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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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大暮維人『エア・ギア』 

死ぬまでに書きたい『エア・ギア』(講談社)論のための、構想というか突発的な走り書き的覚え書。

(1)「父」の機能不全
…「神=重力」への子供じみた反抗心に突き動かされるお調子者の南博士はおよそ父性的な威厳のかけらもなく、全ての登場人物を掌の上で躍らせながらついに誰にとっても本格的な憎悪の対象とはなりえぬまま、最後はあっけなく自業自得の事故死を遂げる。この父的なるものの失墜ないし失効は、自殺ですらない分、ことによると中上健次の『地の果て 至上の時』よりも過激かもしれない。

(2)「音=生命」という一見異論の余地のない音声中心主義が、それでいて西洋形而上学の伝統としてデリダが批判するような独我論的な姿勢(「自分が話すのを聞く」こと)には帰結しないこと
…作中において、この等式は、実際には、むしろあくまでも前者(音)が主で後者(生命)が従であることによって、あるときは組織的な共同作業を可能にする概念の超自然的な伝播という形で(「鳥の歌」)、またあるときは人間機械論にもとづく性交以上に過激な親密さの実現という形で(鵺と奈々、亜紀人と中山弥生ら)、いずれにせよつねに他者との関係を(再)編成するように働く。「無限の音階」に没入して周囲のことを忘れ去ったかに見える皇杞枢が、その実かえって誰よりも正確にイッキの内面を理解していることからは、おそらくリルケ的な「世界内面空間」を想起することも許されよう。ただしその内面とは、結局のところ「風」そのもののように飄々としていてとらえどころがなく、まさにその点においていついかなるときも自己同一的であるらしい。となると、このように変転つねない内面的なものも―「音」、あるいは声すらも―必ず「絵」として、ということはとりもなおさず第三者(読者)の目にとって不伏蔵的なもの・非隠蔽的なものとして(注1)、そのつどの聞き手ともども空間的な処理に与らずにはいないという事実を、漫画という藝術形式そのものの、限界ではなくて特権として、際限なき開放性として概念化することも許されるのだろうか。もし許されるとすれば、そのことはとりもなおさず、『エア・ギア』が漫画の限界、というよりも極限に接することに成功しているという驚くべき結論に通じるのではないか。なぜならば、ここでは音が、他人の内面という典型的な秘密(現実の世界では到底うかがい知れぬほど我々にとって秘められているもの)の開示へと我々を気前よくいざなってくれるばかりか、それでいて逆説的にも、そこに我々が見出すものは触知を許す貴重な実体ではなくてその反対のもの、すなわち外界を吹き抜けていたのと同じ一陣の風にほかならず、その上この一連の行程は徹頭徹尾「絵」として、視覚的に、不伏蔵的に(たとえ読者が一人であろうとも原理的な共有可能性を伴って)生起するからである。絶対的な開示―あるいは開示性の開示的な開示である。
ともかく、「彼女(彼)は彼(彼女)の心臓が脈打つのを聞く」という絵は、「私は私が話すのを聞く」という(ルソーなりフッサールなりの書きそうな)文に還元可能ではないし、それから派生したわけでもないのだ。なぜならば、第一に絵と文との相異が、第二に三人称と一人称との相異が、第三に鼓動と発話との相異が介在するからで、要するに三重の違いが一方を他方から隔てているからだ。この事実は決定的なものである。

(3)陶酔ではなく覚醒を促す一種の散文性、およびそれと表裏一体の、詩的な趣向を相対化しようとする傾向
…前者の例としては、何はさておき、憧れの対象(武内空)の荒涼たる空疎な内面を知った結果としての「幻滅」によって完成をみる、イッキの自立の過程の描写を挙げなくてはならない。身も蓋もないことでは漫画の歴史を通じて未曽有かもしれないが、精神分析的にはむしろこうでなくては正しくないはずである。
また後者の例としては、常日頃からロマンチックな物語に憧れてきた中山弥生のためにわざわざ敵(ウェルキン・ゲトリクス)がメルヘン的な筋書を用意してくれるといういささか「できすぎた」成行(虚構性の過剰)と、アイオーンこと左安良の生い立ちはおろか死からさえも悲劇的な重みを剝奪してしまうその後の経緯―金にものを言わせてサイボーグ化して復活を遂げた上(実は死にっぱなしなので「復活」という表現は不正確なのだが)、胸のスピーカーからは盛大に社歌が流れ出したり、「左家武装メイド隊」の下ネタしか言わないロリっ子隊長相川さんにかしずかれたりと抱腹絶倒ものの光景が続くのを見れば、おそらく誰しも「なんだ、左財閥って結構はじけてて楽しそうじゃん」と感じて拍子抜けするはずである―とを、とりあえず挙げておく。ことあるごとに日本製アニメの登場人物の口真似をしたがる癖が災いしてか、断末魔の叫びとして、よりによって「ひでぶッ!!」という雑魚っぽい台詞を残してあっけなく死んでいったパーシヴァルや、完全に名前負けしている観がある噛ませ犬役のカエサルなど、既存の文脈への依存度が高い者に限っていまいち冴えないことが多い(と思える)のも看過できない。また、イッキたち(小烏丸)に、成長の機会たりうる有意義な敗北を経験させてやるべく、あえて父のチーム(白狼会)に調律師として加担する、という枢の選択も、自身の所属するチーム(トゥール・トゥール・トゥ)の絶対中立という掟が突きつける難問に対して、「中立」という単一の静的な理念を、いわば「誰の利益(損害)をも一方的に増幅(減少)させるだけで終わってはならない」と読み解き、散文的に流動化してしまうことで応答を試みた結果であるから、同じ文脈の延長線上に位置づけることが可能なはずである。
とはいえ、『エア・ギア』の真骨頂の一つは、美が仮象(虚構)としてひたすら解体されるがままになるわけではないというところに存している。美は、むしろ真情にとっての恣意的で着脱可能な装いとして、解体されることを待ち望みながら遊戯的に明滅し、そのようにして真情そのものの露呈に自らの輝きを献呈するという稀有な働きをしてのけるのだ。正体がばれた後のスク水仮面=リンゴがあくまでも伝言という形式に託してイッキへの好意を口にする場面の水際立った鮮烈さは、この間の事情を雄弁に物語ってくれる。「美は真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方である」(注2)。

(4)ニヒリズムとルサンチマンの結託というニーチェ的な主題
…「努力しないですむ/努力を苦にしない天才」対「努力するしかない/努力したがらない凡人」という対立図式そのものはともかく、敵(武内空)が煽動を通じて主人公(イッキ)を前者に、自分および残りの全人類を後者に割り振るという筋書や、それでいて主人公を裏切ったときと同様、やはり虚無的なそっけなさで全人類をも平然と切り捨てるに至るという展開は珍しいのではないか。

(5)ペアの解体に伴う個性の確立が、あまりの徹底性ゆえにかえって煮え切らない印象を与えるという逆説的な結果につながっていること
…例えば、作中最高の見せ場の一つであるはずのカズとニケの死闘においてもなお、前者が他人に頼るのをやめて自力のみで戦い始めることはなく、後者が依怙地なまでの冷酷さを脱して精神的に成長することもない。ここにある種の隘路ないし袋小路が露呈しているのは確かだとしても、それを作者の腕前次第で回避できたはずの単なる欠点としてあげつらうような早まった真似は許されない。むしろ我々は、この窮屈さを辛抱強く耐え抜き、さらには広く一般化することで、強烈な(戯画的なほど強烈に偏向していて、別様に生きる術を知らない)「キャラクター」なしでは到底立ち行くことがおぼつかない、現代的な虚構の数々に通底する問題として把握すべきではなかろうか。

さしあたり以上五つの点の究明に努めることで、『エア・ギア』をあくまでも生産的な意味で問題含みの作品として受容するための下地を整えたい。この作品が読む者にめまいを覚えさせるほど混沌に満ちていることは否定しがたいが、その混沌は同時に、単に作劇上の破綻として片づけるにはあまりにも惜しい、無尽蔵に豊かな可能性の宝庫でもあるのだ。


(1)マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』(関口浩訳、平凡社ライブラリー、2008年)77頁以下。
(2)同書88頁。
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