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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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プルースト『囚われの女』 

『失われた時を求めて』の第五篇である『囚われの女』の後半部は、集英社文庫版(鈴木道彦訳、全13巻)では第10巻に相当する。その内容は、ヴェルデュラン夫妻のパリの館での夜会を舞台に、シャルリュス男爵が夫妻をさしおいて我が物顔で取り仕切る故ヴァントゥイユの七重奏曲の演奏と、これをきっかけとする「私」(話者)の藝術論の深化に続き、締めくくりとして、男爵がヴェルデュラン夫人の陰謀によって寵愛するモレル(ヴァイオリニスト)との仲を引き裂かれるという悲劇的事件が前半で描かれるのに対し、後半を占めるのは一転して「私」とその恋人であるアルベルチーヌとの同棲生活の模様であり、いまや好きなだけ贅沢ができても不自由なことでは囚人同然の暮らしに不満を募らせる中で、不実にして淫蕩な同性愛者という本性を隠しきれなくなってきた彼女と話者の間の軋轢が、とうとうアルベルチーヌの失踪という取り返しのつかない結末を迎えるまでのいきさつが追跡されている(この間、とある夕べに話者がアルベルチーヌに語る文学論は、プルースト自身の基本的な考えを述べたものとして興味深い)。

ただし、この記事は以下のごく短いくだりのための覚え書にすぎない。

Nous causâmes. Tout d'un coup nous entendîmes la cadence régulière d'un appel plaintif. C'étaient les pigeons qui commençaient à roucouler. « Cela prouve qu'il fait déjà jour », dit Albertine; et le sourcil presque froncé, comme si elle manquait en vivant chez moi les plaisirs de la belle saison: « Le printemps est commencé pour que les pigeons soient revenus. » La ressemblance entre leur roucoulement et le chant du coq était aussi profonde et aussi obscure que, dans le septuor de Vinteuil, la ressemblance entre le thème de l'adagio qui est bâti sur le même thème-clef que le premier et le dernier morceau, mais tellement transformé par les différences de tonalité, de mesure, etc. que le public profane, s'il ouvre un ouvrage sur Vinteuil, est étonné de voir qu'ils sont bâtis tous trois sur les quatre mêmes notes, quatre notes qu'il peut d'ailleurs jouer d'un doigt au piano sans retrouver aucun des trois morceaux. Tel, ce mélancolique morceau exécuté par les pigeons était une sorte de chant du coq en mineur, qui ne s'élevait pas vers le ciel, ne montait pas verticalement, mais, régulier comme le braiment d'un âne, enveloppé de douceur, allait d'un pigeon à l'autre sur une même ligne horizontale, et jamais ne se redressait, ne changeait sa plainte latérale en ce joyeux appel qu'avaient poussé tant de fois l'allegro de l'introduction et le finale. Je sais que je prononçai alors le mot « mort » comme si Albertine allait mourir. Il semble que les événements soient plus vastes que le moment où ils ont lieu et ne peuvent y tenir tout entiers. Certes, ils débordent sur l'avenir par la mémoire que nous en gardons, mais ils demandent une place aussi au temps qui les précède. Certes, on dira que nous ne les voyons pas alors tels qu'ils seront, mais dans le souvenir ne sont-ils pas aussi modifiés? (注1)

私の手で日本語に訳すと、こうなった。

私たちはおしゃべりしていた。突然私たちは一つの嘆くような呼び声の規則正しい調子を耳にした。鳩たちがくうくうと鳴き始めていたのだった。「してみるともう夜明けなのね」、とアルベルチーヌは言った。そしてほとんど眉をひそめんばかりにした、あたかも私のもとで暮らしていてはうるわしい季節の諸々の快楽を取り逃がしてしまうかのように。「鳩たちが戻って来たからには春が始まっているということよ」。鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似の深くてしかも不分明なことはちょうど、ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似と同じくらいだったのでありそれは最初と最後の曲(モルソー)と同じ鍵となる主題にもとづいて築かれたものではあるが、しかし調性や拍子等々の諸差異によってはなはだしく変形されているために素人の公衆は、ヴァントゥイユについての著作をひもとくと、それらが三つとも四つの同じ音符にもとづいて築かれているのを見て驚かされるのであり、しかもその四つの音符というのはピアノ上で一本の指で弾くことはできても三つの曲(モルソー)のどれ一つとして見出せはしないのだ。そのように、鳩たちによって演奏されるこの憂鬱な曲(モルソー)は一種の短調の鶏鳴だったのであり、これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて、驢馬の鳴き声のごとくに規則正しく、甘美さで包蔵され、一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きをあれほど何度も導入部のアレグロとフィナーレが発していたかの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった。私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき「死」という語を発音したことを知っている。どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか。(注2)

そもそも冒頭からして「突然私たちは…」などといささか強引に始まる点は否めない上に、推敲が不完全なまま作者が没したという事情を反映してか文法的に怪しい箇所もあり―« la ressemblance entre le thème de l'adagio »云々というところがそれで、このままでは「アダージョの主題」と何との間に類似が存するのかが不明なので、やむなく亀甲括弧に頼り、「アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という風に補って訳した―、最後は一見脈絡なくアルベルチーヌの死の予感が割り込んでくるという具合で、ここだけ読めばあるいは散漫に思えるかもしれない。それどころか、原著巻末の「注記と異文〔Notes et variantes〕」を参照すると、ほかならぬプルースト自身がこのくだりに次のような但し書きをつけているそうである。曰く、「これはたぶん別の春の回帰の折、もっと以前、肉付けを要していそうなところにあったほうがよい。ここだとこれはたぶん無用である〔Ceci peut-être mieux à un autre retour du printemps, antérieurement, là où il y aura à étoffer. Ici c'est peut-être inutile〕」(注3)とのことで、作者にこのような判断を下されてしまうと、私としてもあまりこのくだりに執着するのは気が引ける。
けれども、他方でこの但し書きは当のくだりの内容の出来不出来に関しては何も述べていないし、実はこの但し書きもまた抹消の憂き目にあっているという事情からすると、どうやらプルースト自身にもこれをどこに排列するかという件に関しては迷いが残っていたらしい。であるなら、とりあえず校訂者の見識を信用し、刊本として世に出た版の一頁として、このくだりをも他の(無数の)頁と同等に尊重することはあながち過分な扱いではあるまい。というより、直筆の草稿を参照する機会もない一読者にすぎぬ私としては、結局そうする(つまり、校訂者を信用する)より他に選択肢がないのである。

さて、プルーストが、あるいは話者が認め、また認めさせようとしているような、ヴァントゥイユの作曲した七重奏曲と明け方の鳩の鳴き声との並行性とは一体いかなるものか。いや、読めば誰でもわかるとおり、並行性がこの二者の間に存するなどと考えては不正確に陥る。実際に比較されているのは、あくまで「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」、つまりは二つの項ではなくて二とおりの類似という関係であり(レヴィ‐ストロースなら「変換規則の束」とでも呼びそうである)、しかもどちらの類似も一目瞭然とはいかず、むしろ反対に「深くてしかも不分明〔profonde et aussi obscure〕」という点こそが両者の共通性であるとはっきり書いてあるからだ。
換言すれば、これはもはや常識的な意味では類似などというものではない。少なくとも素人の聴衆にとっては、七重奏曲―あいにく構成は明記されていないが、「三つの曲(モルソー)」という表現から、中間を緩徐楽章が占める三楽章形式であると推定できる―のアダージョの主題と両端楽章の主題との間には、ヴァントゥイユの研究書にあたらないかぎり到底見抜けないような極小の類似しかなく、ということはとりもなおさず、極大の差異が働いているに等しいわけである。だから、二つの関係の間に存する真の共通性とは、結局どちらの関係においても、一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ということなのだ。それでも話者が両者(鳩の鳴き声と鶏鳴との関係、ならびに七重奏曲のアダージョの主題と両端楽章の主題との関係)をともに「類似」と定義すること、ひいては鳩の鳴き声を「一種の短調の鶏鳴」として把握することが可能なのは、ひとえにヴァントゥイユの作曲の場合は、似ても似つかない三つの楽章が、いずれも根底に存する「四つの音符」に由来しているからである。この間の機微は、あるいは我々をドゥルーズの美学(そして哲学)の核心とも呼ぶべき、差異と反復の弁証法に導いてくれるものではなかろうか。現に、『プルーストと記号』の第一部第4章にはこんなことが書いてあるのだ。

 本質というものはただ単に特殊的で、個体的〔individuelle〕であるにすぎないのではなく、かえって個別化するもの〔individualisante〕である。本質はそれが具体化する場にあたる諸物質を、同じくまたそれが様式(スティル)の何重もの環の中に閉じ込めている諸対象をもそれ自体が個別化しまた規定する。ちょうどヴァントゥイユの赤みを帯びた七重奏曲や白色のソナタ、あるいはワーグナーの作品における美しい多様性がそうだ 。つまり本質とはそれ自体で差異なのである。しかしそれは多様化を生ぜしめ、かつ自らを多様化するような能力(プヴォワール)をば、自己と同一的に、自らを反復する力能(ピュイサンス)をも持つことなくして、持ちはしない。終極的な差異である、本質というものに関しては、なにしろそれは入れ替え可能ではなくて何ものもそれと置き換えられるわけにいかない以上、それを反復すること以外に人は何をなしうるはずがあろうか。それゆえ一曲の偉大な音楽は再演されることしかできないし、一篇の詩は、暗記され〔心によって学ばれ〕そして暗唱されるほかない。差異と反復は外見上でしか対立していない。その作品が我々に「同じだけれどしかも別だ」と言わせないような大藝術家などいはしないのだ。
 つまり差異は、ある世界の性質として、変化に富んだ数々の環境を踏破し、そして数々の多様な対象を結び合わせるような一種の自己反復を通じてしか確立される〔肯定される〕ことがないのである。反復はある起源的差異の諸々の度合を構成するが、しかしまた多様性は劣らず基本的なある反復の諸々の水準を構成する。一人の大藝術家の作品に関して、我々は言う。これは水準の差異を除けば、同じものであると―しかしまたこうも言う。これは度合の類似を除けば、別なものであると。真実には、差異と反復は分離不可能にして相関的な、本質の二つの力能(ピュイサンス)なのだ。ある藝術家は自らを反復するがゆえに老けこむのではない。というのも差異が、反復の能力(プヴォワール)であるのに劣らず、反復とは差異の力能(ピュイサンス)であるからだ。ある藝術家は、「脳の衰弱によって」、彼が自らの作品中でやむにやまれず表現してきたもの、彼が自らの作品によって判別しかつ反復してこなくてはならなかったものを、まるで既製品同然に、生の中に直接的に見つけることのほうをより簡単だと判断するときに老けこむ 。老けこみつつある藝術家は生に、「生の美しさ」に信頼を寄せる。しかし彼はもはや藝術を構成するものの代用品、外的である以上機械的と化している反復だとか、物質の中に再び陥ってしまってもはやそれを軽やかで精神的なものに変えるすべを知らぬ凝固した差異だとかしか持たない。生は藝術の二つの力能(ピュイサンス)を持っていない。生は両者を受容はしてももっぱらそれらを降格させるのみであるし、最も低い水準、最も弱い度合でしか本質を再生産してはくれない。(注4)

この一連の文章は、自然的な生に対する藝術の優位性という観点からも貴重なものである。実際、プルーストが執拗な半過去形の否定文に訴えつつ―「これは空の方へと高まってはいなかった、垂直に登ってはいなかった、そうではなくて〔中略〕一羽の鳩から別の鳩へと一本の同じ水平的な線の上を進行していた、そして決して身を起こすことはないのだった、その横ざまの嘆きを〔中略〕かの喜ばしい呼び声へと変えることはないのだった」―鳩たちの間の「横ざまの〔latérale〕嘆き」の連鎖を形象化するかのような文の姿態そのものを介して証明しようとしているとおり、自然的な生というものは、藝術作品(七重奏曲の両端楽章)の歓喜に満ちた垂直性とは対照的な水平性によって、かつまたその嘆かわしい水平性ですらも結局は比喩という藝術的な経路を通じてしか表現されえない(「一種の短調の〔en mineur〕鶏鳴」)という厳然たる事実によって、二重の劣等性を刻印されざるをえない。それどころか、始まったばかりの七重奏曲に耳を傾ける話者は、ヴァントゥイユの別の作品(ピアノとヴァイオリンのためのソナタ)における「鳩のくうくうという鳴き声〔roucoulement de colombe〕」との対比から、いま自分が聴いているものはむしろ「神秘的な鶏鳴〔un mystique chant du coq〕」のようなものだという印象を受けていたのであり(注5)、だとすれば鳩の鳴き声と鶏鳴との比較は、これ自体が、表向きは自然界の中で終始しながらもおそらく最終的にはヴァントゥイユの作曲家としての功績に数え入れられなくてはならないのである。
こうして、「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」と「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」という、二とおりの(類似の)関係は、何はさておきどちらの関係においても、実は一方の項と他方の項とが「似ても似つかない」ものであるがゆえに並行的でありうること、かつこの並行性は、前者(「鳩たちの鳴き声と鶏鳴との間の類似」)つまり自然の側にではなくて、後者つまり藝術(「ヴァントゥイユの七重奏曲における、アダージョの主題と〔前後の残り二つの楽章の主題〕との間の類似」)の側に根ざしており、したがって発見の方途としての人工的な技術への依存という偏りを免れがたいこと(そしてこの生に対する藝術の優位性を、七重奏曲と、ピアノとヴァイオリンのためのソナタとの対比が補強してくれること)、この二つの論点を確認した以上、七重奏曲の三つの楽章の主題はいずれも「四つの音符」に由来するというプルーストの説明からは半ば離脱することになるのを覚悟で、我々としては、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」と鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」とは、本来いかなる上位の有機的な全体性に所属する部分でもなく、そのわけはそもそもその種の全体性が与えられることは決してありえないからだ…という点を強調してもかまわないのかもしれない。再びドゥルーズを参照するなら、これこそギリシャ的な理性(ロゴス)の君臨する世界との断絶において、『失われた時を求めて』が真に時間を題材(ないし主役)とする作品たりえた要因なのである。

 反対に〈時間〉を、対象〔objet〕とする、あるいはむしろ題材〔sujet〕とする一つの作品がある。それはもはや貼りなおされることのできない断片の数々を、同じ嵌め絵(パズル)の中に入りはせず、一つの先行的な全体性に所属してはおらず、一つの一体性から流出することはたとえ失われた一体性からであってもない破片(モルソー)の数々を関わり相手とし、自らとともに引きずっている。たぶんこれこそがかのもの、時間なのだ。適応させられることを潔(いさぎよ)しとしない、同じ律動に即して展開することのない、そして文体の河が同じ速度で押し流すことのない寸法も形態も相異なる部分らの終極的な実存なのだ。宇宙(コスモス)の秩序は崩壊し、数々の連想の鎖と数々の交流しない観点との中で細分された。諸記号の言語活動は不幸と嘘との資源へと還元され、それ自体のために語り始める。それはもはや存続する〈理性(ロゴス)〉に依拠してはいない。ひとり芸術作品の形式的構造のみは自らが使用する断片的な材料を、外的な指示〔référence〕なしに、寓意的もしくは類比的な格子なしに解読できることだろう。(注6)

ここでは「破片」と訳した「モルソー(morceau)」は、『囚われの女』から引用したくだりの訳文に現われる、七重奏曲を構成する「三つの曲(モルソー)」、および鳩たちの歌う「憂鬱な曲(モルソー)」と同じ語である。そして、このような破片と破片の間の関係は、友愛というよりも闘争に似ているのである。

 おそらくこのことこそが還元不可能な数々の繰り広げの律動や数々の折り解きの速度に即した、『失われた時を求めて』における調律されざる部分らのこの異常な押し流しを説明してくれるものである。ただ単にそれらが一緒になって一つの全体を組み立てることがないばかりでなく、それらはおのおのが〔もしあれば〕そこからそれが引き抜かれるはずのある全体、ある別な部分の全体からは異なる全体に関して、諸宇宙間の一種の対話において証言するようなことがないのだ。しかしそれらが世界の中に投影され、それらの照応することなき縁(ふち)にはおかまいなく一方らが他方らの中へと乱暴に挿入される際の力は、それらが双方とも部分として認知はされるが、それでいて一つの全体を組み立てることはたとえ隠された全体をであってもなく、数々の全体性から流出することはたとえ失われた全体性からであってもないというようにする。倦まずたゆまず数々の破片を諸破片の中に置き続けた結果、プルーストは我々にそれらを全員、ただしそこからそれらが派生してくるはずの、またはそれ自体がそれらから派生してくるはずの当のある一体性への参照〔référence〕は抜きで思考させる手段を見つける。(注7)

たしかに、破片と破片の間には、機械の働きという表現が何ら類比でなくなるような正真正銘の「共鳴」が成り立つこともあり、そこにはそれなりの生産的な成果が伴っているのではあるが、ただし、すでに破片同士の齟齬という時間の定義が予想させていたように、その成果はかつて見られたことのある対象の忠実な再現からはおよそ程遠いものであるほかはない。

共鳴の秩序はそれが活用する抽出のまたは解釈の諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕によって、また生産の様態でもあるそれの産物の性質によって判別される。もはや集団のもしくは系列の、ある一般的な法則ではなく、ある単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、想起に関する諸記号の事例においては局所的なもしくは局所化する本質、芸術に属する諸記号の事例においては個体化する本質だ。共鳴は諸部分対象によってそれに供給されそうな数々の破片に立脚してはいない。それはよそからそれのもとにやって来そうな数々の破片を全体化することはない。それはそれ自体がそれ自身の諸破片を抽出する、そしてそれらをそれらの固有な合目的性〔finalité〕にしたがって共鳴させるが、しかしそれらを全体化するのではない、なにしろつねにある「格闘」が、ある「闘争」ないしある「戦闘」が問題であるからだ。そして共鳴の過程によって、共鳴用の機械の中で生産されるもの、それは単独的な〔特異的な(singulière)〕本質、共鳴する二つの瞬間よりも上等な〈観点〉であり、一方〔の瞬間〕から他方〔の瞬間〕へと赴く連想の鎖とは絶縁しているのだ。その本質における、かつて生きられはしなかったようなコンブレー。いまでかつて見られたためしがないような、〈観点〉としてのコンブレーである。(注8)

この共鳴の秩序と、プルーストが劣らず関心を払う「死の観念〔l'idée de la mort〕」との間に認めうる、一見したところ解決しがたい矛盾は、この観念そのものを、過去から現在への運動の対にほかならない逆方向の運動、すなわち現在から過去への運動の産物として把握することで藝術作品の形式的な構造の中に位置づけるとともに、時間の可視化という特有の役割を持たせることで雲散霧消するという。なんとなれば、そもそも死の観念は「ある一定の〈時間〉の効果から成り立つ」からである。

一人の同じ人物の二つの状態が与えられ、一方は回想される古い状態、他方は現働的な状態であるとすると、一方から他方へかけての老化の印象は古いほうを「はるか遠いという以上に、ほとんど本当らしからぬある過去の中に」、あたかも地質学上の数々の紀(ペリオド)が流れ去らなくてはならなかったかのように後退させる効果がある。というのも「流れ去った時間の鑑定においては、厄介なのは最初の一歩だけだからだ。人はまずはこれほど多くの時間が過ぎ去ったということを、そして次にはそれ以上多くの時間は過ぎ去らなかったということを思い描くのに多大な苦労を経験する。人は十三世紀がかくも遠いということを決して思い浮かべてはこなかった、そしてその後はなおも十三世紀の教会が存続しえているということを信じるのに苦労を覚えている」。それだからある過去から現在へという、時間の運動は、逆方向への、あるより振幅の大きな強いられた運動〔un mouvement forcé d'amplitude plus grande〕で二重化を遂げるのであって、それは二つの瞬間を一掃し、両者の隔たりを際立たせ、そして過去をいっそう遠く時間の中へと押し戻す。時間の中で一つの「地平」を構成するのはこの第二の運動である。それを共鳴のこだまと混同してはならない。それは時間を無限に膨張させるが、対して共鳴は時間を最大限に縮約するのだ。死の観念というものはこうなれば一つの切断であるというよりもある混淆もしくは混同の効果である、なにしろ強いられた運動の振幅は死者らによってと同じく生者らによっても占められており、皆が死につつある者らで、皆が半ば死んでいるか墓場へと走りつつあるからだ。しかしこの半分の死〔cette mi-mort〕とはまた、度外れな振幅のただなかで、人間たちを怪物じみた存在者として描写することができる以上巨人らの背丈なのでもあって、連中は「彼らに対して空間の中に取っておかれるじつに制限された席よりも別して広々とした一つの席を〈時間〉の中で占める、それは反対に度を越して延長された席なのだ、なにしろ彼らは同時的に、巨人らのごとく、諸々の歳月の中に浸(つ)かり、彼らによって生きられた、かくも離れたあまたの時代に触れるからである―それらの時代の間にはこれほど多くの日々が配置されにやって来た―時間の中で」。こうなると、ほかならぬそのことによって、我々は反論ないし矛盾を解決する寸前にある。死の観念はそれをある生産の秩序に結びつけなおすこと、ゆえにそれに藝術作品の中で持ち前の席を与えるということが可能であるかぎり一つの「反論」であることをやめる。振幅の大きな強いられた運動は後退の効果もしくは死の観念を生産する一つの機械である。そして、この効果の中で、可感的になるのは時間それ自体である。(注9)

おそらく、本来ならば生命の復活の季節であるはずの春の到来を、それも黄昏時ならばまだしもよりによって新たな一日の始まりを告げる明け方に悟りつつ、なぜか早くもアルベルチーヌの死を予感してしまう『囚われの女』の話者の脳裏に思い浮かんだ、出来事の範囲はそれが実際に起きる(と、我々から認められる)瞬間だけに収まりきるものではなく、本当はその瞬間以後にも、いやそれどころかその瞬間以前にも際限なく延長していくことが可能であるという直観―「どうやら諸々の出来事というものはそれらが起きる瞬間よりも広大であるらしくてそこにすっかり収まりきるというわけにはいかないのである。たしかに、それらは我々が保存するそれらの記憶によって未来へとはみ出している、しかしそれらはまたそれらに先立つ時間にも一つの席を要求するのだ。たしかに、我々はそれらがやがて存在するとおりのありさまでそれらを見るわけではないと言われよう、しかし回想の中でもそれらはやはり変更されるのではないか」―は、このような観点から読み直すことができるはずである。というよりも、「私はあたかもアルベルチーヌが近々死のうとしているかのように自分がそのとき『死』という語を発音したことを知っている」という一文から察するに、ほかならぬ当の予感こそが、その憂愁をたたえた不吉な表情の奥から、いつか話者もしくは読者によって、「逆方向への」、つまり現在から過去への「あるより振幅の大きな強いられた運動」の行先として然るべく読み直されることを待ち望んでいたのではないか。
もちろん、ストア派と同じくドゥルーズにとっても、そもそも出来事(événement)とは物体の表面で繰り広げられる非物体的な効果にほかならず、その時間は限界づけられた現在(クロノス)としてではなく、過去と未来への無際限な引き裂き(アイオーン)として理解されなくてはならないという事情も無視できないし(「西尾維新『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』」)、そう考えてくればプルーストの時間論とドゥルーズの出来事論との親和性をいっそう基本的な層で概念化することもできそうだが、短い断章に対してあまりくだくだしく注釈を連ねるのもなにやら無粋な気がするので、そのあたりは他日を期して検討することにしたい。擱筆に先立ってとりあえず忘れないうちに書き留めておきたいのは、第一に「魂の不死性の可能な唯一の証拠」を提供してくれなくてはならない、非物質的な本質による物質の「脱物質化」の事例としての藝術(注10)と、「私や私の身体と極限的ないし確定的な関係にあるもの、私の内で設立されるものであり、同時に、私と無関係なもの、非身体的で不定で非人称的なもの、それだけで設立されるもの」である死(注11)という、両極端と呼んでよい二とおりの受肉の仕方が両方とも姿を見せる点で、このくだりが出来事の非物体的・非物質的な地位をこれ以上なく簡潔に裏書きしてくれること、そして第二に、それゆえ作者の逡巡はいざ知らず、『囚われの女』の刊本のどこかに今後とも残されてよいだけの哲学的な価値を、私としてはどうしてもここに認めざるをえないこと、この二つである。


(1)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, texte établi par Pierre Clarac et André Ferré, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1954, III, p.401.
(2)なお集英社文庫版で該当する箇所は、『失われた時を求めて 10 第五篇 囚われの女』(鈴木道彦訳、2007年)377-378頁にある。
(3)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.1092.
(4)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.62-64: « L'essence n'est pas seulement particulière, individuelle, mais individualisante. Elle-même individualise et détermine les matières où elle s'incarne, comme les objets qu'elle enferme dans les anneaux du style: ainsi le rougeoyant septuor et la blanche sonate de Vinteuil, ou bien la belle diversité dans l'œuvre de Wagner. C'est que l'essence est en elle-même différence. Mais elle n'a pas le pouvoir de diversifier, et de se diversifier, sans avoir aussi la puissance de se répéter, identique à soi. Que pourrait-on faire de l'essence, qui est différence ultime, sauf la répéter, puisqu'elle n'est pas remplaçable et que rien ne peut lui être substitué? C'est pourquoi une grande musique ne peut être que rejouée, un poème, appris par cœur et récité. La différence et la répétition ne s'opposent qu'en apparence. Il n'y a pas de grand artiste dont l'œuvre ne nous fasse dire: "La même et pourtant autre"./C'est que la différence, comme qualité d'un monde, ne s'affirme qu'à travers une sorte d'auto-répétition qui parcourt des milieux variés, et réunit des objets divers; la répétition constitue les degrés d'une différence originelle, mais aussi bien la diversité constitue les niveaux d'une répétition non moins fondamentale. De l'œuvre d'un grand artiste, nous disons: c'est la même chose, à la différence de niveau près ― mais aussi: c'est autre chose, à la ressemblance de degré près. En vérité, différence et répétition sont les deux puissances de l'essence, inséparables et corrélatives. Un artiste ne vieillit pas parce qu'il se répète; car la répétition est puissance de la différence, non moins que la différence, pouvoir de la répétition. Un artiste vieillit quand, "par l'usure de son cerveau," il juge plus simple de trouver directement dans la vie, comme tout fait, ce qu'il devait distinguer et répéter par son œuvre. L'artiste vieillissant fait confiance à la vie, à la "beauté de la vie"; mais il n'a plus que des succédanés de ce qui constitue l'art, répétitions devenues mécaniques puisqu'elles sont extérieures, différences figées qui retombent dans une matière qu'elles ne savent plus rendre légère et spirituelle. La vie n'a pas les deux puissances de l'art; elle les reçoit seulement en les dégradant, et ne reproduit l'essence qu'au niveau le plus bas, au degré le plus faible ».
(5)Marcel Proust, À la recherche du temps perdu, III, op. cit., p.250.
(6)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.136-137: « Au contraire une œuvre qui a pour objet, ou plutôt pour sujet, le Temps. Elle concerne, elle traîne avec elle des fragments qui ne peuvent plus se recoller, des morceaux qui n'entrent pas dans le même pazzle, qui n'appartiennent pas à une totalité préalable, qui n'émanent pas d'une unité même perdue. Peut-être est-ce cela, le temps: l'existence ultime de parties de tailles et de formes différentes qui ne se laissent pas adapter, qui ne se développent pas au même rythme, et que le fleuve du style n'entraîne pas à la même vitesse. L'ordre du cosmos s'est effondré, émietté dans des chaînes associatives et des points de vue non communicants. Le langage des signes se met à parler pour lui-même, réduit aux ressources du malheur et du mensonge; il ne s'appuie plus sur un Logos subsistant: seule la structure formelle de l'œuvre d'art sera capable de déchiffrer le matériau fragmentaire qu'elle utilise, sans référence extérieure, sans grille allégorique ou analogique ».
(7)Ibid., p.148-149: « C'est sans doute cela qui rend compte de cet extraordinaire entraînement de parties inaccordées dans la Recherche, à des rythmes de déploiement ou des vitesses d'explication irréductibles: non seulement elles ne composent pas ensemble un tout, mais elles ne témoignent pas chacune d'un tout dont elle serait arrachée, différent du tout d'une autre, dans une sorte de dialogue entre les univers. Mais la force avec laquelle elles sont projetées dans le monde, insérées violemment les unes dans les autres malgré leurs bordures non correspondantes, fait qu'elles sont reconnues les unes et les autres comme parties, sans composer pourtant un tout même caché, sans émaner de totalités même perdues. A force de mettre des morceaux dans les morceaux, Proust trouve le moyen de nous les faire penser tous, mais sans référence à une unité dont ils dériverraient, ou qui en dériverait elle-même ».
(8)Ibid., p.182-183: « L'ordre de la résonance se distingue par les facultés d'extraction ou d'interprétation qu'il met en jeu, et par la qualité de son produit qui est aussi bien mode de production: non plus une loi générale, de groupe ou de série, mais une essence singulière, essence locale ou localisante dans le cas des signes de réminiscence, essence individuante dans le cas des signes de l'art. La résonance ne repose pas sur des morceaux qui lui seraient fournis par les objets partiels; elle ne totalise pas des morceaux qui lui viendraient d'ailleurs. Elle extrait elle-même ses propres morceaux, et les fait résonner suivant leur finalité propre, mais ne les totalise pas, puisqu'il s'agit toujours d'un "corps à corps," d'une "lutte" ou d'un "combat." Et ce qui est produit par le processus de résonance, dans la machine à résonner, c'est l'essence singulière, le Point de vue supérieur aux deux moments qui résonnent, en rupture avec la chaîne associative qui va de l'un à l'autre: Combray dans son essence, tel qu'il ne fut pas vécu; Combray comme Point de vue, tel qu'il ne fut jamais vu ».なお、コンブレーは『失われた時を求めて』の話者が幼少期を過ごした(架空の)田舎町で、そこの風物や人々は第一篇『スワン家の方へ』の前半部に詳しく描かれている。
(9)Ibid., p.190-192: « Deux états d'une même personne étant donnés, l'un ancien dont on se souvient, l'autre actuel, l'impression de vieillissement de l'un à l'autre a pour effet de reculer l'ancien "dans un passé plus que lointain, presque invraisemblable," comme si des périodes géologiques avaient dû s'écouler. Car "dans l'appréciation du temps écoulé, il n'y a que le premier pas qui coûte. On éprouve d'abord beaucoup de peine à se figurer que tant de temps ait passé, et ensuite qu'il n'en ait pas passé davantage. On n'avait jamais songé que le XIIIe siècle fût si loin, et après on a peine à croire qu'il puisse subsister encore des églises du XIIIe siècle." C'est ainsi que le mouvement du temps, d'un passé au présent, se double d'un mouvement forcé d'amplitude plus grande, en sens inverse, qui balaie les deux moments, en accuse l'écart, et repousse le passé plus loin dans le temps. C'est ce second mouvement qui constitue dans le temps un "horizon." Il ne faut pas le confondre avec l'écho de résonance; il dilate infiniment le temps, tandis que la résonance le contracte au maximum. L'idée de la mort dès lors est moins une coupure qu'un effet de mélange ou de confusion, puisque l'amplitude du mouvement forcé est occupé aussi bien par des vivants que par des morts, tous des mourants, tous à demi morts ou courant au tombeau. Mais cette mi-mort est aussi bien stature de géants puisque, au sein de l'amplitude démesurée, on peut décrire les hommes comme des êtres monstrueux, "occupant dans le Temps une place autrement considérable que celle si restreinte qui leur est réservée dans l'espace, une place au contraire prolongée sans mesure, puisqu'ils touchent simultanément, comme des géants, plongés dans les années, à des époques vécues par eux, si distantes ― entre lesquelles tant de jours sont venus se placer ― dans le temps." Voilà que, par là même, nous sommes tout près de résoudre l'objection ou la contradiction. L'idée de la mort cesse d'être une "objection" pour autant qu'on peut la rattacher à un ordre de production, dont lui donner sa place dans l'œuvre d'art. Le mouvement forcé de grande amplitude est une machine qui produit l'effet de recul ou l'idée de la mort. Et, dans cet effet, c'est le temps lui-même qui devient sensible[...]».なお引用符でくくられた文章は、どちらも第七篇『見出された時』が出典である。
(10)Ibid., p.56-57, 60-61, 64.
(11)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)264頁。
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プルースト『ソドムとゴモラ』2 

以前、プルーストの『失われた時を求めて』から第四篇『ソドムとゴモラ』を選び、集英社文庫版(全13巻)では第7巻に相当する、その前半部を分析したことがあった(プルースト『ソドムとゴモラ』)。
今回はその後日談っぽく、続く後半、すなわち『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』を検討してみたい。

まず、以前の分析の成果を簡単に要約しておこう。我々は、『ソドムとゴモラ』における筋書の水準での隠喩の連鎖の追跡を試みたのだった。そしてこの追跡は、やがて相継ぐ相似性の諸系列の発見に至り、その結果として我々は、「この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ」と書かずにいられなかった。ただし話者自身は例外で、いったんはこの相似性の連鎖に引き込まれながらもただちにそこから追い出され、その後は「ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである」というのがあのときの診断だった。
この、相似性からの追放という事態が、いっそう大々的に、前巻の終わりを引き継いで海辺の保養地バルベックという舞台で拡散してゆくのが、『ソドムとゴモラ』の後半の隠れた構造である。
例えば、冒頭にいきなり告げられてそれっきりで、一見すると特に伏線として機能している様子もないニシム・ベルナール氏の同性愛にまつわる逸話を読んでみよう。せっかくレストラン「サクラ亭」のボーイと仲良くなれたというのに、幸福は長続きせず、たちどころに相似性が彼を裏切り、締め出してしまう。

けわしい顔立ちのこのボーイは、頬が真っ赤で、まさしく首にトマトをのせているとしか見えなかった。そしてこれとまったく同じトマトが、彼の双生児の兄弟の顔だった。なんの下心もなく眺めれば、この双生児の兄弟が瓜二つなのはなかなか美しいもので、まるで自然が一時的に産業化して、同一製品を売り出したかのように見える。ところがあいにくニシム・ベルナール氏の見方は異なっていて、この類似は外面的なものにすぎなかった。二号トマトがもっぱらご婦人たちを喜ばせることに熱中するのに対して、一号トマトはある種の男たちの好みに応じるのもいとわないのだ。ところでベルナール氏が、反射神経に動かされるのと同じく一号トマトと過ごした楽しい時間の思い出にもつきうごかされて、のこのこ〈サクラ亭〉にあらわれるたびに、この近眼の年老いたイスラエル人は(もっとも双生児の兄弟をとりちがえるのに、かならずしも近眼である必要はなかったが)、知らず知らずにアンフィトリオンを演じて、双生児の兄弟の一人に、「どうだね、今夜逢引をしないかね?」と話しかけてしまう。そしてたちまち彼は、こっぴどく「ぶんなぐられる」のだった。この仕打ちが、同じ食事のあいだにふたたび繰り返されることさえあった。彼が一号トマトとのあいだで始めた話を、もう一人のトマトに向かってつづけようとしたからだ。とうとうそのうちにトマトにうんざりした彼は、食べられるトマトも連想ですっかりきらいになったので、グランドホテルで隣にすわった旅行客がトマトを注文するたびに、その男にこうささやいた、「存じあげないかたなのに、差し出がましくこんなことを申して失礼ですが、いまトマトを注文なさったのを耳にしましたのでね。今日のトマトはくさっておりますよ。これは、あなたのために申し上げているんです。だって、私にとってはどうでもいいことですから。トマトは絶対にいただきませんのでね」。(注1)

長々と引用したのは、さながら序文のように残りの本体から独立して巻頭を飾るこのくだりが、どうやら実際には以下の小説の進路にとってかなり決定的な模範の役割を帯びていそうだからにほかならない。少年の赤ら顔とトマトとの相似、自然界と産業界との相似、ベルナール氏とアンフィトリオンとの相似、この一切が、双生児同士の外見の相似と結託して彼の肉体にひどい痛手を負わせるばかりか、余勢を駆って本物のトマトに対する彼の感情の中にまで反発を植えつけるべく逆流してくる。
考えてみれば、私が相似性の系列を評価し、さらにはそれに魅惑される側の立場にいるかぎり、私はその系列の外に立たざるをえない。仮に意識というものが外界と自己との差異への注意から、定義上つねに不可分だとすれば、何かに似ることに成功すること、つまりはその何かに主観的になりきることと、ほかならぬその相似を客観的に観察することとを、意識的な操作によって同じ瞬間に両立させるのは至難の業であろう。
ブルジョワ出身であるだけになおのこと貴族らしい振舞の模倣に熱中してきたはずのカンブルメール若夫人が独創性を礼賛するのを聞いても、話者がそこに矛盾を感じないのは、おそらくそのことと無縁ではない(注2)。同様に、ヴェルデュラン家の夜会で毎度のように孤立無援の窮地に追いこまれ、出席者たちの笑い者にされる気の毒なサニエットの立場も、いじめとは誰か(被害者)の疎外を伴う相似性の支配の一例にほかならないという観点から把握しなくてはならないのである。

ほとんどすべての信者がぷっと噴き出さずにはいられなかった。彼らはまるで人食い人種の一団が、傷を受けた白人を見て血の味を呼びさまされたかのようだった。というのも、模倣の本能と勇気の欠如とは、大衆を支配するのと同様に社交界をも支配するからだ。つまりだれかばかにされている人を見るとみながこれをあざわらうのだが、十年もたって相手がどこかの社交クラブで尊敬を集めていると、みなが平然と同じ人物をもてはやすことになる。民衆が王を追放したり、王に喝采したりするのも同様である。(注3)

このように、あまりにも頻繁に相似性の秩序の部外者として扱われてきたサニエットは、もはやとっておきの気の利いた駄洒落を口にしても―決まって誰かがまんまと彼からそれを聞き出して吹聴した後なので―かえって盗作者呼ばわりされ、非難される始末である(注4)。
顔なじみのはずの二人のボーイが、一方はひげを生やし、他方はひげを剃ったせいで誰だか思い出せなかったのだと話者が悟った直後の、「あたかも、綿密な家宅捜索を逃れた品物が、なんのことはない、暖炉の棚におかれていて、だれの目にも見えていたのに、だれもそれに気づかなかったようなものだ」という感慨も、前巻での相似性の組織化とは打って変わって、今度はそこから観察者が遠ざけられる過程こそが小説の主題とならねばならないことを暗示しているようだ(注5)。この直喩の要点は、起こっているのが距離を確認することではなくて確認されざる隔離であるということ、すなわち問題の品物が観察者と当初から全く無縁なのではなく、あくまでも意識は及ばないが手の届く範囲にさりげなく、しかし堂々と居座っているということであろう。この反省をさらに進めてゆけば、やがて、「人間は、たえずこちらに対して位置を変えるものだ。身体には感じられなくとも永遠につづくこの世界の歩みにおいて、私たちは人間を束の間の光景のなかで動かないものとしてとらえるが、それはあまりに短い一瞬なので、彼らを引っぱってゆく運動があることは感じられない。しかし記憶のなかで、二つの異なった時点でとらえられた彼らのイメージを選びさえすればよいのだ」という助言に至ることは明白である(注6)。さらに、この目立たない通時的な変化の方向を思考の中で回転させれば、陰口の心理的な価値についての箴言が出てくる。「人が実体と思っていても実はその外観にすぎないものがあり、精神がそういうものにかんするまやかしの見方の上に安住するのを、こうした陰口が妨げるのだ」というその箴言は、自分が他人に見せたいと思う自画像と、自分の姿を見て他人が作り上げる肖像とが、たとえ表面的には一致しているように思えても、決して油断してはならないという意味である(注7)。ここでも相似性は当事者に背き、ほかならぬ私(意識)が知らぬ間に除け者にされるのだ。
そのような事例が度重なれば、相似性は単に人間を裏切るばかりでなく、それ自体が反発を買うようになるか、または人間同士を反目させるようにしか働かなくなるのも当然というものだ。寵愛するヴァイオリニストのモレル(話者の大叔父の従僕の息子)を改名させ、今後はシャルメルと名乗らせたいというシャルリュス男爵の希望が、にべもなく拒絶されて挫折を強いられるのはそのためである。

最後の論拠としてシャルリュス氏は、自分にその名の従僕がいたことをつけ加えるという、へまなことを思いついてしまった。それはこの若者の憤懣をいっそうかき立てることにしかならなかった。「昔、私の祖先が、王様の従僕や給仕頭という肩書を誇りに思っていた時代があったのだよ」「別な時代には、私のご先祖さまが、おたくのご先祖さまの首をちょん切らせたこともあったんですよ」とモレルは昂然として答えた。(注8)

持ち前の美貌と音楽の才能でシャルリュスに取り入り、従僕の階級から脱出しようとするモレルの強烈な上昇志向にとっては、男爵の従僕との相似性など願い下げで、むしろ貴族と庶民との昔ながらの対立こそが真似るべき手本なのである。
ところがこんな心ない反抗に悩まされ、ぞんざいな仕打ちを受けてひどく傷ついたシャルリュスは、なんとか相手の関心を惹きつけようとして一計を案じ、モレルとの交際の件で自分の悪口を言いふらした将校たちに決闘を挑むと言い出す。幸いにしてこの狂言は功を奏し、話者を使者として手紙を書き送った結果、一度は冷淡に立ち去ったヴァイオリニストは戻ってきて、シャルリュスにすがりついてどうか思いとどまってくれと哀願する。こうしてうわべだけとはいえ目的を達成した以上、当然ながら、もともと本気ではなかった決闘の予定は流れてしまい、有頂天になったシャルリュスは「トビト書」(旧約聖書外典)の叙述を借りてモレルをトビアになぞらえ、自分はトビアをその父親であるトビトのもとに導いた大天使ラファエルになったつもりですっかり悦に入るが、その際奇妙な台詞を話者に対して口走っている。「つまり、あいつはとても頭がいいので、すぐに分かったのです、これから彼がそのそばで暮らす〈父親〉というのは、肉体上の実の父ではない。実の父親はひげなど生やしたどこかの醜悪な召使いのはずだが、そうではなくて精神上の父、この〈私〉だということをね」というのがその台詞だ(注9)。これが奇妙なのは、前後の脈絡からすると、結局トビア(モレル)を導く大天使も、トビアを迎える父親(トビト)もともにシャルリュスその人であるということになってしまい、つじつまが合わなくなるからである。どのみちモレルがシャルリュスを心底愛しているわけではない(いわば有力な後援者として、体よく利用しているにすぎない)という事情を考慮に入れるなら、ここには貧弱で不完全な相似性(現実との合致を欠く、狂言じみた決闘の誓い)か誇張された相似性の戯画(大天使=シャルリュスとトビト=シャルリュスの共存)しかなく、ゆえに効果も中途半端で、表面的なものにとどまらざるをえない、と結論づけてよさそうだ。
このあたりから顕著になってくるのは、いまや相似性は当事者を締め出すばかりでなく、むしろ真正な効力を当事者に及ぼすことができないまま、それ自体が堕落し、空疎になり、形骸化しつつあるということである。当初は単なる意地の悪さと思えた事例も、あまり頻発するようであれば、ことによると無力さの表れではないかという疑いは避けがたくなるからだ。例えば、ヴェルデュラン家の新しい客人の目を欺く、まるで御殿のように立派な売春宿がそうであり(注10)、またシャルリュスと同じく男色の趣味があるゲルマント大公に連れこまれたそこの一室で、男爵の監視に勘付いて、動揺のあまり逆に覗き見するシャルリュスを戦慄させてしまう、幽霊のように血の気の失せたモレルの姿―「彼が目の前に見たのはたしかにモレルだが、まるで異教の神秘と魔法が実際にまだ存在しているかのように、それはむしろモレルの亡霊であり、ミイラになったモレルだった」(注11)―も、さらには翌晩、ゲルマント大公が「自分の家にいるという感じを出すために」別荘に飾っておいたシャルリュスの写真(シャルリュス男爵はゲルマント公爵の弟で、ゲルマント大公とはいとこの関係にある)の視線に射すくめられてモレルが陥った恐慌も(注12)、やはり相似性の滑稽な戯画の好例なのであって、こうした事例はいずれも、外観が内実を忠実に反映せず、それどころかあてどなく遊離しては勝手な効果を撒き散らすという事態に積極的に加担しているのだ。
こうなれば、似ることが即強さであり、美しさであり、正しさであるという、前巻で確立されたはずの原理もいささか眉唾物に思えてくる。たまに外観の領域で終始する忠実な模倣があったとしても、それは例えばカンブルメール一族の間で定着している老侯爵夫人ゼリアの面妖な書き癖(丁重さを表わそうとしてよく似た形容詞を三つ重ねるものの、選択がまずいせいで決まって強調の度合いはだんだん低くなる)だの、珍妙な肉体的特徴(一方的に喋りまくった後で一息ついて唾を飲みこむ、うっすら口髭が生えている)だののように、毒にも薬にもならないか、あるいは少々不快ですらある類のものばかりだろう(注13)。おそらく多くの読者にとってやはり不快であり、また噴飯物でもあるに違いないのは、何かにつけて比類のない家柄の高さを鼻にかけるシャルリュス男爵の、いかにも大貴族らしい傲岸不遜な態度を、一介の従僕の息子にすぎないモレルふぜいがいそいそと模倣したがることである(注14)。
しかし、不快程度で済めばまだよい。終章(第4章)においてふとした会話がきっかけで話者を苛むのは、アルベルチーヌの同性愛疑惑の再燃であり、彼が入りこめない不吉な相似性の楽園、すなわち男性ではなくて女性を愛する女性たちが住む「未知の大陸(terra incognita)」の啓示なのだ(注15)。ここに至って相似性の秩序は、話者の決定的な隔離と同時に完全に価値が逆転し、はっきりと否定的な性格を帯びる。いまや彼の目に恋人は海への連想を伴って映ることをやめ、代わりにかつて田舎で目撃した少女たち(ヴァントゥイユ嬢と、その親友であり、アルベルチーヌが知り合いだと言ったばかりの女性)の同性愛の場面をそっくりそのまま反復するかのようである。

私が恐れていたこと、ずっと前からアルベルチーヌについて漠然と疑っていたこと、私が本能で彼女の全存在から引き出していながら、自分の希望する方向に理屈をねじ曲げて少しずつ否定してきたこと、それはやはり本当だった! アルベルチーヌの背後に見えるのは、もはや山々のように連なる青い海の波ではなく、モンジューヴァンの部屋だった。その部屋で彼女は、聞きなれない快楽のうめきのようなもののまじる笑い声をもらしながら、ヴァントゥイユ嬢の腕のなかに倒れかかる。〔中略〕かつてアルベルチーヌがロズモンドの肩にあごをのせ、にっこり笑って相手を見つめながら首筋に口づけをしたときの優美な仕草に、私はヴァントゥイユ嬢のことを思い出しながらも、動作が同一の線を描くからといってそれをかならず同一の傾向に由来するものと解釈することには、ためらいを覚えたものだった。だがこの仕草をアルベルチーヌは、ほかならぬヴァントゥイユ嬢から学んだのかもしれないではないか?(注16)

「私」の推測と現実との相似性は、二人の少女(アルベルチーヌとヴァントゥイユ嬢)の見せた仕草の相似性に立脚しており、仮に正しければ、アルベルチーヌの性的な嗜好の相似的性格(同性愛)という、「私」にとっては恐るべき帰結をもたらすことになる。そこにさらなる追い打ちをかけるのは、幼児期に田舎の家の寝室で味わった、階下の母との一時的な離別の悲しみであり、また知人であるシャルル・スワンをかつて苦しめた、恋人(高級娼婦のオデット)の秘められた生活への狂おしいほどの関心である(注17)。新旧の状況間の相似性は、ここではただ苦しみを倍加することにしか役立たない。しかも、このような内心の激動を経験しても部屋の様子が従来どおりで(注18)、前日と同じように規則正しく日が昇ることはむしろ神経を逆撫でする苛立ちの種であるから、話者としては何が何でも己の境遇の悲劇的な変化を外界に投影せずにはいられない。環境が不断に更新するそれ自体との相似性は、内面と環境との相似性へと置換されるべきなのだ。そしてその結果は、「これは夜明けとともにかならず荘重にくり返される私の日々の悲しみであり、私の傷の流す血であった」(注19)というくだりからわかるように、苦悩の永続的な記念碑の建立である。
前巻ではあれほど感動的だったはずの母と亡き祖母との相似も(プルースト『ソドムとゴモラ』)、もはや意味が変質してしまい、「私」が祖母に迷惑をかけるという状況の反復を招いてしまう。寂しさのあまり隣室の祖母の来援を願い、それでいて彼女が勧める日の出の美には見向きもせず、虚弱なくせに反抗心から酒に手を出した「私」の不行跡は、嗚咽で母を呼び寄せ、朝日の背後でこれ見よがしに女性と戯れるアルベルチーヌの幻に恐れおののき、にもかかわらず母の優しさにつけこんで彼女が不賛成だったアルベルチーヌとの結婚を強硬に主張するという言動の中に、きれいに再現しているからである(注20)。

こうして、『ソドムとゴモラ』が前半に続き後半もまた「めくるめく相似性の世界」であることは、おおざっぱとはいえ証明できたように思う。ただ、その相似性が、話者(主人公)はもちろん、それ以外の登場人物たちをも、当事者であるかぎりにおいて裏切ってしまい、ついで形骸化して真正な相似性の空疎な戯画(いわば相似性の相似性)となり、最後には自他の苦悩の原因にして増幅要因という新たな性格を隠そうとしなくなる、という点に違いがあるのである。
むろん、この一連の質的な変容は、おおよそ『失われた時を求めて』の中間に位置する第四篇『ソドムとゴモラ』が、私が考えるように作品全体にとっての蝶番の役目を果たすべきであるとするなら、そのかぎりではきわめて合理的なことだ。つまり、本巻における相似性の諸相が、一方では先立つ第7巻からの奇怪な変質を遂げつつも、他方では次の第五篇『囚われの女』(第9、10巻)の内容―嫉妬の虜囚になった話者はパリでアルベルチーヌと監禁同然の同棲生活を送る中で、精神的な影響力を行使して彼女を自分と同じような教養の持主にしようとするが、結局囚われの身のアルベルチーヌは遠くから彼を魅了する憧れの対象だった頃の美を喪失し(注21)、その上執拗な追及に負けてうっかり過去の同性愛の行状を告白してしまい、話者を苦しめるようになる―を予告するものでもあるという事態の中には、単なる偶然以上のものがあると認めなくてはならないはずなのである。


(1)『失われた時を求めて 8 第四篇 ソドムとゴモラII』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)17-19頁。なお、アンフィトリオンはモリエールによる同名の喜劇の登場人物で、本物の下僕と偽の下僕を前にして混乱させられる。
(2)同書176-177頁。
(3)同書187-188頁。
(4)同書195頁。
(5)同書308頁。
(6)同書373頁。
(7)同書427頁。
(8)同書457頁。
(9)同書480-481頁。
(10)同書484-486頁。
(11)同書494頁。
(12)同書496-498頁。
(13)同書508-509頁。
(14)同書512-514頁。
(15)同書569頁。引用に際して、「未知の土地」から「未知の大陸」へと訳語を改めた。
(16)同書571-572頁。
(17)同書580頁。
(18)同書589-590頁。
(19)同書594-595頁。
(20)同書595-600頁。
(21)『失われた時を求めて 9 第五篇 囚われの女I』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2007年)327-329頁。

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プルースト『ソドムとゴモラ』 

『失われた時を求めて』〔À la recherche du temps perdu〕を構成する七つの長編小説のうち、著者プルースト(Marcel Proust, 1871-1922)の生前に刊行を見たのは、第四篇に相当する『ソドムとゴモラ』〔Sodome et Gomorrhe〕までだった。
厳密な分量はともかく、数字の上では一、二、三と五、六、七のちょうど真ん中だし、集英社文庫版(鈴木道彦訳)でも全13巻中の第7、8巻(二分冊)と、ほぼ中間に位置している。
それだけに、プルースト自身が思い描いた作品全体の最終的な姿というものを推定する際、この第四篇の存在は軽視できないはずだ。
ここで作者が己に与えた最大の課題は一応―性的な放埓さのゆえに神の怒りを買って滅ぼされたという、旧約聖書の都市の名にあやかった表題が暗示する通り―、同性愛の主題の導入と考えてよい。
だが、もっと形式的な意味でも、『ソドムとゴモラ』は全篇の蝶番たりうる小説ではないかと思う。
以下に記すのは、集英社文庫版の第7巻、つまり『ソドムとゴモラ』の前半部に関する覚書である。

プルーストの繰り出す隠喩や直喩の多彩ぶりについては定評があり、人によってはややうるさいとすら思えよう。
この第7巻でものっけから、虫媒花の生殖作法がある種の同性愛者の恋愛模様と重ね合わされている。
しかし注意したいのは、ここで話者の「私」が、単なる空想でなく現実に、蘭か何かの花と飛来するマルハナバチとを目のあたりにしており、それの観察に引き続いて、偶然にもシャルリュス男爵と仕立屋ジュピアンとの邂逅を目撃する、ということだろう。
いかにもあざとい順序だという突っ込みはさておき、こういうのも無条件で隠喩や直喩の仲間に数えてよいものか、私は少々ためらいを覚える。以前の記事(日日日『のばらセックス』7)では「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」というけったいな新語を使ったが、あの場合もやはりプルーストへの連想がつい働いていた。まずは二つの相似的な状況が並列的に叙述され、さらに両者の具体的な細目に関する説明が続く。それが片付かないかぎり、「まるで」とか「あたかも」が両者を結び付ける余裕もない。そしてこの説明が済んでようやく、通常のもしくは狭義の比喩―「私は今しがた中庭で、ちょうど蘭の花がマルハナバチに言い寄るように、シャルリュス氏のまわりをうろうろするジュピアンの姿を見たけれども」(注1)―が、違和感なく登場することができるという次第だ。誰もが周知の動物や物体ならば、例えば「牛乳のように白い」とか「狐のように狡猾な」などという比喩を、何のためらいもなく使うことが作者には許される。その代り、こういう比喩は単独だと印象的な新味を欠いている。対して状況と状況との間の相似性の場合、作者が両方を叙述し終えるまで、何が成就されるのか完全には予測しえぬまま、読者はおとなしく待ち続けるほかない。
状況間に成立する、あるいはむしろ創造主たる作者の手で成立せしめられる相似性を存分に活用することで可能になるこの工夫は、詩とも短編とも違う、長編小説ならではのものだろう。
したがって世界有数の長編小説である『失われた時を求めて』には、最終巻における無意志的記憶の啓示に至るまで、実は一貫してこの種の伏線があふれかえっており、時の作用を可視的に実感させること、という作品の根本的な狙いの実現に貢献しているのだが、その中でも特に興味深いのが、全篇の中央を占める『ソドムとゴモラ』の場合なのだ。
そもそも上記のシャルリュスとジュピアンの出会いの光景にしてからが、話者自身も認めるように第一篇でヴァントゥイユ嬢が同性の恋人と戯れる場面の反復なのだが(注2)、これ以降も本巻はますます、状況と状況の相似性、およびそれを支える登場人物同士の重なり合いを執拗に追求していく。
シャルリュスの醸し出す雰囲気が「ひとりの女」(注3)としか思えないように、女々しい同性愛者の夫を持ったヴォーグ―ベール夫人は「ひとりの男性」(注4)である。親戚の危篤を知らされてもゲルマント大公夫人の夜会を欠席しようとしないばかりか、死亡通知を受け取ってなお仮装舞踏会(これもまた相似性の世界だ)にいそいそと出かけるゲルマント公爵夫妻が引き起こす悶着も、すでに前巻(『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』)の末尾に予兆があった(注5)。夜会の席でヴォーグ―ベール氏は、いかに多くの同類が外交官たちの中に勢力を広げているかをシャルリュスから教わってときめく。彼の同性愛はラシーヌ劇の詩句で飾られるが(注6)、この点はニシム・ベルナール氏の少年愛と同様であり(注7)、両者間の相似性はあたかも、社会的少数者としての同性愛者の境遇とユダヤ人のそれとの間の相似性へと読者をいざなうかのようだ。
やがて、同じ時代を生きる人々に身分の違いを超えて一律に及ぶ精神的な画一化についての話者の省察(注8)を経て、ゲルマント公爵夫人は何のつもりかモレ氏の「われわれ二人」という言葉づかいに注意を促し、ついで外見こそ違えどともに母の美貌を受け継ぐシュルジ夫人の二人の息子、ヴィクチュルニアンとアルニュルフが登場する(弟のアルニュルフは、「いつも兄の真似をしていて自分の考えを持てない」人間だという)(注9)。サン‐ルーは伯父のシャルリュスを女好きと思い込み、自分の恋愛関係に彼が口出しするのを笑うが、しかし話者に言わせれば、伯父と甥に同じ悪徳が共通しているとしても、遺伝を考慮するかぎりそれは致し方のないことだ……(注10)。たしかにシャルリュスはシュルジ夫人に見惚れているが、そのわけは別段互いにそっくりではない兄弟それぞれの美を、二つとも彼女の容貌の中に認めることができるからである(注11)。彼はバルザックを話題にし、いまどき珍しい文学通の貴族だという理由で兄のほうを称賛しつつ(もっともこれはただの勘違いなのだが)、あとはポリニャック家とモンテスキュー家に例外がいるくらいだという「二重の同化」の宣言で太鼓判を押したあと、ぜひとも秘蔵の『骨董室』をお見せして「二人のヴィクチュルニアン」を引き合わせたいものだと楽しげに言う(注12)。
夜会も終りに近づき、話者は知人であるシャルル・スワンから、自由間接話法でもってゲルマント大公との会話を長々と聞かされる。いわばスワンが一時的に大公になったつもりで「私は……」と語り続けるわけで、実に小説らしい変身の作法だ(映画や漫画では登場人物同士の視覚的な差異を消去できないのだからこうはいかない)。家柄に囚われぬ若き日の生き方の報いを受け、いまでは「生まれながらにして持っていたものを一つまた一つとふたたびとり戻すべく、営々とつとめる」シュルジ夫人の骨折り、換言すればかつての自分自身に精一杯似ようとする努力への(話者による)言及を挟み(注13)、スワンは大公がドレフュス支持派にまわったいきさつを明かすが、その山場はゲルマント大公夫人、つまり彼の妻が夫に先んじてドレフュスの無実を確信していたという事実の露見である(注14)。

以上のごとき相継ぐ相似性の演出には、まことに執拗なものがある。この世界では似ること、あるいは自分を相手に(ときには以前の自分自身に)似せることが、そのまま強さであり、美しさであり、正しさなのだ。ゲルマント公爵が実弟であるシャルリュスを相手に興じる思い出話はゲルマント公爵夫人を除け者にし(注15)、サガン大公の挨拶には大革命以前の貴族を思わせる風格がある(注16)。
ソドムとゴモラ、すなわち男女の同性愛は―プルーストは同性愛のことを、男同士なら「ソドム」、女同士なら「ゴモラ」という隠語で呼んでいた―、はたしてこのような事態の原因だろうか、それとも結果だろうか。いずれとも私には決めがたい。原因と考えておくほうが無難かもしれないが、案外真相はその逆ではないか。夜会の叙述に先立って詳細な検討に付されている男色者たちの過剰なまでの秘密主義は、当時の社会が同性愛に対して今日よりも不寛容だったから、というだけでは説明がつかないし、いわんやプルーストの誇張癖だけでも説明できない。おそらくは、「似ること」と美徳との合致という最も根源的な構図から、一方では異性ではなく同性が思慕の対象であるような恋愛、すなわち同性愛を中心とするさまざまな相似性の系列が、他方では世間一般の性愛の規則に違反しているという自覚を片時も忘れられず、「未だかつてみなと同じ好みを持ったことがない」(注17)と言うシャルリュスたちの小心翼々たる秘密主義が、ともに派生してくるのではないか。
話者一人が、この相似性の支配から免れている、あるいはそこから排除されている。彼は以前愛していたスワンの娘(ジルベルト)への恋心をもはや抱いていないし、仮装舞踏会にも出席しない(注18)。しかしそれも夜会の間だけのことで、帰宅するや彼は約束していたアルベルチーヌとの逢引が流れそうなのを感じて、かつて就寝前に母親からキスしてもらえなかったときに覚えたのと同質の不安を覚え(注19)、女中の不正確な(すなわち、規範に似ていない)フランス語にあたりちらす(注20)。初恋の人にもらった記念の品を、電話で呼びつけてようやく会えたアルベルチーヌにあっさり与えるという行為も、相似性の破壊というよりはむしろ歪曲であろう(注21)。
「似ること」と美徳との合致という原理はなおも、ゲルマント公爵が三人の才媛に感化されてあっさりとドレフュス支持派に鞍替えするという逸話に継承される。この逸話は前後の脈絡から浮いていて、何もこの位置になくてもよい気がするのだが、「歴史の重大な時期にさしかかるとかならず繰り返される現象」だから無視できないらしい(注22)。一連の相似性の系列の余波のせいで、心ならずも構成上の小さな強引さを導入せざるをえないという弁解のようにも読める。この果てしない系列を締めくくるには、変化に関する巨大な一般法則に訴えるしかない。だからこそ話者は章を改めるに先立ち、「社交界そのものは変化しない」と信じるのは誤りで、「サロンといえども不動の静止状態において描かれるわけにはいかない」ことを強調しつつ、スワン夫人のサロンに突如訪れる栄光の日々を手短に描いてみせるのだ(注23)。延々と続く夜会の情景、ついで逢引の場面と比べるとこの部分はいかにもとってつけたようだが、ある意味では内容、つまり社交界での彼女の地位の急上昇という出来事そのものの意外な速度に見合っている。こうなればさしもの相似性も、もはや話者個人の思い出に結びついたごく私的な支えを持つにすぎなくなってしまう(注24)。
しかし、状況と状況との照応関係にほかならぬ筋書の水準での隠喩の運動は、これで終わりを告げたわけではない。むしろその反対である。というのも、続いて描かれる二度目のバルベック滞在の日々―バルベックはノルマンディ海岸にあるとされる架空の保養地で、すでに第二篇『花咲く乙女たちのかげに』で話者は祖母とここを訪れている―には、名高い「心情の間歇(les intermittences du coeur)」が待ちかまえているからだ。
話者の「私」は、久しぶりに再び泊まったバルベックのホテルで、ふとした仕草をきっかけに生前の祖母の姿を思い出す。『失われた時を求めて』の代名詞ともなっている、いわゆる「無意志的記憶(mémoire involontaire)」だ。そして逆説的にもこのことが理由となって、彼は第三篇ですでに亡くなっている彼女の死を否応なく痛感し、深い悲しみに襲われるのである。ここで明らかになるのは相似性そのものというよりもむしろ、「私」が相似性の劣等生であるという残念な事実だ。

けれどもショートブーツの最初のボタンにふれたとたん、私の胸はある未知の神々しい存在に満たされてふくれあがり、嗚咽が身体を揺り動かし、涙がはらはらと目からあふれ出た。私を助けにかけつけて、魂の枯渇から救いだしてくれた存在、それは数年前、同じような悲嘆と孤独に襲われて自分をことごとく失ってしまった瞬間に、とつぜん入りこんできて私を私自身に返してくれた存在だった。なぜならそれは私であるとともに、私以上のものだったからだ(中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器である)。今しがた私は、記憶の中で認めたところだった、愛情のこもった、心配そうな、またがっかりした祖母の顔、はじめてここに着いた晩とそっくり同じような祖母の顔が、私の疲労の上に屈みこんでいるのを。(注25)

愛する人が自分の中で突然よみがえるのを感じることに由来する、疑いようのない歓喜は、同時に、ことによると自分は相手の尊さに値しないのではないかという疑惑(「中身を上まわる容器……」云々)をも伴っている。それかあらぬか、疑似的な再会の喜びは長続きせず、話者はただちに、もはや祖母が生者ではないことを思い出して「矛盾」に囚われてしまう。彼にできることといえばせいぜい、当の苦しい印象からいずれは知的な努力によって「真理」を引き出してやろうと決意するくらいのものだ(注26)。この残念な結末は、しかし決して意外なものではない。というのも、第一回目のバルベック滞在と比べて今回の滞在を違ったものにしている一番の要因が祖母の不在である以上、状況は厳密に相似的でないのはもちろん、むしろ対照的ですらあるのだから(しかし全く無関係ではなく、同じ土地で同じホテルに泊まって同じ動作をしているのだから)、ある意味ではこうなることは目に見えていたのだ。
話者の母、つまり祖母の娘は、もっと優秀である。遅れて到着した彼女を見たとたん、話者ですら祖母本人がそこにいると感じるからだ(注27)。こうして「中断された死者の生命の継承者」以外の何者でもなくなった彼女の姿に感銘を受けて、話者はいまや、生者が己の個性を犠牲にしても愛する死者に似ようとする衝動の、深い意味を実感するに至る。

愛するひとが生きているかぎり、私たちはたとえ相手に迷惑であっても、恐れることなくそのような個性を発揮する。それが、その相手からのみ私たちに伝わった性格と、うまく釣合いをとってくれるからだ。けれどもひとたび母が死んでしまうと、私たちは母と別な人間であることが気になりはじめる。私たちはもはや、かつて母がそうであったものしか讃美することはない。それはすでに私たちの存在そのものだが、何かに一体化した存在である。そしてそれこそ、私たちが今後ひたすらそうなろうとつとめるものなのだ。その意味においてこそ(けっして一般に人びとが理解しているような、あいまいで出たらめな意味においてではなく)死は無駄でないし、死者は依然として私たちに働きかけている。なぜなら、真の現実とは精神によって引き出されたものにすぎず、精神の作用の対象にほかならない以上、私たちが本当に知っているのは、思考によって再創造することを余儀なくされたもののみだからだ。(注28)

筋金入りのマザコンだったプルーストの面目躍如といった感じで(なぜ一般論のはずなのに、この話者はいきなり「母」のことを語り出すのか?)、若干気持ち悪いがまあそれはさておき、とにかく「似ること」が即美徳である、という事情は、ここに至って十分意識的に把握されると考えてよさそうだ。ホテルの支配人やエレヴェーターボーイの珍妙なフランス語が深刻な苛立ちではなくて笑いを誘うのも、話者の心に余裕が生まれていることの反映かもしれない。
しかし、よしんば一般原則を理解したところで、話者個人が相似性の分野では劣等生であることに変わりはない。祖母と一緒だった旅行の思い出がバルベックの街角から吹き寄せ、一足進むごとに惹き起こす耐え難い苦悩はもちろんだが、やっとのことでホテルに逃げ帰った彼を出迎えるドアボーイが抱く、名士の手で引き抜いてもらえた兄たちの境遇への羨望も、おそらくこのことと無縁ではあるまい(ドアボーイもまた、憧れの人物のようでありたいと願いながらそれがかなわないせいでやきもきしているのだ)(注29)。結局、悲嘆にくれる話者を慰めてくれるのは、季節の違いのせいで最初の滞在時には立ち会えなかった、満開の林檎の花だけである(注30)。これといってその理由が解明されているわけではないが、察しはつく。たぶん林檎の花には、祖母と過ごした日々を思い出させないという消極的な美点(バルベックの風物の中では例外的な、それゆえ貴重な取り柄)に加えて、以前見たときの、あとかたもなく散り終えた状態から例年のごとく再び咲き誇るに至った以上、なお積極的な長所が具わっているからだ。つまりそれは、再生を繰り返すことで間断なくそれ自身との相似性を更新し続ける、自然界の終わりなき生命力を確信させてくれるという長所である。
いまや彼を脅かし始めるのはアルベルチーヌの同性愛疑惑である(注31)。換言すれば、彼が男性同性愛者でないばかりに、あるいはアルベルチーヌのように女性であるわけではなく、ましてや彼女の好みそうな女性ではありえないばかりに味わわなくてはならぬ苦悩である。しかしながら、姑と嫁、二人のカンブルメール侯爵夫人(シュルジ夫人の息子たちやドアボーイの兄弟に続き、またしても同姓の二人だ。ちなみに若いほうの夫人はブルジョワの出身であり、カンブルメール家流の名門貴族の呼び名を真似ることに無上の快感を覚えている)との談話を経て、芸術の世界における「反動」作用、ないし揺り戻しの現象―ショパンの直弟子だった姑のカンブルメール夫人とは対照的に、嫁のカンブルメール夫人は流行に敏感なつもりで彼を軽蔑しているが、実は皮肉なことに彼女が崇拝するドビュッシー自身がショパンを愛好している……―に気づいた話者は、おそらくはそれを参考にしてか、アルベルチーヌに面と向かって、自分は以前彼女のことが好きだったが今ではもはや愛していない、と言い放つ(注32)。人間精神にはつきものの守勢と攻勢の交代を利用して、あえていったん引いてみせることで彼女の関心を誘発しよう、という腹だ(いかにもせこいしおまけにずるいが、この話者は一貫してこういう人である)。
どうやら彼は、一途に己を何かや誰かに似せる能力の欠如を自覚した結果かえって吹っ切れて、その場しのぎの利己的な演技が上達したらしく、まんまとこの作戦は功を奏する。アルベルチーヌは話者になびいたばかりか、きっぱりと同性愛疑惑を否定してくれたのだ(もっともこの疑惑自体は以後も末永く話者を苛み続け、彼女の死後になってとうとう確信に変貌するのだが)(注33)。
こうして第7巻は、早くも第1巻の時点で皿の絵という形で姿を見せていた『千一夜物語』の現物を、やがて最終巻でも話者が小説の執筆を志すときにその名が召喚されるのに先立って彼の読書体験に組み入れてから(注34)、姉妹の小間使いである、マリー・ジネストとセレスト・アルバレという新たな二人組を登場させつつ、なおも払拭しきれぬアルベルチーヌの同性愛に関する不安とともに次巻に続いていく。このあたりになってくると、物であれ人であれ、相似性以上に対照性が際立ってくるという印象だ。二種類の『千一夜物語』(ガラン訳とマルドリュス訳)の違いは話者の母を悩ませるし、シュルジ夫人の息子たち(ヴィクチュルニアンとアルニュルフ)や、ゲルマント公爵とシャルリュス男爵などの兄弟が息の合った立ち居振舞を見せていたのと引き換え、二人のカンブルメール夫人の芸術観がずいぶん違うように、マリーとセレストの姉妹も、話者への好意を競い合って彼の面前でほとんど喧嘩腰の粗暴なやりとりを繰り広げる(注35)。

以上のごとく『失われた時を求めて』全篇の結節点にあたる『ソドムとゴモラ』の前半(集英社文庫版の第7巻)は、ゲルマント大公邸での夜会における、話者の周囲での執拗な相似性の構築を経て、二度目のバルベック滞在をきっかけとする「心情の間歇」の章に入るとついに話者自身をもいったん相似性の運動の中に引き込みながら、ただちに資格不十分としてそこから追い出してしまい、これ以後は巻末に至るまで、ひたすら他人の相似性を詮索するか(母は祖母へと非の打ちどころのない変身を遂げ、アルベルチーヌには同性愛の疑惑がつきまとう)、それとも対照性の混迷の中をさすらうかが彼の運命となるわけである。対照性の概念をことさら「混迷」と呼びたくなるのは、バルベックの街角に染みついた祖母の思い出と満開の林檎の花との間の対照性は、実際には人間にまつわる不完全な相似性―街路が掻き立てる思い出は活発であればあるほど、祖母の不在を痛感させる―と自然界の完全な相似性とが作り出す対照性であるから、また芸術における反動の現象を応用することで話者がアルベルチーヌの気を引こうとする場合には、偽の対照性―「僕は、以前は君のことが好きだったが現在ではもはや愛していない」という告白はもとより嘘である―にもとづき人為的な相似性が作り出されるからだ(ちょうどドビュッシーによる再評価がショパンを復活させたように、話者の演技はアルベルチーヌの好意を取り戻す)。つまり相似性が理想的な状態であることに変わりはないわけで、あとはいかに、そしてどこまで絶対的な相似性に迫れるかで微妙な差異がさまざまに生じてくるわけである。
状況と状況との隠喩的な関係を全篇の中でいかに組織すべきか、という長編小説の構成にまつわる問題を考えたとき、プルーストが試みたこのような手法は、いささか図式的なきらいはあるかもしれないが、かなり示唆的なものではなかろうか。
諸状況の相似性は、縦横無尽に張り巡らされた前後の巻への参照や伏線を介して成立する。中でも最も模範的な事例が、まずは虫媒花の生殖とヴァントゥイユ嬢の戯れとを連想させる、シャルリュスとジュピアンの出会いとして、やがては話者の知性を試みるかのように、意志とは無縁な記憶の自動作用がもたらす間歇的な祖母の思い出として、二度にわたって到来する教訓的な反復であろう(おそらく両者は話者個人にとってのみならず、『失われた時を求めて』の全体像を探し求める批評家にとっても模範的だからである)。この二つの、特別に大がかりな反復のうち、前者は他人が話者に対して演じる手本であり、後者は話者に己の無力さを思い知らせる暴力的でしかも儚い啓示である。ここに働いている筋書そのものの厳然たる掟に比べると、同性愛や亡き祖母への思慕といった内容は、重要度という観点からすれば結局は交換可能なもの、あるいはそこまでいかないにしても形式に従属的なものかもしれない。むろん、普通に読めば最初に目に入ってくるのは内容のほうで、それを包む形式である状況間の関係のほうは背後に隠れている。だが、執筆者の気持ちになってみれば、というよりも無から創造された言語的虚構という小説の定義そのものに立ち戻ってみれば、形式的な自律性を確保すべしという規則こそ第一に考慮すべきであって、具体的な内容は二の次ではないのか。そんな疑問を我々読者に抱かせてしまう点で、『ソドムとゴモラ』は全篇の折り返し地点を占めるにふさわしいかなり特異な作品であり、何にもまして方法論の書なのである。このようにして新たな数頁が産出される決定的な瞬間とは、ある所与の状況の記述がそれ自体の上に折り重なるときにほかならない、ということになる。
乱暴に要約すれば『失われた時を求めて』とは、「作家志望の『私』がさまざまな体験を積んだ果てに『時間』という主題を見出し、書くべき小説の姿を悟るに至る」までの過程を追った架空の自伝であるからして、元来小説についての小説という自己言及的な雰囲気をたたえているのだが、ほかならぬその過程の真ん中に、私が「筋書の水準での隠喩、あるいは底抜けの寓意の連鎖」と呼んだものの原理が埋め込まれているわけである。位置的に中間であるというだけでは飽き足らず、役柄の上でも中間(蝶番)らしくなろうと努める奇妙に意欲的な中間、それがこの『ソドムとゴモラ』と題された、めくるめく相似性の世界の正体なのだ。
いずれにしても話者は、シャルリュスとジュピアンの出会いの場合には虫媒花の生殖に関する知識を参考にすることで、つまりは状況間の形式的な相似性を抽出することで同性愛についての理論的考察を深めているし、祖母の回想の場合には形式の恩恵にただただ圧倒されるばかりで、内容の立場からこれに応えようとして力尽きている。まさしく引用文にあったとおり、「中身を上まわる容器、しかも私にその中身をもたらしてくれた容器」というわけだ。この「中身」は話者である「私」自身のことで、「容器」は回想の中の祖母を指すと考えておくのがとりあえず無難に思えるが、あるいはむしろ回想の祖母―話者自身の内部によみがえり、瞬時に彼と一体化した祖母―こそが「中身」であるのかもしれない。そして真の「容器」とは祖母本人のことではなく、彼女に関する無意志的記憶の機構(同じ土地で同じホテルに泊まり、同じ動作を行ったことで勝手に作動し始めた自律性の記憶)なのかもしれない。
この上なく生々しい感情の横溢を透かして、ふと非人間的で超個人的な骨太の構造が垣間見える。これもまた文学の醍醐味の一つ、か。


(1)『失われた時を求めて 7 第四篇 ソドムとゴモラI』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)76頁。ただし「ジュピヤン」を「ジュピアン」に改めた。どちらのカタカナ表記もJupienでないという点では大差ないわけだが、個人的にはenを弱く読むほうが楽でよい。
(2)同書30頁。
(3)同書23頁。
(4)同書108頁。
(5)同書140-141、274-275頁。『失われた時を求めて 6 第三篇 ゲルマントの方II』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2006年)559-560、588-589頁をも参照のこと。なおゲルマント公爵夫妻は、やはり死病に侵された親友のシャルル・スワンに対しても心無い言動を見せている。
(6)同書147-150頁。
(7)同書518-520頁。
(8)同書181-184頁。
(9)同書192頁。ただし「ヴィクチュルニヤン」を「ヴィクチュルニアン」に改めた。
(10)同書203-204頁。
(11)同書209頁。
(12)同書217-218頁。要するに、バルザックの『骨董室』にもヴィクチュルニアンという名の人物が登場するのである(シャルリュスは作者自身の手で訂正が施された同書の貴重な版を所有しているという)。なお、集英社文庫版では原文の"cette double assimilation"が「このような二つの名前と同格に扱われれば」と訳してあるが、論旨の都合上直訳に改めさせていただいた。
(13)同書235頁。
(14)同書244頁。
(15)同書257頁。
(16)同書263頁。
(17)同書260頁。
(18)同書249、273頁。
(19)同書290頁。
(20)同書297-298頁。
(21)同書301頁。
(22)同書304頁。
(23)同書309-310頁。
(24)同書327頁。
(25)同書338-339頁。
(26)同書346頁。
(27)同書365頁、「だがとりわけ、クレープのコートに身を包んで入ってきた母を見たとたんに、私は気がついた―パリにいたときは分からなかったのだが―私が目の前にしているのは、もはや母ではなくて祖母だった」。
(28)同書366-367頁。
(29)同書371-374頁。
(30)同書390-392頁。
(31)同書418-422頁。
(32)同書488-491頁。
(33)同書492-501頁。
(34)同書503-504頁。『失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へI』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2006年)133頁、『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時II』(鈴木道彦訳、集英社文庫版、2007年)270-271頁。
(35)同書524-531頁。

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