかである。たとえ有機体の防衛とか病に対する闘争とかの標準的な(ノルマル)機能に関しては少ししか語ることができないとしてもそうなのである。

注目していただきたいのは特に末尾の一文である。訳書では、「少しでも語ることができるとしたら、それこそ異常である」と、仮定の順接になっている。しかし原文の"Il l'est"はこの場合、前文の非人称構文"Il est évident"(「…は明らかである」)を、重複を避けて書き換えただけではないか。つまり、この書き出しは前文が主張する、「…は明らかである」という事実を再確認しているにすぎない。そしてその後に、"même si"(「たとえ…だとしても」)という譲歩が続くわけである。
ここで「明らか」と称される内容自体は、「不当な意味」のもとで初めて可能になるという記述からもうかがえるように、本来著者が承知しそうにない、「病理的なものが異常ではない」という主張である。著者カンギレムが本書を通じて証明しようとしているのは、生命活動それ自体が、環境の変化に応じて自分自身の規範を再設定できる柔軟性を持つという事実だからだ。したがって著者にとって、有機体自身の規範的な、あるいは標準的な―形容詞の"normal"を何と訳すかは本書においてつねに問題となる点だと思うが、ここは「正常な」では強すぎる気もする―機能について語る、ということは、本来ならば大いにできるし、またすべき事柄のはずである。それが「たとえ少ししかできないとしても(même si peu qu'on peut)」と述べているのだから、たぶんこの譲歩は文脈の上では、「不当な意味」の採用が招く困った結論(「病理的なものが異常ではない」という誤った結論)に伴う、副産物としての不条理なのであろう。かなり皮肉の利いた、もってまわった書き方だと思う。

(3)124頁から

正常だとされているから、その正常だといわれているどんな事実も、規範に照らし合わされる条件がもはや与えられなくなる瞬間から、規範―正常だといわれる事実は、その表現だ―の威光を、横領することはできない。

ここは日本語としてやや無理が生じている箇所である。原文は次の通り。

Aucun fait dit normal, parce que rendu tel, ne peut usurper le prestige de la norme dont il est l'expression, à partir du moment où les conditions dans lesquelles il a été référé à la norme ne sont plus données.(注3)

だいぶ生硬になるのを覚悟で直訳してみる。

正常とされたがゆえに、正常(ノルマル)と言われるようないかなる事実も、それが表現している当の規範(ノルム)の威光を横領することは、それがくだんの規範(ノルム)に準拠せしめられた際の諸条件がもはや与えられなくなる瞬間からはできない。

語順に関しては訳書のままのほうが適切かもしれない。しかしいずれにせよ、冒頭は改める必要があるはずだし、"normal"(「ノルマル」)と"norme"(「ノルム」)の関係も、例えばルビの使用によって明示すべきだろう。それに、"il a été référé"はもちろん受動態の複合過去なのだから、どんな日本語の動詞を訳語として選ぶにしても現在時制(「照らし合わされる」)であってはまずい。

(4)183頁から

「病を治す自然」の役割は、多かれ少なかれ全面的にすべてが保守的で防衛的である有機体の正常な機能の役割と、混同されている。ところが生理学が研究するのは、もっぱら生物の機能である。いいかえれば、生きた蛋白質つまり「生物蛋白質」(bioproteon)の正常な現象なのである。

これはラファエル・デュボワからの引用で、彼がヒポクラテスの自然治癒力の概念を生理学から派生せしめたという文脈の中で紹介されている。しかし、訳文の通りだとラファエル・デュボワは反対に、医学と生理学の分離を主張しているかのようだ。原文の趣はいささか異なる。

Le rôle de la natura medicatrix se confond avec celui des fonctions normales de l'organisme qui toutes, plus ou moins directement, sont conservatrices et défensives. Or la physiologie n'étudie pas autre chose que les fonctions des êtres vivants ou, en d'autres termes, les phénomènes normaux du proteon vivant ou bioproteon.(注4)

これを私の手で訳すと、以下のようになった。

病を治す自然の役割は有機体の標準的な諸機能の役割と混じり合っていてそれらはどれも、多少の差はあれ直接的に、保守的かつ防衛的である。さて生理学というものは生き物の諸機能ないし、別の用語で述べると、生きた蛋白質ないし生物蛋白質の正常な諸現象以外のものを研究しているわけではない。

つまり、"se confondre"は「(混同されるべきでないもの同士が不当に)混同されている」のではなく「(似たもの同士が自然に)混じり合っている」と読み、また"Or"も「ところが」でなく「さて」と読むべきなのではないか。そうすれば、二領域の近さを演出するはずの「…以外のものを…ではない(ne…pas autre chose que…)」を「もっぱら」と訳すような無理も回避できる。
また訳書が、"directement"に相当する副詞として「直接的に」でなく「全面的に」を選んだ結果、「多かれ少なかれ全面的に」という妙な表現が生まれているのも気にかかる。

(5)189頁から

この『正常・異常生理学概説』の中で、トゥールナード(A. Tournade)、ブラウン=セカールとアディソンとの関係を正当にもはっきりと指示し、認識論上きわめて価値のある次のような逸話を報告している。

ここはトゥールナードが主語なので、「トゥールナードは」に改める必要がある(注5)。助詞の脱落にすぎないから誤訳とは違うが、人名が連続する文だけにもっと気をつけていただきたかった。

(6)190頁から

このように、人為的手段は、前もって熟慮しなくても、明瞭に見通すことができるのである。

この箇所で気になるのは、「明瞭に見通すことができるのである」の位置と、この訳し方がそれ自体として適切かどうかの二点である。原文と比較してみよう。

Ainsi l'artifice permit la lucidité, mais sans préméditation.(注6)

見てのとおり、動詞は「許す、可能にする」という意味の"permettre"である。主語は人でなく物("l'artifice")であるし、そもそも動物の特定の器官を使った実験によって、予想だにしなかったその器官の未知の機能が明らかになることがあるという文脈の中にこの文は現れる。意図的な行動を匂わせることのない動詞が選ばれているのはそのためだろう。また活用形に注目すると、三人称単数なのはよいとして、時制が科学史上の事例への言及に応じてか単純過去("permit")であるから、あたかも現在形であるかのように訳してはならない。したがって「明瞭に見通すことができるのである」は、それ自体として問題のある訳語である。以下が私の提案する訳文だ。

このように技巧は明晰性を可能ならしめたが、ただしあらかじめ熟慮があったわけではないのだ。

「ただし」以下の制限条件は、文の途中にまわさないほうが原文の姿に忠実であるし、上記の文脈を考慮すれば、意外性を減殺しないという意味で内容上も望ましいと思う。

(7)198頁から

感覚と目的とは、認識と生成の二つの領域での機能と類似した機能をもっている。したがってそれらは共通の特性をひき出す。

なぜ「したがって」なのかが、このままでは不明瞭だろう。原文は次の通り。

Mais elles ont des fonctions analogues dans les deux domaines de la connaissance et du devenir, d'où elles tirent des qualités communes.(注7)

主語の人称代名詞女性複数形は、前文に出てきた二つの「概念」、すなわち「感覚の概念(la notion de sens)」と「目的のそれ(celle de but)」を指しており、この両者の間に機能上の類比が存在するからこそ共通性が成り立つのである。ゆえに訳文は、例えば次のように改めるべきではないか。

しかしそれらは認識と生成という二つの領域において数々の類比的な機能を持っており、そこからそれらは共通の性質を引き出すのである。

付け加えると、訳書が文頭の「しかし」を脱落させているのも解せない。

(8)201頁から

しかし、生命がその諸状態の間で差異をつくらないということを、生物学の見地からは認めようとしないのは、食物と排泄物とを区別することすらもできないのかと、責められるからである。

この訳文は以下の原文と比べると、原因と結果が逆である。

Mais ne pas vouloir admettre d'un point de vue biologique que la vie ne fait pas de différence entre ses états, c'est se condamner à ne pas même pouvoir distinguer un aliment d'un excrément.(注8)

ここの"se condamner"は「責められる」ではなく、「何々することを余儀なくされる」という慣用表現だろう。また、著者が重点を置いている区別は「認めるか/認めないか」ではない。そのことは、若干意訳を交えて原文を次のような日本語に移し替えれば明らかだろう。

しかし生命は己の諸状態の間で差別を設けないということを認めるにしても生物論的観点からするのでないと、食物を排泄物から区別することすらもできないはめになる。

つまり決定的なのは、「生物論的観点から認めるか/生物論的でない観点から認めるか」の区別である。生命が己の諸状態の間で差別を設けないとは、己自身の状態を一定不変に維持したがる傾向が生命に具わっているということ(生体の恒常性)と同義であって、単なる無差別性とは違うのだ。また、この場合の"biologique"は生命それ自身にとっての価値と無縁でないようなので、「生物学的」では客観的すぎるかもしれない。

(9)204頁から

全生物にとっても、病気は器官全体についてのみ存在する。犬の病気が存在し、蜂の病気が存在する。

原文には"tout organique"とあるから(注9)、「器官全体」でなく、例えば「有機的全体」のほうがよい。でないと、「犬の病気」や「蜂の病気」という表現とのつながりが不可解になる。

(10)211頁から

病気についての経験的概念のすべては、病気についての公理的概念との関係を保存している。

原文中の"axiologique"という形容詞(注10)の意味は、「公理的」でなく「価値論的」である。

(11)217頁から

しかし、「規範と正常」について二つの講義は、「試論」で扱った医学哲学の主題と、次の頁からおこなおうとしている再検討のさい扱われる医学的哲学の主題とを、拡張する方向にはみ出していた。

これだと、まるで二つの「医学哲学の主題」が存在しているかのようだが、本当にそうなのか。また、この文はそもそも、第一部「正常と病理に関するいくつかの問題についての試論」に続く第二部「正常と病理に関する新考」の巻頭を飾る序文の一部であるのに、本書とは別の講義の性格への言及で終わるのは釈然としない。「はみ出していた」からといって、それがどうしたのかという疑問がぬぐえないのである。いずれの疑問も、原文を参照すれば解消する。

Mais les deux cours sur Les normes et le normal débordaient en extension le sujet de philosophie médicale traité par l'Essai et au réexamen duquel j'entends encore, dans les pages qui suivent, m'attacher.(注11)

私なりに訳出してみると、次のようになった。

しかし「諸規範と正常」についての二つの講義は『試論』で扱われた医学哲学上の主題をはみ出し、拡張する体のものであったが、その主題の再検討に私はなおも、以下に続く頁で、専心するつもりでいるのだ。

つまりこの文は"le sujet de philosophie médicale traité par l'Essai"まででいったん切れる、と読むべきで、"et au réexamen duquel"の"au"は、文末に位置する"m'attacher"(「私を結びつける、専心する」)と一体になっているはずである。

(12)223-224頁から

規範がその役目を果たすのを必要とせずに規範にかなっている体験をこのように消極的な用語で表現すること―したがって、規則がないのに規律正しいといういわゆる素朴なこの夢―は、実際には、正常という概念がそれ自体規範的だという意味である。正常という概念は、規範の欠如を物語る神話の世界さえも、規範としているのである。

原文とのおもな相違点を確かめるため、読み比べていただこう。

Cette formulation en termes négatifs d'une expérience conforme à la norme sans que la norme ait eu à se montrer dans sa fonction et par elle, ce rêve proprement naïf de régularité en l'absence de règle signifie au fond que le concept de normal est lui-même normatif, il norme même l'univers du discours mythique qui fait le récit de son absence.(注12)

若干形を崩して、次のように訳出してみた。

規範(ノルム)にかなっている経験を、このように消極的な用語で定式化するならば、規範(ノルム)はその機能の中に、それも自力で姿を見せなくても済んだわけである。規則の不在の内での規則性に関するこの文字通り素朴な夢は、結局のところ正常(ノルマル)という概念はそれ自体が規範的(ノルマティフ)であるということを意味している、それはそれの不在を物語る神話的言説の宇宙すらも正規化するのだ。

まず、"en termes négatifs"(「消極的な用語で」)は具体的には前文中の「労働もなく、文化もなく(Ni travail, ni culture)」を指すのだが、これと"sans que"(「…ことなしに」)は、内容上は等値というか、前者を敷衍すれば後者が出てくるという関係にあるように思う。したがって訳書のように原文の語順を逆にして「必要とせずに…消極的な用語で」とすると、この関係が分かりにくくなる。また「役目を果たす」も、"se montrer dans sa fonction et par elle"の訳としては、やや大胆すぎよう。
それと"ait eu à se montrer"は接続法過去形なので、「姿を見せなくても済んだ」と過去時制で訳しておいた。いわゆる未開の黄金時代や自然状態の理想化を過去(特に18世紀)の遺物として皮肉っているのか、あるいは定式化が首尾よく果たされた時点から振り返って、「結局一度も規範それ自体は姿を現さなかった」というその利点を確認しているからか。
そのほか、訳書では"proprement"が「本来的に」とか「文字通り」ではなく「いわゆる」になっているせいで、著者がこの副詞にこめたはずの皮肉―煩雑な規則がなくても規則正しい「素朴な」社会に対する文明人の憧れは、それ自体が「素朴な」、おめでたい夢想である―が読みとりにくいこと、また"normer"という動詞の訳語が「規範としている」なので、さながら「模範として仰ぐ」かのように読めてしまう(「正常という概念」と「神話的言説の宇宙」との影響関係が原文とは逆になる)ことなども気になる。

(13)226-227頁から
"ὀρθοδ"ではなく、正しくは"ὀρθός"だろう。語源の説明をしている箇所なのだから、綴りの間違いはいただけない。また、227頁11行目、「強制執行の命令法ではない」の結びが読点(、)だが、原文はポワン(.)だし、意味の上からも句点(。)でなくてはまずい(注13)。この二つは誤訳とは別の問題である。

(14)229頁から

正常(normal)という言葉の出現した一七五九年と、規格(正常)化された(normalisé)という言葉の出現した一八三四年との間に、規範的な階級が、社会規範の機能と慣用とを同一視する力をかち取った。これは、イデオロギー的幻想のよい例である。実は、社会規範の機能そのものが、社会規範の慣用をつくっていたし、その機能が社会規範の内容をきめていたわけなのだが。

ここも論旨の読み取りにくい訳文であり、原文の意味からずれているようだ。

Entre 1759, date d'apparition du mot normal, et 1834, date d'apparition du mot normalisé, une classe normative a conquis le pouvoir d'identifier ― bel exemple d'illusion idéologique ― la fonction des normes sociales avec l'usage qu'elle-même faisait de celles dont elle déterminait le contenu.(注14)

問題は"elle-même"および"elle"が具体的には何を指すかだろう。訳書では前者が「機能そのもの」で、後者も「その機能」だが、「社会規範の機能」と書いたそばからまたもそれ(当の機能)が主語となる関係節が続くのは見るからにくどいし、第一「社会規範の機能そのものが、社会規範の慣用をつくっていた」のなら、両者(機能と慣用)を同一視することは幻想でも何でもなく、しごく健全な見方のはずではないか。おそらく訳者は、「イデオロギー的幻想」の欺瞞性を今日から振り返って暴くという著者の視点に肩入れしているつもりなのだが、ここの「イデオロギー的幻想」は、動詞が半過去形(faisait, déterminait)であることからも、当時の当事者が自分たちの振舞とその結果をどのように誤認していたかという歴史性に重点を置いて読むべき語だろう。私は、"elle-même"も"elle"も、その当事者であるブルジョワたちの"classe"(「階級」)を指すのだと思う。したがってこの文はむしろ、次のように訳すべきである。

正常(ノルマル)という語が出現した日付である、1759年と、規格化された(ノルマリゼ)という語が出現した日付である、1834年との間に、一つの規範的な(ノルマティヴ)階級が―イデオロギー的幻想の好例だ―社会的諸規範の機能を、その階級自身が常日頃実行し、その階級が内容を規定していたそれら諸規範に関する慣わしと同一視する能力を獲得した。

「18世紀後半から19世紀初頭にかけて擡頭してきたブルジョワ階級は、農民とも王侯貴族とも違う、自分たちが慣習的に遵奉してきた規範があたかも普遍的な規範であるかのように社会全体に広がるのを目の当たりにするという幸運を引き当てたが、依然としてその内容はほかならぬブルジョワ階級自身が決めたものにすぎなかった」―原文の趣旨はおおよそこんなところだろう。単にある階級の"usage"(「慣わし」・「慣用」)にすぎなかったものが、実行者が日々勢力を拡大するにつれて"norme"(「規範」)の権威を帯びてくるというのであるから、訳書のように原文にない「実は」を追加してまで、二つの概念の対照性を消し去り、あらかじめ前者を後者の一部に含めてしまうのは賛同しがたい処置である。

(15)235頁から
「この非自発的な自然的秩序」の「非自発的な」は"involontaire"の訳語であるが、まるで「当事者の意志を無視して強制的に課せられる」という意味のようで、「自然的(naturel)」との相性はよくない。直前の"volontaire"が「自由意志により」と訳されていることとの兼ね合いからも、例えば「無意志的な」に改めるべきだろう(注15)。この形容詞は社会というものが「個人の意志に依存せず自然発生的である」ことを意味しており、したがって少し前に出てくる、「共通な自然発生的行為」("l'action commune spontanée")や「明白な自然発生的調和」("l'évidente harmonie spontanée")の延長線上にある。「非自発的」(=「非・自然発生的」?)という訳語を選ぶことは、この関係にかんがみても混乱のもとでしかない。

(16)243頁から

遺伝学のような遺伝理論にもとづく社会的理想は、一つの階級社会にふさわしいものでありえなかった。遺伝学は、人間不平等の事実を示して、不平等を修正する技術を生み出す学問だからである。

この訳文はそれ自体としてはすんなりと読めるが、優生学思想がソ連で不興を買ったという文脈の中では不可解である。原文は次の通り。

Un idéal social fondé sur une théorie de l'hérédité comme la génétique, qui avère le fait de l'inégalité humaine en suscitant les techniques qui la corrigeraient, ne saurait convenir à une société dans classe.(注16)

私は、ここの"une société dans classe"(「階級の中にある社会」)は、"une société sans classe"(「階級なき社会」)の誤記ないし誤植だと判断する。だとすれば、訳文は例えば次のように改めるべきだ。

遺伝学のごとき遺伝〔相続〕の理論の上に基礎づけられた社会的理想は、人間の不平等という事実を、その不平等を修正するはずの諸技術を喚起する中で明らかにしてしまうのであるから、階級なき社会にとって適当でありうるはずがない。

要するに、個人間の生得的な能力差を否応なしに証明してしまう遺伝学の研究は、あらゆる意味で「階級なき社会」を目指すソ連の高官から見れば、藪をつついて蛇を出すようなけしからぬ真似としか思えなかった、ということだろう。

(17)256頁から

要するに驚愕は、火急のばあい、有機体に不確定な誇示をさせることである。

この訳文は、それ自体として意味が通りにくいと思う。「不確定な誇示」とは一体何か。

L'alarme met en somme l'organisme en état d'urgence, de parade indéterminée.(注17)

この原文を読むかぎり、"parade"の意味は「誇示」でなく「停止」あるいは「受け答え」だと思える。だから、例えば次のように訳したほうが、分かりやすいはずだ。

驚愕はつまるところ有機体を緊急の、不確定な防御の状態に置くのである。



(18)261頁から

実際には、多分、あたかも生化学者と遺伝学者が彼らの知識を、化学者と遺伝学者から相続した世襲財産の資料のせいにしているかのように、また、あたかも酵素が反応―この反応に従って、化学は酵素の働きを分析する―を知っているとみなされるか、知るべきだとみなされるかしているかのように、しかもあるばあいには、あるいはある時点では、酵素がそれらの反応の一つを無視したりその陳述をうまく読みとれなかったりすることがあるかのように、万事が進行している。

少し長い文だが、フランス語の原文は次の通りである。

Apparemment, tout se passe en effet comme si le biochimiste et le généticien prêtaient aux éléments du patrimoine héréditaire leur savoir de chimiste et de généticien, comme si les enzymes étaient censés connaître ou devoir connaître les réactions selon lesquelles la chimie analyse leur action et pouvaient, dans certains cas ou à certains moments, ignorer l'une d'elles ou en mal lire l'énoncé.(注18)

例によって私の試訳を示しておこう。

見たところ、あたかも生化学者と遺伝学者が全遺伝形質〔遺伝的な世襲財産〕の諸要素に、彼らの化学者ならびに遺伝学者としての知を貸与しているかのように、あたかも諸酵素が、それらの作用を化学が分析する際のよりどころとなる諸反応を認識しているかまたは認識すべきであるとみなされているかのように、かついくつかの事例においてあるいはいくつかの瞬間にあっては、それらの内の一つに無知であるかその言表内容を読み間違うかしうるかのように、一切が実際には進行する。

このくだりの趣旨は、単なる物質にすぎないはずの酵素が、遺伝学や生化学の分野ではほとんど知的生命体のような振舞を見せることの不思議さだと思う。学問が酵素を擬人化している、という批判かもしれないが、結局のところこの不思議さは外見上のものでしかなく、こういう分野では、酵素の振舞が一見人間じみていても別に問題はないのだ、というのが、前後の文脈から読み取れるカンギレム自身の見解である。
したがって、「化学者と遺伝学者から相続した世襲財産の資料のせいにしている」は誤訳であろう。たしかに"prêter"は「せいにする」という意味もあるが、この場合は「貸す」のほうが適切であるし、"patrimoine héréditaire"は個体の持つ「全遺伝形質」という意味であると、手元の仏和辞典(大修館書店の『新スタンダード仏和辞典』)に書いてあった。このほか、"apparemment"(「見たところ」)を「多分」と訳したり、"ignorer"(「知らない」)をまるで英語の"ignore"のように「無視する」と訳していることなども、看過できない問題点である。

(19)265頁から
3行目の「代謝誤診」は妙な語だが、原文が"une erreur de métabolisme"であるから(注19)「代謝誤謬」の誤記ないし誤植だろう。私にとって見慣れない語感なのは変わらないが、「誤診」よりはしっくりくる。誤訳とは違うが読んでいて引っかかった。

(20)282頁から
原註(98)は「同書、二〇二ページ」と訳してあるが、原著では"Op. cit., p.202"だから(注20)「前掲書」が正しい。著者名(Bacq)が省略されているのは本文中に書いてあるからだろう。

以上挙げた都合20か所の問題点は後半に集中しているようだが、これは訳書を読み進むにつれて原文と比較したくなる箇所が多くなったというまでのことで、その気で調べれば前半にも誤訳らしきものが見つかるかもしれない。
最後に一言。
ここまで色々と書いてきたが、私は何もこの法政大学出版局版『正常と病理』をおとしめたいわけではない。ただ、自分なりに読んで気になった点・疑問点を明らかにし、また今後この訳書を手に取る方が、少しでも効率の良い読書ができるように、という思いで筆を執ったまでである。それほど長くはないとはいえずいぶん中身の詰まった本で、訳者である滝沢さんのご苦労を思うとつくづく頭が下がる。こういう学術書を日本に紹介しようという立派な志に比べれば、誤訳が多少見つかったところで致命的な欠点ではない。


(1)Georges Canguilhem, Le normal et le pathologique, 4e édition, Paris, P.U.F., 1979, p.85.
(2)Ibid., p.86.
(3)Ibid., p.91.
(4)Ibid., p.136.
(5)Ibid., p.140.
(6)Ibid.
(7)Ibid., p.146.
(8)Ibid., p.148.
(9)Ibid., p.150.
(10)Ibid., p.156.
(11)Ibid., p.173.
(12)Ibid., p.178.
(13)Ibid., p.180-181.
(14)Ibid., p.182-183.
(15)Ibid., p.187.
(16)Ibid., p.194.
(17)Ibid., p.204.
(18)Ibid., p.209.
(19)Ibid., p.211.
(20)Ibid., p.206, note(2).
スポンサーサイト

category: カンギレム

CM: 0 TB: 0   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。