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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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トルストイ『アンナ・カレーニナ』 

『アンナ・カレーニナ』とは、一体いかなる小説か。

有名な作品だが一応、必要な範囲で筋書を追ってみよう。
有能な官吏であるカレーニンのもとに嫁いで八年になるアンナは、浮気で亀裂が走った兄夫婦の仲を調停するためにモスクワを訪れた。おりしもシチェルバーツキイ公爵家の令嬢キティは美男のヴロンスキイ伯爵に惹かれており、彼との婚約を夢見て無骨なレーウィンからの求愛を断ってしまう。が、万全の準備を整えてのぞんだ舞踏会で目撃したものは、アンナの魅力にすっかり心を奪われたヴロンスキイの姿だった…。
レーウィンは農地経営に打ち込むことで、キティは転地療養に赴くことで自己を見つめなおし、徐々に傷心から癒えていく。一方アンナは、競馬場でヴロンスキイの落馬に動揺したことがきっかけで彼との不倫が決定的に夫の目にも露見してしまい、窮地に陥る。憤慨するカレーニンは、いったんは世間体を重んじてアンナへの譲歩を重ねるものの、彼女がヴロンスキイの子(娘)を身ごもったことを知るに及んで離婚の方途を模索し始める。しかし、産褥で苦しむ瀕死の妻を見て気が変わり、全てを許そうと決心する。ところがアンナは回復するや否や家庭を捨ててしまい、世間の冷たい目に抗ってヴロンスキイと各地を転々としながら、夫婦同然の暮らしを送るようになる。
レーウィンの再度の求愛は承諾され、キティとの結婚、兄の病死、狩猟、社交、さらに長男の誕生と、苦労が多い中にも充実した日々が続く。対してアンナは、いまや離婚に踏み切った上でヴロンスキイと再婚したほうがよいと思うようになるが、みじめな立場を忘れたい一心でキリスト教徒としての自覚を深める一方のカレーニンは同意せず、息子のセリョージャを手元に引き留めてアンナを逡巡させる。やがてヴロンスキイの愛情すらも信じきれなくなり、疑心暗鬼が高じた彼女は、ついに進退窮まって貨物列車に飛び込み自殺を遂げる。
アンナの娘はカレーニンが引き取り、ヴロンスキイはセルビア・トルコ戦争(1876年勃発)に義勇兵として出征した。作品は最後に、人生の意味を求めて煩悶するレーウィンが、使用人とのふとした会話がきっかけで無神論を脱却し、素朴な信仰の真理に目覚めるまでの過程を描いている。

…というわけである。
こう筋書だけを抽出してみると、この小説は真実の愛を求めるアンナが、正式の結婚以外の恋愛関係に対しては冷淡な上流社会の偽善や形式主義に反発しようとしてあがき、軋轢の果てに破滅する物語、として読めないこともない。
しかし、実態はどうも違うのではないか。アンナは自分がつい出来心でキティの恋を台無しにしてしまったことに気づいているが、あえてその責任を自分の口から、しかも控えめに告白することで追及を免れようとする狡猾さを持ち合わせており、おまけにそのような狡猾さを自覚している(注1)。このような彼女の心理の機微に注目すると、アンナという女性はむしろ自己欺瞞の塊のように思えてくるのだ。
そう思って読めば、例は数えきれないほどたくさんある。カレーニンが精一杯の寛大さで、不倫は黙認するがせめて愛人を家に引き入れるのはやめてくれ、と頼んだにもかかわらず、その取り決めを破ってしまったアンナは、決闘を申し込まれなかったことを不思議がるヴロンスキイに向かってぬけぬけと、「何らかの感情をそなえた人間だったら、罪を犯した妻と一つ家に暮らすなんてこと、できないはずでしょう?」と問いかけ、あまつさえ夫を「お役所の機械」呼ばわりする。しかし威勢がいいのはその場だけで、カレーニンの詰問を受けるととたんにへどもどして泣き落としを試みる始末だ。

彼女はうなだれた。きのう恋人に言った、あなたこそ本当の夫で、主人なぞ余計者なのです、というあの言葉を、口にするどころではなく、そんなことなぞ考えてもみなかった。

「彼女は夫の言葉の正しさをことごとく感じ」、せいぜい自分の立場はただでさえ苦しいのだから追い打ちをかけてくれるな、と哀願するくらいのことしかできない(注2)。いかにカレーニンが魅力の乏しい男性であろうと、自分で約束したことを守れなかったというアンナの落ち度がそれで帳消しになるはずはないからだ。
脱線を承知でカレーニンの名誉のために少し弁じておくと、そもそも彼の欠点はつまらない男だということくらいで、これといって致命的な悪徳があるわけではない。彼がヴロンスキイに決闘を申し込まなかったのは臆病風に吹かれたからというより、必ずや友人一同が割って入って邪魔をするに違いないと予想できたからだ。国家にとって有用な人材である自分にみすみす死なれては困るはずだ、というのがその理由である(注3)。前半と打って変わって後半では離婚に踏み切らないのも、彼なりに息子の将来やアンナの評判に配慮した結果であって、単なる意地悪ではない(注4)。もちろん、このような考え方の中にもうぬぼれとか、事なかれ主義とかを指摘することは可能だし、特に彼の信仰に関してはかなり評価が難しく、色々と不純な要素も混じっているようだ(怪しげな心霊術師に入れ込んでいることなど好例であろう)。それでいてなおカレーニンが自身の恥辱を的確に認識できるだけの聡明さを有していることは疑いないし、彼の運命はそれだけにいっそう悲劇的なものに思えてくる。孤児同然の身でありながら、叔父の援助で官界に入れたという特殊な経歴ゆえか出世主義者にならざるをえなかったこと、また脅迫じみた強引な手口でアンナと結婚させられたにもかかわらず、できるかぎりの愛情を彼女に注いできたことなども考慮に入れるならなおさらだ(注5)。うまく書けているという点では作中随一の登場人物であろう。大きな耳、甲高い声、指を鳴らす癖など、滑稽な肉体的特徴がやたらと強調される様は実に秀逸だ。
脱線はさておき、もう一つ別の例を挙げよう。セリョージャに会いたい一心でこっそりと我が家を訪ねたあと、ホテルに帰ったアンナはなかなか顔を見せないヴロンスキイに対して、「自分が息子に関するいっさいを彼に隠していたことなど忘れて」苛立ち、ついで「あたしここの生活には疲れはてたわ」と自分から言っておきながら彼がこの意見に同調するとますます苛立つ。アンナの気持ちは明瞭である。愛する息子と久しぶりに短い対面を果たしてから一人きりに戻れば、ひとしお寂しさがつのるのは当たり前だし、またいまやヴロンスキイとの恋愛以外によりどころのない彼女にしてみれば、自分との共同生活にうんざりしているように聞こえる恋人の発言が許せないのだろう(注6)。それにしてもいかにも唐突な苛立ちで、ヴロンスキイにとってはとばっちりのようなものだ。ましてや、社交界が二人の不倫関係に眉をひそめているのは承知しているはずなのに、彼の制止を振り切って劇場に出かけ、案の定嘲笑を浴びて傷つくという直後のアンナの振舞は、完全に自業自得である。なぜこんなことをしたのかと尋ねられた彼女の返事はこうだ。

「あなたの落ちつき払ってるのが、憎らしくって。あたしをあんな目に会わせなくたって、いいはずじゃないの。もし、あたしを愛してくれてるんなら……」
「アンナ! この場合、僕の愛情の問題に何の関係があるんだい……」
「そうよ、あなたがあたしと同じくらい愛してくれているんなら、あたしと同じくらい苦しんでいるんだったら……」おびえたような表情をうかべて彼を見つめながら、アンナは言った。(注7)

要するに、自分はヴロンスキイとの恋愛のために家庭も息子も犠牲にしたのに、彼は自分を全身全霊で四六時中愛してくれない、という不満を抱いて、アンナは駄々をこねているのだ。しかし「愛してくれている」ことと「苦しんでいる」ことが一つであるような生活が、どう考えても居心地のよいものであるはずはない。実際の順序はたぶんアンナの考えとは逆で、家庭や息子を捨てたからこそ、四六時中ヴロンスキイの全身全霊の愛情を確認し続けていなくては安心できないという重荷が彼女にのしかかるのである。
おそらく読者は、アンナがよく口にする「感情」だの「心」だのという語の用法に注目しなくてはなるまい。結婚という制度の外に飛び出したアンナが頼れるものはヴロンスキイとの感情的なつながりだけだ。しかし内面的な感情というものはもともと他人と共有しにくいし、自分の内部ですら常時安定しているわけではない。その意味ではこれは非常に便利な語で、事実、アンナは自分の落ち度を棚に上げ、もっぱら他人を非難するという場面で決まって「感情」とか「心」に訴えていることが確認できる。そして他人の内面に対する我々の疑いは、言葉であれ行為であれ、何らかの外的な形式によって払拭されるまで、好きなだけ長引かせることができてしまう。あれほど内なる感情とやらを重んじながら、「愛情の証」としてたっぷりと甘い台詞を聞かされてようやく心の落ち着きを取り戻すアンナの姿は、哀れでもあれば滑稽でもある(注8)。自分の愛情の真剣さが相手に届いていないという主張は別に彼女の専売特許ではなく、ヴロンスキイはおろか誰もがいつでも口にすることのできる安直な理屈だということばかりか、こう主張するときに自分が欲しているのが実は愛情そのものではなくて愛情の証拠(らしき言動)にほかならず、したがって自分が払う以上の骨折りを相手に要求していることも、理解していないからだ。
なにも彼女一人が自己欺瞞の塊というわけではない。アンナとは比べものにならぬほど純真で裏表のないキティですら、転地療養の期間中に知り合って親友になったワーレニカの縁組が決まりそうだとみてとるや、こんなことを言う。

「一つだけまずいのは……ワーレニカの昔の恋愛のことなのよ」ごく自然な連想でそれを思いだして、彼女は言った。「あたし、そのうちにセルゲイ・イワーノウィチにお話しして、了解していただこうと思っているんだけど。ほんとに、男の人ってみんな」彼女は言い添えた。「あたしたち女性の過去には、ひどく嫉妬深いんですもの」
「みんなとは限らないわ」ドリイが言った。「自分の旦那さんの例で考えるから、そんな判断をするのよ。あの人、今でもヴロンスキイの思い出に悩まされているもの。でしょ? そうじゃない?」
「そうなのよ」もの思わしげな微笑を目にうかべて、キティは答えた。(注9)

レーウィンが結婚後もなお、ヴロンスキイへのわだかまりを捨てられずにいるというのはたぶん本当だろう。だがワーレニカから、かつての恋人が諸事情のためにやむなく別の女性と結婚したが、自分は彼を恨んでいないという身の上話を聞かされたとき、ヴロンスキイに侮辱されたという思いでいっぱいだったキティが彼我の相似と相違に驚いたことも、劣らず真実なのだ(注10)。いわば上記の引用箇所でキティは、ワーレニカの名が媒介となってヴロンスキイに対するかつての恋心をつい思い出し(「自然な連想」とはこのことだろう)、その結果覚えた一抹のうしろめたさを、夫を含む男性一般に転嫁しているように思える。
だが、このような狡猾さはキティたちにあってはあくまでも例外である。対してアンナの場合、自己欺瞞が骨の髄まで浸透している。夫婦同然の生活にもかかわらず、彼女とヴロンスキイの間には娘が一人いるだけだ。アンナは、離婚をしていない以上ヴロンスキイとの間に生まれた子供にカレーニンの姓を名乗らせざるをえないという事情に悩み、結局今後は子供を作らない、という決意を固めたのである。そんなことでよいのか、と義姉のドリイに尋ねられても、これが一番合理的なのだという判断をアンナは撤回しない。

「不幸な子供たちをこの世に送りださないということに、理性を使わないとしたら、いったい何のために理性なんぞが与えられているのかしら?」
 彼女はドリイを見つめたが、返事を待たずに、言葉をつづけた。
「そういう不幸な子供たちがいたら、あたしはいつもその子たちに、申しわけない気持を感じていなけりゃならないでしょうけど」彼女は言った。「生まれてさえこなければ、少なくとも不幸ではないわけだし、仮りに不幸だとしても、それはあたし一人の罪ですものね」
 これは、ドリイが心のうちでひきだしたのと、まったく同じ論拠だった。しかし、今それを聞いても、彼女には理解できなかった。『存在もしていない者に対して、罪があるというのは、どういうことだろう?』彼女は思った。と、ふいにこんな考えが頭にうかんだ。彼女の秘蔵っ子のグリーシャにとって、この世に生まれてこなかった方が、幸せだったなどということが、どんな場合にせよ、ありうるだろうか? と、この考えがあまりにも奇異な、不思議なものに思われたため、彼女ははげしく渦巻く、狂った思考のもつれをふり払おうと、首をふった。(注11)

避妊は問答無用で自然に反する悪なのだというトルストイの価値観は、今日ではもはや通用すまい。が、それはさておきここで注意したいのは、おそらく作者の狙いは、「存在もしていない者に対して罪がある」という状態が一種の形而上学的な空想であると指摘すること自体ではなさそうだ、ということである。むしろ我々がこの引用文から読み取るべきなのは、本来は空想的でしかないはずのこの罪も、アンナのような立場にある女性にとっては、あべこべに非常な現実味を持っているという事実ではないのか。生殖活動という、生き物にとって最も本質的な、考えようによっては最も神聖なはずの分野にまで、何もしないうちからあらかじめ罪の色彩が入り込んできて経験の可能性を著しく狭めてしまう。この奇怪な形而上学的倒錯を、アンナは我が身のこととして生きざるをえない。その理由は、彼女が結婚生活という社会の掟を破っているからだ。
だからといって『アンナ・カレーニナ』を、一夫一婦制の家庭生活を礼賛する書として読む必要はない。家庭の内実自体は、夫婦の個性や運次第でいくらでも変動し、幸福にも不幸にもなりうる。ドリイ自身も夫の浮気に苦しめられているし、アンナや息子がカレーニンになつかないのは、やはりそれなりの理由があるのだ。しかしそのことは、自己欺瞞で塗り固めたアンナの不倫が、彼女自身の苦境となってはね返ってくることをいささかも妨げはしない。人間は本来誰しも社会的な存在であり、自分が暮らす社会の慣習や常識を完全に無視して生きることはできないからだ。この機構は、ほとんど物理的な因果関係に近い。たとえアンナが、都合が悪くなるたびに「あなたは私の感情を分かってくれない」だの「あなたには人間らしい心がない」だのと、根拠が曖昧なだけに論駁しがたい理屈を持ち出して駄々をこねようと、正式の夫婦なら到底頭に浮かびそうにない背理を抱え込んでしまう以上、皮肉なことにやはり彼女も、否彼女こそが人一倍社会の掟に支配されているのである。
もっとも『アンナ・カレーニナ』の作者に言わせれば、それは社会というよりも神の神聖なる掟だ、ということになりそうだが、なにも「神」が登場人物として姿を見せるわけではなし、我々としては単に、個人の内面に深く食い入る社会というものの、ゆめゆめ軽視すべからざる底力を読み取るだけで十分だろう。そのような恐るべき力、カレーニンのようなつまらない男がまがりなりにも一度は家庭を築くことを許した力が、はたしてどの程度正義にかなっているか、どの程度尊ぶべきものかは、また別の問題として考えればよい。
やがてアンナの自己欺瞞ぶりは、彼女自身は演技しているつもりでも、初対面のレーウィンにたぐいまれな真率さの印象を与える域にまで達する(注12)。この場合、勘違いは一体どちらの側にあるのか。案外、騙したと思ったアンナのほうが、ついつい真面目に真情を吐露してしまっていた可能性も否定できない。それと並んでますます顕著になってくるのが、内面への執着であり、さらには形式への蔑視、あるいはむしろ形式を適切に解釈する能力の欠落である。
離婚の実現を目指してカレーニンと交渉を重ねるオブロンスキイ(アンナの兄で、ドリイの夫)が打った電報を、ヴロンスキイがたまたまアンナに見せなかったときのことである(オブロンスキイはそそっかしい性格で、進展がなくてもしきりと電報を寄こすらしい)。いまや彼の愛情を確認すること以外に関心がなく、離婚に望みをつなぐこともやめてしまった彼女は、「どうして、隠さなければならないほど、この知らせがあたしの関心をひくとお思いになったの?」などと奇妙な理屈でヴロンスキイにくってかかり、こう続ける。

「はっきりしたことなんて、そんな形式じゃなく、愛情の中にあるものだわ」彼の言葉ではなく、それを口にするときの冷たく落ちついた口調に、ますます苛立ちながら、彼女は言った。「何のために、そんなものを望んだりなさるの?」

アンナの言うことは、彼女が感じていることと全くちぐはぐだ。というのも、愛情が、つまり内面だけが大事だという意見を吐きながらも、彼女は相手の口調、つまり形式によって心を乱されずにはいられないからである。

『やりきれないな、また恋愛論かい』彼は眉をひそめて思った。
「何のためかは、君だって知ってるはずじゃないか。君自身のためと、将来できる子供たちのためさ」彼は言った。
「子供なんて、もうできませんもの」
「それは実に残念だね」彼は言った。
「あなたは、子供のためにそれが必要なんで、あたしのことなんか考えてくださらないのね?」アンナは、彼が「君自身のためと、子供たちのため」と言ったのをすっかり忘れ、というより耳に入れなかったので、こう言った。(注13)

末尾の注釈は辛辣極まる。もはやアンナは、たった今目前の相手がどういう言葉を口にしたかすらも正確に把握できなくなっており、その結果形式への不注意が、無用の疑いを次から次へと増幅させるのだ。ヴロンスキイの口調やまなざし、ちょっとした一挙手一投足も、片時も疑いが頭を離れないアンナの目にはことごとく彼の変心を暗示するもののように見えてならない。あげくに彼女の世間的な立場がいつまでも曖昧なままではいけないという恋人の心配をはねつけて、自分の運命はヴロンスキイ次第なのだからどこにも曖昧なところはないと強弁するばかりか、唐突に彼の母親の無理解を批判し始める始末だ。

「自分の息子の幸福と名誉がどこにあるかを、心で察しとってくれないような女性は、心なんてはじめから持っていないんだわ」
「もう一度頼むけど、僕の尊敬している母について、失敬な口はきかないでもらいたいね」声を高めて、きびしく彼女を見すえながら、ヴロンスキイは言った。〔中略〕
「お母さまを愛してなんぞいないくせに。そんなのはみんな口先だけじゃないの、言葉よ、言葉の上だけ!」憎らしそうに彼を睨みつけながら、アンナは言った。(注14)

ここを読むと、外面的な「言葉」よりも内面的な「心」を重んじるという態度をアンナが取るのは一体どういうときかがよく分かる。それに、この種の態度が一見もっともらしいようでいて、いかにたちの悪いいさかいを惹き起こしうるものかも明らかだ(もっともヴロンスキイが母親のことをあまり大切に思っていないのは事実らしいが(注15)、そんなことをこの文脈でアンナに言われる筋合いはない)。
この疑心暗鬼が病的にひどくなり、ついに自殺に至るまでの鬼気迫る一部始終を詳細に検討する余裕はないが、少なくとも確かなのは、一般に他者との関係において内なる感情だけに賭けるという選択は決して賢明でなく、恋愛といえどもその点で例外ではないということだろう。我々は誰しも、他人が頭の中で感じていることが、それどころか自分が頭の中で感じていることすらも完全に見通せるわけではないからだ。ゆえに内なる感情を唯一の基準に据えるかぎり、際限なく疑いを再開することが可能になってしまう。結婚をはじめとする諸々の慣習的な制度は、ある意味ではこのような事態を予防するために存在しているのだ。徹底的に形式を拒否したつもりの者にとっては、もはやいかなる内容面での懐疑についても、適当な形式が救援に駆けつけて打ち切ってくれることは期待できない。
事実アンナは、猜疑心に苦しむ中で「記憶をおおい隠すこと」を自覚的に企てるが(注16)、その努力もむなしく「生存競争と憎悪だけが、人間を結びつける唯一のもの」だという絶望的な認識に達し、ヴロンスキイとの恋愛も、息子への愛情すらも嘘だらけだったという断定に追い込まれてしまう(注17)。最終的に彼女を自殺へと踏み切らせた直接のきっかけは、客観的に形式を判定する冷静な視点の欠如ゆえに、ヴロンスキイの手紙の何の変哲もない文面から過剰な意味を読み取ってしまったことだった(注18)。ひとたび形式と内容との全般的な乖離が生じた以上、もはや任意の形式から任意の内容を勝手気ままに引き出すことを妨げるものは何もないからだ。
制度を離れて内面はありえないこと、あるいは形式を離れて内容はありえないこと、これが『アンナ・カレーニナ』の最大の倫理的な教訓だ。
だからといって世論への付和雷同が推奨されているわけではない。そのことは結末近くで、セルビア・トルコ戦争(1877年よりロシアが参戦して露土戦争となる)への義勇軍の派遣を支持する知識人たちがまるで呪文のように唱える「民衆の意志」という切り札に対して、彼らよりもずっと民衆に近いはずのレーウィンが覚える違和感から十分にうかがえる。非日常性を求めるのではなく、ただただ善を念じて私欲を離れ、各自の持ち場で日々の義務を果たすべし、というあまりにも単純な彼の結論については、いささか物足りなく感じる読者もいそうだし、大地主の貴族だったトルストイが自身の保守主義を正当化しているだけという読み方も可能には違いない。しかしこれが戦時の高揚への醒めた批判で裏打ちされていることを忘れてはならないし、それ以上に、作者がアンナの死に様の後でこのような態度の中に神の掟の何よりの証拠を見出したことは、おそらく彼が、個人の良心にとって形式性は障害ではなく、かえってあらゆる社会的な大事件を度外視してもなおきっと残るもの、ほとんど良心の定義上の本質であると考えていたことを暗示しているのだ。


(1)『アンナ・カレーニナI』(原卓也訳、中央公論社、1994年)121頁。ただし奥付を見るかぎり「新装 世界の文学セレクション36」の第19巻『トルストイI』というのが正式な表題のようだ。
(2)同書432-433、438頁。
(3)同書336頁。もっとも自他の死を恐れる臆病さがカレーニンの中にあること自体はちゃんと書かれており、彼が案出した理由はそれとの関係ではいわば後付けということになるので、若干割り引いて読む必要がありそうだ。
(4)『アンナ・カレーニナII』(原卓也訳、中央公論社、1994年)31-32頁。ただし感情的な動機が全くないとは考えがたい。特に379頁には珍しく半泣きになって取り乱すカレーニンの様子が描かれており、それから判断すると離婚の提案を拒絶し続けることは、積極的な悪意でこそないが、恥辱にまみれた彼にとっての最後の意地でもあるのだろう。なおこの本も奥付によれば、注(1)で触れたのと同じ選集の第20巻『トルストイII』が正式な表題のはずである。
(5)同書119-120、136頁。
(6)同書157-161頁。
(7)同書172頁。
(8)同上。
(9)同書179頁。
(10)『アンナ・カレーニナI』(前掲書)266-268頁。
(11)『アンナ・カレーニナII』(前掲書)278頁。
(12)同書350、354頁。
(13)同書406頁。
(14)同書407頁。
(15)『アンナ・カレーニナI』(前掲書)75頁。
(16)『アンナ・カレーニナII』418頁。
(17)同書425-427頁。
(18)同書432頁。
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