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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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鬼頭莫宏『なるたる』 

機器の調子かそれとも私の手際か、一体何がまずかったのかわからないが、このブログとは別にしばらくせっせと取り組んでいた原稿が消滅してしまい、記憶を頼りに一から書き直す作業に追われている。ワード文書の不安定さにしょっちゅう泣かされながら一向に学習しない私の自業自得かもしれないが、保存してから寝て目が覚めたら50頁分の文章が完全に消えて影も形もなくなり、復元の手がかりになりそうな残骸すらどこにも見当らない―などという事態を日頃から想定しておけというのは、少々無理な話ではないのかな。
というわけで、以下の記事も簡単な覚え書の域を出るものではない。

ネルソン・グッドマンは記号の機能の相異に着目して、外示(denotation)と例示(exemplification)という二通りの対照的な参照の様態を区別した。外示は、記号が記号の外部へと向かう働き、ひいては一つないしいくつもの物に、単にあるラベルを貼ることとして定義されるのに対して、例示とは見本の働きであり、ある物が例示できるのはその物自身が所有する属性のみである。そして、ある物がある述語を例示するためには、現実にその述語がその物に当てはまること、すなわちその物を外示していることが必要である。例示はこのように外示と表裏一体であって、もし私のセーターが「グリーン」という色を例示するなら、そのときグリーンは私のセーターを外示していなくてはならない、つまりセーターはグリーンであるのでなくてはならない。
グッドマンのこの図式を借用しつつ、それを隠喩的な例示、すなわち表現にまで敷衍してから―「もしxがyを表現しているなら、そのときyは隠喩的にxを外示している」―、ジェラール・ジュネットは返す刀で旧来の文体論の不十分さを突く。フランス語の« bref »という形容詞は「短い」を意味する、すなわち短さを外示すると同時にそれ自体が短い、すなわち短さを例示しているが、« long »は反対に長さを外示しながら短さを例示する。また、« nuit »という語は「夜」を意味する、すなわち外示する一方で音の響きゆえに隠喩的に明るい(明るさを表現している)が、対して「影」を意味する« ombre »の場合は隠喩の次元で外示と例示が重なり合っている。そして、精密で包括的な文体(style)の定義を求めて、「言説の外示的な機能に対立するところの例示的な機能」という定式を提案するジュネットによれば、旧来の文体論は表現性の概念に訴えることで、« bref »や« ombre »のような重複ないし自己言及性の事例に過大な重要性を付与してきた点に問題が存するのだという(注1)。
文体論の偏狭さや、情意性への傾斜を是正しようというジュネットの企図そのものには何ら異存はない。ただ、文学における狭義の« style »、ないしいわゆる文体以外に、あらゆる藝術に不可欠な広義の« style »、ないし様式というものを考えてみると、このような自己言及的な例示や表現は、むしろもともと例外的なもの、どちらかといえば言語藝術に特異な現象ではないかとも思える。例えば絵画においては、互いに相手を描きつつある二つの手を描いたエッシャーの作品のような事例もあるとはいえ、小説や詩の素材、すなわち語の場合ほどには、截然と例示から区別されうるだけに、なおのことそれとの合致が印象深くありうるような外示というものが、もともと考えにくいのではないか。そしてこのずれは、絵画同様に視覚的な世界でありながらも、絵画とは違って通時的な変化に支配されている漫画においては、一見自伝か日記に類した作品であればそれだけになおのこと顕著になる。

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例えば、サークル「パコキリン」(鈴木小波)の同人誌『ホクサイと飯 おかわり』(コミティア108)は、一応漫画家の山田ブンが主人公であり、それなりに作者の実体験も反映していると思しい内容でありながら、彼女が漫画を描いているところではなく、もっぱら料理を食べたり作ったり、さらには夢うつつに料理のことを空想したりする姿に焦点を合わせている(あまつさえ結末では、雑誌の休刊により、描いた漫画を発表すること自体が不可能になってしまうほどである)。それでいて色つきの頁に見開きで出てくるパンとシチューなどは実に美味しそうで、十分な時間をかけ、かなり気合を入れて描いたのだなと思わされる。原稿を前に、文字通り寝食を忘れて没頭した日もあったかもしれない。たとえ職業は共通していても、外示されているもの、すなわち漫画を描かない漫画家(読者の目に姿を現しながらひたすら料理にかまけてばかりのブン)と、いかなる瞬間にあっても例示的にそれの背後に寄り添っているはずの影のごときもの、すなわち黙々と漫画を描き続ける勤勉な作者とでは、およそそのあり方が似ていない。ブンが人形のホクサイを相棒にしていて、ことあるごとに話しかけたり(というか話しかけられたつもりになったり)、あるいは腹話術の人形のように代弁者として利用しているという事実からも、ここでは外示と例示を媒介する、抹消することの不可能な距離、両者のたまさかの一致よりも古い、過程としての創作行為がつねにすでにそれ自体の中に含まざるをえない距離こそを、虚構を虚構として成立せしめる様式(style)の源泉と考えるべきではないか。もっともこれは、ジュネットの分類に従うならば例示の一種としての共示(connotation)―« long »は、長さを外示しながら短さを例示するとき、フランス語への帰属と反‐表現的な性格という二つの共示的価値を担う―に近いのかもしれないし(注2)、そもそも言語と文体が切り離せるという主張を批判して、「文体なしの言説も、言説なしの文体も存在しない。文体とは、それがいかなるものであれ言説のアスペクトなのであって、アスペクトの不在は明らかに意味のない概念である」と書くときの彼自身の考えと、たぶんそれほど違っているわけでもない(注3)。例示が、どこまでも外示と表裏一体のものでありつつしかもそれに対立するかぎりで、文体ないし様式の現象は成り立つのである。

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さて、夏といえば鬼頭莫宏の『なるたる』である。なんとなれば、第11巻(講談社、2009年第10刷)における夏の情景、ことに第59話「星に魅入られた子」のそれが大変すばらしいからだ。その中には、以下のような非常に印象的な、主人公であるシイナこと玉依秕(たまい・しいな)とクリさんこと涅見子(くり・まみこ)の会話の場面(190-195頁)がある。

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「クリさん/竜骸(りゅうがい)とか」「竜(りゅう)の子(こ)/って……」
「いますよ」
「いるんだ」「ここに?」
「わかり/ません?」(190-191頁)

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「え?」
「この/すべて」(192-193頁)

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「この/すべて」「この星が」「わたしの/竜の子/シェオル」(194-195頁)

『なるたる』の全篇は、決して単線的な構造にはなっていない。第11巻までに、いやそれどころか最終巻である第12巻に入っても最終話の直前までに起きた事件は、そのほとんどが最後の決定的な出来事とは直接的な因果関係によって結びつくことがないもの、せいぜいそれの準備か予兆でしかありえず、その点でこれはきわめて異様な漫画である。
その異様さ・異形さの質をうかがい知る上で恰好なのが、いましがた参照した数頁なのだ。他の登場人物たちと同じく、涅見子は、少女であること、人間であること、生物であること…等々のありふれた述語を例示している、換言すればそれらによって外示される。しかし、それらの述語には、少なくとも日常的な言葉づかいにおいては自ずと定まる潜在的な限界があり、その限界とは地球にほかならない。およそ地球上に存在する物や人であれば、地球上に見出されない述語によって外示されるということは考えられないからだ。そしてこの場合、実際にその物か人の例示できるものの範囲がずっと狭く、例えば人間であれば「自力で飛行するもの」という述語を例示できないことも明らかである。しかし、上の場面において自分がいわば地球の魂であることを明かす涅見子の場合には事情が全く異なり、例示の権限が及ぶ範囲はほとんど無際限の拡張をみて外示の限界に追いつく。およそ地球上にあるもので、結局彼女の所有に帰すると判定することが許されないものは何一つないからだ。
したがって、シイナが発する、「クリさん/竜骸(りゅうがい)とか」「竜(りゅう)の子(こ)/って……」という中途半端で不完全な台詞は、まさにその不完全さがもたらす深々とした奥行のゆえにこの場にふさわしい。すなわちこの台詞は、第一に竜骸ないし竜の子を「他の人たちと同じようにあなたも持っているのか」という最も表面的な意味で読まれうるが、第二にそれらは「本当に存在するのか」という疑惑として、そして第三に、もし本当に存在するとして、ではそれらは「一体何であるか」という端的な問いかけ、作品の核心に関わる問いとして機能する。悠然と推移するコマ割りの神秘的な荘厳さが、そのような象徴主義へと我々を導くのである(これこそ漫画ならではの醍醐味である言葉と絵の相互作用というものであって、小説ではこうはいかない)。ただしこの神秘性とは、これらの問いへの三通りの答が、通常は分離されたままであるはずなのに、この場合(涅見子の場合)に限って重なり合うところに生じるもの、換言すれば絵と台詞が一体となった作品の叙述の機構それ自体から生じるものであって、もとより偶然の産物でもなければ、単なる内容の水準における神秘主義とも無縁である。
例示が外示に追いつき、これを呑み込んでしまうということ、あるいはちょうど手袋を裏返すのにも似た内包による外延の侵蝕ということ、おそらくはこれが『なるたる』の異形性の核心である。そのとき、例えば折口信夫が説いたような、たましいは元来物体(身体)とは素性を異にしており、外来のたましいが容器としての密閉された物体の中に定着してようやくそのものは一人前の生命体としての活動を開始しうるという古代日本人の霊魂観(注4)―「たま」と「たましい」はこの見地からすればもともと同一であるが、抽象的な霊魂としての「たま」すなわち「たましい」を具体的に象徴する石や骨が、狭義の「たま」に相当する―を下敷きにしているはずの、「身体に対する魂の関係は、竜の子に対してその保持者である子供が有する関係、ひいては地球に対する涅見子(そして玉依秕)の関係に等しい」という類比の式にはもはや収まりきらず、それを踏み越えるような射程の中で、ほとんどラカン的な「現実的なもの(le réel)」がそれ自らを開示する光景に読者は立ち合うことになる。それは、地表から生え出た涅見子の(あるいは、地球そのものの)無数の巨大な手によって、全ての文明の産物もろともあっという間に人類が地表から一掃される、最終話の破局的な光景である。とはいえ、遠近法がもたらす極端な見かけ上の大小の差、および公園の柵がもたらす画然たる隔たりとともに、おびただしい人家がひしめく眼下の町を背にして―ということはつまり、それらの人家を見上げるのでもなければ、それらに面と向き合うわけでもないということだ―自分がいわば地球の意志の体現者であることを彼女がシイナに明かす、上で参照した場面は、一般の人類からは隔絶した上位の立場から彼らの運命を左右する審判者としての彼女の使命を、早くもすでに、意味に富む象徴的語法を通じて確立しているのである。冷たく光る星々を点綴された夜空の非情なまでの純粋蕪雑さも、そのことを間接的に教えている。季節を夏に限れば、これほど美しい星空が漫画の中で実現をみた例は稀であろう。


(1)ジェラール・ジュネット『フィクションとディクション』(和泉涼一・尾河直哉訳、水声社、2004年)90-93頁。
(2)同書93-95頁。
(3)同書107-108頁。
(4)折口信夫「剣と玉」、『折口信夫天皇論集』(安藤礼二編、講談社文芸文庫、2011年)155-168頁。
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category: 鬼頭莫宏

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鬼頭莫宏トークショー&サイン会(2013年1月26日) 

『のりりん』第6巻と『なにかもちがってますか』第3巻(ともに講談社)の刊行を記念して、漫画家・鬼頭莫宏さんのトークショー(相方は森恒二さん)とサイン会が、26日に秋葉原の書泉ブックタワー9階イベントホールにて開催された。
以下は当日の走り書きをもとにした報告ですが、細部に関しては記憶があやふやなところもありますのでご注意ください。

あらかじめどちらかの単行本を書泉で購入した人に参加券が配られており、それによると催し自体の時間は12:00から17:00までとのことで、開始10分前に集合してくださいという旨の注意書きがあったように思う。
ところが私が秋葉原に着いたのは12:00少しすぎ。
あわてて会場に向かったのは当然だが、実際の開始は12:15頃だったので、十分間に合った。
来場者はおよそ100人ばかり、座っている人と立ち見の人が半々くらいで、昨年のサイン会(「鬼頭莫宏サイン会(2012年1月22日)」)と比べると心もち女性の割合が多いように感じた。これは場所柄か、それともこの一年で女性ファンが増えたのか(事実、それらしき会話も小耳にはさんだ)…。

拍手に迎えられて鬼頭先生がご登場。
知ってのとおり書泉ブックタワー9階では女性アイドルの写真集やらDVDやらを商っていて、壁も天井も肌色尽くしの空間だ。それを意識してか、開口一番「並んでる場所がなかなかいい場所だったと思うので…」などと発言して満座の笑いを誘ってくれる。
『ホーリーランド』・『自殺島』・『デストロイアンドレボリューション』の森恒二さんを迎えて進行したトークショーの話題は、意外にも(?)『なにかもちがってますか』ではなく、担当編集の方が司会を務める『のりりん』に集中した。
およその流れを箇条書きで整理しておく(特にことわらないかぎり主語は鬼頭先生です。なお、一人称は「自分」でした)。
・『のりりん』第6巻の話を書くまで箱根に足を運んだことはなかった。まず自動車、ついで自転車で取材を行なった(取材時の写真の紹介が始まるが、パソコンの電池切れのせいでいったんおあずけ)。
・自分の所有する自動車はマスタング(『のりりん』の作中でノリが乗っているやつの次の型だそう)。
・しげの秀一作『バリバリ伝説』の影響で大学時代はオートバイに凝っていた。しかしトヨタに就職した。
・自動車は嫌いで、またよく知らなかったが、ラリーカーなどのメカニズムには興味があった。
・大学時代にツーリングブームに遭遇したのが、自転車に関心を持つきっかけとなったようだ。もっとも学友からスポーツタイプの自転車(5万円程度)を譲られ、通学用として使っていたにすぎず、当時は自転車そのものに強い思い入れがあったわけではない。しかし、部屋やお金など、然るべき条件が整えば本格的な機種が欲しいとは感じていた。
・「いま何台お持ちなんですか?」という司会からの質問に対しては「何台あるかはわからない」と、いかにも猛者な返答で応じる鬼頭さん。ただし必ずしも物欲に流されているわけではなく、漫画を描く上での資料としての意味があること、またフレームのみのものも多いので数え方しだいで所有台数が違ってくること、などの補足説明があった(注1)。
・(ここでパソコンの電源が復活したので)箱根取材の模様を語っていただく。『のりりん』第6巻では言及のみで描写がない、「国道1号最高地点874m」の標識の写真もおがむことができた。
・取材のオチ。背景を受け持つアシスタントの人たちは結局ストリートビューを参考にして描いたので、せっかく撮ってきた写真は多くが使われずじまい(切ない!)。また平日に取材した結果として、作中の風景も休日にしては人出が少ないものになった。
・ここで森恒二さんが司会に求められて発言。自分は取材はするがあまり活用しない(どういうことなの…)、同じ道でも自転車で行くと起伏を強く実感するという『のりりん』の描写は真に迫っている、という趣旨だったと思う。

さらに自転車がらみの話題が続く。
・アシスタント4人中2人を自転車乗りに「した」(目下もう一人も着々と感染中)。
・日常的に自転車に乗るようになると、距離感覚が変わってくる(40km先のコンビニは「近所」)。
・最高で160キロ(注2)。
・最近もよく走っている(編集者からの電話に対して、奥様が「いま走りに出ております」と答えることが多いそう…健脚ですなあ)。一日に走る距離は往復30キロ強で、近所の峠に半分登って下りてくることが多い。
・ここ5年ほどは子育てにかまけていてあまり走れなかったのだが、その状況が変わってきたので、ここ数か月は走行距離が伸びている。
・子連れでレースに出場するという目標を立てているが、我が子は元来運動嫌いだった親に似て、いまのところレースでも強いほうではない(同年輩の子に負けて帰ってくる)。
・強迫観念かもしれないが、一度上げた水準を落としたくないので、毎日の練習を怠るわけにはいかない。
・自転車に関する『のりりん』の登場人物たちの台詞はどれも自分の実感のつもり。「つらい、いやだ」と思っていたのが「登らずにいられない」という気持に変化してくるなど。森さんによれば「乗らない人の気持の描き方が正確」とのこと(注3)。

この辺からトークショーは佳境に入り、なおも『のりりん』をめぐりつつ、漫画家としての鬼頭莫宏さんのお仕事の楽屋裏を、ちょっとだけのぞかせてもらえるような話題も出てくる。
・総じてあてがわれたものが好きでない。「ネクタイって何? 会社がつける首輪なの?」などと感じていた。
・一回別のルートに逸れてから常道に戻るのが自分の流儀。
・道交法の主題はずっと考えていた。思考が表現になるまで、数年かかる(いま書いているのは、三年ほど前に考えていたこと)。
・『のりりん』は進み方が遅い。長篇漫画は10巻程度の分量が理想だが、はたして10巻で収まるのだろうかと、不安に感じている。年2冊出るとして、後半になるとまるで5年前の自分の尻拭いをしているようでいい感じがしないはずだ。これでいいのか(この進み方でいいのか)、目下思案中。
・ここで森さんは『のりりん』を評して、「自転車に乗って楽しむことに絞られている不思議な漫画」と発言(注4)。
・『のりりん』の目的は自転車趣味を普及させることであり、「漫画としての面白味が自転車の面白さを超えないように考慮している。そこに限界もある」(これを聞いて司会の編集の方が、「恋愛パートを進めましょう」と合いの手を入れる。あ、それはそれで読んでみたいかも!)
・自転車は興味を持ってもらうまでが難しい。趣味の雑誌はもともと好きな人しか手にとらない。それを思えば、漫画雑誌は入口として最適だと考えた。しかし、なかなか終わらない(終わりが見えてこない)という問題に直面している。
・ここで森さんが、「鬼頭先生の作品だから」いずれ殺人なりなんなり、衝撃的な事件が起きるのだろうと予想していたが、まさかこういうことになるとは思わなかった(こんな平和な作品になるとは思っていなかった)、という旨の発言をすると、鬼頭さんは不敵な笑みを浮かべて「僕の人徳のなせるわざ」と応じつつ、いずれリンちゃんは殺されてしまうのかという問いに対して、「そういうヒキもありかなあ」と物騒な軽口を叩いてみせる(注5)。
・森恒二さんは『ヴァンデミエールの翼』以来の鬼頭ファンだそうで、その理由を「全然異質の感じ」・「すごい緊張感」などという語で表現しようとするも、「すみません、説明できません」と言って投げ出してしまう(まあ、森さんも漫画家であって批評家ではないし、自分にとって大切なものについて大勢の前で正確なことを述べようとすると、誰しもこうなるのは無理からぬところ。仕方ないね)。 
・『ヴァンデミエールの翼』はデビュー作であるから、当時のことは記憶としては一番鮮明に覚えている。最初は秋田書店と交渉するも、作風が少年誌向きではないという理由から出版社を変えることにし、友人に『アフタヌーン』を勧められて講談社に原稿を持ち込む(近かったので郵送は選ばなかった。なお、当時『アフタヌーン』については「『ああっ女神さまっ』の雑誌ね」という程度にしか認識していなかった)。初回の掲載は埋め草としてだったが、幸いそこから連載が決まった。
・竜の造形(『なるたる』)と自転車ヘルメットが似ているという旨の森さんの指摘に対しては、ジアースの面(『ぼくらの』)と自転車ヘルメットが似ているとも言われるが、はっきり意識していたわけではなく、落書きをしている中でなんとなく決まってきた、という鬼頭さんの返答。「ああでもない、こうでもない」と落書きをしているときが一番しあわせなのだそう。

ここで本トークショーの目玉ともいえそうな発表がくる。なんと『のりりん』の成行しだいで始まる可能性があるという、新連載企画が二本も公にされたのだ(…というのは冗談で、すぐ後述するように実情は少し違います)。
・ひとつめは『いと小さきものにあらざれば(Nil Nisi Parvus)』。手のひらサイズの妖精を手に入れた女の子が、人間に害をなす他の妖精たちを従わせていくという内容の漫画で、ちょっと生意気そうな妖精の愛らしさは美少年好きの人にとっては垂涎ものでありました。『終わりと始まりのマイルス』の「炁(き)」の物理法則(思念の実体化とか)が共通しているのだそう。
・ふたつめは『創空の舞』。「女子中学生を戦闘機に乗せたい」という欲望(なんと不純な…いや、純粋なのかな?)から生まれた作品。パラレルワールドもので、日米安保に代わる「新安保」のもと、独自の軍備を整えている現代日本が舞台。主人公は兵器設計局の局長の娘で、毎日基地のある富士から厚木まで戦闘機で通っているとのこと。なお戦闘機は皇紀にちなんで「49式」と命名されている(皇紀2649年、つまり西暦1989年の制式採用ということでしょうな)。彼女が制服の上からシートベルトをつけている絵がスクリーンに映ると(さながら亀甲縛りですぞ!)、森さんや司会の方から「(漫画として完成された状態で)見たい、見たい」の大合唱が湧き上がる。少しは自重しなさいよ…(と言いつつ私も見たい)。
鬼頭さんが一番最初に好きだった乗り物は飛行機だとのことでした(まあ、『ヴァンデミエールの翼』や『なるたる』の読者にとっては、そう意外でもなさそうですが)。ただし、『ぼくらの』はあらかじめ直線を主体にすると決めていたので、飛行機の造形がいまいちうまくいかなかったとか。
・ここで種明かし。実は二作とも新連載する予定ではなく、20年前にチャンピオン編集部(秋田書店)にかけあって日の目を見なかった企画だそうです。ただしリメイク(再活用)ということなら、まんざら可能性がなくもないようでした。

以下はまとめというか、締めくくりに相当するご発言です。
・いままでどおりの話の進め方だと『のりりん』だけで寿命が終わってしまう。
・自分は性格上の問題があるので、書きたいものと書かなくちゃいけないものを考えつつ書いている(両者の兼ね合いを、不断に気にせざるをえない)。
・人を楽しませるというよりは自分の目的のために漫画を描いている。それが他人のためになっていないという罪悪感はあるが、こうして多くの人に集まってもらえると励みになる(注6)。

トークショーは以上で終わり。ざっと一時間であり、事前に予想したよりはあっさりしたものだったが、それでも貴重な体験だった。森恒二さんの奥ゆかしい人柄はご立派だが、もう少し積極的に、『自殺島』や『デストロイアンドレボリューション』などを引き合いに出しつつ、『ぼくらの』や、とりわけ『なにかもちがってますか』について喋ってくれてもよかったような印象はあります。
このあと13:30頃よりサイン会が始まった。
私を含む立ち見組はいったん会場から出て列を作り、座っていた人たちから順番に、『のりりん』第6巻か『なにかもちがってますか』第3巻にサインをもらう。トークショーの話題も『のりりん』が主だったように、自転車の経験を話して鬼頭さんと会話が弾むのを楽しんでいる人が多い様子。
私の番がきたときは15:00前くらいで、残り人数は40人ほどだったような気がする。
昨年は『のりりん』にサインをしていただいたので、今回は『なにかもちがってますか』にお願いすることにした。
以下が証拠の写真です。
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この表紙をめくると…(ドキドキ)
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サインのお出まし。「と」「う」「も」が生き物っぽいのですよ。高岳似子さんもご一緒です。
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為書き(「…さんへ」)をアルファベットの頭文字で入れていただいたので、桂太郎さんであれ工藤輝美さんであれTimothy Keithさんであれ、鬼頭莫宏作品を愛読する全国全世界のT.Kさんが恩恵に与れるという仕組みだ。でもいま気づいたけど、あんまり為書きの意味がないっぽいね!
昨年と違い、今回はラフスケッチの大盤振舞いも、こちらが希望するキャラクターを描いてくれるサーヴィスもなかった(一緒に描いてくれるキャラクターは完全に無作為に決まっていたのか、はたまた何かの基準があったのかは―サインを頼む側の性別や差し出した作品そのもの等が、基準の候補たりうると思う―知らない)。しかしそれでも、私にとって忘れられない家宝ができたのは間違いのない事実だ。
森恒二さんをお迎えした以上、『デストロイアンドレボリューション』が話題になるかと思ったがならなかったのが不思議だったので、サインしてもらっている間にその点を質問したところ、鬼頭さんからは、編集部の都合ではないかという推測とともに、「(自分と彼とでは)目の付け所がかなり違うからね」・「『自殺島』は読んだけど(『デストロイアンドレボリューション』は読んでいない)」というお返事もいただいた(正確な文言は少し違ったかもしれない)。超能力を手にした少年たちによるいびつな「世直し」を描いた漫画として、『なにかもちがってますか』と『デストロイアンドレボリューション』がひとくくりにされてしまうことに対する、(作者としては当然の)警戒感のようなものが、そこはかとなく伝わってくる気がした。別にそういうつもりで尋ねたわけではなく、森さんとしては『のりりん』だけでなく『なにかもちがってますか』についても何かしら意見がありそうなものなのになー、という程度の疑問だったのだが、これは私の訊き方がいささか無神経でしたな。反省反省。
来年もサイン会を開いてほしいとか、「『マイルス』のほうもぜひ話を進めてください」などとわがままなお願いを重ねると、苦笑いしながら「あれはゆっくりやりたい」と言われました。思い返すと我ながら厚かましくて恥ずかしいかぎり。
別れ際にも当方は緊張のあまり、「がんばってください」と言ってから「ありがとうございました」と口走るなど(順序がおかしい)、妙な醜態をさらしてしまった。
ともあれ、こうしてわずかでも作者とお話ができ、サイン入りの『なにかもちがってますか』第3巻がもらえたことはただただ素直に嬉しい。
鬼頭先生、お疲れさまでした。これからもすばらしい漫画を描き続けてください。

うっかりしていたが、最後に主催者である書泉への注文を一つ。
正午開始で10分前の集合というのは、土曜とはいえ参加者の交通や昼食の都合を考えると改善の余地があるのではないか。同じく5時間の催しであっても、例えば13:00-18:00であれば、もう少し余裕をもって来場することができる。ましてや、実際には上述のとおりトークショーは約一時間で終わったのだし、私が会場を離れたときの状況からして、おそらくサイン会のほうも16:00までには済んだのではないか。だとすれば、終了予定時刻を変えないまま開始時刻を遅らせて、13:00-17:00という時間帯を指定することも十分可能だったはずなのだ。主役である鬼頭先生や森先生のご希望で決まったというのなら是非もないが、そうでないなら、この時間の設定については一考を促したいところである。


(1)結局フレームのみのものを含めると、10台以上所持しているというご発言が聞こえた気もする。
(2)ここは私の記録があいまいなのだが、たしか、鬼頭さんがこれまでに一日で最高どの程度の距離を走ったか、という質問への答だったようです。
(3)まあ、『のりりん』連載開始時や第1巻の発売時にこの点はよく言われましたね。
(4)これには私も含め、同意する人は多いと思う。いきなり『弱虫ペダル』的な方向には行かない、ということが『のりりん』の独自性であるわけで、その作風自体を根本的に改めて、もっと快速調の血沸き肉躍る筋書に変えてしまうということは、少なくとも私にとっては考えにくいのですよ…。
(5)いやあ、一読者としては見たいような、見たくないような…どう考えても既刊分の内容とはうまくつながらんでしょうに!
(6)あたりさわりのない謝辞のようでもありますが、「自分のため」という原点を忘れないのは、実はあらゆる創作家の仕事に通じる勘所のような気がします。

category: 鬼頭莫宏

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鬼頭莫宏サイン会(2012年1月22日) 

漫画家・鬼頭莫宏さんのサイン会が、横浜市内の某T書房にて午後1時より粛々と行われた。
同書房で去る1月6日刊行の『なにかもちがってますか』第2巻か『のりりん』第4巻(ともに講談社)いずれかを購入した人に、先着100名限定で整理券が配られていた。
今日はその当日ということで、ちょうど50番の私も出かけたのだった。

50番までの人は午後1時から2時の間、と来場時間の枠が決まっていたので、12時50分頃に到着。
あとは整理券の番号順に行列を作って、購入したどちらかの単行本の表紙裏に順次サインをいただく、という段取だ。
ちなみに男女比は、もっと女性が多いかと思ったが八割方男性だった気がする。

サインそのものに先立ち特典として、原画…と断定してよいものか、ともかくボツ原稿やラフスケッチなどの絵を一人一枚もらえる(数冊のアルバムにまとめてあって、割とゆっくり選べた。もっとも順番が後になるにしたがって、当然ながら枚数自体が減ってゆくのだが)。それに、『ぼくらの』などのグッズ類も一人一点もらえる。
私は、『なるたる』の佐倉明がきわどいバニーガールの恰好をした年賀状用イラスト(なんと年賀状本体付き)と、あと『ぼくらの』の全員集合!みたいなテレフォンカードサイズのイラストがあったのでそれを頂戴した。

サインは『のりりん』第4巻のほうに、為書き(「…さんへ」)とともに入れてもらった。どちらの単行本も購入していたのだが、『なにかもちがってますか』のカヴァーには槌のような凸形の「窓」がくりぬいてある。だから、何かに引っかかって破けたりしないか心配なのだ。
草色のインクのマーカーで、「きとうもひろ」の六文字が飾り文字風に踊るサインをいただく。
「と」「う」「も」の三文字が変な生き物のような丸っこい形になっているのが面白い。「ろ」の尻尾が長く伸びて、上に「2012.1.22」という年月日を載せている。

書いてもらっている間、ちょっとだけ会話もできた。
(私)「こういうときの筆記用具って、何かこだわりを持っていらっしゃるんですか?」
(鬼)「いや、特に。でも、にじむといけないので、すぐ乾く水性ペンを使ってます。まあ、こういう紙だとあまり関係ないけど…(私の手元のイラストを見て)いいの選びましたね…(サイン中)」
(私)「年賀状本体も付いてますからね…(サイン終了)ありがとうございました。子育ても頑張ってください」
(鬼)「ありがとうございます」
記録するほどの会話かよ、と言われそうだが、こっちは本当に緊張してました(だから不正確な記憶かもしれない)。

愛読者でないとこの種の催しに足を運ばないのは当然かもしれないが、頼んだキャラクターを一緒に描いてくれるサーヴィスがあって、皆余計に嬉々としていた観がある。こちらは黒インクの極細ペンで、写実的ではなく可愛らしい絵柄。私の前の前の人は「豚食い」、前の人は「白ヴァンデ」だった。鬼頭さんも希望を聞くたびに「どんな顔だったかなー?似てなかったら兄弟だと思ってください」、「ああ、ラフスケッチのこいつね。『こいつ』なんて言っちゃまずいか」とお茶目なことを口走っていた。私は古賀のり夫を所望したが、ざっと五人目くらいだそうで(編集者なのか、隣に立っていた方の発言)手慣れたもの。(その割にピアスを描いてないのはどういうことですか先生!)
自転車も脇に鎮座していて、「40くらいだよ(40万円)」とのことだった。こともなげだったが、十分高価だと思うのですよ(『のりりん』で輪ちゃんが乗ってるのと同じ型だそう)。
第一群の最後の一人なので、私が終わったときは午後2時を20分ほど過ぎていたのではないか。

とまあ、家宝ができて実に貴重な体験だった。
しかしこのブログは一応備忘録的な本の批評という建前なわけで、こんな個人的な日記に使ってよいのだろうか。
ブログの用途としては一般的かもしれないが、余人はともかく私の日常生活なんてどう考えてもつねに公表する値打ちはない。今後の運営方針にも関わる問題だ。また、環境が整っていないから仕方ないのだが、これだけ書いておいて写真を掲載できないのも不親切ではないか。
今回はあくまでも、自慢したい気持ちを抑えきれなかったがゆえの突発的な例外ということにしておきたい。そしてもし不満を覚えた閲覧者様がいらっしゃったら、どうか勘弁していただきたい。

鬼頭先生、お疲れ様でした。これからも素敵な作品を描き続けてください。


category: 鬼頭莫宏

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