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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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山内志朗『存在の一義性を求めて』 

「存在」は、無限なる神について語られる場合と、有限なる被造物について語られる場合とで、同名同義である―これが、13世紀の後期スコラ哲学を代表する精妙博士ことヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus, 1265/66-1308)が唱えた、名高い「存在の一義性」の思想である。
現代人の感覚からすれば一見陳腐にも思えるこの主張だが、存在はアナロギア(同名異義と同名同義の中間)的に語られるというそれまでの常識には逆らうもので、きわめて革新的な説であった。山内志朗の『存在の一義性を求めて―ドゥンス・スコトゥスと13世紀の〈知〉の革命』(岩波書店、2011年)が目指すのは、アヴィセンナやガンのヘンリクスといった先達がスコトゥスに与えた影響を追いながら、彼が取り組んだ形而上学の全般的な改革の姿を描き出し、存在の一義性というものを、いわばその総称として捉えなおす試みにほかならない。
たびたび強調されているのは、スコトゥスの関心は―神学者である以上、ある意味で当然のことながら―現世の人間知性による、神の自然的認識の可能性に向けられていたということである(「自然的」とはこの場合、恩寵や照明の助けを借りずに、ということを意味する)。しかるに無限なる神と有限なる被造物との間には、途方もない落差がある。スコトゥスがそれを承知の上であえてこの課題に挑んだことは、急峻な断崖をよじ登るのにも似た苦闘の連続だったのであり、そしてそれゆえ、ドゥルーズのように存在の一義性を位階秩序の破壊として理解したがるのは正しくない、とされる。

 ドゥルーズは、スコトゥスにヒエラルキーの破壊を見ました。つまり、存在の一義性に、ヒエラルキーの破壊、境界のないノマド(遊牧民)の発想を見出しました。すべてのものは存在であり、一義的であるとは、確かに境界を取り除いた、遊牧民の世界を思い起こさせるテーゼかもしれません。
 しかし、スコトゥスの思想はそのような平地の思想ではありません。むしろ、断崖絶壁を登攀しようとする思想に私には見えます。(注1)

私としては、著者のこうしたドゥルーズ批判には若干の違和感を覚える。というのも、そもそもドゥルーズにとって、スコトゥスは存在の一義性の提唱者ではあっても、完成者ではないからだ。『差異と反復』第1章を見ればわかるように、ドゥルーズが存在の一義性の名のもとに考えているのは、スコトゥス(13世紀)に始まり、ついで「神即自然」というスピノザ(17世紀)の定式を経て、ニーチェ(19世紀)の永遠回帰に至ってようやく完成をみるような、西洋哲学史を貫く息の長い系譜である(注2)。したがって、存在の一義性が、スピノザやニーチェの場合と比べて、スコトゥスにおいては(まだ)それほど「ノマド(遊牧民)」的でも「平地」的でもないとしても、そのことはドゥルーズへのこうした批判を正当化してくれる理由としては十分でない。実際、『スピノザと表現の問題』におけるドゥルーズは、あくまでも「神学者」であったスコトゥスのもとでは、一義的存在は神への遠慮から単に中立的・中性的であるとされるにとどまり、それ自体として肯定されることがない、という問題点を指摘しているのである(注3)。いわんや山内自身が、その後の著書において、一方では「存在の一義性には、存在論における遊牧民の家畜達が、〔中略〕ヒエラルキーを破壊するということは何ら含意されていない」という文に続けて、「ドゥルーズもこのことには十分に気づいていた」(注4)などと、いましがた引用したくだりとは食い違うことを素知らぬ顔で書き、他方ではドゥルーズの主張する、「存在」は差異それ自体について述語づけられるという見解の中に、強度としての個体化というスコトゥスの考えが生きていることに注意を促しつつ、まるでことさら両者を近づけようとするかのように「スコトゥスは、一義性概念をノマド化したのだ」(注5)とも述べているのを読むと、なおさら先のドゥルーズ批判は結局勇み足にすぎなかったのではないかという思いが強くなる。
スコトゥスが行った改革の中でも特に山内が力を込めて論じるのは、「存在」、「一」、「真」、「善」、「事物」、「あるもの」といった、形而上学の主題となる、超越概念の領域の拡張である。超越概念はそれらの間で互換的であり、カテゴリーへの分割に先行するとされる。スコトゥスはそこに、神と被造物に共通であると考えられた純粋完全性(知恵や正義)、さらには離接的様態を追加することで、超越概念の大幅な拡張を試みた。
離接的様態(passio disiuncta)とは、「先なる‐後なる」、「独立的‐非独立的」、「必然‐偶然」、「絶対的‐相対的」、「無限‐有限」、「現実的‐可能的」、「単純な‐合成された」、「一‐多」、「原因‐結果」、「帰結作用‐帰結」、「凌駕する‐凌駕される」、「実体‐偶有」、「同一‐差異」、「等‐不等」など、要するに「Aまたは非A(A∨¬A)」の形で表される一連の対のことで、どの対を見ても、二つの項を合わせると存在の全域を覆うことから、超越概念に組み入れられたのだという。そしてスコトゥスにとっては、この離接的様態こそが、存在の一義性とあいまって、神と被造物とを媒介する絆なのである(注6)。神は「無限なる実体の海」、すなわち一なるものでありながら、しかも被造物にあっては分散しているあらゆる完全性を、可能なかぎり最も卓越した仕方で自らの内に含む無限存在なのであり―無限といってもこの場合は、決して全体を構成することがない量的無限ではなく、内包的無限、すなわち力における、度における無限である―、そしてそのように、存在は「一‐多」や「無限‐有限」といった離接的様態を融合的に含む(注7)。そのことを確認しながら、山内は珍しく語気を強めて、ドゥルーズからの離脱を決行しようとする。

ともかく、概念における平坦な地平を切り開くのが存在の一義性ではなく、案外険阻な小径を謳うのが存在の一義性だったのかもしれません。ドゥルーズが謳うようなノマド(遊牧民)の論点はひとかけらもないのです。ここでこそ私はドゥルーズから解脱できるのです。(注8)

しかし、さきほどの批判と同様、これも私にはいささか性急な判定であるように思えてならない。なんとなれば、離接ないし選言を表す「または(あるいは、さもなければ)」がそれ自体として肯定の対象になるというのは、例えば『意味の論理学』に収められたクロソウスキー論を読めばわかるように、これはこれでまぎれもなくドゥルーズ的な発想であるからだ。排除的でなく包含的に用いられ、蝶番のように機能することで両項をつなぐ、肯定的な距離としての「または」、『アンチ・オイディプス』はそれに「離接的総合」という名を与え、分裂症者の生きる世界に即して、以下のような説明を試みている。

ところが、思うに分裂症はオイディプスの外にあるものについて特異な認識を開き、離接的総合の未だ知られざる力を、もはや排他的、制限的ではなくて、まったく肯定的、無制限的、包含的な内在的使用を発見したのである。離接はあいかわらず離接的ではあるが、しかし離接の諸項をすべて肯定し、諸項の間の距離を超えてこれらの諸項を肯定し、諸項はたがいに制限しあうことも、排除しあうこともない。このような離接は、おそらく最高のパラドックスであろう。「あれか、これか」の代りに、「あれであれ、これであれ」が登場することになる。分裂症者は、男性にして女性であるのではない。彼は男性あるいは女性なのである。しかし、彼はまさしく男女両方に属していて、男性たちの側面では男性であり、女性たちの側面では女性なのである。〔中略〕分裂症者は、生者または死者であって、同時に両者であるわけではない。むしろ、彼は、両者の距離の一方の端において、両者のうちのいずれかであり、この距離を滑りながら一方から他方へと飛び移る。彼は子供あるいは親であって、同時に両者であるわけではない。むしろ、彼は、分解不可能な空間の中にある棒の両端のように、他方の端において一方であり、一方の端において他方なのである。〔中略〕離接が包含的になると同時に、距離でさえも肯定的なものとなる。〔中略〕彼はあいかわらず離接の中にあり、そこにとどまっている。彼は、もろもろの矛盾を深めることによってこれらを同一化し、離接の働きを消滅させるのではない。反対に彼は、不可分の距離を飛び移りながら、離接の働きを肯定するのだ。彼は単に〈男女両性〉でもなければ、男性と女性との間に存在するのでもなく、また〈中性体質〉でもなく、横断的性なのである。彼は横断的生死であり横断的親子である。彼は、二つの対立項を相互に関係づけるものとして、二つの項の間の距離を肯定する。(注9)

もちろん、ドゥルーズはスコトゥスではない。両者の違いは、神とは畢竟選言三段論法の主宰者であるというカントの洞察をそれ自体としては認めつつ、しかもクロソウスキーの力を借りて、もはや排除的・制限的でない選言の使用へと、発散や差異を純粋な肯定の対象とすることへと赴くドゥルーズが、神の死、そしてそれに伴う自我の解体という結果を喜んで引き受けるときに、隠しようもなく露呈する(注10)。しかしこの歩みとて、カントやクロソウスキーの神学的素養の中に脈々と流れ込んでいる選言の空間への関心、スコトゥスその人に由来するかどうかはともかく、スコラ哲学の伝統を引き継いでいることは間違いない関心がなければ、はたして可能だったかどうか。実際、諸物のあらゆる可能的述語を己の内に包括する、実在性の全体としての神、選言の操作によってそれに制限を加えることでいかなる物についても全き規定を導出することができるような、超越論的理想としての神について論じるときのカントの筆致には―「それというのも、こうした実在性のいくつかのものはその物に付加され、だが、その他のものは排除されるが、このことは、選言的大前提のあれかこれかと合致し、および小前提におけるこの分割の諸項の一つによってその対象を規定することと合致する」(注11)―、一にして単純でありながら無限の多様性を潜在的に含む、スコトゥスの「無限なる実体の海」を思わせるものがなくもない。
本書における山内の立場から見て歓迎すべきことなのかどうかはわからないが、おそらくドゥルーズとスコトゥスの間は、彼が思っている以上に近いのだ。


(1)山内志朗『存在の一義性を求めて―ドゥンス・スコトゥスと13世紀の〈知〉の革命』(岩波書店、2011年)213頁。
(2)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)117-124頁。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(工藤喜作・小柴康子・小谷晴勇訳、法政大学出版局、2004年第6刷)59頁。
(4)山内志朗『「誤読」の哲学 ドゥルーズ、フーコーから中世哲学へ』(青土社、2013年)50頁。
(5)同書53頁。
(6)山内志朗『存在の一義性を求めて―ドゥンス・スコトゥスと13世紀の〈知〉の革命』(前掲書)270-272頁。
(7)同書102-109、224、239、273頁。「無限なる実体の海」というのは、ダマスケヌスに由来する表現にスコトゥスが手を加えたものだという。
(8)同書273-274頁。
(9)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 上』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)148-150頁。
(10)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)212-214頁。
(11)イマヌエル・カント『純粋理性批判 中』(原佑訳、平凡社ライブラリー、2005年)387頁。引用に際して、表記を一部改めた。ほかならぬこの文を、ドゥルーズは『意味の論理学 下』(前掲書)213頁で参照している。
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category: ドゥンス・スコトゥス

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