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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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アドルノ『ミニマ・モラリア』 

『ミニマ・モラリア』〔Minima Moralia〕なる書名は、アリストテレスに帰せられる『大道徳学』〔Magna Moralia〕をもじったものらしく、あえて訳せば小さな、否、「最小の道徳学(道徳論集)」ということになるのだろう。亡命中のアドルノが第二次世界大戦末期から戦後にかけて綴った断章の集積であり(その数は、長短合わせて153篇に上る)、一見些事とも思える身近な具体的経験を手掛かりとして、意外な角度から同時代の社会の病理に切り込んでいく姿勢に特色がある。もっぱら微妙な曲折を描く息の長い総合文(ペリオーデ)の連続から成り立ち、ほとんど改行を挟まぬ圧縮された叙述の中で、社会批判はもとより、哲学(特にヘーゲル的な弁証法)や美学(特に音楽美学)などアドルノならではの多様な関心が縦横に交錯する様はなかなかに読み応えがあるし、結局著書として実現をみることはなかったものの、晩年に至るまで彼が温め続けていたという道徳哲学の構想を推し量る上でも欠かせない文献だろう。各断章の間の内容的な一貫性は乏しく、ましてや人目を引くような立派な主題による総括があるわけでもないが、「全体は真ならざるものである」(注1)という名高い警句のとおり、そのような散漫さは意図的なものであり、それ自体が真摯な倫理的決断を反映している。
ただ、随想的な体裁を採用した結果としての偏狭さ、独善というものか、論の展開に恣意的な強引さが目立つ一方でとかく自分の意に沿わぬもの、一目見て好ましい趣味と思えぬものは頭ごなしに断罪することになりがちな点は気になる。いや、そのような方法論上の問題点については著者自身も先刻承知の上で、ことあるごとにむしろそれこそ強みであり、「客観性」や「正当性」への固執はかえって思想の枯死を招くという趣旨の主張(注2)を繰り返すのだが、それにしても、「現今の鉄道では昇降用のタラップが引込み式になっている。この事実が乗客に示唆しているのは、高い料金を取られる特急の場合でさえ、鉄道会社の強制的な指図に囚人のように従わねばならぬということである」(注3)とか、「街頭で美女の笑顔を使った練歯磨の広告を見かけるとき、注意深い目は雇われて白い歯をむき出した笑いのうちに拷問の苦しみが隠されているのを見逃さないだろう」(注4)とかの文章は、はたして本気で受けとめてよいものかどうか。なるほど、いまなお「無反省に大きなものを尊ぶ野蛮な風習」に囚われたままの哲学者はまるで「作品の尊卑と作品の獲ち得る名声は描かれた題材の高下で定まる」と信じて疑わない「ヘボ絵描き」そっくりだという皮肉(注5)には一理あるが、だからといって牛刀を以て鶏を割くような趣のある無骨な書きぶりがその分望ましくなるわけでもあるまい。もちろん、啓蒙が進んだはずの西欧文明がそれにもかかわらず野蛮な全体主義の擡頭を許してしまったという逆説や、生活の隅々に至るまで余すところなく管理の対象となり、画一化されてゆく現代社会においては、人間性は硬直をきたし、尊厳を失って解体に向かうほかないという問題に加えて、資本主義がもたらした効率一辺倒のいびつな価値観、個人の自律性を剝奪する文化産業の牢獄、そして粗雑な実証主義の蔓延に伴う知性の貧困化など、アドルノが批判していることはどれも、基本的には絵空事でない現実的な危機であるに違いないが、統計をはじめとする一般に合理的とみなされるような調査手段を、これもまた批判されるべき対象であるという理由であっさり退けてしまうとともに、身辺の気に食わぬ事物なり人々なりのちょっとした観察、または不快な個人的思い出の記述から出発しては、裁判官よろしく毎度「社会全体が狂っているときに正しい生活というものはあり得ないのである」(注6)という式の判決で締めくくるという流儀は、思考の粘り強さだけではなくて、同時に単調さ、ひいてはまた傲慢さをも示すものでありうる。
こういう指摘はアドルノの目から見れば、まことしやかに体制への順応を説く、悪しき物わかりのよさにすぎないのかもしれない。しかしながら、アメリカの自然の欠点として「人間の手の痕跡が残されていないこと」(注7)に文句をつけるとか、あるいはまた、宿泊客への配慮はそっちのけで施設それ自体の円滑な機能を優先する新式のホテルへの批判はよいとして、返す刀で読者に「プラーハの『青い星』やザルツブルクの『オーストリア館』のような昔流のホテルの方を好もしく思わない人がいるだろうか?」(注8)と問いかけるとか、少年時代に受けた仕打ちの意趣返しとばかりに回想の中の粗暴な学友たちを「ファシズムの先鋒」(注9)呼ばわりするとか、その他この種の筆致からは、ややもすれば「こんなにも繊細な私のような人間が、こんなにも不当な扱いを受け、流亡の暮らしの中で苦汁をなめることを余儀なくされている」という自己憐憫の呟きがにじみ出てくるようで痛々しい。こうしたくだりはもちろん、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、ヨーロッパの伝統あるホテルを知る機会などついぞなかった者や、昔はアドルノをいじめた学友の同類だったがその後ゆえあって読書家に変わり、好んで思想書を手に取るようになった者のことなどはなから眼中になく、読者として想定していないはずである。のみならず、「今日の世界を蔽いつくしている愚鈍さにしても―そのために現代人は自分たちの住んでいる世界の仕組みが気違いじみていることに気づかないでいるのだが―」(注10)のような罵倒の猛々しさに接すれば、おそらく誰しも、状況がいかに絶望的かということの認識よりも先に、苦境にもまれる中で露呈した著者アドルノの気質の抜きがたい子供っぽさをまず感じずにはいられまい。当時の彼の境遇を考えれば無理もないとはいえ、単純に本としての完成度を問うなら、やはり『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマーとの共著)、『否定弁証法』、『文学ノート』、『美学理論』、および質量ともに無視できない本格的な音楽論の数々をしのぐほどのものではなさそうである。それにマルクス主義や精神分析についての理解も通り一遍の図式的なものの域を出ず、前者からはせいぜいごく基本的な語彙を流用するために借用するにとどまり、また後者に対しては自由連想法が思弁の主体性の放棄につながるとか(注11)、藝術は昇華の産物であるという説明は―この概念(「昇華」)は世間への追従を含意するので―認めがたい(注12)とかの、あまり的確とも思われぬ思いつきのような難詰に走っているのも物足りない。
大体、この手の随想的な文章の書き手としては、アドルノは盟友ベンヤミンに及ばないと私は感じる。着眼の鮮やかさはもとより、性急な抽象化によって平板な意味へと還元されてしまうのではなしにそれ自体が一種カフカ的な謎めいた存在感を保つ寓意的な形象や小話の数々、大胆にして明快ながら問題を安直に割り切るためではなくて徹底的に考え抜くために設定される二元論、それに諸々の相反する要素―逸話的なものと本質的なもの、個別的なものと理念的なもの、世俗的なものと神学的なもの、一回限りのものと永遠的なもの、等々―を弁証法的に重ね合わせて新たな見地を切り開く手腕など、ベンヤミンの散文の美点を数え上げればきりがないが、特筆すべきはやはり、決して一本調子に陥ることのないそのしなやかな歩み方だろう。それを支えているのは、単なる伝達の道具にとどまらぬ絶対的な媒体としての言語そのものに彼が寄せる、哲学的な関心と揺るがぬ信頼の念である。その飄々とした風格は、他人の中に同情を喚起したいとか、自分のことを尊敬させたいとかのさもしい魂胆とはおよそ縁がないし、ここぞという瞬間を見計らって論の運びが急旋回を遂げるときの絶妙な呼吸や、行間に招き入れられた読者に立ち止まって沈思するよう促す頻繁な中断や省略もこれでこそ真価を発揮するというものだ。『ミニマ・モラリア』を読んでいる間、せめてこの才気のいくぶんかでも著者が分かち持ってくれればよいのにと思ったのは、一度や二度ではない(注13)。
ただ、鎧のような堅苦しい(というより、さも堅苦しそうに装った)批判の隙間から、いかなる同一化を強いる暴力からも、いかなる画一化を目指す脅迫からも自由な境地が、狭義の倫理の領域のみならず思考や藝術の営みにとっても理想であるようなものとして、さながら荒廃しきった現状という名の「鏡文字」(注14)を反転させたかのように、ときおりふと顔を覗かせる。より正確には、そのような境地―「なんの不安もなしに他と異なっていられるような状態」(注15)―への憧れが、と書くべきであろう。そしてもしかすると、本書の隠れた魅力はこの点に存するのかもしれない。「人間の間が疎遠になったことは、まさしくお互いを分けへだてる距離がなくなったことにあらわれている。なぜなら間に距離があってこそお互いを結びつけるこまやかな糸をはりめぐらす余地もあるのであり」(注16)云々とか、「身近な人間が本当は自分から遠い存在であるのを認め、その事実を念頭に置くことによってのみ疎遠感も柔らぐのである」(注17)等の見解は、機械化の進展によって人間の身振りからためらいや慎重さが一掃されてしまうのを憂えながら自動車や冷蔵庫の扉を引き合いに出したり(注18)、「本当に贈り物をする場合の喜びは、元来、贈り物をする相手の喜びを想像することにあった」(注19)にもかかわらず昨今では進物用と称する商品が贈答の習慣を堕落させていると嘆くような姿勢と結局は軌を一にしており、そうした姿勢を愚にもつかぬ些事への拘泥という難癖から守っている。ここには、なまじ自身の繊細さを声高に訴えたがるとき以上に、外界との接触に人一倍敏感なアドルノの愛すべき気難しさが、それゆえの優しさとともに現れているようだ。その気難しさから、例えば動物園の住民たちの暮らし向きを快適にしてやるべく檻を撤廃して代わりに掘割を設けるような風潮に対しても、進歩的だからといって手放しで歓迎するのではなしに懐疑的な見方を貫こうとする、ほとんどフーコーばりの洞察まではせいぜいほんの数歩だろう。なにしろ、「目に見える柵の場合なら、ひろびろした天地へのあこがれの引金の役くらいは果しているのである」が、それに引き替えこのような偽善的な小細工は、かえって動物たちに自分が囚われの身であるという不変の事実を見えなくさせ、忘れさせてしまうだけに、ある意味でなおさらたちが悪いのだ(注20)。
また、希望についての直接的な言明を極力避けようとする日頃のアドルノの禁欲的な方針になじんだ者にとっては、自然への隷属を超脱する道を秘めたものとして快楽を礼讃するという態度―「盲目の肉体的な快楽は、それ自体にはなんの志向もないのに最終的な志向を充足させるものであるが、そうした快楽を手がかりにユートピアを測定できる者だけが確乎たる真理の理念にあずかることができると言ってよい」(注21)―は一見意外な感を与え、興味深い。といってもこれが慎重さの放棄を意味しないことは、「手がかり」云々という字面からしてただちに明らかだろう。アドルノの奥床しさは彼をして、表向きはリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』における派手でけばけばしすぎる日の出の場面について、ちょっとした内心の違和感の命ずるままに作曲者をたしなめる風を装いながら、本当はどんな日の出も「いつかは良いこともあるだろうという一縷の希望と同じように、弱々しい、ためらいがちの気配のうちに生ずる」(注22)ものだと書かせるほどに―つまりは希望される対象に、洋の東西を問わず常識の信奉者たちの間でほかならぬ太陽に認められるのがつねであったあの圧倒的な光輝と熱量、そしてためらうことを知らぬ力強い前進等々の肯定的な諸特性を持たせたいという願望と、そのようにあっけらかんとした無邪気な図像化(偶像化)は所詮禁じられているという諦念とを、二つながら同時に表明させるほどに深い。しかもこの表明はそれ自体が間接的である。すなわち、彼にとっては、そもそもそのようにつつましい予感の類でしかありえないという希望の本性は、日の出のつつましさ以上に自明であるべきなのであり、全く主題的でない、まるでことのついでに当然の事実を前提として確認しているにすぎないかのような「一縷の希望と同じように」という文句のたたずまいがそのことを教えているのだ。この一見さりげない「と同じように(wie)」の中に、あるいはアドルノの文体の秘密を探るべきかもしれない。それはさておき、快楽に対する寛容な態度に劣らず興味深いのが合目的性への束縛から脱した無為の礼讃であり、これは熱に浮かされたような発展への信仰に水を差すという批判の営為と表裏一体ではあるのだが、同時にそのような狙いを超えて、それ自体が切実な祈願ともなっているようだ。

真正な社会は発展そのものにうんざりして、何がなんでも他の遊星を征服するというような気違い沙汰はやめにして、ある種の可能性は利用しないでそっとして置くような自由を獲得するかもしれない。〔中略〕「動物のように何もしないで」、水の上に寝そべり、充ち足りて天を仰ぐ、「他に何の職務も満足もいらない、ただ存在しているというそれだけの状態」が手順や作為を必要とする欲望の充足に取って代り、根源に還流するという弁証法的論理の約束を実地において果すことになるだろう。抽象的な概念のうちでユートピアの具体的なイメージに一番接近しているのは永久平和の概念である。モーパッサンやシュテルンハイムのような進歩の傍観者たちはそうした平和を願う気持を言い現わしているのだ。この希念にはこわれ物のような脆さがあり、その脆さの許す範囲内でのごくごく内輪の表現であるけれども。(注23)

といっても、これを単なる怠惰と混同してしまうのは間違いだろう。幸福の理念としての「両性の交合」が、無理強いされた労働のもたらす呪わしい緊張状態とは対照的な「至福の緊張状態」(注24)として定義されうることからもわかるように、アドルノにとっては、なにもあらゆる活動がそれ自体として忌避の対象なのではなく、逆に支配や強制を必要とせず、そうしたものをよせつけないためにこそ、例えば文章表現の場においても相応に知恵を絞り、工夫を凝らさなくてはならないのである。したがって、プルーストを論じるドゥルーズの場合(注25)とは意味が違うが、彼にとってもやはり、書くという営みは簒奪のための遠征の類ではさらさらなくて、むしろ勤勉に巣を織り上げる蜘蛛のように、待機のための拠点を自分用にこしらえることである。

 きちんと仕上げられたテキストは蜘蛛の巣に似ている。言い換えるなら、目がつんでいて、共心的で、透明で、細工がしっかりしている上に、ちゃんと固定されている。爬行するものであれ、飛来するものであれ、通りすがったすべてはその網の目に捉えられてしまう。目にもとまらぬ速さで一過しようとした暗喩はまんまと滋養分のある獲物となり、材料なども向うから飛んでやってくるといった具合である。一つの着想にしかるべき根拠があるか否かは、それに引用文を引き寄せる力があるか否かによって判断することができる。首尾よく現実のささやかな一室を開くことに成功した場合、主観の暴力によらなくても次の部屋に入り込めるのが思想の本来の姿である。思想の客体にたいする関係が正しければ、直ちにその周囲に他の客体がむらがって結晶するものであり、思想が特定の対象に光を向けるなら、その光のなかで他の対象もきらめき始めるのだ。(注26)

このように考えてくれば、計量可能ないわゆる客観的現実と称されるものにへばりついたままで、そこから遊離することなど思いもよらないような学問のあり方に対するアドルノの根深い不信も、単なる子供っぽい依怙地の域を超えて新たな相貌を見せ始めずにいない。その種のいわば非現実性は、結局のところ思想の名に値する思想の条件、あるいはさらに本体ですらあるのであり、しかもそうかといって完全に開き直って現実から逃避することが許されるわけでもない。「きみの目のなかの塵こそはこの上ない拡大鏡の役目をしているのだ」(注27)という箴言にしても、各人各様の偏見という「塵」を端的に是認したものとして読まれてはならず、むしろなかなか自分では気づきにくいその偏見を第一義的にはあくまでも塵として、すなわち視界を混濁させる目障りな邪魔者として意識しながらも、それを除去することの困難さ、いや不可能性を知った上で、どうにかしてそれが拡大鏡を兼ねるよう不断の工夫を怠るな、といういささか屈折した助言として読まれるときに初めて持ち前の効力を遺憾なく発揮するのではなかろうか。ちょうど手の届かないところにある目標を首尾よく叩き落としたければあらかじめ使う棒の長さを心得ておく必要があるように、概念はつねにそれ自体の不透明性(現実に対する過不足)を考慮に入れながら駆使すべきものであること、それどころか現実に対する概念の関係は緊張に満ちた終わりなき遊動であり、根気強い調整や思い切った誇張と切り離せないこと、こうした教えは単なる思想の自律性以上のことを含意しており、むしろ思想の本源的な無償性、無根拠性について、そしてそれゆえの底力についての、思いのほか透徹した認識からでなくては生じてこないものであろう。

思想が現実に対して距離を置くことはすでに現実そのものが許さないというのが昨今の情勢であるが、その距離をさらに縮めようとするのが実証主義である。しかし萎縮した思想が内包された事実の要約というような仮初(かりそめ)の形に甘んじてしまえば、現実に対する独立とともに現実を洞察する力も失われて行く。生に対する隔たりがあるからこそ思想の生の成り立つ余地もあるのであり、また逆にそれだけが現実の生に的中するということにもなるのだ。思想はたしかに事実に関係し、事実に対する批判を試みながら運動するものであるが、その運動が差異(ディフェレンツ)を保ち続けることによって行われるというのもそれに劣らず確かなことである。外でもない、現実がそれ自身の述べる通りのものでは決してないということを通じて、思想は現実を的確に言い表わすのである。度を過ごしてやりすぎたり、当面の問題をこえて深入りしたり、事実の重味を振り切ったりすることは思想の本質に属すると言っていいが、そうした要素があるからこそ―たんなる存在の再生産に終らないで―厳正かつ自由に存在を規定することも可能になるのである。この点、あらゆる思想が遊び(シュピール)に類した面を持っていると言っていいわけで、現にニーチェだけでなくヘーゲルも精神の働きを遊びになぞらえたのであった。哲学の野蛮でない面はそうした無責任性の要素に関する暗黙の意識の働きによるのであり、この無責任性を別の言葉で言えば―次々に判断の対象を取り替える変り身の早さが思想の身上であるが―その変り身の早さに伴う無上の愉楽ということになるだろう。こうした放埓ぶりを咎め立て、それを痴愚の仕業と見なすのが実証主義の立場である。その立場に立てば、事実との差異は誤謬の別名でしかないし、遊びの要素は、知性の機能的活動が分秒にいたるまでタイム・レコーダーに基づく報告を求められているような時代における許し難い贅沢ということになるのである。しかし取り除くことのできない現実との隔たりを否認し、手の込んだ数限りない論証で逃げを打ちながら正確さを一枚看板にする思想は、たちまち割りを食うのが落ちである。潜勢的な含み、所与の事実による完全な裏付けを持たない先取りといったものが思想の媒体になっているわけだが、思想がそうした媒体から転落する場合、言い換えるなら、解釈を断念して単純な言説になろうとする場合、その言説の内容はそれこそ本当にまやかしになってしまうのだ。確信のなさや良心の疚しさの息のかかった思想擁護論を反駁することはたやすい、それ自体が認めようとしない、しかしそれのみが思想を思想たらしめている事実との不一致を随所に指摘することができるからである。ただし、特権かなんぞのように現実との隔たりに逃げ場を見出す思想の在り方がそれよりましだということにもならない。その行き方は、事実に基づくそれと概念に基づくそれと二通り真理があることを宣言するようなもので、ひいては真理そのものを解消し、思惟を告発することにもつながるからである。現実との隔たりは、本来安全地帯ではなく、緊張の場である。隔たりは、必ずしも概念的思考の真理に対する請求権が後退するところに現われるのではなく、むしろ思惟そのものの傷つき易さや脆さに現われるのである。実証主義に対してはいたずらに自説の正しさを主張したり、お上品に構えても仕方がない。むしろ、概念と概念を充足するものの間の一致などとうていあり得ないことを認識批判の見地から証明することこそ、それに対する正当な対し方である。名辞の異なる両者を相互に溶解させようとして躍起になるのは、その行手に救済の待ち構えているたゆみない努力などとは似て非なるもので、うぶと未経験の証拠でしかない。実証主義が思惟について非難しているようなことは、これまで思惟そのものが意識し、ついで忘却するという繰り返しを幾度となく重ねて来たことであり、またそうした繰り返しがあったからこそ思惟はその名の意味する通りのものとなったのであった。前に述べた思想と現実の間の隔たりにしても、歴史が諸概念のうちに沈澱した結果にほかならない。その隔たりを無視して概念を操るのは、口ではいろいろ悟ったようなことを言っていても、というかまさにそうであるからこそ、子供のすることである。なぜなら思想は対象に完全に到達できないからこそ対象の頭越しに狙いをつけなければならないのであり、本当は到達できるのだけれども良心的な余りにためらっているだけであるなどとうぬぼれている実証主義は、その実、無批判的なのである。自身の不完全性を斟酌している点では、学問上の管理体制に操られた思想より、いま言ったような意味で対象を超越する思想の方がよほど徹底している。外挿法になぞらえられるような行き方をするのは―いかに望みうすであるにもせよ―行きすぎになるくらいありたけの精魂を傾けて、どのみち避けられない寸足らずの不十分さにうち勝つためである。哲学には最終的な断を下すような趣があり、その点を不法な絶対主義の廉で非難されたりするわけだが、その絶対主義なるものにしても底無しの相対性に由来している。思弁的形而上学に見られるさまざまの誇張は反省的な悟性の傷跡のようなものであり、証明なるものの正体は同語反復(タウトロギー)であることを暴露してくれるものとしてはひとり証明されざるものがあるのみなのだ。それに反して、相対性を無媒介に保留し、制限を設け、境界の明らかな概念の範囲にとどまる行き方は、まさしくそうした慎重さによって―ヘーゲルのすばらしい知見によれば―それを考察することがそれを踏み越えることに通じている限界の経験を避けているのである。こうしてみると、相対主義者たちこそ正真正銘の―ということは悪質の―絶対主義者ということになってくるのであり、その上、私有物かなんぞのように認識を確保しようとして、そのためにかえってすってんてんの無一物になってしまう一種のブルジョアということになる。自身の影を跳びこえる類の不可能事にはちがいないが、絶対的なものを請求する行き方だけが相対的なものを正当に扱うことになるのだ。この行き方は虚妄の危険をあえて冒しながらも、人間の認識に制約があることを具体的に自覚しつつ真理の間近まで肉迫するのである。(注28)

思想の営みは、少なくともそれが真摯である場合には、根拠なき非現実性の中で不安定な揺らぎに耐えることができるばかりか、そうしたものを、つまりゆとりや遊びを自らの本性として自覚することによってこそ、批判すべき現実に立ち向かう上で有効な戦略を立てうる。その点でそれは数ある人間の営みの中でも特異なものであるが、他方ですでに過ぎ去った、あるいは未だ来らぬはかない対象へのあだな憧れは、そもそも人間らしい人間の経験の骨子を形作っており、そのかぎりで決して珍しくはない。だからこそ、例えば幸福という状態に関してはそれが自分のことであるかぎり現在形の文章の中で知識の対象として言及するのは正しくないのだし―「自分を幸福であると称する人は、それを断言することで嘘をつき、ひいては幸福自体に背(そむ)くことになる。自分は幸福だった、と過去形で語る人だけが幸福に対する節操を貫いているのだ」(注29)―、あるいはまた、恋愛においてしばしば生じる状況として、相手の女性にすげなくされた恋する男はその仕打ちを不服に思い、その結果「それを拠に彼は自己の正当性を主張するのだが、同時にその主張を投げうたなければならない、なぜなら彼の求めているものは相手の自由意志に俟つしかないからである」というものがあり、この背理が当人を導いて、通常の権利や義務の世界の彼岸にあるはずの非現実的な法体系を垣間見せることになる。すなわち、「自分の思いを叶えて欲しいという彼の請願は肩書や権利の要求に基づいたものではない。またこうした請願を携えて彼の訴える先はこの世に存在しない法廷で、そこでは慈悲のはからいから、彼のものでありかつ彼のものでないものの帰属を彼に認める判決が下るのだ」(注30)。このように、人間の日々の経験は元来目前の狭く限られた現実を超えてその背景に達するような射程を持たずにいないし、それにまた強制的に我々の支配下に置かれた客観(客体)の管理や操作という目的とは別種の文脈から理解すべき、遊動的な性格を具えてもいる。ゆえに、例えば「男性中心に作られた社会の産物」であり「支配体制という陽画の写し」にすぎないような、通念上のいわゆる「女らしさ」の理想(注31)を窮屈に感じる者にとっても、子供の遊戯こそが、あらゆる参加者を押しつけられた役目への従属から解放するとともに、まさしく何の役にも立たなくてよいものとして心安らぐ無為の内へと気前よく放任するような振舞いであるという点において、少なからず示唆的であるはずなのだ。

おもちゃの荷車には決った行先があるわけではないし、そこに載せられた豆粒のように小さい樽の中味は空っぽである。しかし小さな荷車や樽はまさにその役目(ベシュティンムング)を果さないことによって、そうした役目を均一化する抽象化過程に加わらない独自の存在のアレゴリーであり続けることによって、かえって固有の定め(ベシュティンムング)に対する節操を貫いているのだ。そして散在しながらも巻き添えを免れた状態で、社会の手でそれらに加えられた烙印を社会そのものが拭い取り、人間と物の間の生活過程である実際活動が実用一本槍でなくなる日の訪れをしずかに待ち設けているのだ。遊びの非現実性は現実なるものがまだ真の現実になっていないことを告げている。遊びは正しい生活のための無意識の習練なのである。(注32)

このかぎり、一見たわいない遊びという行為は、実は今日の社会にあってはめったにかえりみられることのない、世界の真理に通じている。少なくともこのことの認識においては、アドルノの思想は彼が忌み嫌っていたハイデガーの(あるいはその弟子であるオイゲン・フィンクの)哲学に近づくのではないか。だからまた、真正の知識人たる者「仕事と娯楽の二者択一」を認めてはならず、思考であれ執筆であれ、とにかく自分の仕事を娯楽とは全くの別物として割り切った上で、何時までが勤務でそれ以降は気晴らしなどと機械的に時間を区切るのは望ましくない、ということにもなってくるのだ(注33)。しかもこの遊戯たるや、いわゆる遊び半分の態度からはほど遠く、あくまでも真剣勝負である。どこか『啓蒙の弁証法』における、オデュッセウスの一行と彼らを誘惑するセイレーンたちの歌声との関係についての名高い解釈(注34)―アドルノたちによれば、『オデュッセイア』第十二歌のこの場面(165-200行)が象徴しているものとは、文明化の歩みに伴う幸福の断念、それも主人と奴隷双方の側に生じる、強いられた断念である―を思わせなくもない調子で、あらゆる散文が原初の歌から遠ざかりつつもそれに憧れることをやめず、究極的にはそれの喚起に向かうものであるゆえんを説いた以下のくだりからは、その真剣さが痛いほどに伝わってくる。

本当を言えば、散文の労作はおしなべて自由な韻律をシステム化したものであり、絶対的なものが帯びている呪縛力とその仮象の否定とを合致させる試み、表現に伴う形而上的な威力をそれ自体の世俗化を通じて救い出そうとする精神の格闘ではあるまいか。もしそうだとすれば、非神話化の過程が言語そのものの破壊に及ぶようになって以来、散文作家がおのがじしわが身に引き受けたシシフスの苦役に一条の光が投げかけられることになるだろう。言語表現の上でドン・キホーテになることが、爾来、作家の掟となったのだ。なぜなら大昔から両義性を帯びている言語自体が、世の営みと世の営みにつきものの体(てい)のいい嘘に奉仕するか、それともそれ自体の源泉になっている宗教的な要素を遠ざけながら聖なるテキストへの道を選ぶか、二つに一つの決定に、すべての構文がひとしく加担しているからである。禁欲的に韻文を閉め出した散文の有り様(よう)は、元来、歌の喚起を目ざしているのである。(注35)

この美しいくだりは、蜘蛛の巣云々というすでに読んだ断章に劣らず率直に、文章表現におけるアドルノなりの心構えを説明したものとして読んでもかまうまい。その要諦は、所詮どこを見ても完全な実現の見込みなどありはしないよき生というものについて、まるで見てきたかのように詳しく物語るために言葉を酷使して偽りの証拠をかき集めるのではなく、代わりにむしろ、細心の注意を払って配置した言葉そのものを、大小の憧れが陽炎のようにゆらめく遊動の現場にすること、そのようにしてよき生についてのはかない印象を決して裏切らぬよう心掛けることに存する。
とはいえ、『ミニマ・モラリア』のほとんどの頁を占めるのは、同時代の社会に深く絶望した亡命者が、八方塞がりの窮状の中にあって絶望的なその状況をほとんど淫せぬばかりの執拗さでためつすがめつ仔細に考察しながら発した毒々しい告発の声であることも、また歴然としている。とりわけ、素朴さを、あるいは素朴さと自ら称してはいるが、その実態はただの無知や知的怠慢でしかないものを武器として振り回し、そうすることで他人を脅迫して身勝手な要求を通そうとする厚かましくも陋劣なやり口を相手どるとき、アドルノの批判は辛辣で容赦がない。さすがは知性の働きというものを、所与の事態に迎合せず、外界の圧力に屈服もしないで判断力を行使することとして躊躇なく道徳的な長所の中に数え入れる(注36)だけのことはあると感心すべきなのか、それとも終生神童という自己規定を手放すことができず、世故に長けることを拒み続けた「温室植物」(注37)さながらの潔癖な精神の見せる、度しがたく頑固な主知主義に呆れればよいのか。以下に締めくくりとして引用したいのは、「下りにまかせてどんどんくだり」と題された断章の全文である。小心者の私には、ここまで意地悪くは書けない。私に限らず大概の人がそうだろう。しかし、書いてある内容自体は「ああ、あのことか」とすぐに合点がいき、思わず苦笑いを誘われる。

私的な人間関係も、どうやら工業生産の方で隘路bottleneckと呼ばれているものをモデルに形づくられているらしい。ごく内輪の集まりでさえ、その場の水準を決定するのは座中で一番程度の低い者なのである。会話の中で一座の誰かの理解力をこえたようなことを―その誰かがただの一人の場合でも―口にする人間は気が利かないことになる。その場にひとりでも人情を解さぬ者がいると、人情を解さぬ人間に対する人情のようなものが働いて、話題の範囲が日常茶飯のごく身近なありふれたことに限られてしまう。世の中に対話を阻むような空気が漲り始めて以来、とりつく島のないようなタイプの立場が強くなった。このタイプの人間は、地金を現わし頑なに自身の利益を言い立てるだけで、所期の目的を達することができるのである。相手方は話が通じないためについ言い訳がましい口調になったり、気を引くようなことを言ったりするわけだが、それだけですでに分(ぶ)が悪くなってしまう。思想や対話はたんなる事実関係をこえた目に見えない精神上の規範を抜きにしては成り立たないと言っていいが、隘路的人間はそうした規範など眼中にない。いきおい、相手方の知性も愚直じみたものになり、本来愚鈍なはずの隘路的人間にまんまとその虚に乗じられたりするわけだ。実証的事実への忠義立てにはみんなを一様に引きずりおろす重力のような働きがある。それに対抗する動きもないわけではないのだが、この重力の力はそうした動きをてんから問題にしないほどに強力である。繊細な神経の持主は、身を滅したくなければ、他人への配慮を欠いた連中をいやでも配慮せざるを得ないような立場に追い込まれている。こうした連中はかりにも意識の不安などというものに悩まされることはない。精神的に弱いことが世にあまねき原理としてまかり通り、旺盛な生活力のような外観を呈しているのだ。お役所風に形式的に事を処理したり、意味内容からすれば分離できないことを抽斗(ひきだし)別に分類したり、別にこれといった根拠もないのに偶然の思いつきにむやみに固執したり、要するに不首尾に終った自我形成につきもののいろんな特性を物化し、経験の過程を回避しつつ、自分はもともとこんな人間なんだからほかにどうしようもないという最後の切り札をちらつかせる行き方だが、こうした行き方によって容易に手に入れることのできない地位でさえやすやすと手に入れることができるのである。この手で行けば、自身の利益を得られるだけでなく、同類の精神的不具者の賛同を得られることは請合いである。自身の欠陥をシニカルに鼻にかけるこの種の人間は、現段階では客観的精神が主観的精神を解消する方向に動いていることにうすうす気付いている。彼らは後脚で立ち上る前の人類の先祖のような四つん這い状態に甘んじているのである。(注38)

ちなみにこの断章につけられた題名―» Hinunter und immer weiter «―は、訳注にも書いてあるとおり、どうやらシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の娘』の第二曲「何処へ」からの引用らしい。地下の作曲家と詩人(ヴィルヘルム・ミュラー)が知ったら機嫌を損ねるのは必至の、悪趣味な転用ではないか。ベートーヴェン、ワーグナー、マーラー、シェーンベルクらと並んでシューベルトについても、アドルノは『楽興の時』(三光長治・川村二郎訳、白水社、1969年)所収の論稿などで深い共感と畏敬の念がこめられた犀利な分析を残しているが、その割に他方では平然とこういう罰当たりなことができてしまうあたり、やはりこの人は一筋縄でいかない、過激な思想家である。


(1)テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(三光長治訳、法政大学出版局、1979年)60頁。
(2)同書91-92頁。
(3)同書176頁。
(4)同書212頁。
(5)同書186頁。
(6)同書42頁。
(7)同書57頁。
(8)同書173頁。
(9)同書298頁。
(10)同書308頁。
(11)同書90-91頁。
(12)同書333-336頁。
(13)もちろん、『アドルノ 文学ノート 1』(みすず書房、2009年)所収の「形式としてのエッセー」(三光長治訳)を読めばわかるとおり、アドルノが随想という表現形式に造詣が深く、また並々ならぬ愛着を抱いていたのは確かである。ただ、「エッセーがドイツでは雑種の所産として不評であること」の確認から説き起こし―それというのも、とかく権威主義に傾きがちなドイツ人は、「精神の自由」を督促するような類の文章に対しては警戒心を抱かずにいられないからだという―(3-4頁)、最後は「エッセーのもっとも奥深いところにひそむ形式としての掟は異端ということである」(31頁)といういささか挑発的な主張で終わるこの論稿は、いかにも遊び心の乏しい野暮天揃いのドイツの知識人層向けに随想というものの断片性や非体系性を辯護すべく、無粋になってしまうのは覚悟の上で次から次へと哲学的な論拠を総動員しているといった趣が強く、良質の随想とはいかなるものかをすでに知っている者にとっては、特にこれといって瞠目させられるような目新しい知見はない。例えばベンヤミンであれば、ここに説かれているようなことの数々は、誰から教わるまでもなく先刻承知していたはずである(というのも、彼の書いたものはまさにそれらの実践であり、しかも最良の実践の手本を示しているからだ)。
(14)テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(前掲書)392頁。
(15)同書147頁。
(16)同書45頁。
(17)同書279頁。
(18)同書43頁。
(19)同書47頁。
(20)同書169-171頁。
(21)同書78頁。
(22)同書161頁。
(23)同書238-239頁。なお、訳文中の鍵括弧でくくってある箇所については特に訳注も付されていないが、説明が必要かもしれない。まず「動物のように何もしないで」のほうは、おそらくモーパッサンへの暗示のつもりか―そもそも「水の上」〔Sur l'eau〕というフランス語の題名からして、この断章が彼の同名の紀行文にちなんでいることは明らかである―、原文がフランス語で« Rien faire comme une bête »と書いてあることがこの処置の理由だろう。また、「他に何の職務も満足もいらない、ただ存在しているというそれだけの状態」のほうは、原文それ自体が―» sein, sonst nichts, ohne alle weitere Bestimmung und Erfüllung «―引用符でくくられている。これは、ヘーゲルの『大論理学』第一巻・第一書のいわゆる端初論、すなわち論理学は純粋な「存在」そのものから出発しなくてはならないゆえんを説く、「学は何を端初としなければならないか」と題された小論からの引用であり、ただし頭文字を小文字に変えることで» Sein «という名詞を動詞化するというわずかな改変が施されている。寺沢恒信の翻訳した『大論理学 1』(以文社、1977年)では、該当するくだりの訳文は「ただそれだけの、あらゆるそれ以上の規定や充実なしの存在」(73頁)である。
(24)同書342頁。
(25)Cf. Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.218.
(26)テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(前掲書)119頁。
(27)同書60頁。この箴言は、訳者も訳注(同書394頁)で指摘するとおり、マタイによる福音書の第七章が伝える、いわゆる山上の垂訓の中で用いられた比喩に由来するのであろう。ただし、『文語訳 新約聖書 詩篇付』(岩波文庫、2014年)から引用すると、イエスは「何(なに)ゆゑ兄弟(きやうだい)の目(め)にある塵(ちり)を見(み)て、おのが目(め)にある梁木(うつばり)を認(みと)めぬか」(22頁)と言っているのだから、むしろ「きみの目のなかの梁木(うつばり)こそは」と書いたほうが自然だったはずだ。「塵」は他人の目の中にあるのに対して、自分の目の中にあるのは「梁木(うつばり)」だからである。なぜアドルノはそれを避けてひとひねりを加え、わざわざ「きみの目のなかの塵こそは」と書いたのか。おそらく彼は、自分が誰に向けて書いているかをはっきりさせる一方で、倫理的な自己点検を怠りがちなくせにこの怠惰を正当化してくれる口実を探すための努力は惜しまない輩に、可能なかぎりつけいる隙を与えたくなかったのだろう。ここではあくまでも、日頃から自分の目の中の「梁木(うつばり)」、すなわち比較的粗大な偏見の除去に努め、すでにそれなりの成果を収めてきたという自負を抱く者こそが、適正な読者として暗に呼びかけられ、そして質の異なる新たな自己点検を迫られるのである。もっとも、もっと単純に考え、例えばひとしきり山上の垂訓に耳を傾けた後で、群衆の中の一人がさっそく茶化し半分にイエスの教えをもじって傍らの友人に語りかけるときの、機知に富んだ皮肉な口調を聞き取ればそれで十分なのかもしれない。
(28)同書187-190頁。引用に際して、「可能となるのである」を「可能になるのである」に改めた。また、「証明なるものの正体は同語反復(タウトロギー)であることを暴露してくれるものとしてはひとり証明されざるものがあるのみなのだ」も、「証明されないことだけが証明と称されているものの同語反復(タウトロギー)にすぎないことを暴露しているのである」という訳文を改めた結果であり、原文は、» einzig das Unbewiesene enthüllt den Beweis als Tautologie «である(Theodor W. Adorno, Minima Moralia, Frankfurt am Main, Suhrkamp Verlag, 1986, p.166)。
(29)同書163頁。
(30)同書249-250頁。
(31)同書133頁。
(32)同書360頁。
(33)同書193-195頁。とはいえ、例えばフランツ・カフカのように、文学とはまるで無関係な分野の仕事に就きながら限られた余暇の時間を利用して毎日規則正しく執筆に励んだ大作家もいることを思えば、アドルノの意見は少々詰めが甘いかもしれない(しかも、当人にとっては不本意でしかなかったはずのこの仕事の体験が仮になかったとしたら、我々が知るとおりのカフカ、つまりは顔のない官僚機構の権力の不気味な全能性と、その権力との関わりを通じて個人が味わわされる有形無形の屈辱とを、比類なき洞察力を具えた幻視の目で誰よりも深く見通すことができたあの小説家は、はたしてそれでもなおこの世に存在していたかどうか、私は疑問に思う)。
(34)マックス・ホルクハイマー+テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫、2007年)74-77頁。
(35)テオドール・W・アドルノ『ミニマ・モラリア』(前掲書)349頁。
(36)同書306-309頁。
(37)同書243頁。
(38)同書282-283頁。引用に際して、「抽出し別に」を「抽斗(ひきだし)別に」に書き換えた。また、「四つん這い状態」の「這」も、訳書ではしんにょうの点が二つではなくて一つだが、表示できないようなので改めた。
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