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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』 

それほど数が多いわけでもないコクトーの小説の中からどれか一冊代表作を選ぶとすれば、やはり『恐るべき子供たち』〔Les Enfants terribles〕(1929年)だろう。
日本語訳の中で目下一番新しいのは、光文社の古典新訳文庫に入っている、中条省平と中条志穂による共訳のようだ。もちろん、多少とも規模の大きな出版上の企画がどれもそうであるように、この古典新訳文庫にも毀誉褒貶がある。私自身も、ときには訳文の質に疑問を抱いたり、あるいはそこまでいかないにしても、「この本は別に新しい翻訳を出す必要はないんじゃないか」とか、「こんなに細切れの分冊にせず、訳注ももっと増やして通常の学術書の体裁に近づけたほうが、かえって通読にも引用にも好都合ではないか」などと思わされることがあった。
だが、『恐るべき子供たち』は間違いなく成功例の一つだと思う。なにしろ有名な作品である。雪合戦で負った怪我がきっかけで学校に通うのをやめてしまった少年ポールとその姉であるエリザベートの、誇り高く、それでいて痛々しいほどに無垢で繊細な魂や、二人の根城である子供部屋に、やがて彼女に恋するジェラールとポールを慕うアガートが加わり、この四人の孤児が繰り広げることになる、儚くも美しい無軌道な共同生活の模様や、自分がポールを独占したいばかりに彼がアガートに書いた恋文をこっそり破り捨て、ジェラールを強いて彼女と結婚させたエリザベートの陰謀のせいでついにその生活が破局を迎えるまでの悲劇的ないきさつ―絶望したポールは毒を呑み、あまつさえ真相の露見を悟ったエリザベートも、子供部屋の理想に殉じるべく拳銃自殺を遂げる―等々については、わざわざ詳しく紹介するまでもない。
それよりも特筆すべきは、従来の翻訳、ことに岩波文庫(鈴木力衛訳)と比べた場合に際立つ、訳文の正確さと明晰さである。例として、負傷したポールを彼の家に送り届けた後、叔父の家に帰宅するジェラールの様子を描いた以下のくだり(第2章)を検討してみる。なお、文中に「遊戯」とあるのはポールたちが使う一種の隠語で、一時的に現実を忘れて心地よい夢想に耽ることを指す。また、ダルジュロスはポールが憧れていた悪童で、雪玉をぶつけて彼に怪我を負わせた張本人でもある。さらに、ジェラールの思慕が、この時点ではまだ、エリザベートよりもむしろポールを対象としていることにも留意すべきである。

 走る車のなかで、ジェラールは、ついさっき友人がもたれかかっていた片隅に身を沈めた。頭をのけぞらせ、道路の凹凸に合わせてわざとぐらぐら揺らせた。遊戯をする気にはなれなかった。苦しんでいたのだ。あの夢のような車の旅のあとで、ジェラールは、ポールとエリザベートの生活の現実を見て、がっくりと気落ちしていた。エリザベートがジェラールの夢をうち砕き、ポールの弱さには残酷な気まぐれが絡みついていることを思いださせたのだ。ダルジュロスにうち倒されたポール、ダルジュロスの犠牲になったポールは、ジェラールが奴隷として仕えていたポールではなかった。ジェラールは車のなかで、狂人が死んだ女を弄ぶような振舞いに及んだのだが、その行為のみだらさを思いおこすことはなかったものの、あのときの快感は、雪とポールの仮死状態が重なって、ポールを別人のように勘違いしたことから生まれたのだと気づいていた。家に帰る車のなかで、ポールが積極的に影響力をふるう人物のように思えたのは、消防車の束の間の光のせいで、彼の顔に血の気が戻ったと思うのと同じ勘違いだった。(注1)

続いて、岩波文庫版の該当する箇所を挙げる。

 さっき、友達がもたれていた片隅に、ジェラールはふかぶかと腰を下ろした。彼はわざと頭をのけぞらせて、車の震動に身をまかせていた。しかし、もう夢の世界に遊ぶ気にはなれなかった。彼は苦しんでいた。せっかく、うっとりするようなひとときを過ごしたあとで、ポールとエリザベートとのやりきれない場面に出っくわしたのである。エリザベートは彼の目をさました。そして弟のポールは弱虫のくせに残酷な気紛れの持主という複雑な性格であることを彼に思い出させた。ダルジュロスにやっつけられるポール、ダルジュロスの犠牲になるポール、それはジェラールがその奴隷になっているポールではなかった。車のなかのジェラールは、いってみれば狂人が死んだ女を弄ぶように振舞ったが、その事柄を生々しく思いうかべたわけではない。彼はこの瞬間の快さは、雪と気絶のおかげ、一種の人違いのせいだと考えた。帰りの車のなかで、ポールが元気に見えたのは、消防自動車がサッと通りすぎたとき、その反射で血色がよくなったと考えたからだった。(注2)

一読してわかるように、原文が同じである以上、たしかに両者は全体としては似ているのだが、それでもあちこちに看過しがたい違いがある。それでは、もっと細かい比較は何を教えてくれるのか。それを知るためには、原文を参照することが不可欠だろう。

Il roulait, enfoncé dans le coin où tout à l'heure s'appuyait son ami. Exprès, il laissait sa tête baller en arrière aux cahots de la course. Il n'essayait pas de jouer le jeu; il souffrait. Il venait, après une étape fabuleuse, de retrouver l'atmosphère déconcertante de Paul et d'Élisabeth. Élisabeth l'avait réveillé, l'avait fait se souvenir que la faiblesse de son frère se compliquait de caprices cruels. Paul vaincu par Dargelos, Paul victime de Dargelos, n'était pas le Paul dont Gérard était l'esclave. Gérard avait un peu agi dans la voiture comme un fou abuse d'une morte et, sans se représenter la chose avec cette crudité, il se rendait compte qu'il devait la douceur de ces minutes à une combinaison de neige et de syncope, à une manière de quiproquo. Faire de Paul un personnage actif dans cette promenade, c'était attribuer au retour du sang le reflet fugace des pompes.(注3)

さて、この原文を傍らに置いて岩波文庫版を検討すると、まず気づくのは原文にない余計な語句の追加である。「しかし、もう遊戯をする気にはなれなかった」の「しかし、もう」や、「せっかく、うっとりするようなひとときを過ごしたあとで」の「せっかく」、それに「弟のポールは弱虫のくせに」の「くせに」などがそうだ。もっとも、この三つは意味を読みとりやすくするための工夫として、許される範囲の処置ではあろう。また、光文社古典新訳文庫版ではあっさり「遊戯をする」と訳されている« jouer le jeu »を「夢の世界に遊ぶ」と訳すのも、訳者の裁量で言葉を補ったやや大胆な意訳の部類に入るが、これをしも誤訳呼ばわりする人がいるとすれば、それは狭量というものだろう(この表現は、成句としては「規則を守ってプレーする」という意味になるが、この場合はそうでないことが文脈から明らかだ)。しかしその一方で、逆に冒頭の« Il roulait »すなわち「彼は車に乗っていた(彼は車中の人となっていた)」がすっかり脱落しているのは気にかかる。また、« Exprès, il laissait sa tête baller en arrière aux cahots de la course »も、直訳すれば「わざと、彼は自分の頭をのけぞらせて道中の揺れに即してぐらつくに任せていた」くらいになるはずで、「揺れ」と訳した« cahots »は、このほか「凸凹」とも「車の揺れ」とも訳しうる以上、「車の震動に身をまかせていた」というのは、誤訳とまではいかないが、微妙に原文からずれていると判断せざるをえない。なんとなれば、「身を」が明らかに余計な一方で、« aux cahots de la course »の« course »に相当する訳語は―この場合、「行程」とか「走行」では奇妙な感じが避けがたく、たしかに訳しづらいとはいえ―欠落しているからだ。この点、光文社古典新訳文庫版の「頭をのけぞらせ、道路の凹凸に合わせてわざとぐらぐら揺らせた」は、これはこれで意訳になるのかもしれないが、ずっと原文に近い。
もっとも、辞書的な意味での正確さのみを問うなら、中間を占める一連の文章に関しては、岩波文庫版のほうが原文に忠実というか、逐語訳的である。とりわけ、光文社古典新訳文庫版における「ポールとエリザベートの生活の現実を見て、がっくりと気落ちしていた」や、「エリザベートがジェラールの夢をうち砕き」などは、職人的な巧みさが光るという点で面白いが、端正で無駄のない原文のたたずまいを考慮するかぎり、岩波文庫版の「ポールとエリザベートとのやりきれない場面に出っくわしたのである」および「エリザベートは彼の目をさました」と比べて、いささか装飾過剰な感じも否めない。ただ、この強調のおかげで、わかりやすさが増しているのも確かである。エリザベートの罵詈雑言、そして彼女とポールの間の卑俗な口喧嘩は、間違いなく内気なジェラールの心に苦い印象を残しているからだ(注4)。そしてこのわかりやすさは、岩波文庫版が「いってみれば」と訳しているらしい« un peu »(「いささか」)という緩和表現の黙殺に続き、わざわざ婉曲にぼかして書いてあるはずの« sans se représenter la chose avec cette crudité »までもが、光文社古典新訳文庫版では、「その行為のみだらさを思いおこすことはなかったものの」などと露骨な語彙で訳されているのを確認するに及んで、ほとんど破廉恥と境を接するに至る。ここに関しては、岩波文庫版の「その事柄を生々しく思いうかべたわけではない」のほうが、少なくとも書き手が示そうとした慎みの態度にはふさわしいはずだ。そもそも、「行為」なら「行為」とはっきり書けばあまりにも性的な(同性愛的な)匂いが強くなり、文体の統一性が乱れかねないからこそ« chose »すなわち「事柄」という漠然とした語が選ばれたわけで、それをまるで« acte »のごとく「行為」と訳しては元も子もないというものだし、« crudité »の意味も「みだらさ」というよりはもうちょっと大人しく、「生々しさ」・「どぎつさ」あたりに落ち着くのではなかろうか。
ときにこういう勇み足はありながら、それでも総合的に考えて光文社古典新訳文庫版に感心させられるのは、ひとえに原文の論理性への行き届いた配慮のためである。すなわち、最後から二番目の文章におけるジェラールは、自分が現在身を置く状況に反省を加えているのではなく、あくまでも先刻ポールを彼の家に送り届けたときの車中での体験を回想しつつ、「人違い」という辛辣な判定を下すことによって、そのとき覚えた昂揚感は単なる錯覚の産物にすぎなかったと自分に言い聞かせているわけで―半過去形で出てくる« se rendre compte »は、もちろん« rendre compte »すなわち「説明する」を代名動詞化(再帰動詞化)したものである―、してみれば岩波文庫版の「この瞬間の快さは」には、光文社古典新訳文庫版の「あのときの快感は」と比べて、この点、つまり絵画における遠近法の効果にも比すべき時間感覚の立体性が不明瞭であるという小さくない欠点がある(そもそも訳者が勘違いしているのかもしれない)。
そしてそれ以上に決定的なのが、« Faire de Paul un personnage actif dans cette promenade, c'était attribuer au retour du sang le reflet fugace des pompes »という最後の文の訳し方である。あえて直訳すれば、例えば「この道すがらポールを一人の能動的な人物にすること、それは消防車の束の間の反射光を血色の回帰に帰属させることに等しかった」とでもなろうが、これではさすがに無骨すぎる。もともと、いわゆる「こなれた」・「日本語らしい」訳文とやらに執着しすぎるのも考えものだというのが私の持論ではあるのだけれど、このいかにも古典主義的な、そっけないほど簡潔なフランス語の原文を前にすると、二つの訳文がどちらも、これを小説の文章として一応違和感のない日本語に移植しえているのは立派だと思う。しかしながら、この硬質の簡潔さを背後から支えているはずの理知的な骨格にまで思いを致すとき、« actif »を「元気」と訳す一方で、« un personnage »すなわち「一人の人物」という語句を省いてしまい、その結果として事態をあくまでも生理的な因果関係の内部で終始させてしまう岩波文庫版の訳文には、どうにも違和感を覚えるのだ。なるほど、ここで言及されている場面、すなわち雪合戦の戦場からポールの家に戻る車の中で、傷つき、眠るポールをジェラールが見守る場面には、たしかに消防車の放つ赤い光の反映でポールの顔が血色を取り戻す(取り戻したかのように見える)という描写が存在する。光文社古典新訳文庫版では、「ポールの顔の上で赤い色が踊っている。ジェラールはポールが元気を回復したのだと思った」(注5)と訳されているのがそれである。しかしながら、その直後に、決して腕力が秀でているわけではないポールが、それにもかかわらずジェラールを魅了してやまない理由を説明しようとして、話者は特異な夢想の能力を挙げた上で、「ポールがジェラールを支配し、ポールの影響力で、しまいにはすべてが形を変えるのだった」(注6)と告げているのだ。ここの原文は、« Paul le dominait et son influence avait à la longue transfiguré tout »(注7)である。すなわち、光文社古典新訳文庫版が、« Faire de Paul un personnage actif »を、冗長さを恐れずあえて「ポールが積極的に影響力をふるう人物のように思えたのは」と訳したのは、この、ポールがジェラールに振るうという「影響力(influence)」のことを念頭に置きつつ、読者にもそれを想起させようとしたからではなかろうか。その結果として確立をみるのは、夢想の才能ゆえにポールがジェラールに対して発揮する影響力と、消防車の光の反映のおかげで一時的に彼の顔に戻った血色との間の類比、あるいは心理的なものと生理的なものという二つの並行的な系列の間の類比であり、ひいては前者の系列に属する一種の威光(影響力)が、実は後者の系列に属する顔の血色と同様に単なる錯覚に根ざしていたことの露見と、この露見がもたらす幻滅の感覚である。そしてこの幻滅の感覚と同質のもの、周到にもあらかじめそれを準備していた当のものを、さきほどはいささか装飾が過剰とも思えた先行する訳文―「あの夢のような車の旅のあとで、ジェラールは、ポールとエリザベートの生活の現実を見て、がっくりと気落ちしていた。エリザベートがジェラールの夢をうち砕き、ポールの弱さには残酷な気まぐれが絡みついていることを思いださせたのだ。ダルジュロスにうち倒されたポール、ダルジュロスの犠牲になったポールは、ジェラールが奴隷として仕えていたポールではなかった」―の中に改めて認めるとき、我々読者は、ようやく光文社古典新訳文庫版の訳者たちの入念な配慮と作品への愛に気づき、ひとしおこの翻訳への信頼が深まるのである。これでこそ、訳者(中条省平)の解説にもあるように、「人間精神を精密機械のようなメカニズムとしてとらえる」(注8)ことを最大の特徴とする、ラ・ファイエット夫人(『クレーヴの奥方』)以来のフランス心理小説の栄えある伝統に連なると同時に、まさにそのことによって『ドルジェル伯の舞踏会』を残して夭逝した天才レーモン・ラディゲへの限りない哀惜と友情のこもった応答でもあるはずの、『恐るべき子供たち』という小説の真価がうかがえるというものではないか。
ただ、強いて注文をつけるとすれば、« Faire de Paul un personnage actif dans cette promenade, c'était attribuer au retour du sang le reflet fugace des pompes »というこの最後の文は、動詞(« était »)の時制が半過去である。この時制は叔父の家に帰りつつある車中のジェラールにとっての現在を表しており、対して先刻ポールを送り届けたときの体験を回顧的に叙述している「ジェラールは車のなかで、狂人が死んだ女を弄ぶような振舞いに及んだのだが」の原文(« Gérard avait un peu agi dans la voiture comme un fou abuse d'une morte »)は―「エリザベートがジェラールの夢をうち砕き、〔中略〕思いださせたのだ」の原文(« Élisabeth l'avait réveillé, l'avait fait se souvenir »)と同様に―、もう一段階古い過去に属する出来事への言及なので、時制が大過去である。この対照関係に注意するなら、光文社古典新訳文庫版の「家に帰る車のなかで、ポールが積極的に影響力をふるう人物のように思えたのは」という訳文は、「思えたのは」の代わりに「思うのは」と書けばなおいっそうよかったのかもしれない(その場合、「家に帰る車」が指すものは、先刻ジェラールに付き添われたポールを彼の家に運んだ車ではなくて、目下ジェラールを叔父の家に運びつつある車だということが確定するので、その分さらなる明晰さが期待できる)。要するに、ジェラールの視点で進むここのくだりにおいて生じるものは、日頃は彼を支配下に置いてきたポールの威光の喪失、という中心的な現象に対する評価の反転である。先刻はポールが人事不省に陥ったのをよいことに主従関係の逆転を楽しみ、女性的な受動性を示すその身体を弄んだ―たぶん、せいぜい軽い愛撫に加えて、頬への接吻くらいが関の山ではあろうが―ジェラールだったが、喧嘩腰で自分たちを出迎えたエリザベートの権幕と姉弟の日常生活の一幕を目にしたいまとなっては、あのとき自分が夢中になった対象はただの抜け殻で、所詮生身のポール本人ではなかったという苦い認識とともに、現実から痛打をくらった反動でつい先刻まで信じてきた自らの前提を疑うに至った思考の中で、そもそも偉大な夢想家としての権威をポールに認めること自体に抵抗を覚え始めている…こう考えれば、私の読み方はそれほど突飛でもないように感じる。夢想の威力がいわば現在進行形で失われつつあるというこの見方は少々悲観的すぎるというか、主人公であるポールに対しては酷かもしれない。なんとなれば、「思えたのは…勘違いだった」ならば一回きりのことだし、ことによると―地の文の進行を司る非人称の話者が握る手綱を、登場人物(ジェラール)の気持ちが振り切ってしまうとともに―再度判断が覆る可能性も否定できないのに対して、「思うのは…勘違いだった」と書けば、そこには「以前はそう思えたが、いまではもはやそう思えない」という当事者(ジェラール)の自覚が言外に自ずと伴うからだ。けれども、実際にジェラールの中で例の「遊戯」への関心が薄れたのに続いて、エリザベート、さらにはポールその人ですらも次第に「遊戯」への没頭が難しくなってくるというその後の不吉な成行き(注9)をほのかに予告する伏線がここに隠れていると仮定してみると、私としてはなおさら「思えたのは」よりも「思うのは」に肩入れしたい気がするのである。

以上の比較はある程度興味深い結果になりそうな箇所を選んだ結果であって、全体を通して読めば、原語をそのまま音写しただけで日本の読者にとっては見慣れぬカタカナ語が多い上、代名詞の取り違えも目立つ岩波文庫版のほうが分が悪いことは否めない。例えば、いましがた検討したくだりに続く段落における、« l'amitié qu'il pouvait en attendre »(注10)を、« Élisabeth et Paul l'aimaient beaucoup »―「エリザベートもポールも彼のことがとても好きだった」―という文に先立つ以上、ここの« il »は光文社古典新訳文庫版の「姉弟が自分に友情を感じていることを」(注11)という訳文のごとく主語であるジェラールその人を指すと考えるのが正しいはずなのに、てっきりこれがポールを指すものと思い込んだ結果として「ポールが姉からどんな愛情を期待しているかも」と訳したり(注12)、また同じ段落の最後に出てくる« suites qu'elle risquait d'avoir »の« elle »も、文脈からして« syncope »すなわち「失神」という普通名詞を受けているはずなのに、これをエリザベートを指すものと思い込んだ結果として、「ジェラールはやはりポールが気絶したことを、その気絶の真相を、〔中略〕そしてまたエリザベートが気絶するときのことを、考えずにはいられなかった」(注13)などという不可解な訳文(一体どんな理由があって、唐突にもここでジェラールがエリザベートの気絶に思い至らなくてはならないというのか…)が生じたりしているのが、典型的な誤りであろう。のみならず、終盤に近づくにつれて訳文の乱れが増し、大詰めの数頁に至っては、ポールがエリザベートに投げつける« monstre »(注14)すなわち「怪物」―光文社古典新訳文庫版では、「人でなし」(注15)―という罵倒の言葉を「悪魔」と訳したり(注16)、錯乱に陥ったエリザベートの状態を表す« essayait(...)de reculer les bornes du vivable »(注17)―直訳すれば「生きうるものの境界を押し広げようと試みていた」とでもなるか―を、まるで« reculer »が他動詞としても「(…から)後退する」を意味するかのように「生あるものの限界から後退しようと努めた」と訳したり(注18)、さらにはもはや死につつある姉弟にとってはアガートの叫び声がどこ吹く風であることを意味するはずの« Comment le frère et la sœur eussent-ils fait pour l'entendre ? »(注19)―「どうして弟と姉がそれを聞くことなどありえただろうか」―という、接続法大過去を用いた修辞疑問文を、まるで通常の疑問文であるかのように「姉と弟はいかにして、それを聞くことができるようになったのか?」(注20)などと訳したりと(これでは意味が正反対である)、大事な場面であるだけになおさら惜しまれる、見当外れの訳語や粗忽な間違いがそこかしこに現れる。
このほかの翻訳についても簡単に検討しておこう。まず、東京創元社の『ジャン・コクトー全集』第三巻(1987年第三版)に入っている佐藤朔訳は、直訳的な調子を活かしつつ控えめな文学的潤色をほどよく散りばめた名訳だが(注21)、図書館で借りでもしないかぎり、読みたいと思ってもなかなか目にする機会がないのが難点であろう。対照的にたやすく手に入る角川文庫版『怖るべき子供たち』(東郷青児訳、2013年改版65版)は、豊富な語彙の柔軟な使い分けと渋い品格をたたえた文体が魅力的である反面、岩波文庫版に認められた諸問題の多くはこちらにも存在するし―というよりも実際の順序は逆で、時間的に先立つこちらの翻訳から岩波文庫版がそれらの問題点を引き継いだのであろう―、また、求龍堂から出ている訳本(高橋洋一訳、1995年)はこの二つの文庫版よりはだいぶ訳文が正確なようで、加えてコクトーがこの小説のために自ら描いたピカソ風の美しい素描の数々を堪能させてくれるゆったりした瀟洒な作りにも強く惹かれるが、いかんせんかさばるし、60葉余りの素描は、寸法こそ小さいものの光文社古典新訳文庫版にも抜かりなく全てが収録されている。年譜までついて至れり尽くせりなので、これから『恐るべき子供たち』を読もうという人にはこの古典新訳文庫版を勧めたい。


(1)コクトー『恐るべき子供たち』(中条省平・中条志穂訳、光文社古典新訳文庫、2007年)55頁。以下、「中条訳」と略する。
(2)コクトー『恐るべき子供たち』(鈴木力衛訳、岩波文庫、2005年第65刷)23-24頁。以下、「鈴木訳」と略する。
(3)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, dans Œuvres romanesques complètes, Gallimard, 2006, p.576.
(4)中条訳、51-54頁。
(5)同上、46頁。
(6)同上、47頁。
(7)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, op. cit., p.573.
(8)中条訳、251頁。
(9)同上、143-145頁。
(10)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, op. cit., p.576.
(11)中条訳、56頁。
(12)鈴木訳、24頁。そもそも« amitié »は「愛情」というよりも「友情」と訳したほうが適切なのだから、姉弟間の感情を指す語としてはよそよそしすぎ、不自然である。
(13)同上。この誤訳を誘発した原因は、おそらく引用に際して中略した部分、すなわち« à une syncope pour grandes personnes »を、この場合は« pour »すなわち「…にとって」が「…から見て」を意味することに気づかぬまま、「大人が気絶する場合のことを」と訳してしまったことではなかろうか。
(14)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, op. cit., p.635.
(15)中条訳、227頁。
(16)鈴木訳、127頁。
(17)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, op. cit., p.636.
(18)鈴木訳、128頁。
(19)Jean Cocteau, Les Enfants terribles, op. cit., p.637.
(20)鈴木訳、130頁。
(21)ただし、中条訳と鈴木訳を比較しながら読んだ例の段落を見ると、最後の文こそ「あの帰りの車で、ポールが立役者のように見えたのは」となっていて中条訳に近いものの(というよりもむしろ、中条訳が成立をみるにあたって、既存の翻訳の中で最も多く参照されたのが、ほかならぬこの佐藤朔の訳した『恐るべき子供たち』ではなかったかと思える)、« crudité »は« cruauté »と見間違えたものか、「残忍さ」と誤訳されている(423-424頁)。
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