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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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アリストテレス『魂について』3 

連載とか偉そうにほざいておきながらちっとも有言実行できてないのは我ながらいかがなものか。

一応、『魂について』における二種類のエンテレケイアの区別に着目した前回の検討では(アリストテレス『魂について』2)、アリストテレスの霊魂論においてはエンテレケイアがいわばエネルゲイア化を遂げ、その分デュナミスに近くなる、ということが確認できたはずだ。
今回はそこから何が派生するのかを若干展望してみたい。第2巻第2章からの引用である。

さて、「それによってわれわれが生き、また感覚するところのもの」は二通りの意味で語られるのであり、それはちょうど「それによってわれわれが何かを知るところのもの」が二通りの意味をもつのに相当する(われわれは後者の場合一方では知識を意味し、他方では魂を意味するのであり、実際、われわれが「知っている」と主張するのはこのうちのいずれかによってである)。これと同様に、「それによってわれわれが健康であるところのもの」も、一方では健康を意味し、他方では身体のある部分、あるいは身体全体を意味する。そしてこのうちで知識と健康は形態や一種の形相や説明規定であり、言ってみればそれらを受け入れるもののエネルゲイアであって、知識の方は知を獲得しうるものの、健康の方は健康になりうるもののエネルゲイアである(なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである)。(注1)

書いてあることの内容自体はそれほど複雑でもないが、なにぶん古代人のこととて語彙不足の感がなくもない。注意すべき点は二つあると思う。第一に、この文脈では、知る主体としての「魂」と健康になる主体としての「身体」はともに、形相(「知識」そのもの、もしくは「健康」そのもの)に対する質料の地位にあることである(注2)。アリストテレスがはっきりそうことわっていないのは、あくまでも形相としての地位を魂に付与することが彼の最終的な狙いだからだろう(つまり不用意に説明を詳しくすると質料への言及が増えて混乱を招く上、特に前者の類比の場合は一時的に魂を質料扱いせざるをえなくなるのだ)。
第二に注意すべきは、だからといって質料側が無視ないし軽視されているわけではないということである。「それらを受け入れるもののエネルゲイア」という表現に端的に現れているように、「質料」側は「形相」側を支配しているわけではなく、むしろ上下関係はその逆であるにもかかわらず、後者は前者「のもの」なのだ。所有と呼んで呼べないこともないが、やはり受け容れるとか迎え入れるといった言葉がしっくりくる。哲学用語では「分有」ということになる。一切の所有関係の始点にある所有、というよりも狭義の所有以前の所有である。健康そのものとか知識そのものを単独で考察すればあらかじめ誰かのものと決まってはいない。魂が知ることも、身体が健康になることも、決して自力で成し遂げられることではなく、普遍的な何か(知識そのものや健康そのもの)を授かるという贈与の経験であり、あるいはもしかすると、そのようなものを自分用に切り分けるという略奪の経験であらざるをえないのかもしれない。とにかく、純然たる形相がエネルゲイアとしての性格をあらわにするのは、つねに形相の対極、すなわち個体(知る個人や健康になる個人)のもとにおいてだ。
こう考えてくると、質料と形相の二元論をありとあらゆる分野に及ぼすことでアリストテレスが切り開いた視野の射程がおぼろげに感じ取れるようでもある。
もう少し現代風の発想でそれを整理した試みとして、トマス・アクィナスの注釈を、ラテン語から訳してみる。「アークトゥス」はご覧のとおり音写するにとどめたが、これが一応「現実態(エネルゲイア)」に相当する概念だろう。「能動」も「作用」も同系統の語である(なお「諸能動作用を」は見るからにくどいが、原語の"actiones agentis"がすでにくどいのだから仕方ない)。

例えば〈それによって我々が知る当のもの〉も二重に言われる。というのも二つのものによって我々は知ると言われるからである。それらのうちの一方は学知であり、そして他方は魂である。また同様に〈それによって我々が健康になる当のもの〉も二通りに言われる。それらのうちの一方は健康であり、そして他方は身体のある部分、ないしひいては全身である。ところでいずれの場合でも一方は形相同然であり、そして他方は質料同然である。なぜならば学知と健康は受容者側の形相にしてかつアークトゥス同然だからである。ちょうど学知が学問的なものの形相、すなわち学知のありかであるような、魂の部分の形相であるように、たしかに健康とは健康でありうる身体の形相である。ところで「健康でありうる」・「学問的な」と彼が言うのはそれゆえ、基体におけるしかじかの形相への性向を示して見せるためである。というのも一般に能動者側のアークトゥス、すなわち諸形相は、作用者から質料の中に導入されると、持久するもの・素質あるものの中にあるように見える、これはすなわち〈しかじかの作用者からしかじかの諸能動作用を受容すべく生まれついたようなもの〉の中に、ということであってそのものはまた受動の目的を、つまり〈そこへとそれが―受容することによって―いざなわれていく当の形相〉を達成することへの素質があるものでもあるのだ。(注3)

『魂について』の本文への注釈ということで、内容上は目新しいことが述べられているわけではないのだが、「性向」・「持久」・「素質」等の語彙がありがたい。アリストテレスが使う「第一次のエンテレケイア」よりはこのほうがよほどなじみやすいのではないか。質料側、つまり知る個人や健康になる個人の側は、一方では形相の対極なのだから形相そのものではなく、形相を持ちこたえる立場にあるが(「持久」の側面)、他方で形相はすでに目的として見えてもおり、一貫して質料側を導く(「素質」の側面)。ゆえにここには「エネルゲイア」の過程が成り立つ。個人を超えたものが個人の内に、恣意とは無関係に穿つこの幅ないし奥行を指すのに、素質なり性向なりといった語彙はうってつけだ。
それどころか、この枠組を文字通り個人の生活の域を超えて拡張することで、まがりなりにも生を外部から限定してみせるという離れ業をすらやってのけるのが『魂について』の筆者なのだ。

さて魂とは、第一義的な意味において、「それによってわれわれが生き、感覚し、思考するところのもの」である。したがってそれは、一種の説明規定であり形相であって、素材[質料]でも基体でもないということになるだろう。というのは、われわれがすでに述べたように、「実体[あることの主体]」は三通りの意味で語られるのであり、そのうちの一つは形相であり、もう一つは素材[質料]、そしてもう一つは両者から成る合成体である。そしてこのうち、素材はデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、両者から成る合成体が魂をもつものであるのだから、物体[身体]が魂のエンテレケイアなのではなく、魂がある種の物体[身体]のエンテレケイアなのである。またしたがって、魂は身体を抜きにしては存在しないが、しかしけっして身体の一種と同一ではないと考えるひとびとの判断は正しいのである。つまり魂は身体そのものではなく、身体に属する何かなのであり、そしてこのゆえに、魂は物体のうちに、しかもある特定のあり方の物体[身体]のうちに存在するのである。(注4)

質料と形相の二元論の一つの帰結が、形相へと向かう質料の素質もまた形相が整えるというところに落ち着くとしても、無条件にそれを霊魂論に当てはめてよいものだろうか。この問いはもちろん不当ではない。だがここでのアリストテレスは、知識や健康の場合にはためらいなく使えた「エネルゲイア」という語を避け、やはり「エンテレケイア」という語を使っている。以前から我々が確認しているように、こと生命論の文脈では、「生きること」と「生きていたこと」との重なり合いゆえにエンテレケイアはエネルゲイアに近づくからである。たとえ簡明な命題の形ではないにせよ、アリストテレスによる叙述の順序そのものが、この我々の憶測を裏づけているように思える。
「生きること」がつねにすでに「生きていたこと」である以上、以前「生きていたこと」はいずれは現在「生きること」に至るはずだったのだから、生は定義上それ自身の内に中途半端な奥行を抱えている。これはまた生物というものが、あらゆる自覚に先立って命の贈与を受け容れてしまっている以上、つねに遅れてしかその事実に気づく見込みがないのだから、本来は自分一人のものでありえないはずの形相の世界を我が物として切り分ける原始的な暴力性を引きずらざるをえないということでもある。
しかし、知識の形相を魂が受け容れ、健康の形相を身体が受け容れる場合と、魂という形相を身体(物体―より正確には「可能的に生命に与りうる」種子や果実の類であろう(注5))が受け容れる場合とでは、何かが決定的に違う。それは結局、我々自身が生物(人間)としてこの世に生を享けていることを前提とする文脈と、その前提自体の成立を解明するという文脈との違いだろう。
アリストテレスの筆致は、厳密な意味での素質に関しては第一の引用文の末尾―「なぜなら、作用しうるもののエネルゲイアは、作用を受けて特定の状態にあるものにおいて成立すると考えられるからである」―で済ませてしまい、それに続くいましがたの引用文ではむしろ魂と、魂を宿す身体との紐帯の緊密性をいっそう強調しているかのようだ。身体に対する魂の関係がエネルゲイアじみてはいるが違うように、たぶん魂に対する身体の関係も通常の素質に似てはいるがいささか特殊である。前者の関係が結局エネルゲイアじみたエンテレケイアであり、その意味は生の端的な事実が遡行を許さないにもかかわらず完成であるという逆説に落ち着くとすれば、後者の関係は一体どうなるのか。おそらくアリストテレスは、知識が魂から脱落したり、健康が身体を見放したりすることはあっても、身体と魂との関係はずっと強固で、ちょっとやそっとのことでは断ち切れないと考えているのだ。ゆえに「魂は身体を抜きにしては存在しない」…その代り、身体の懐に穿たれた身体ならざるものの異質性は、こうなれば知識と魂の間、または健康と身体の間の隔たりの比ではない。身体がどれほど己の魂を身近に感じようとも、後者についてアリストテレスは「しかしけっして身体の一種と同一ではない」と注記するからだ…こうして、魂に対する身体の関係は、滅多なことでは解体しない原始的な素質、むしろ狭義の素質以前の素質である、ということになる。
身体は己を完成してくれる魂に慣れなくてはならない。身体にとって己自身(生物の身体)であることを全うするとは、己とは異質な普遍的形相の、己が選んだわけではない己の分け前、すなわち魂に対して「持久するもの・素質あるもの」としてのあり方を磨くということ以外ではないのだ。生の輪郭を超えて質料・形相論が広がった結果、あらゆる生物の生涯には身体の習練という根本的な性格が見出されることになる。


(1)『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)70頁。ただし訳文中の「現実活動態」を「エネルゲイア」に改めた。
(2)水地宗明『アリストテレス『デ・アニマ』注解』(晃洋書房、2002年)228-229頁。
(3)S. Thomae Aquinatis, In Aristoteles Librum De Anima Commentarium, Turin, Marietti, 1948, p.71: "Sicut et quo scimus dicitur dupliciter. Duobus enim dicimur scire: quorum unum est scientia, et aliud est anima. Et similiter quo sanamur dicitur de duobus: quorum unum est sanitas, et aliud est aliqua pars corporis, vel etiam totum corpus. Utrobique autem unum est quasi forma, et aliud quasi materia. Nam scientia et sanitas sunt formae et quasi actus susceptivorum: scientia quidem forma scientifici, idest partis animae, in qua est scientia; sanitas vero est forma corporis sanabilis. Ideo autem dicit 'sanabile et scientificum,' ut ostendat aptitudinem in subiecto ad tales formas. Semper enim activorum actus, idest formae, quae inducuntur ab agentibus in materia, videntur esse in patiente et disposito, idest in eo quod est natum pati actiones agentis a tali agente, et quod est dispositum ad consequendum finem passionis, scilicet formam ad quam patiendo perducitur."
(4)『魂について』(前掲書)70-71頁。訳文中の「可能態」を「デュナミス」、「現実態」を「エンテレケイア」に改めた。
(5)同書64頁。
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アリストテレス『魂について』2 

前回は『形而上学』の検討を通じて、「生きること」は即「生きていたこと」でもあるがゆえに、いわばエネルゲイア化したエンテレケイアとして―エンテレケイア化したエネルゲイア(特に学問的研究)を高く評価するアリストテレスの個人的な好みとは独立に―、両者の一致の特権的な事例たりえているのではないかと考えた。
今回はその続きということで、アリストテレスの霊魂論そのものをのぞいてみたいと思う。

中畑正志訳『魂について』第2章からの引用だ。アリストテレスはまず、実体には三つの意味があり、それは第一に素材もしくは質料、第二に形もしくは形相、第三に両者の結合であるという。

ところでわれわれは、実体[さまざまな「ある」ということの根拠となるもの]をある[存在する]もののうちの一つの類であると語っているが、その実体を、一方では素材[質料]―それ自体では〈あるこれ〉ではないもの―の意味で、他方ではそれとは異なり形すなわち形相―それによって素材がただちに〈あるこれ〉と言い表わされるもの―の意味で語り、そして第三にはこの二つのものが結合されたものの意味で語りもする。

その上で、質料はデュナミス(可能態)、形相はエンテレケイア(完全現実態)と考えることができるが、一般に後者すなわちエンテレケイアには二つの意味を区別できるという。

しかるに、素材とはデュナミスであり、形相はエンテレケイアであるが、しかしこのエンテレケイアにも二通りの意味があって、その一つは「知識の所有」に相当するものであり、もう一つは「知識を行使する[観想する]こと」に相当する。(注1)

エンテレケイアに二種類あるというこの注意書きは後で大切になってくる。
ついでアリストテレスは、実体に関する通念によれば、主たる実体は「物体」、それも人工物ではない「自然的物体」であることに注目し、それをさらに生命のあるものとないものとに大別する。

さて、何よりも実体であると一般に思われているのは物体であり、そのなかでも自然的物体である。なぜなら、それら自然的物体がそれ以外の物体の始原[原理]だからである。だが自然的物体のうちでも、生命をもっているものと、もっていないものとがある。この場合[生命]によってわれわれが意味しているのは、「自分自身による、栄養摂取と成長・衰微」である。したがって生命に与る自然的物体はすべて、実体であり、ただし素材と形相とが結合されたものという意味での実体であるということになろう。(注2)

「したがって」以下の末尾に至って「素材と形相とが結合された意味での実体」という文句が出てくるのは唐突なようだが、これはつまり、「生命に与る自然的物体」という表現が、「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と分解できることから、ここに質料と形相の合成を見出しているらしい。「質料と形相」といえば何やらいかめしい概念装置のようでもあるが、ここだけ取り出せば要は、分析の手がかりとして「主語(質料)と述語(形相)」、あるいは「名詞(質料)と形容詞(形相)」という言語的慣習に訴えているにすぎない。
ここからアリストテレスは、いよいよ「魂」の定義へと進む。

そして、これがまさに一定の性格をそなえた物体、つまり生命をもつ物体である以上は、物体がすなわち魂であるということはないだろう。なぜなら、物体は基体について述語づけられるものに属するのではなく、むしろ基体として、つまり素材として存在するからである。

このとおり、「基体について述語づけられるもの」、すなわち「生命に与る自然的」という形容は、「基体」ないし「素材」、すなわち主語である「物体」とは別ものである。

したがって必然的に、魂とは「可能的に[デュナミスにおいて]生命をもつ自然的物体の、形相としての実体」である。ところで、このような形相としての実体はエンテレケイアである。それゆえ、魂とは以上のように規定された物体[可能的に生命をもつ自然的物体]のエンテレケイアである。(注3)

なお補足の余地はあるものの、これが一応アリストテレスによる魂の最初の定義である。素材もしくは質料はデュナミスに相当するのであったから、「可能的に」という制限が付く。「生命をもちうる」・「生命を(もってはいなくても)もつことが無理でない」ということだろう。
では、「魂」がエンテレケイアであるとして、一体二種類のエンテレケイアのどちらに該当するのか。

ただし、エンテレケイアは二通りの意味で語られる。すなわち一方は「知識の所有」という意味であり、他方は、「知識を行使する[観想する]」という意味である。すると、魂が現実態であるというのは、明らかに、「知識の所有」という意味に相当する。

非常に興味深い考察である。一体なにゆえなのか。

なぜなら、睡眠も覚醒も、ともに魂が存在することを含意しているが、覚醒は「知識を行使する[観想する]こと」に類比的であるのに対して、睡眠は知識を所持してはいるが現に行使してはいない状態に類比的だからである。また、同一の個人においては、知識を所持していることの方が知識の現実の行使よりも生成の順序としてはより先である。それゆえ魂とは、「可能的に生命をもつ自然的物体の、第一次のエンテレケイア」と規定される。(注4)

二種類の「エンテレケイア」の間には、生成の順序、つまり時間的な順序に即した前後関係が成り立つ。そして、知識なら知識の、単なる「所持」に相当するエンテレケイアのほうが、その現実的な「行使」に相当するエンテレケイアよりも先なのだという。この前後関係は、背理法によって証明される。もし後者、つまり知識なら知識の「行使」に相当するエンテレケイアのほうが基本的だと仮定すると、睡眠中の人は皆死人だという不条理な帰結を導き出せるのである。すると「第一次の」とは、他方よりも尊くて優先すべきという意味ではなく、「原初的な」・「基本的な」・「駆け出しの」という意味だろう。

しかし、このように行使に先立つ所持という類比で説明された「第一次のエンテレケイア」なるものには、むしろ「デュナミス」ないし可能態の概念を思わせる性格がありはしないか。にもかかわらずアリストテレスにとっては、「エンテレケイア」の概念を二分してでも、生命ある自然的物体、すなわち生物一般は、質料(デュナミスの側面)と形相(エンテレケイアの側面)との合成でなくてはならなかった。単に自説の体系的整合性を崩したくなかっただけ、という意地の悪い読み方もできるのかもしれないが、ここではもう少しまっとうな理由を考えてもよいのではないか。
アリストテレスが提示した枠組の中で「生命」について考えようとするとエンテレケイアがエネルゲイア化する、あるいはエンテレケイアがエネルゲイアにいわば歩み寄ることになるというのが前回(アリストテレス『魂について』)の結論だったが、これを敷衍してみよう。すると、こと生命に関しては、デュナミスの直後に間断なくエンテレケイアが続く、とも考えうるのではないか。すでにエンテレケイアがエネルゲイア化している以上、デュナミス(可能態)から「エネルゲイア(現実態)を経て」エンテレケイア(完全現実態)に至る、という過程についても、中間の段階を省略することによる圧縮が許される、ということだ。
ゆえに、たとえうわべは睡眠中のように不活発であっても、生物はただ生物であるというだけで皆、欠けるところのない完全現実態(エンテレケイア)にある。いかに小さな生き物も、いかに短い生涯も例外ではない。我々人間と比べればやっとデュナミスから抜け出したばかりに見え、大してエネルゲイアを感じさせない「生命に与る自然的物体」、例えば細菌や昆虫も、すでにデュナミスから抜け出している以上はエンテレケイアに、ほとんどデュナミスと境を接するような第一次のエンテレケイア、最も基本的なエンテレケイアに等しく関与している(そこから第二次のエンテレケイア、本格的な完成にどの程度進めるかはまだ分からない)…何とも基本的な、貧相なまでに基本的な「エンテレケイア」もあったものだ。
この貧相ぶりはもとより何か特定の生き物の体質等に由来するものではなく、だから例えば第一次のエンテレケイアが細菌と人間に共通だからといって、前者が後者の足を引っ張っている(完成度を薄めている)わけではない。むしろ「生命に与る自然的物体」を「生命に与る自然的(=形相)/物体(=質料)」と読み替える、『魂について』の叙述の様式そのものに由来するはずだ。だとすれば「デュナミスから抜け出したばかりの『生命に与る自然的物体』」という表現は、正確には問題含みだったかもしれない。なぜならばもし我々が「生物」というものを包括的に理解したければ、まさに生物として、すなわち「生命に与る自然的物体」として理解するほかないからである。質料抜きの形相を考えることも、形相抜きの質料を考えることも、事実上はほとんど無意味だ。前回すでに分かったように、「生きること」は即「生きていたこと」であるからして、それに先立つはずの「未だ生きていない状態」は生物論の領分には属さないのである。つまりこのかぎりで、魂なき身体とか、身体なき魂とかは、生物論の主題ではありえないのだ。
すでに引用した記述に続けて、アリストテレス自身が生物の器官を検討した結果これと同じ判断を下している。

そこで、魂のすべてにわたって何らかの共通する事柄を語らなければならないとすれば、それは「器官をそなえた自然的物体の、第一次のエンテレケイア」ということになるだろう。したがってまた、魂と身体とが一つであるかどうかを探究する必要もないのであって、それはちょうど、封蠟とそこに刻まれた印形とが一つであるかどうか、また一般的にそれぞれのものの素材とその素材がそれの素材であるところのものとが一つであるかどうかを探究する必要がないのと同様である。なぜなら、〈一〉と〈ある〉とはさまざまな仕方で語られるが、その中心的な意味は、エンテレケイアがそうであるということだからである。(注5)

このいっそう入念な定義を経て、『魂について』の叙述は、ゆえに魂とは斧にとっての「斧であること」そのもの(本質)に、あるいは眼にとっての視覚に相当する、という類比によってその形相としてのあり方を説明しようとしている。この際の眼目は、第一次のエンテレケイアという概念のいわば「デュナミス」的な性格の画定にほかならない。次の引用文によれば、魂という「第一次のエンテレケイア」の喪失は、生きることの可能性(デュナミス)そのものの根底的な喪失に直結するからである。

そこで、部分について成り立つことを、生きている身体の全体に当てはめて理解しなくてはならない。というのも、視覚という感覚の部分と眼という身体の部分との関係は、感覚全体と感覚する能力をそなえた―そのように特定されるかぎりでの―身体全部との関係に対して類比的だからである。ただし魂を失ってしまったものは、生きることへのデュナミスにあるもの[生きることが可能なもの]ではなく、むしろ魂をもっているものがそうなのである。また、種子や果実は、可能的にそのような物体なのである。(注6)

こうして、そもそも遡行することが無意味で無駄な局面であるにもかかわらず、質料と形相の対という遡行用の概念が与えられた結果、あらゆる種の生物がただ生きているだけで、つまりはそれ自身であるだけで、すでに何がしかの完成を成就していると主張する資格を得る。その程度に関してはおそらく、複数の種を比較したところで差はない(昆虫は人間と比べて半分の生命に、細菌は同じく四分の一の生命に与っている…などと考えるのは馬鹿げている)。魂があるものとしての生物の秩序の外には、せいぜい種子や果実があるだけで、これらを生物として劣等だとは呼べない。
第一次のエンテレケイアは、共通だから最小限なのではなく、最小限だから共通なのだ。「生命に与る・器官をそなえた自然的物体」、すなわち生物が存在するという端的な事実が、それ以前の諸段階、すなわち身体なき魂あるいは魂なき身体という仮定から、生物学者が真剣な考慮を払うに値するだけの現実性を即座に排除する。この意味でそれは最初から絶対的な完成であり、比類のない奇蹟である。アリストテレスの霊魂論が設けた二種類のエンテレケイアの区別は、生命というものの手の付けようのない単純さを、まさしく還元不可能な眩さの中で肯定するのに役立つ。生物が存在するや否や、そこには行使なきエンテレケイアが成り立っており、すでに無条件の完成があるのだ。

こうして、一方では切断作用や見る活動がエンテレケイアであるのと対応する意味において、覚醒していることもまたエンテレケイアであるが、他方では視覚能力や道具の能力がそうであるのと対応した意味において、魂はエンテレケイアなのである。これに対して、身体はデュナミスにあるものである。しかしながら、瞳と視覚能力とで眼が成立するように、先の場合でも、魂と身体とで生物が成立するのである。(注7)



リルケは『ドゥイノの悲歌』の「第九の悲歌」で、「なぜに人間の生を負いつづけねばならないのか」と問うて「この地上に存在するということはたいしたことであるからだ」と自ら答え、「それゆえわれわれはひたむきにこの存在を成就しようとする」と歌った(注8)。
こんな詩句のことも念頭に置きつつ、引き続き『魂について』におけるエンテレケイアとエネルゲイアの関係を素人なりに考えていきたい。


(1)アリストテレス『魂について』(中畑正志訳、京都大学学術出版会、2001年)60頁。なおこの翻訳では、「デュナミス」、「エネルゲイア」、「エンテレケイア」の訳語は、順に「可能態」、「現実活動態」、「現実態」なのであるが、引用に際して改めさせていただいた。
(2)同書60-61頁。
(3)同書61-62頁。
(4)同書62頁。
(5)同書62-63頁。
(6)同書64頁。
(7)同上。
(8)リルケ『ドゥイノの悲歌』(手塚富雄訳、岩波文庫、2010年改版第1刷)69-70頁。

category: アリストテレス

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アリストテレス『魂について』 

突然ですがアリストテレスの霊魂論におけるエネルゲイアとエンテレケイアについて、無知をかえりみず思いつきで連載をしてみます。
うまくいけば、たぶん虚構について考える上で何らかの手がかりになるはず。

哲学の世界には、かのアリストテレスが愛用したことで名高い「デュナミス」と「エネルゲイア」との概念的区別というものがある。デュナミスは「可能態」、エネルゲイアは「現実態」と訳されることがある。さらにこの両者に加えて「エンテレケイア」なる概念もあり、こちらは「完全現実態」などと訳される。
碩学今道友信の説明を拝借すると、まず前二者に関してはこうある。

アリストテレスは、前にも度々述べたごとく、生物学特に動物学の領域において広く研究を重ねた学者である。ところで、動物とは生の動態を抜いて考えることのできない存在者である。それゆえ、動物学で鍛えた彼の眼力には、物の動的な見方、ダイナミックな把握がある。従って、アリストテレスは、事物一般に対して、その誕生や成長や衰退や死滅、要するに生成消滅の変化という動的な状態を見落とすことがない。赤子は子供となり、そこで赤子のときに潜在的に持っていた言語能力や歩行能力がその可能的な状態から現実化されてくる。そのような子供が成人となり、そこで子供のときに潜在的に持っていた生殖能力や思索能力が、その可能的な状態から現実化されてくる。このようなことを考えてみると、宇宙はさまざまの変化に満ちているが、その変化は、いずれも変化する可能性のないものから現在の姿に変化しているのではなく、変化する可能性(dynamis)のあるものが現在の姿に現実(energeia)化しているのであると見なければならない。それゆえに、アリストテレスは、個体の状況につき、デュナミス(力すなわち可能態)からエネルゲイア(働きすなわち現実態)へという動的な図式を考えたのである。(注1)

アリストテレス自身は、デュナミスに関しては木材の中に神像が、線全体の中にその半分の長さの線があると言われ、また研究の能力がある者は現に研究活動中でなくても学者と呼ばれるような事例を挙げており、対してエネルゲイアに関しては、この場合だと像そのもの、半分の長さの線そのもの、現に研究活動中の学者等を例に挙げている。デュナミスとの対比におけるエネルゲイアは現在進行形と現在完了形とを同時に含む。
しかしエンテレケイアは、もはやデュナミスのように未発達でもなければ、エネルゲイアのように道半ばでもない、究極的な完成に達した状態を指すらしい。

尚、アリストテレスは、完全な現実態としてエンテレケイア(entelecheia)という概念を構成した。それはギリシア語で“テロス(telos)において(en)ある(echein)”ことであり、テロスとは目的ないし終局であるから、エンテレケイアとは完全な目的論的終局に到達している状態ということである。これは、動物に即して言うならば、子供を生む能力、すなわち雌雄それぞれの仕方で生殖の能力が備わった段階を成長の一応の完結とみなし、その個体の生物としての成長目的を達した状態と考えている。そして、これに類比的に生物現象以外にも、生成の完結、生成の頂点をエンテレケイアという言葉で表わしている。前に述べた現実態、可能態の対立が、類比的、便宜的、相対的であるのに対して、エンテレケイア(完全現実態、円現)はいわば絶対的であって、そこからはそれ以上の展開があり得ないようなそういう状態のことである。(注2)

ということで、一見すると三つの概念はごく整然と区別されており、何も問題はないかのように思える。
だが実は、必ずしもそうではないらしいのだ。デュナミスについてはさておくとして、エネルゲイアとエンテレケイアを、アリストテレス自身がまるで同一視しているかのような記述が散見されるからである。例えば「エンテレケイア」という語そのものこそ出てこないが、『形而上学』第9巻第6章には、こんな文章がある。

諸々の行為のうち、限りのある行為は、(1)いずれの一つも目的〔終り〕そのものではなくて、すべてその目的に関するものである、たとえば、痩身にすることの目的は痩身である、しかるに、(2)痩せる身体部分そのものは、痩身にする過程においてあるかぎり、運動のうちにあって、この運動の目的を含んではいない、それゆえに、(3)痩身にすることは行為ではない、あるいはすくなくも完全な(テレイア)行為ではない(なぜなら、それは終り(テロス)ではないから);ところが、行為〔すくなくも完全な行為〕は、それ自らのうちにその終り〔目的〕を含んでいるところの運動である。

では、完全な行為、つまり「テロス(目的・終り)」をそれ自身の内に含む行為とは、具体的にはいったいいかなるものか。

たとえば、ひとは、ものを見ているときに同時にまた見ておったのであり、思慮しているときに同時に思慮しておったのであり、思惟しているときに同時に思惟していたのである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終ってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終ってはいない。よく生きているときに、かれは同時にまたよく生きていたのであり、幸福に暮らしているときに、かれは同時にまた幸福に暮らしていたのである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった。そこで、これらの過程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである。(注3)

つまり、「テロス(目的・終り)」をそれ自身の内に含み、それゆえに完全な行為とは、「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」、さらには「よく生きる(よく生きていた)こと」、「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」等であり、これらが「エネルゲイア(現実態)」として、「運動(kinesis)」つまり健康になることや学習することや痩せることに対立するのである。
ここで気になるのは列挙の順番だ。仮にいましがた整理したとおりの順番で五つの「エネルゲイア」と三つの「運動」が列挙されていれば、叙述はずいぶんすっきりしたものになっていたはずである。にもかかわらず実際には、三つの「エネルゲイア(現実態)」、つまり「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」の列挙の後、「これに反して」という表現とともに対照的な「運動」の具体例が二つ(「健康になること」と「学習すること」)割り込んできてから、改めて「よく生きる(よく生きていた)こと」、「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」が「エネルゲイア(現実態)」の例として続き、かつ「痩せること」という「運動」との対比を形作るのである。
このような順番になっていることには、何か理由があるのだろうか。ひょっとすると何の意味もないのかもしれない。それにそもそも、現在あるようなアリストテレス著作集は後世の編纂者の尽力で成立したものである。それでもあえて、著者の意図が何がしかこの順番に反映していると考えるとすればどうなるか。思うにここには、エネルゲイアを運動との対比で定義していく中で、ことさら「よく生きる(よく生きていた)こと」と「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」を強調するという狙いがあるのではないか。
事実、引用文の末尾の「一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである」の後には、「けだし、およそ運動は未完了形(アテレース)である」という断定とともに、歩行や建築、生成や動きなどさらなる事例が続き、結局、「見る(見ていた)こと」や「思惟する(思惟していた)こと」のように、現在進行形と現在完了形とを同時的に含むのがエネルゲイアで、そうでないのが運動だ、という区別の確認をもってこの章は終わるのである。叙述の一番肝心な部分は、先の引用文の末尾までで尽きている、という印象だ。

ところで、以上のように考えられた場合のエネルゲイアは、ほとんどエンテレケイアと異ならないのではないか。というのも、すでに今道さんによる説明にもあったように「エンテレケイア」の語源は「テロス(目的)においてあること」であり、かつさきほど引用した文章の中でアリストテレスは、「運動」と比べたときの「エネルゲイア」の特長として、まさしく「それ自らのうちにそのテロス(目的・終り)を含んでいる」ことを考えているからだ。
もちろん、両者の意味内容が初めから同じであるわけはなく、例えばやはり『形而上学』によれば「現実態(エネルゲイア)という語も、働き(エルゴン)という語から派生し、完全現実態(エンテレケイア)を目指しているのである」(注4)ということだが、しかしすでにこの説明からも明らかなように、エンテレケイアはエネルゲイアの果てに待ちかまえる境地なのである。してみれば両者が一致するような状況を考えることに何ら無理はない。この点につき、『形而上学』の翻訳者である出隆は次のような説明を訳注で与えている。

「完全現実態」または「完現態」と訳されるアリストテレスの用語‘entelecheia’は、語源的には、‘telos’(終り・目的)、‘en telei echein’(目的においてある)、‘enteles’(完了・完成・完全)などと関連した意味をもつものとみられ、これに対して、「現実活動」「現実性」または「現実態」と訳される‘energeia’は、‘energein’(活動する)、‘ergein’(働く)、‘ergon’(働き)などと関連した意味の語とみられる。このかぎりでは、前者「エンテレケイア」が、或る転化過程の完了した状態、その転化の終り(テロス)に達してその目的を完成している状態を表わすのに対し、後者「エネルゲイア」は、より多くその転化の過程、転化する現実の働き、現実活動の側を表わすものと言えよう(そしてこの意味で用いられている場合には「現実活動」という訳語がふさわしい)。しかし、実際には、多くの場合、エネルゲイアはエンテレケイアと同義的に用いられ、また逆にエンテレケイアもエネルゲイアと同義的に用いられている。けだし、「働き」という日本語でも(またドイツ語のWirkung, Wirklichkeitでも)そうであるように、その活動過程の側と活動結果の側とは、実際にはそう簡単に区別されないからでもあろう。(注5)

非常にもっともな指摘である。ただし出さんは続けて、「その現実の活動が常に同時にその完成態であり、その動詞の現在形(現在進行形)が現在完了形でもあるような活動」、すなわち「活動それ自らがその終り・目的でもあるような活動(活動というよりもむしろ全くの静止)―を優位に置くアリストテレスの立場」がこの傾向をいっそう助長したという旨のことを述べ、さらに別の訳注でもこのような、学問的研究を典型とする自己完結的・自己充足的な活動に関して、「もはや活動とも行為(実践)とも呼びえない全く非現実的・非実践的な静止ではないか」という疑問を突きつけている(注6)。書き手の政治的な信念が露骨すぎるかもしれないが、これはこれで一種の卓見であろう。

しかし、さきほどの『形而上学』第9巻第6章からの引用文は、「よく生きる(よく生きていた)こと」と「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」とを、何やら妙な位置に並べて特別扱いしていた。ここを読むかぎりではどうも、単なる実践嫌いの貴族趣味とは別の原理が働いた結果として、アリストテレスにとってこの両者が特権的な「エネルゲイア」の事例たりえているのではないか、とも思えてくるのである。
私の疑問は、同じく「エネルゲイア」と「エンテレケイア」とが一致するといっても、そのあり方が一様とは限らないのではあるまいか、というものだ。つまり「見る(見ていた)こと」、「思慮する(思慮していた)こと」、「思惟する(思惟していた)こと」であれば、いずれもいわば理論的・学究的な活動の一種と呼べそうだから、出さんが批判したような意味で「エネルゲイア」が「エンテレケイア」の色に染まるというか、両者が重なることは納得がゆく。しかし、「よく生きる(よく生きていた)こと」や「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」の場合でも、事情は変わらないのか。この種の「活動」をも実践的でなく理論的と呼ぶことは妥当でなさそうだし、「そうでないなら、この生きる過程は、痩身への過程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実際にはそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった」という注意書きも気になる。
というのもこの注意書きに至ってとうとう、「よく」とか「幸福に」とかの限定的な副詞すらも脱落して、ただ「生きること」が、それ自身の内に「目的・終り」を含んでいるからこそ、いかなる外的な目的をも達成することがなく、いかなる外的な終点にも到達することのない、そのかぎりで無制限な(制約を受けぬ)過程として切り出されてくるからだ。自己充足性・自己完結性という点では同じでも、このようにいかなる外的な目的をも達成せず、いかなる外的な終点にも到達しないという観点から把握された場合の「エネルゲイア」(エンテレケイアを兼ねるものとしてのエネルゲイア)は学問的研究の豊かさとはおよそ無縁で、むしろそれとは正反対の極限的な貧しさを感じさせる。あるいは、これ以上もはや何ものにも還元できない、単純にして精悍な生命そのものの輝きを。
してみれば「エネルゲイア」と「エンテレケイア」との一致には少なくとも二通りあって、「よく生きる(よく生きていた)こと」や「幸福に暮らす(幸福に暮らしていた)こと」という事例では、むしろ「エンテレケイア」のほうが「エネルゲイア」化しているのではあるまいか。元来は究極的な、完全なる現実態であるはずの前者が、元来は道中にすぎぬはずの後者に自らの特性を授け、こうしてどんなに短い生涯にも、その中のどんなに短い瞬間にも、成就という性格を不断に与えるのである。
ここには「生命」というものの不思議さが潜んでいるように感じられてならない。きっと、良くも悪くも骨の髄まで学究肌だったアリストテレスの基本的な姿勢は、出さんの批判するとおり高踏的な貴族趣味だったのだろう(専門家の意見は聞くものだ)。ゆえに現在完了形を兼ねる現在進行形としてのエネルゲイアの典型は、学問的研究でなくてはならなかったのだろう。だがそれにしても、『形而上学』のこのくだりでは、そのような基本的な姿勢から紡ぎ出されてくる文の運びの中に、生命それ自体の本質に根ざす別種の事情、「生きること」が即「生きていたこと」でもあるという事情が入り混じることでそこはかとない乱調(列挙の奇妙な順番)を招いているように思えるのだ。

少し長くなったようだから今回はここまでにしたい。
以上を前提に、次回は『魂について』の本文の検討に入る予定であります。


(1)今道友信『アリストテレス』(講談社学術文庫、2004年)130-131頁。
(2)同書132-133頁。
(3)アリストテレス『形而上学(下)』(出隆訳、岩波文庫、2004年第41刷)34頁。
(4)同書42頁。
(5)同書251頁。
(6)同書257頁。

category: アリストテレス

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