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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』2 

『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』の結末について、哲学的にどのような概括が可能かということはこの前論じたばかりだ。
しかし、推理小説はあくまでも広義の小説の一種である。そうである以上、単に結末の仕掛けに注目するばかりで終わってはならず、いかなる要因がこの作品をまさしく一篇の小説として成り立たせているのかという問題についても、究明を試みるべきではないか。
ではさっそくそのつもりで、第一章「紫は移ろいゆくものの色」を読んでみよう。するとじきに気づかされるのは、これ見よがしで、ほとんど類型的と呼びたくなるような、俗悪すれすれの文体の"hardboiled"性であり、そして第二に、奇妙に間が抜けた、悪趣味な性的趣向がそれと同居していることである。特にそのことが如実にうかがえるのは、第3節に入り、いよいよ小説がミステリーらしくなり始めてからだ。

 まるでAV(アダルトビデオ)のような殺人現場だ。
 それが警視庁捜査一課殺人犯捜査第七係、藍川(あいかわ)警部補の抱いた第一印象だった。
 彼は他の刑事たちとともに、L商事本社ビル最上階三十階の社長秘書室にいた。
 彼らは一様に圧倒されていた。初動捜査を行った所轄署・機動捜査隊からの報告で心構えはしていたつもりだったが、実際の現場はそれを遥かに上回る衝撃だった。初めてミステリーサークルを目撃した人物はきっとこんな気持ちだっただろう。
 一体、誰が、何のために、こんなことを?
 殺害されたのは一人しかいない社長秘書の式部京子(しきぶきょうこ)、二十八歳。
 彼女の遺体は何とも珍妙なことになっていた。
 上半身は裸。下半身はグレーのタイトスカートに黒のストッキング、パンプス。首にはロープが巻き付けられている。他に致命傷は見当たらない。
 ここまではそう珍しくない。問題は遺体の置かれている場所だ。
 コピー機と机の上にあった。
 すなわち―。
 コピー機から蓋(ふた)が取り外され、その正面に事務机が一台ぴったりと寄せられている。遺体は上半身がコピー機に、下半身が机に載る形でうつ伏せになっていた。コピー機より机の方が低いが、未開封のコピー用紙の包みを遺体の下に敷き詰めることで、両者の高さを均等にしている。〔中略〕
 おかしなことはそれだけではなかった。
 コピー機横のホワイトボードにA3のコピー用紙がマグネット留めされていた。横長の状態で縦に三枚、横に四枚の計十二枚。
 それらは遺体のものと思われる女性の胸部のカラーコピーだった。(注1)

とはいえ、遺体の置かれた状況がどうしようもなく悪趣味であること自体はそつなく作中で指摘されているとおりであり(注2)、ゆえにとりたてて問題とするに足らない。第一、これは犯人が自分を容疑者から外すべく懸命に知恵を絞った結果の細工なのであり、決して変質者の単なる気紛れというわけではないのである。むしろ尋常でないのは、相も変わらず真面目くさったままの、何食わぬ顔つきで文体が以下のくだりに流れ込んでゆくことのほうだろう。

 藍川がAVを連想したのはこうした状況からだった。オフィスラブ物で、女優が乳房をコピーされながらバックから突かれるというシチュエーションがたまにあるが、今回の事件はそれに酷似(こくじ)している。推理小説で言うところの見立て殺人なのだろうか。
 ただし体位は異なる。女優は立ちバックのまま胸だけコピー機に乗せるが、この遺体は下半身も机の上に載せられている。一つには遺体が自力で姿勢を維持できないからだろう。だがもう一つ理由がありそうだ。
 藍川はホワイトボードに近づいて、十二枚のコピー用紙を観察した。右下の紙に行くにつれ、乳房に紫の斑点(はんてん)が増えている。〔中略〕
 単なるAVの見立てではない。死斑の推移を記録すること、それこそが犯人の主眼だろう。(注3)

一体、我々はどんな顔をしてこれらの文章を読めばよいのだろうか。おそらく大半の読者は、「オフィスラブ物で…ただし体位は異なる」云々と書いてあるのに接して、不謹慎とは思いつつも引きつったような苦笑を誘われたのち、ついで「死斑の推移を記録すること、それこそが犯人の主眼だろう」に至って、どちらの箇所でも文体の調子が一定であることにふと気づき、気づくと同時にある戸惑いを覚えずにいられないはずである。
先には「これ見よがしで、ほとんど類型的と呼びたくなるような、俗悪すれすれの文体の"hardboiled"性」と書いたけれども、こうなると、この類型性は侮るべからざるもの、何かしら不気味なものにさえ思えてくる。これは、一見昭和の刑事ドラマのような、ある種の警察小説の典型的な様式を模倣し、その忠実な継承者を装いつつも背後にひそかな裏切りの企図を隠し持った、偽物であり見せかけ(シミュラークル)なのだ。
実際、このあざとい類型性が計算の産物であることは、見るからにそれとは対照的な、会話の場面の並々ならぬ精妙さを介して間接的に確かめられる。「解剖してみないと詳しいことは言えませんが、今のところ、個人的な見解としては」などと、不必要にくどい前置きを重ねる紺野警部補の「慎重派らしい物言い」(注4)、早く尋問を終わらせて安心したいらしい容疑者村崎が発した「ご託はいいからさっさと聞けアリバイを」(注5)という台詞における、倒置法(「アリバイを聞け」ではない)と読点(、)の排除の併用がもたらす性急さと苛立ちの表現、小松凪巡査部長と親しくなりたい一心で彼女の苗字を勝手にばらして「凪ちゃん」にしてしまう花田警部補の「独自の呼び方」(注6)、さては藍川と小松凪がどちらも我先に相手に謝ろうとした結果として生じる発話の衝突―「『あのっ』/『えーと』/二人の言葉がぶつかった。譲り合いの結果、藍川からしゃべることになった」(注7)―等々は、いずれも驚異的な迫真性を誇る工夫として、特筆に値する。躊躇と加速の使い分けがそのつど理にかなっていて、それゆえの生々しくも自然な息づかいがあるのだ。その点は、結果的には事件の真相を解明する上で大した意味を持たなかった、さる容疑者の弁解においてこそ、あるいは他のどこよりも顕著かもしれない。鍵括弧を使わずに自由間接話法で示される、「なお被害者に遺体の画像を見せた理由については、純粋に会心の出来のホラー映画が撮れたから彼女に見せたいと思っただけであり、驚かせるつもりは―なかったとは言わない。言わないが、ホラー映画は驚かせてナンボである。決して悪意はなかった」というその弁解の要は、もちろん「驚かせるつもりは―なかったとは言わない。言わないが」に存する。ここでは、聞き手(花田)の疑いを予想し、予想した上で自ら先んじて自分の非を認めることでその疑いをかわそうと努める話し手の必死な思惑を、口調そのものが克明に反映している様が手に取るようにわかる。
検討の順序が逆になってしまったが、村崎と上木らいちの馴れ初めを紹介するのに費やされた序盤の二節も、基本的にはこれと同様、一方では先行する既存の小説の類型を丁寧になぞりつつ、しかも他方ではそれの裏をかくような底意地の悪さを随所で発揮している。違いがあるとすれば、序盤の雰囲気が、内容を考えれば当然とはいえ、どちらかといえば恋愛小説―それも、もちろん至って通俗的な―を思わせることであろう。もっとも、いついかなる瞬間にあっても生真面目で硬派ぶった外観を崩そうとはせぬ、そしてまさにその点において俗悪の一歩手前という印象を抱かせる文体の特徴は、早くも全開になっている。

 村崎は出世の軌跡を脳内でなぞり、しばし悦に入る。
 何も持っていないところから叩き上げですべてを手に入れてきた。今や押しも押されぬL商事の社長だ。来春からは経済団体の会長に就任することも内定している。
 だが―。
 その割に、ショーウィンドウに映る横顔がどことなく寂(さび)しげなのはなぜだろうか。
 富、権力、名声。およそ人が欲しがりそうなものは持っている。それなのに、この言い知れぬ欠落感は何なのだ。これ以上何が足りないというのか。〔中略〕
 その間、ふと顔を上げて向かいのホームを見た。

 そして上木らいちと出逢ったのだ。

 まず目に飛び込んできたのは、新鮮な血液のように赤いウェーブロングの髪。
 次に顔を見て、村崎は今の自分に何が足りないかを知った。
 愛だ。
 実は村崎は今までの人生で一度も本気の恋愛というものをしたことがない。妻とは見合い結婚だ。それも、いつまでも独身だと人格に問題があると思われて出世できないという噂(うわさ)を聞き、やむなく結婚したという始末。
 女遊びも人並みにはしてきた。今現在も愛人がいる。だが彼女を抱いている時も、村崎は心のどこかで冷めていた。
 そんな村崎が人生で初めて恋をした。それも、親子くらい歳の離れたらいちに。
 村崎はらいちを食い入るように見つめた。
 すると向こうも気付いたらしく、目が合った。
 村崎は慌(あわ)てて目を逸(そ)らそうとした。
 ところが、らいちは何と微笑(ほほえ)んだ。村崎に向かって微笑んだのだ。
 鼓動がさらに速くなった。
 次の瞬間、村崎は声を聞いたような気がした。らいちが向かいのホームから声を張り上げたのか? いや、違う。らいちの口は動いていない。依然、微笑んでいるだけだ。
 その声は村崎の脳内に直接響き渡ったのだ。まるでテレパシーのように。
(何のご用かしら)
 答えなければと思った。だがどうやって? 村崎は不思議とその方法に確信があった。強く念じることだ。そうすれば想いは必ず伝わるはずだ。
(私は……私は君のことが好きだ。どうやら一目惚れしてしまったようだ)
 日頃の演説と違って、衒(てら)わない素直な言葉が出てきた。
 らいちは頷(うなず)いてみせると、やはり声を発さず言った。
(そう……嬉しいわ)
 その時、電車が向かいのホームに滑り込んできて、二人の間を遮(さえぎ)った。
 村崎は慌てた。
(待ってくれ、行かないでくれ! もっと話していたいんだ!)
 階段を駆け下り、向かいのホームに続く階段を駆け上がった。贅沢(ぜいたく)な食生活で肥えた腹が邪魔をする。息も絶え絶えにホームに上がった時には、電車は行ってしまった後だった。
 だが、らいちは残っていた。
「ど、どうして―」
 喘(あえ)ぎながら問いかけると、らいちは包み込むような笑顔でこう言った。
「だってあなた、待ってほしそうだったもの」
 その言葉を聞いて、村崎の目から自然と涙が溢れて出てきた。辺りを憚(はばか)らず抱き付いた。二人は百年来の恋人のように抱き合った。(注8)

おそらく、ここで用いられている言葉たちで、何らかの先例に依拠していないもの、まがりなりにも独創と呼んでよさそうなものはほとんどない。まったく、書き写しているだけでうんざりしてくるような通俗ぶりである。ただし、勘違いしてはならない。この通俗性は、あくまでも計算されたものであり、村崎という男の俗物ぶり、その人間性の月並みさに、正確に呼応しているのだ。大体、既存の小説の使い古された修辞(紋切型)を、何も考えずただ無自覚に真似ているにすぎないのだとしたら、どこかに中途半端な独創性の芽生えがあって然るべきだろう。しかるにそれがどこにもない、もののみごとに一つもないということは、かえって、ありふれた恋愛小説の様式をこれ見よがしに装い、それどころか自ら手を貸してさらなる様式化へと押しやることで、そのいかがわしさを、あるいは通俗性を露呈させようとする計画の伏在を、否応なしに推定させる(それだから、先にも私はこの作品の文体を評して「俗悪すれすれ」・「俗悪の一歩手前」と書いたのであり、俗悪そのものと断じるのはあえて避けたのだ)。
実際、初恋を知ったばかりの思春期の少年さながら年甲斐もなくときめく村崎の胸の内を描いて過不足のない以上のくだりが、仮に例えばフローベールの『感情教育』を読むときの喜びに似たものを読者に感じさせるとしても、他方でせっかく覚えたその感動を冷まし、相対化してしまいそうな無粋な要素を見つけることは決して難しくない。すなわち、「そんな村崎が人生で初めて恋をした」に続く「それも、親子くらい歳の離れたらいちに」という一文は、直前の頁で紹介されたばかりの彼の日頃の信条―「村崎は援助交際をするような女は元より、それを買う男が何より嫌いだった。自分の娘と同じくらいの年齢の女を抱ける心理が分からなかった」(注9)―との対立、いやあからさまな矛盾を通じて、この劇的な一目惚れのいきさつを、いかにも現金な、道化じみた変節として嘲っているようだし、第4節に入ってようやく始まる、社長としての村崎の外貌の客観的な描写についても事情は同様であろう。刑事として彼に対峙する藍川の視点を介したこの描写は、単にそれ自体として人柄の浅薄さを暗示する不快な傲慢さに満ちているというだけでなく、我々読者がすでに知っている、らいちを見初めるときのまるで少年のように初々しい感激に震えていた彼の内面を、それとのはなはだしい落差ゆえにどこか滑稽なものに思わせてしまうのだ。

 村崎はまだ藍川を見ない。尊大な奴だと思ったが、あくまで丁重な態度で続けた。
「警視庁捜査一課の藍川と申します。少々お話を伺いたいのですが、今お時間よろしいでしょうか」
「お話だと?」
 そこで初めて村崎は椅子を回転させ、藍川たちを見た。脂肪の中に埋まった目が、まるで虫けらでも見るかのように細められた。
「お話はさっき来た連中にした。貴様ら公僕は横の連絡も取れてないのか?」(注10)




(1)早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』(講談社、2015年)20頁。
(2)同書39頁。
(3)同書20-21頁。
(4)同書23頁。
(5)同書33頁。
(6)同書36頁。
(7)同書37頁。
(8)同書13-15頁。
(9)同書13頁。
(10)同書27頁。
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category: 早坂吝

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早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』 

ある日書店に行くと、「『史上最もHな探偵』再臨!」なる煽情的なうたい文句を帯にまとった本が店頭に並んでいた。
『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』と題された、早坂吝の第二作である。
HなものとHなことが大好きな私としては見逃せないので、さっそく買った。
もっとも、内容はそんな大人しいものではない。
なにせ、探偵である上木らいちその人にしてからが一回五万円で売春をしているのである。そのこと自体を卑しむつもりは毛頭ないが、起きる事件は大半が彼女の性的魅力に振り回される男たちの醜態に端を発しており、となれば取り澄ました品のよさは期待するだけ無駄というものだろう。
あたかも才気と引き換えに品性を悪魔に売り渡してしまったような作品であり、いっそミステリー史上最も下品な小説という尊称すら奉りたくなってくるほどだ。痛快なことこの上ない。

とはいえ、本書が一筋縄ではいかない曲者であるゆえんは、表題からもある程度察しがつくように、色彩の取り扱いにある(なお、以下の批評では作品の機密を立ち入って論じているので、未読の方はここで引き返すのが吉です)。
日替わりでらいちの体を共有する彼女の愛人たちは、それぞれ色の違う歯ブラシを授与される。表題にある虹の歯ブラシとはこのことを指しており、全部で七つある各章の題も、順に紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色に対応している。しかしながら、ミステリー小説である以上当然といえば当然かもしれないが、この作品においては、色彩はつねに見る者を欺く偽装や錯覚と不可分のものとして現れ、読者はおろか、犯人の認識をも意地悪く翻弄し続けるのである。そのようなことになるのは、色彩というものが、ジョン・ロックの分類を借りれば一次性質(物体から分離できない、固体性・延長・形・可動性等の性質)でなくて二次性質であるから、換言すれば、客観的な根拠をまるで欠くというわけではないが、あくまでも個人の主観に映じるかぎりでしか存在しえないからであろう。ロック曰く、「物体の一次性質の観念は物体の類似物であり、その範型は物体自身に実在するが」、対して二次性質の場合だと「私たちの観念に似よりのものは、物体自身のうちになにもない」(注1)。たしかに、同様に私的な領分に所属するはずの香りや味などと比べれば、色彩の占める位置はまだしも公的な領域に近いのかもしれないが、かといって形態ほど普遍的に安定した同一性は望むべくもない。その位置はいわば、我々の主観が客観世界にちょうど境を接する地点、すなわち、何かの拍子に自分たちは同じ対象を見ているはずだというそれまでの信念が揺らいで、私の認識を他者による認識から隔てる落差が露呈しかねない、情勢不穏な最前線に相当する。だからこそ、西洋哲学の伝統においては古代ギリシャ以来、形(形相)を見るという経験は真理を直観することの比喩として特権視される一方で、色彩に対してはゲーテやウィトゲンシュタインなど、ごく限られた思想家しか関心を寄せてこなかった。
しかるに、すでにカバーの折り返し部分に見出せる巻頭言にも、「らいちの赤毛はキャラの根幹を成す永久不変の/大前提と思い込んでいたのですが、/九年前に書いたらいち初登場作を読み返したところ、/『ヘアスタイル』」は日替わり。先日は青髪で今日は赤毛』/云々とあり驚きました。色とは移ろいゆくものなのでしょう」と書いてあるように、この小説においては、「同一性と差異との同一性」というヘーゲル的な原理(注2)の代わりに、ベルクソン‐ハイデガー‐ドゥルーズ的な「同一性と差異との差異」という原理が働いている。すなわち、色彩の現象は何よりもまず、それ自身に対して異なるものと定義しうるからこそ、本書の基調となるべきいわば下地として選ばれたのだ。もちろん、「色欲」や「好色」の「色」という性的な含意もあるはずだが、それと同時に、そしてそれ以上に、これは「色即是空」の「色」なのであろう。
移ろいゆく現象の全体を見渡そうとする者は、色を個々別々にではなくて、ちょうどゲーテの考えた色彩環のごとき、一つの体系として見ることを学ばねばならない(注3)。だからこそ虹なのである。例えば『クビキリサイクル』に始まる西尾維新の『戯言』連作が、赤は哀川潤、青は玖渚友という風に、特定の色に対応する人物を次々と登場させながらそれなりに大部な六篇の小説として帰結した成行きの向こうを張るかのように、七種の色を一挙に投入して一冊で使い切ってしまうというこの思い切った戦略は、終章「赤は上木らいち自身の色」が、先行する章の中から抜き出されたいくつかの伏線らしき文章(あらかじめ太字で強調してあった)の集中的な検討を試みる話者が、矛盾が生じぬようどうにかそれらを整合的に解釈しようと努めた結果として、見るからに荒唐無稽な「真相」の系列が三本も生まれてしまう―「らいちは男である」、「らいちは老婆である」、「らいちは人間ではない」―という愉快な結末を迎えるとき、その意味がようやく明らかになる。驚くべきことに、日本語の小説としての『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』の中ではどれも次々と却下され、結局「らいちは複数いる」(注4)というすこぶる強引な解決法を呼び込むに至ったそれらの互いに異なる系列は、それぞれが本書の英語版、ドイツ語版、アラビア語版に対応しているという設定である。虹の色の認識が各国・各言語圏で異なるため、それに合わせてどれか一つの章を省いて訳した結果、原作(日本語版)では複数のらいちが協力して防ぎ止めていたはずの互いに相容れない「真相」が、翻訳においてはきれいに三通りに分かれて顕在化してしまったというのだ。
ここには明らかに、諸言語は個々の要素においては互いに排除し合うにもかかわらず、その一方で理念的な純粋言語への志向においては互いに補完し合う関係にあるのであり、この関係を露呈させることこそが翻訳者の使命だと考えたヴァルター・ベンヤミン(注5)に似た発想が働いているが、それに劣らず、非本質的なもの(等しくないもの)が本質的なもの(等しいもの)を事例において包含するところに成り立つ「副次的矛盾(vice-diction)」としての無限小の方法(注6)に訴えて、無数の可能世界の系列の共存、それらの同時的な肯定へとライプニッツの哲学を延長しようとする、ドゥルーズの企図を想起すべきだろう。

微積分法の発見者であるライプニッツの形而上学においては、真に存在するものは拡がりも形も持たぬ無数の単子(monade)、すなわち霊魂よりもなお基礎的な、ただ表象(perception)と欲求(appétition)のみを有する単純にして不可分の個的実体であり、通常我々が身体ないし物体として経験する諸対象は、畢竟単子の集積から生ずる現象(phénomène)にすぎない。そのような諸対象に一時的な統一性(unité)、したがってまた存在性(entité)が認められるとしても、それはあくまで単子の統一性に由来する派生的なものであって、この点でそれらは「虹」のような現象なのである。たしかにライプニッツの用語法はやや不安定で、ときには虹というものを、およそ実体とは対照的な、単なる錯覚とみなしたがっているかのような節もあるが(注7)、結局は限定付きながら集合体についても現象的な統一性を認め、例えば「一つの虹」という呼び方さえ許容している(注8)。名高い「微小表象(petite perception)」の理論―例えば我々が海辺で波濤の響きを耳にするときのことを考えてみれば、その実態は、無数の、それ自体としては意識されえぬ微細な波の音の集積にほかならないことがわかる(したがって、デカルトが何と言おうが、明晰ではあっても判明でない観念というものが存在するのだ…)―が示しているとおり、ライプニッツのもとではつねに、巨視的なもの、意識的なものは、微視的なもの、無意識的なものに依存するのである(注9)。このゆえにライプニッツは、「述語は主語に内在する」、すなわち、いかなる個的実体についても完足的な概念(notion complète)というものが考えられ、そしてその概念の中にはいずれその実体の身に起こるはずの出来事があらかじめ含まれていると主張する(注10)。各単子は、不断に宇宙の全体を表現する生きた鏡である(注11)。ただし、全宇宙を表現するといっても、それはあくまでも自分なりの観点から、限られた一定の区画―その瞬間に、自らに属する物体(身体)―をことさら判明に表現するのであるから、魂の中には無限に及ぶ「襞」がつねに残り、さらなる展開を待ち望んでいる(注12)。ドゥルーズによる整理にしたがえば、世界とは、それを表現する魂の襞においてのみ現働的に存在するような潜在性であるが、同時にまた、単子はみな自らが現働化する潜在性としての世界に対して存在する(注13)。まさにこの奇妙なねじれこそが、本人の思惑はいざ知らず、『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』の作者を由緒正しいライプニッツ主義者にしている当の特徴にほかならない。というのも、終章「赤は上木らいち自身の色」においては、三種類の外国語版は単に言及されるだけにとどまらず、まさに我々が読み終えつつあるはずの日本語版(原作)と並んで、物体として姿を現しさえするからだ。いわゆるメタフィクションの仕掛けとしては模範的な、入れ子式の自己言及構造である。

 仕事が一段落したので、私は上木らいちに会いに行った。
 部屋に上がるなり、私は聞いた。
「ねえ、読んだ? 歯ブラシ読んだ? ねえねえ」
「読んだよ」
 らいちは日本語版英語版ドイツ語版アラビア語版の四冊を重ね、私の脳天を殴った。
「人で遊ばないでよね」(注14)

それ自体としては有限でありながらも頁の組合せによってあらゆる襞を生み出すがゆえに無限なる世界を包摂しうる、マラルメが夢見たあの究極的な書物に触れつつドゥルーズが書いているように、ここでは「〈書物〉あるいは数多くの頁をもつ単子」という定式が成り立つ。「単子とは本であり、あるいは読書室である」(注15)。地の文の進行を司る「私」という一人称は、単に作者その人を、それもいまや小説を外から書き上げつつある最中の作者その人を指すわけではなく―なにしろ「仕事が一段落したので」とあるにもかかわらず、作品はまだ最後の一文字に到達していない以上、虚構の時間は終わりを迎えてはいないのだ―、いまだ読みつつある最中の各読者にとっても、そこに自らを投影し、重ね合わせることが可能であるばかりか、ある程度まで強制さえされるような、抽象的な役柄である。事実、「自我」と「単子」が同義であるかのような文章もライプニッツは残している(注16)。そのような、つまり万人にとっての「私」としての単子の中に、本来両立しがたいはずなのに何食わぬ顔で共存する複数の世界が、完成に先立って(日本語版の場合)、それどころか誕生にさえ先立って(英語版、ドイツ語版、アラビア語版の場合)、書物という形で畳み込まれ、折り込まれ、包摂されているのだ。潜在的には世界が先行し―らいちが手にする合計四種類の『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』の内容は、当然ながら、まだ日本語版の最後の一文字への到達を果たしていない読者にとっては部分的に未知のままである―、現働的には単子が先行する―実際にこの場面が読者である「私」の表象を舞台に展開しうるのは、もちろん作者を名乗る「私」がこの場面を書いてくれるおかげ、それどころか「仕事が一段落したので」なる不敵な大見得を切って擱筆の瞬間を先取りしてくれるおかげなのだ―、というわけである(注17)。そして、「私」の脳天を震わせるらいちの一撃は、主著『弁神論』の末尾を飾る寓話において、ピラミッド状に積み重なる無数の可能世界の見物を終え、頂点を占めるたった一つの最善世界、すなわち唯一無二の現実世界へと帰還しようとするテオドロスにライプニッツがお見舞いした、失神に至るほどの衝撃的な法悦(注18)にどこか似ている。ただし違いがあるとすれば、この小説においては、突如我に返るという体験は決して可能世界の、すなわち現に我々が住む出来事の系列とは違う諸系列の消去には帰結しないという点であろう。
ライプニッツはいわゆる可能世界論の始祖でもある。彼によれば、神が創造するのは、罪人アダムではなくて、アダムが罪を犯すことになる世界である。表現される世界がまさに一つの世界として形成されるのは、おのおのの理念的な出来事に、あるいは個体以前の特異性(singularité)に依存する系列が、別の特異性に依存する系列とともに収束するかぎりにおいてであり、個別的な単子は、特に自分にとって身近なものとなるはずの一定数の特異性の近傍で構成される(注19)。このような特異性の連続体を指し示すべく、ライプニッツは「共可能性(compossibilité)」という概念を発明した。逆に不共可能性(incompossibilité)とは、例えば罪人でないアダムとアダムが罪を犯した世界との間に存するような、矛盾に至らぬ、あるいは矛盾よりも基礎的な排除の関係であり、これをドゥルーズは副次的矛盾とも呼ぶ(注20)。そしてこの関係こそが、収束することなく発散する諸系列を、したがって互いに異なる数々の可能世界を成立せしめるのだ。これこそ、上木らいちにまつわる三種類の互いに異なる真相に応じて三つの外国語版が生じてしまった、『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』というこの小説に最もふさわしい哲学的原理であろう。
三通りの上木らいちを発生せしめた機構を詳しく調べてみよう。まず与えられるのは、「そして、今まで一度も医者に掛かったことがなく、薬や医療器具の世話にもなったことがない自分の健康さをありがたく思った」(青の章)、「『みんな一杯中出しするけど、妊娠しないから無駄撃ちだよね』」(緑の章)、「私、人の顔とか覚えられなくてー」(黄の章)、という三つの特異性の束である。これらの特異性はらいちが男であることを示唆しているが、加えてさらに「藍川と彼女の年齢差と、村崎とらいちの年齢差は、ちょうど二倍も違う」(紫の章)という文をも考慮に入れればらいちは老婆であることになり、そこに「流氷がぷかぷかと浮かび、人間が落ちたらまず助からない極寒の海」(橙の章)が加われば、らいちは人間でないという結果が得られる。三つ、四つ、五つと特異性が数を増すにつれて、これらの特異性を自らの身体に受肉させ、述語として自らの中に含む三つの主語が、すなわち三通りの上木らいちが順に発生するとともに―もちろんそれらは、ここで明示的に言及されている以外の諸特異性(例えば、しかじかの事件に遭遇し、それを解決すること)に関しては、同じものを共有するはずである―、ちょうどドゥルーズが「特異性は、世界と世界の部分をなす個体とにおいて同時に実現する」(注21)と考えたように、同じく三通りの世界が生じてくる。そして最後に「ピルだ」(藍の章)という第六の伏線を付け足せば、らいちは人間であり、ただし複数いるという、以上三つのいずれとも違う「真相」が判明するというわけである。興味深いのは、これら四つの操作は裸のままいきなり読者に提示されるわけではなくて、四つの場合のいずれにおいても、それぞれの「真相」に対応する面白おかしい小話がまず先行しているという事実である。まさに、創造されるのは罪人アダムではなくて、アダムが罪を犯すことになる世界なのだ。しかし、最終的な結論を下すのはまだ早い。
ドゥルーズがライプニッツに異を唱えるのは、可能世界論そのものに関してではなく、いわばその神学的な用法に関してである。無数の可能世界の中にはたった一つの最善世界があり、それこそが神によって選ばれ、そして創造された現実世界、現に我々が住んでいるこの世界だとライプニッツは主張する。対してドゥルーズは、そのような現世の正当化には与することなく(注22)、逆にヴィトルド・ゴンブローヴィチの『コスモス』のような小説を例に挙げながら、「文学的システム」についてひどく大胆な提案を描いてみせる。

 どの系列もひとつの物語をなしている。ということは、〔同じ〕都市に対して複数の視点があるというライプニッツの主張のように、同じひとつの物語に対してもろもろの異なった視点があるということではなく、むしろ、同時に展開してゆくまったく異なった複数の物語があるということだ。基(ベース)となる諸系列は発散〔分岐〕するものだ。発散するといっても、収束点を見いだすためには道をひき返すだけで十分であろうといった意味で、相対的に発散するというのではなく、反対に、収束点あるいは収束の地平がカオスのなかにあり、つねにそのカオスのなかで置き換えられているといった意味で、絶対的に発散するものである。発散が肯定の対象であり、それと同時に、カオスはそれ自体もっとも定立的なものである。(注23)

ライプニッツが生きた時代、古典的な理性の秩序は危機に瀕していた。バロックの哲学者としての彼の使命は、発散を可能世界に振り分け、不共可能性を世界の間の境界とし、そのようにして調和における解決をもたらすこと、この秩序の復興を図ることであった。しかし、「この復興の試みは一時的なものでしかなかった。ネオ・バロックがやってきて、同じ世界に、発散する諸系列が押し寄せてくる。同じ舞台の上に不共可能性が侵入してくる。そこでセクストゥスはルクレチアを犯し、そして犯さない。シーザーはルビコン河を渡り、そして渡らない」(注24)。不共可能性そのものを、諸系列の収束(convergence)ならぬ発散(divergence)を絶対的に肯定すること―このはなはだ無謀とも思える賭けのために必要な装置こそが、ドゥルーズによれば「文学的システム」ということになる。
そもそも「上木らいち発散」という思わせぶりな副題とともに始まった『虹の歯ブラシ』の終章が提供してくれるものは、この意味での「文学的システム」の最良の実例ではなかろうか。そう思えるのは、すでに述べたような、外国語への翻訳に伴う、書物という形態に依拠した三通りの「真相」の併存という事態もさることながら、あらかじめそのような事態の到来を準備し予告していたものが、そもそも特異性の逐次的追加という操作を経て分岐してくる三人のらいちにそれぞれが対応する三つの小話(系列ないし世界)であり、ひいてはそれらを三つとも退けるべく要請されたにもかかわらず、破れかぶれなことでは引けを取らぬ第四の真相、すなわち「らいちは複数いる」という日本語版(原作)の暫定的な結末であるからだ。ここに働いている原理とは、個体(単子)ごとに異なる無数の観点の多様性を歓迎する、ライプニッツ的な感性だろうか(とはいえそれらの観点はどれも、所与としての、唯一の同じ現実世界を表現するにすぎず、それ以上の何かではない…)(注25)。いやむしろ、それよりももっと徹底的なもの、例えば、彼が思い描きはしたが結局は承認することをためらったあの「漠然たるアダム」(注26)、つまりはただいくつかの特異性だけによって定められ、複数の世界に妥当するような個体(固有名)という着想を可能なかぎり活かそうとするときの、ドゥルーズの構想に類したものであると判断してよい。

したがって、「漠然たるアダム」、言いかえるなら、複数の世界に共通する、放浪者[=浮浪者]の、ノマドの、アダム=xがいる。〔中略〕極限的には、あらゆる世界に共通する何ものか=x。すべての対象=xは「人格[=ペルソナ]」である。人格を定めるのは述語であるが、この述語は、世界の中で決定される個体の記述を操作する分析的述語ではない。反対に、この述語は、人格を総合的に定め、人格に対して異なる世界や個体性をそれらと同数の変項や可能性として開いてやる述語である。(注27)

世界間の序列はもはや成り立たず、そこを超越的な目的地として目覚めるべき当の現実世界なるものを、どこかよそに探し求めるには及ばない。したがって、「私」の脳天を揺るがす四冊の書物による一撃は、それまでいた絵空事の世界から現実世界への目覚めという『弁神論』の成行きを踏襲せず、あべこべに、神のごとき超越的な創造者としての威光を捨て去った受け身の「私」の快い頭痛の中で、架空の登場人物にすぎなかったはずの上木らいちという個体の現実性を、当然の前提として確認し、さらにはいよいよ強化するように働く。お世辞にも上品とは呼びがたい破廉恥な事件の数々を経ているだけに、また「私」の口にする浮ついた台詞とは裏腹に地の文そのものの文体は相変らず人を食ったような、変に真面目くさった仏頂面を一向に崩そうとしないだけに、ここに至って思いがけず垣間見えるあまりにも一途な小説家の純情、すなわち自分の意のままにならぬほどに自由な生命を無から創造し、あわよくばそれと対面を果たしたいという切実な願いはなおのこと真率で美しく、抗しがたい笑いと一体になって読者の胸を打つ。

それにしても、意気揚々と部屋を訪ねた「私」に冷や水を浴びせる、立腹したらいちの台詞―「人で遊ばないでよね」―から察するに、結局のところやはり彼女はたった一人しか存在せず、そしてもちろん人間には違いないが男でも老婆でもなく、したがってあの荒唐無稽な「真相」の数々は全て、作者を名乗る地の文の「私」こと早坂吝が、先立つ章をろくに推敲もしないで適当に書き流してきた結果、終章に至ってとうとうその皺寄せが一挙に押し寄せてきたのに対して苦しまぎれの辻褄合わせを迫られたというだけの単なる不手際、あるいはそこまでいかないにしても、遊び半分の妄想の類にすぎないのではなかろうか。なるほど、その気になればそのような味気ない、とはいえずっと合理的な読み方も十分可能であろう(そしてこのことが、まさしく作者の―作品の内部に姿を見せることはありえない、真の作者の―手際のよさを証拠立てている)。
しかし、この疑問に対しては、もっと本格的な答が少なくとも二つ考えられる。第一に、ドゥルーズ哲学における「理念」は、解を条件づける問題的なものとしての、発生的諸要素の間の差異的・微分的な諸関係(比)の体系、あるいは潜在的な多様体であり、したがって、ライプニッツが説いたような、潜在的には個体に先行しつつも当の個体によって現働化されるべき、表現されるものとしての世界は、差異的・微分的な関係(比)の変化によって、またこの関係(比)に対応する特異性の配分によって定義されるという点で、このような理念の特権的な実例、ある理念的連続体である(注28)。ひとたびこのことを認めてしまえば、上木らいちは要するに単数なのかそれとも複数なのかという二者択一的な問いは意味を失ってしまう。なぜなら、多様体は一でも多でもなく、それどころか両者の対立を無効にするからだ。

可変的な多様体(ミュルティプリシテ)とは、〈どのくらい〉ということ、〈どのように〉ということ、〈それぞれの場合〉ということである。どのような事物をとってみても、それが《理念(イデア)》を具現しているかぎり、ひとつの多様体(ミュルティプリシテ)である。その場合、〈多〉さえも多様体(ミュルティプリシテ)であり、〈一〉すらも多様体(ミュルティプリシテ)である。〔中略〕〈一〉と〈多〉の御大層な対立のかわりになるものは、多様体(ミュルティプリシテ)という変化性(ヴァリエテ)、すなわち差異しかない。(注29)

したがって、「らいちは複数いる」という命題は、実は、「らいちは一つの多様体である」と読まれなくてはならない。その命題は、上木らいちという固有名のもとに、三通りの解を呼び寄せる問題的なもの、包み込まれた三種類の世界を、すなわち理念を見出すよう我々に促すのだ。例えば目という器官を、生体に突きつけられた光という問題に対する解として考えてみればわかるように、問題としての理念を解くこととは、質の付与ないし種別化と、部分の構成ないし組織化の両方であるような、異化‐分化(différenciation)としての現働化の過程である。
第二に、副次的矛盾が諸系列に働きかけ、共可能性を定義する収束と、反対に不共可能性を定義する発散とをもたらすのは、まさに理念を舞台として進行する事態であり、ドゥルーズはこの「理念的なゲーム」に関してライプニッツの理論から多くを学んだのではあるが、とはいえあらゆる点に至るまで同意したわけではなく、無数の可能世界の中には神によって創造されるに値するたった一つの最善世界があり、それこそがまさに我々の住むこの世界だという神学的な主張を受け容れることは拒んでいる。ドゥルーズにとっては、「理念的なゲーム」の真価はむしろ偶然の肯定において見出される。偶然を肯定することこそが思考の務めであり、そしてその成果は、彼によれば藝術作品以外にない。

したがって、理念的なゲームは、思考と芸術のために確保されたゲームである。そこでは、偶然を支配するために、賭けるために、稼ぐために偶然を分割するのではなく、遊ぶことができる者、言いかえるなら、偶然を肯定し分岐させることができる者のためにだけ勝利がある。思考の中にしかなく芸術作品以外の成果のないこのゲームは、思考と芸術をリアルにするものであり、世界のリアリティを、世界の道徳性と経済を攪乱する。(注30)

このようにしてライプニッツ哲学から離脱してゆくドゥルーズが、現代藝術における「問題的なものおよび問いの発見」の例としてまっさきに「《理念(イデア)》の小説的発見」に言及し、あまつさえ「作品の著者は、まさに《理念(イデア)》の操作者(オペラトゥール)と名づけられてよい」と断定しているのを読むとき(注31)、我々には、理念という問題的なものと不可分なこの「思考と芸術のために確保されたゲーム」を最もよく代表するものは、謎解きを主題とする娯楽的な(遊戯的な)小説作品、すなわちミステリーだろうとごく自然に思えてくるばかりか、その中でも『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』こそが、これら一連の洞察の深さを見定める上で、これ以上は望みえないほどの理想的な照明を投じてくれるように思える。なにしろこの小説は、謎を解き明かす者、つまり探偵の身柄それ自体を問題化の渦の中に巻き込んでしまい、しかもそれに対する解を、収束ではなく発散として、分岐として、肯定的に描き出すことに成功しているからだ。三通りの外国語版は、単にそれらの成立が報告されるだけにとどまらず、異化‐分化としての現働化の過程を経て、物体(書籍)となって現れもする。こう考えてくれば、「らいちは複数いる」という例の命題が―字義通りの意味で読んだ場合に―はたして本当に正解であるかどうかは結局はっきりせず、かえってそのようなふざけた推理をぬけぬけと書いて読者を煙に巻く作者(を名乗る地の文の話者)の藝術的な作為こそが際立ってくるという事の成行きは、決してこの作品の短所ではなくて、むしろ長所なのではなかろうか。

それにもかかわらず、全篇を締めくくる次の段落を読むかぎり、やはりこの小説の中に脈々と流れこんでいるのは、微小表象に魅せられたライプニッツの精神なのだという思いもまた抑えがたい。

 翌朝、らいちに見送られながら部屋を出ると、雨上がりの空に虹が掛かっていた。我々は色の数を数えた。しかし色と色の間にまた無数の色があり、具体的に何色と言うことはできなかった。(注32)

というのも、『弁神論』と並ぶライプニッツの主著である『人間知性新論』は、我々の感覚が十分に鋭敏でさえあれば二次性質はあとかたもなく消え去って一次性質のみが残るはずだというロックの見解(謬見)を修正すべく、ほかならぬ虹の現象を例に挙げて、現象に特有の事象性(réalité)に、ひいてはその事象性に応じて現象が要求しうるはずの存在者としての資格にも配慮しながら、いくら知覚が無限小の世界に分け入ろうとも色の湧出には際限がないはずだとほのめかしているからだ。

しかし、黄色も虹のようにやはりひとつの実在です。それに、明らかに私たちは現在の状態をはるかに超えた状態へと向かうべく定められており、無限に進むことさえできましょう。〔中略〕それに、何らかの色とか性質が、より充実した備えをもったりいっそう鋭くなった私たちの目には消え去るとしても、他の色とか性質がそこから生じてくるのは明らかです。そしてまた、それらを消失させるためには、私たちの洞察力を新たに増大させなければなりますまい。物質の現実的分割が実際にそうであるように、それは無限に進みうるでしょう。(注33)

どちらの引用文の場合も、主語は一人称複数、つまり「我々」ないし「私たち」である。ただし、このことが意味するものは双方にとって同一というわけではない。換言すれば、「彼女は」でも「私は」でもなく、「我々は色の数を数えた」と書いてあることは、哲学書である『人間知性新論』とは違い、『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』は小説であるという事実に思いを致すならば、格別の値打ちを持つようになる。それ自身に対して差異化し続ける色彩の多様性は、もはや犯人はおろか、創造者である作者にとっても、また探偵である主人公にとっても究め尽くしがたいほどに変幻自在なのであり、そのかぎりでこの両者、つまり作者と主人公に共通であるような取り組むべき課題の地平を設定してくれる、奇蹟的な一種の恩寵なのである。ここにおいてまたしても、「神は計算して世界をつくる」というライプニッツの命題に対してドゥルーズがすかさず付け加える、「その計算はけっしてきちんと割り切れるようになるものではない。計算の結果に残るそのような割り切れなさ、そのような解消されない不等性、それこそが、世界の条件をなしているのである」(注34)という抜け目ない注釈が役に立つ。世界は、創造者であるはずの神にとってすらある意味で汲み尽くしえず数えきれない剰余として、差異から与えられるのだ。
いずれにせよ、虚構の創造における方法論を理解する上でライプニッツ哲学が、あるいはそれのドゥルーズ化された版がどれほどの威力を発揮するかを改めて教えてくれることは、この小説の数ある美点の一つであろう。


(1)ジョン・ロック『人間知性論(一)』(大槻春彦訳、岩波文庫、2004年第8刷)191頁。
(2)G.W.F.ヘーゲル『フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異』、『ヘーゲル初期哲学論集』(村上恭一訳、平凡社ライブラリー、2013年)161頁。
(3)ちなみに、前作『○○○○○○○○殺人事件』には、いかにもメフィスト賞の受賞作にふさわしくゲーテの『ファウスト』からの引用がドイツ語のまま出てくるので、同じゲーテの『色彩論』についても作者が知っている可能性はある。
(4)早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』(講談社、2015年)219頁。
(5)ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」(内村博信訳)、『ベンヤミン・コレクション2 エッセイの思想』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、2003年第5刷)396-398頁。
(6)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)134-136頁。
(7)アルノー宛書簡、1686年6月(7月14日)、1686年11月28日/12月8日、ライプニッツ『形而上学叙説』(河野与一訳、岩波文庫、2005年第5刷)282頁、326頁。
(8)アルノー宛書簡、1687年4月30日、1687年9月(10月9日)、同書364、369、409頁。
(9)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)151-152頁。
(10)ライプニッツ『形而上学叙説』(前掲書)81-83頁(第8章)。
(11)ライプニッツ『単子論』(河野与一訳、岩波文庫、2006年第18刷)269頁(第56節)。
(12)同書272頁(第61節)。
(13)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)40-48頁。
(14)早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』(前掲書)221頁。
(15)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)55-56頁。引用に際して、「モナド」を「単子」に改めた。
(16)ライプニッツ「理性に基づく自然及び恩恵の原理」第五章、『単子論』(前掲書)154頁。
(17)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)89頁。
(18)ライプニッツ『ライプニッツ著作集7宗教哲学『弁神論』下』(佐々木能章訳、工作舎、1991年)158頁(本論第三部416節)。
(19)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)200-202頁。
(20)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)103-104頁。ただし、この訳書では、« vice-diction »の訳語は「副次的矛盾」ではなくて「副次的言辞〔副説〕」である。
(21)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)199-200頁。
(22)同書299頁。
(23)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)330-331頁。引用に際して、「セリー」を「系列」に改めた。
(24)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)144頁。原文において傍点が付してある箇所(「そして」)を太字の表記に改めた。
(25)ライプニッツ『単子論』(前掲書)269-270頁(第57-58節)。
(26)エルンスト・フォン・ヘセン‐ラインフェルス伯爵宛書簡、1686年4月12日、「『各人の個体概念は、いつかその人に起ることを、一度に合せて含んでいる』という私の命題に関する、アルノー氏の書簡に就いての備考」、アルノー宛書簡、1686年6月(7月14日)、ライプニッツ『形而上学叙説』(前掲書)203、247、253-255、274頁。
(27)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)207頁。原文において傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。なお、[]内は訳者による補足である。
(28)ジル・ドゥルーズ「ドラマ化の方法」(財津理訳)、『無人島 1953-1968』(河出書房新社、2003年)213-215頁。
(29)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(財津理訳、河出文庫、2007年)47頁。
(30)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)117頁。原文において傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。
(31)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(前掲書)78、87頁。
(32)早坂吝『虹の歯ブラシ 上木らいち発散』(前掲書)221頁。
(33)ライプニッツ『ライプニッツ著作集4認識論『人間知性新論』上』(谷川多佳子・福島清紀・岡部英男訳、工作舎、1993年)261-262頁(第2巻第23章)。訳文中の「実在」の原語は« réalité »であり、「物事」を意味するラテン語の« res »という名詞に由来する。ライプニッツの形而上学においては、この概念をほぼ「本質」と同義に用いて、諸々の可能的な候補の間でそれが最も多いもの、すなわち最も完全なものが、(神によって)創造され、実存するに至る資格を持つと説かれることがある。そのような文脈においては、むしろ例えば「事象性」とでも訳すべきであろう。
(34)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 下』(前掲書)144頁。このドゥルーズによる注釈の源泉として、シェリングの名高い論文「人間的自由の本質とそれに関連する諸対象についての哲学的探究」(1809年)を想定することは許されよう。というのも、シェリングはその論文において、諸事物の生成の根底を求めた結果神自身の内なる神自身でないものという概念に行き着き、この神の実存の根底、あるいは「永遠の一者が自己自身を産もうとして感じる憧憬」という「最初にあった無規則的なもの」こそ「諸事物における実在性の把握しがたい基底」であると主張しつつ、被造物の実在性の条件にほかならぬ、この「先行する暗闇」について、それは「最大の努力を払っても悟性に解消し尽くされることなく」、創造後も「永遠に根底に残りつづけるもの」、すなわち「決して割り切れることのない余りである」と書いているからだ。なお、参照したのは『シェリング著作集 第4a巻 自由の哲学』(燈影舎、2011年)107-108頁(藤田正勝訳)であり、引用も同書からである。

category: 早坂吝

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