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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『のばらセックス』17 

『のばらセックス』がスピノザ主義の小説であるとすれば、一体それはいかなる点においてか。
この問いに対してはいろいろな答え方がありそうだが、強いて最も簡潔な定式を求めるなら、主著『エチカ』第三部定理2に続く備考の中にスピノザが書きつけた、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの警告とも慨嘆ともつかぬ驚くべき指摘との共通性から出発すべきかもしれない。
かつてこの指摘から勇ましい「鬨声(ときのこえ)」を聞き取ったジル・ドゥルーズも書いているように(注1)、心身の並行論(parallélisme)が、その由来はさておき(注2)ほかのどの哲学者よりもスピノザの哲学にこそふさわしい名称であるのは、ここでは身体と精神の間の関係があくまで対等であって、決して一方が他方に対して優越するということがないからだ(注3)。
スピノザにとって、神とは「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(注4)にほかならず、したがって「すべて在るものは神のうちにある、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない」(注5)。このゆえに、いかなる個物もそれの内在的原因(注6)としての神の属性を一定の仕方で表現する何らかの様態なのであり(注7)―属性の定義は「知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの」であり、様態の定義は「実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの」(注8)である―、そのような属性としてスピノザは思惟と延長の二つを挙げている(注9)。つまり、神は思惟する物であると同時に延長した物でもある(いかなる思惟する物、延長した物も、神の属性を表現する様態である)。とすれば、このように神の属性の様態である個々の人間が自らの身体についてその変状の観念を有する以上、「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」ということ、すなわち精神と身体の合一が導き出されなくてはならないのは当然である(注10)。ドゥルーズが感嘆してやまない(注11)スピノザ倫理学の真骨頂は、ここから、あらゆる従来の伝統に逆らって、身体の能動はそのまま精神の能動であり、同じく一方の受動は他方の受動でもあるという帰結を敢然と打ち出したところにある。

私はただ一般論として次のことを言っておく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。(注12)

この主張は、精神と身体の間に一方が能動的なとき他方は受動的であるという反比例的な力関係を持ち込んだ上で、つねに前者が能動的で後者は受動的であるべきだ(精神は身体を支配できるし、支配しなくてはならない)と信じてきたスピノザ以前の発想と比べれば、事実上身体の復権という意味を持つものとして評価しうる。それどころか、スピノザはいっそう端的な言葉づかいで、次のようにさえ断定することさえはばからないのだ。

すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。(注13)

まさしくこの文章に、すなわち『エチカ』第三部定理11の本文に伴う備考は、喜びを「精神がより大なる完全性へ移行する受動」として、また悲しみを「精神がより小なる完全性へ移行する受動」として定義するとともに、精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ旨を宣言し、あまつさえ喜びと悲しみに欲望を加えた三者以外に―「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(注14)のであり、精神もその点で例外ではありえない。そして、この努力(自己保存の努力)が精神だけに関係する場合は意志と呼ばれるのに対して、同時に精神と身体とに関係する場合は衝動と呼ばれ、特に意識を伴った衝動は「欲望」として定義される(注15)―、何ら基本的感情を認めていない(注16)。このことは、いかにスピノザの倫理学が彼以外の者の手になる倫理学の体系と比べて身体の自発的な活動能力を重視しているか、そしてその点においていかに「あれをしろ、これをするな」という命令や禁止に満ちた道学者的な説教の類から自由であるかをよく表している。
ただし、身体の復権がそれ自体としてスピノザの倫理学にとって究極の目標であると信じるのは早計である。スピノザ流の並行論がもたらす心身の対等性のもとで、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」という先の指摘を真面目に受けとるとすれば、我々は必然的に、身体が我々の認識を超えているのと同様に、結局思惟もまた我々の認識を超えていると結論づけざるをえなくなるからだ。

身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの認識を超えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。〔中略〕いいかえれば身体というモデルは、スピノザによれば、なんら延長〔私たちの物質としてのありよう〕に対して思惟をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられる〔意識本位が崩される〕ことだ。無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。(注17)

「意識は、どっぷりと無意識の海に浸かっている」(注18)。原因に対する無知から物事の順序を転倒してしまう傾向に起因する目的因の錯覚、身体に対して意識自身が行使する単に想像上でしかない権力ないし自由裁量の錯覚、そして目的因や自由裁量を駆使して人間に賞罰をもたらすような架空の人格神の存在を信じるという神学的錯覚―意識が抱く、というよりも意識そのものにほかならないこの三重の錯覚への容赦ない批判が必要である(注19)。そして、これらの錯覚からの脱却と表裏一体のものとしてスピノザのもとに現れるのが、前代未聞の簡潔さと身も蓋もない率直さで我々を射抜く、新たな善悪の定義なのだ。

とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。(注20)

これに反して、とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する。(注21)

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(注22)

これに続けて『エチカ』第四部定理30の証明が告げているように、悪とは「悲しみの原因であるもの」、換言すれば「我々の活動能力を減少ないし阻害するもの」なのである(注23)。ドゥルーズの説明を借りるなら、それは構成関係の分解に通じるような悪しき出会いのことを指す。「わるい」のはつねに「一種の消化不良、食あたり、中毒であり」、いわゆる罪のことではない(そのようなもの、つまり禁止されたことを実行したがゆえの罪悪とは、想像上の産物にすぎない)(注24)。したがって、その対義語である「よい」とは、もはや道徳的な禁止の反対ではなくて、例えば何らかの食糧がそうであるように、我々の身体と直接的に構成関係の合一をみて、我々の力能の増進に寄与するような体のことを、ひいては自分の利益の増進につながる「よい」出会いを上手に組織立てる術を知っているような人物の才覚のことを指すのでなくてはならない。それは、いわゆる善良さというよりは優良さである。同様に、「わるい」出会いの結果に振り回されるばかりで、不平不満をこぼす以外に何ら出会いを積極的に組織する術を知らない無能な人物のことも、やはり「わるい(劣悪である)」と呼んでさしつかえないのである(注25)。
ここに、ただただ我々を自分たち自身の生から切り離してしまう一方である悲しみの受動的感情、またそれから派生してくる憎しみや罪責感やさまざまな迷信の体系(そこには、ユダヤ教やキリスト教も含まれる)に対してスピノザが突きつける告発を重ねて考えるとき、『エチカ』の全体的な構図は、身体的次元での活動力能の増大にもとづく喜びの念をきっかけとする、真に能動的な生への手引きとして整理できることになる。能動と受動は、ともにある個体の経験する変状ないし変様であるが、前者はその個体の本性から説明されるのに対して、後者は他のものから説明されるという点が異なる。しかしそればかりではなくて、受動にもすでにみたように喜びと悲しみの二種類を区別しなくてはならない。たしかに、一見すると両者には我々を自らの活動力能から切り離したままにするという点が共通しているようでもある。

けれども、私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体と(すなわちその構成関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と)出会ったときには、すべては、いわばその相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、これに対してマイナスや固定化にはたらくかたちで進行する。すなわちこの場合、私たちの活動力能は減少するか阻害されるのであり、それに対応する受動〔受動的情動〕が悲しみの感情である。それとは逆に、私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、いわば相手の体の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。そうした変様を私たちに引き起こす受動、これが喜びの感情であり、この場合には私たちの活動力能は増大するか促進されるのである。この喜びも、外部にその原因をもつ以上はまだ受動の域を出るわけではない。私たちはまだ、みずからの〔能動的な〕活動力能から切り離されたままにとどまり、この力能を形相的に所有しているわけではない。しかし、それでもこの活動力能がそれにともなって増大することに変わりはない。ここに私たちは一歩、転回点に―ついに私たちがそのあるじとなり、真に能動〔みずからの活動〕の名、能動的な喜びの名に値するものに変わるだろう質転換の起こる地点に―「近づく」のである。(注26)

最大限の喜びの受動に達し、そこから自由で能動的な感情へと移行するための方途を人間に示すこと、これこそが『エチカ』においてスピノザが取り組まなくてはならなかった課題であり、それは原因に関して十全な観念を形成すること、および自己自身と神と他の全てのものを、最終的に永遠の必然性によって意識すること(むろん、この場合の「神」とは、『エチカ』が定義する徹底して非人格的な「絶対に無限なる実有」ないし自然そのもののことであり、そのかぎりでいかなる既成の宗教が教える神とも違う)、というなお二つの局面とあいまって三重の課題となる(注27)。

いまや我々には、意識の地位の格下げを伴う身体の存在感の強調と、よい出会いがもたらす喜びの感情を経由する受動性から能動性への飛躍という、二つの点から『のばらセックス』とスピノザ哲学との共通性を確かめる準備ができている。
まず前者から検討しよう。第II章「ずっと薔薇色なわけがない」において、義父の「あいちゃん」こと坂本逢(に化けたその父親)の館に監禁されたおちば様は、彼に結婚を迫られた上に女子の出産を要求される。その際の愛撫の情景を見てみよう。

 空気を吐くと、それは快楽で味つけされていて、勝手に舌が喋ってるみたいだ。あいちゃんは巧みで、何人もいるみたいだった。ちっとも痛くなくて、全身が肉から解放されて、気持ちよさだけになる。
「ああ、うう」
 優しい。
 あいちゃんは優しい。
 優しい優しい優しい。
「うああ」
 怖い。
 知らない感覚が、背筋を這いあがってくる。生まれてはじめての出番に、身体の奥で準備運動をはじめる部分がいくつもある。身をよじり、寝台のシーツがおおきく乱れ、片足がベッドから落ちる。びくんびくんと、腰が勝手に跳ねる。
 あいちゃんが全身を愛撫(あいぶ)しながら、指先を膣の奥に奥にといれて、ぜんぶ探って確かめて、いちばん弱いところをいじめる。あたしは完全に掌握されて、あいちゃんから逃げようと身体を引きつらせたまま。
 あいちゃんの名前を呼んで。
 一瞬、真っ白。
 いちばん奥から透明な体液が噴出して、ベッドシーツを濡(ぬ)らしていく。全身が脱力して、あたしは無抵抗になる。自分の身体じゃないみたいに、指先が、髪の毛の根本が震えている。
「あ、あ、ああ……」
 とろけて、あたしは放心する。
「あう……」
 よだれまで、垂れていた。経験豊富なおとなのあいちゃんに、あたしみたいな小娘が抵抗できるわけがなかった。あたしは素人同然で、どこもかしこも狙いほうだいな、か弱い獲物だった。
 足を折り、燃えるような身体を丸めて、耐えた。今さら遅い。あれだけ感じておいて、抵抗も何もない。あいちゃんは何も言わずに、あたしの頭をまた撫でている。もう、その手つきまで心地よい。
 あいちゃんの馬鹿。ゆるさない。一生怨んでやる。娘に手をだす異常性欲者。子供相手に興奮するペドフィリア。いくらでも罵倒語が浮かび、すべてがあいちゃんの指先で簡単なパズルゲームみたいに消滅していく。
 あいちゃんは、お父さんだ。
 だけど、いま迫られたら、抵抗できないのがわかっていた。
 ソプラノへの恋心も忘れて、そんなふうにたやすく整えられてしまう。自分がいやだった。(注28)

少なくとも近現代の日本語の小説の中に、これに匹敵する精度と克明さで、息づまるような緊迫感の中で心を引き裂く惑乱とともに女性の官能を追跡しえた実例がほかにあるかどうか寡聞にして私は知らないし、その点だけでも『のばらセックス』は文学史上特筆に値する作品だと思えるが、それはさておき、ここではあくまでも身体の勝手な先導によっておちば様の意識が翻弄され、本来ならば恋人(ソプラノ)への義理という観点からしても、また家族同士の性交渉を忌避する常識の観点からしても決して抱くべきでない情愛の念が彼女の中に生まれていることがわかる。たしかに、よく読めば「全身が肉から解放されて」なる表現もまぎれこんでいるわけだが、これとて意識にとっての肉体の制御不可能性を暗示するための修辞と考えることはあながち強引でもないはずだ。身体は、「肉」であるそれ自身から「肉」ならざる「全身」を快楽の塊として瞬時に発出せしめることすらできるほどに計り知れぬ働きを秘めている。このような読み方が妥当だと思えるのは、主人の代理として現れた召使のシオンに強姦され、重傷を負った瀕死のおちば様をあいちゃんが自らの手で治療してくれるときの場面が、ゆめゆめ侮るべからざる「肉」の権能を、もっとあからさまに、それに振り回される我々人間の意識の側の無残なまでの脆弱さという文脈において教えてくれるからだ。

 あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを、無条件で味方と信じる。(注29)

むろん、この文章は、いささかたりともいわゆる快楽主義の積極的な主張として読まれてはならず、むしろそれへの痛烈な諷刺として読まれなくてはならない。すなわち、我々が肉に縛りつけられたもっぱら受動的でしかない精神というものの有限性について反省し始め、そしてそれを自分たちの無力さとして哀しむようになるというところに、この文章の効能が存するのである。思い出さなくてはならないのは、スピノザによれば、喜びはたしかに受動の一種であってしかもその下位区分として快感(「精神と身体とに同時に関係する喜びの感情」)を含むとはいえ、それ自体としてはあくまでも「精神がより大なる完全性へ移行する受動」なのであり、つまりは身体の活動力能の増大と並行的でなくてはならないということだ。それだから、『エチカ』第四部において、喜びは「直接的には悪でなくて善である」(注30)にもかかわらず、快感については「過度になりうるしまた悪でありうる」と書いてあるのは、断じて著者の思考の不整合の表れではなくて、むしろその思慮深さを示すものであり、ぜひとも必要な区別である。快感は「身体の一部分あるいは若干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する」以上、度が過ぎれば身体が刺激される仕方をひどく狭めてしまい、こうして我々の有能性を損なってしまうからだ(注31)。まさにこれこそ、あいちゃんの館で連日シオンに強姦されている最中のおちば様の状態であり―「その日からあたしは、文字どおり家畜みたいだった。/太陽がのぼっている間はずっとシオンにいたぶられて、身体の内側がぜんぶべとべとになるんじゃないかっていうぐらい精液を注入された。〔中略〕これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注32)―、媚薬の注入に続く失禁の場面を経てどん底に達する(注33)彼女の惨めさは、やはり心とは裏腹に肉体が貪ることをやめない多量の快感によって意識が愚弄される以下のくだりにおいて、すでに明瞭すぎるほど明瞭である。

 体位が変わって、あたしの足がシオンのきゃしゃな肩のうえにのる。より深く、彼のものがさしこまれる。身体がしびれていて、自分の爪先(つまさき)がやけに遠い。
「ふあん」
 変な声が出て、顔を赤らめる。まだすこしは羞恥心があるみたいだ。
 厄介なことに、シオンはこういうことが上手だった。いやなやつなのに、気持ちよくされてしまう。へたくそ、とか罵(ののし)ってやれたらいいのに。気がつくと夢中になって、挑発なんてできなくて、全身の毛穴が開いちゃいそう。
 ちゅこちゅこと水音が響くなか、やがて異変が訪れる。
「あ、あう……?」
 呼吸がしにくい。ちがう、口のなかが唾液でいっぱいなのだ。目が見えない。それもちがう。涙が溢れてきたのだ。
〔中略〕
『あたし』という輪郭が崩れて、中身が溢れちゃいそうな。(注34)

例えばジョアン・コプチェクのようなラカン派精神分析に通暁した論者が、通常の快原理の支配の埒外にはみ出るような、死の欲動と一体になった耐えがたいまでに強烈な満足としての享楽(jouissance)の体験を手掛かりにして恥辱の現象の解明を試み、「恥ずかしさは、耐えがたい痛み―つまり、意識が所有できない苦しみを覚えるはめになった身体の、証言者である。精神分析はこの特殊な痛み、意識には吸収されない快楽を、リビドーの満足あるいは享楽と呼んでいる」と書いているのを読むと(注35)、いまさらながら日日日とラカン派の相性のよさというか、親近性には驚かされるほかない。望ましからぬ相手から自分の意に反して力ずくで性交を強要されること、しかも休む間もなく立て続けにそうされること、それはもちろんただでさえ屈辱的なことであり、受け容れがたい恥辱である。しかし状況を決定的にやるせなく、いたたまれないものにしてしまうのは、本来被害者として憤るべき「あたし」(おちば様)がまぎれもなく快感を覚えているということ、しかもその快感たるやおよそいわゆる精神的な(「高尚な」)ところがないばかりか、あべこべに例えばほかならぬ自分の身体から「ちゅこちゅこ」などという間抜けな音が出てくる始末であること、こういった否定しがたい事実なのだ。この点、忘れてはならないのは、仮に精神分析の参照が許されないとしても、我々にはドゥルーズによるT.E.ロレンス論が残されているということだろう。コプチェク以前に、すでに彼は『知恵の七柱』を批評する中で「肉体に代わって恥じる」という事態に言及しているばかりか、身体になしうることについての我々の無知に注意を促すという、ロレンスがスピノザと共有する姿勢を、ほかならぬ肉体の性的な反応(外部からの暴力の到来に際して肉体が覚える性的興奮)という面から次のように確認しているからだ。

精神は肉体へとかがみこむ。このかがみこみ、卑しきものへのこの磁力、精神の覗き趣味、それなしには恥辱はなにものでもなくなってしまうだろう。言い換えるなら、精神は肉体をきわめて特殊な仕方で恥じているということだ。しかし実際は、精神は肉体に代わって恥じているのである。あたかも、肉体にむかって精神がこう言っているかのようだ。おまえを見ていると恥ずかしくなるよ、恥を知ったらどうだ……、と。〔中略〕
 肉体に代わって恥じるということには、ひどく特殊な肉体概念が含まれている。この概念に従うなら、肉体は外的な反応を自律的に示すことになる。肉体は動物なのである。肉体が為すことがあるとすれば、それは単独で行なわれるのだ。ロレンスはスピノザの言葉を自家薬籠中のものとしている。つまり、肉体になにが可能なのかわれわれは知らないのだ。拷問のさなかに、勃起したりするのである。(注36)

このおぞましい境遇から脱出するためには、肉欲の抗いがたさを逆手にとることが、つまり破れかぶれになって羞恥心をかなぐり捨ててしまい、自ら性的な誘惑を行使することによって、もう一人の召使であるセノンを手玉にとり、さらにはあいちゃん本人をも罠にかけて死に至らしめるという骨の折れる作戦が必要だった。この自発的な汚辱への沈澱の中に、すでに能動性への転機が潜んでいることは疑いえない。なお、主人が死んで自由の身になった以上その場から離脱してもよさそうなのに、怒りに我を忘れておちば様に仇討ちを挑んだ結果、間一髪で彼女の救助に駆けつけたソプラノにあっけなく敗れるシオンの空しい忠義は―加工種(エルフ)の殺人鬼であるソプラノは、シオンと違って何ら特別な鍛錬の経験がないが、それにもかかわらず「単純に生物として強いということは、あらゆる理屈を無視する」(注37)がゆえにたやすく勝利する―、これはこれで、肉体に対する精神の地位を過信しないようにという、残酷なまでに皮肉な戒めでありうる。
もちろん、ここまでで終わってしまっては、単に精神は肉体に勝てないというだけの底の浅い結論にもなりかねない。むしろスピノザ主義者としての日日日の本領は、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの不思議な教えから、ドゥルーズの表現を借りるなら「鬨声(ときのこえ)」(注38)を、すなわち我々自身の力能を増大させてくれるようなよい出会いの組織化に、そして喜びを介した受動性から能動性への転換に赴くための力強い号令のようなものを彼が引き出そうとする点にこそ存すると考えるべきだろう。
『エチカ』の体系においては、身体であれ物体であれ、およそ個々の体というものは、全ての属性にとって唯一無二の実体―それをスピノザは「神」と名づける―にほかならぬ、ある内在的な共通平面の上に見出される様態である。そしてそれぞれの体の個体性は、第一にそれらを構成する無数の微粒子の間に成り立つ運動と静止、速さと遅さの複合関係であり、第二にある体が他の諸々の体を触発し、あるいはそれらによって触発される力、すなわち変様能力なのである。『エチカ』の主に第二部(「精神の本性および起源について」)で集中的に論じられている物体論ないし身体論をこのようにまとめた上で、ドゥルーズはスピノザのことを、今日エトロジー(éthologie)という名で呼ばれる学問、すなわち動物行動学ないし生態学の始祖として考えようとする。「君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない」…この叫びとともに幕を開けるのが、まずは「個々のものがそれによって特徴づけられるような速さと遅さの複合関係、触発しまた触発される力についての研究」であり、第二にそのような複合関係、および触発ないし変様の能力の「状況に応じた具現のされ方、満たされ方」―これは、しかじかの情動が当の個体にとって毒となるか糧となるか次第で大きく異なってくる―の研究であり、最後に別々の個体の間で、それぞれの持つ関係や力の間に成り立つ複合的構成の研究、換言すれば「各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『拡がりの大きい』構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『強度の高い』力、力能をつくりあげることができるかどうか」を知ることである(注39)。
『のばらセックス』第III章「いつかは散る薔薇」の冒頭、「ソプラノの男性器は、見慣れないうちは異様だった」に続く、信じがたいほどに美しい性交の情景は、このような、スピノザ的な意味でのエトロジー、動物行動学ないし生態学の探究の具体例として読むことができる。もちろん、単に「あたしたちも動物だ」(注40)という文章が現れることだけが理由ではない。例えば、喋るためでも食べるためでもなく、男性器を愛撫するために口を使うことを学び、そのような未知の、いままで経験したためしのない用途に自らの身体を投じることで、他人の体との新たな組み合わせを模索するという試みのゆえに、我々はそう判断せざるをえないのだ。ただし、「その下着を押しあげて主張し始めたおちんちんを、指先でなぞる。どんどんかたちが明確になる。それはあたしたちの欲望のかたち」というくだり(注41)からもただちにわかるとおり、求められているのはあくまでも組み合わせ、ないし複合的構成なのであって、支配する側とされる側の不動の上下関係でも、ましてやそのような上下関係の存続でもない。それに、個体性に具わる二つの相、すなわち速度の変異と―「ソプラノがもう我慢できない、というようにあたしの後頭部を摑んだ。腕力がすごく、あたしは抵抗できない。ものすごい勢いで、彼の男性器が喉の奥までつっこまれた」(注42)―、触発したりされたりする、変様能力そのものについても―「そのままソプラノは射精した。〔中略〕あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える」(注43)―忘れてはならない。
なるほど、「お互いに体力を消耗し、互いの名前と『愛している』と、喘ぎ声しかでなくなる」という一文(注44)は、すぐ後に引用するくだりに先行しながら、あたかも、性関係の不可能性(その本質を言い表しえないこと)に直面して、決して重なり合わない両性の間の一致をいつまでも夢見ることを余儀なくされる「愛」の悲劇的な壮挙についてのラカン的な洞察(注45)、ひいては言語というものを何よりもこの不可能な結びつきの幻想的な代補とみなす彼の見解を―「二つの存在が結びつくことが出来ないから、彼らは話すのだ、とラカンは言う」(注46)―例証しているかのようでもある。

 なに。ちょっと待って休憩。と言おうとした瞬間だった。ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、当然のように前戯なんて概念知らないから。
 そのまま挿入してきた。あたしは上半身を寝台に突っ伏したまま、腰だけ持ちあげられておちんちんを突っこまれる。背骨が真ん中から折れそうだった。
「ひあっ!?」
 性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声。ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。心臓が震えて、停止しそうになる。相変わらずこっちのことをおもちゃみたいにして、全力で腰が振られる。ばちんばちんという互いの肉が当たる音は、もはや骨と骨がぶつかってがちんがちんになる。
 刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い。やっぱり戦いみたいだ。そして、戦いにおいてひ弱な人間のあたしは、頑健な加工種(エルフ)に勝てない。ということに、しておいて……。
 こ、これで勝ったと思うなよ……。
 がんがん欲望をぶつけられて、あたしはもはや何もわからない。年上の余裕なんて吹き飛んで、勉強したことぜんぶたいらにされて、ひたすら貪りあう。汗が飛び散り、水音が響き、互いの息づかいがすべてになる。
「ソプラノ、ソプラノ……」
「せんぱい―」
 名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに。不安になったみたいに、身体を押しつけあう。求められている。それが嬉しい。ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる。
 もう、逃げられない。
「あう、あうう、ふあううう」
 そばにあった枕を抱いて、何度も背中を跳ねさせて、あたしも積極的に応じる。お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける。
「ふあああ、ああああ」
 快楽にむせび、この世の幸福を味わっていると。(注47)

しかしながら、以上のくだりそのものは、やはり必ずしも合一の不可能性を強調するものとしてのみ読まずともよいようである。我々はむしろ、さりげなく書きこまれた「互いの息づかいがすべてになる」という感覚を素直に認めるところから出発して、一切の有機的組織化、一体化や全体化に抗いつつ、何ら欠如を知らぬ欲望の内在性と生成変化の倫理とを肯定するためにドゥルーズがアントナン・アルトーから借用した「器官なき身体(Corps sans Organes)」、ないしCsOの構成の試みをここに読みとるべきではなかろうか。それというのも、クロソウスキーにならって「気息は、それ自体としても、われわれの内においても、純粋な強度として認められるべきであると思われる」と述べるドゥルーズを信じるなら、「常に、私の気息の中には他の気息があり、私の思考の中には他の思考があり、私の所有するものの中には他の所有物があり」、このようにして「われわれは気息送入と揺らぎなのであり、われわれは気息送入や揺らぎによって互いに混じり合うのである」という事態が成り立つ(注48)一方で、まさしく「分節されない音のブロックに等しい息吹や叫び」を発して明瞭な発話に対抗する(注49)器官なき身体こそが、ただただ強度によってのみ占有される物体ないし身体、すなわち「強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない」ような、「有機体(オルガニスム)の成長以前、器官(オルガヌ)の組織(オルガニザシオン)以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵」(注50)であるからだ。
それゆえ、いましがた『のばらセックス』から引用したばかりの目もくらむほど鮮烈な性交の場面の前半に現れる「戦い」、「刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い」を思わせる真剣勝負の模様については、プルースト、あるいはむしろ「一つの並外れた〈器官なき身体〉」(注51)である『失われた時を求めて』の話者の文体における諸破片の終わりなき闘争についてドゥルーズが説明していること―「決して何ものもある友愛(フィリアー)〔une philia〕によっては平定されることがない。ちょうど諸々の場所や諸瞬間に関しても、結婚する二つの感情は闘争しながらでしかそうせず、そしてこの闘争においてある長続きしない不規則な団体〔un corps irrégulier de peu de durée〕を形成するように。藝術的な〈観点〉という本質の最も高度な状態においてすら、開始する世界は諸々の音をそれらに自らが立脚する当の終極的な齟齬せる諸破片として闘争させるのである」(注52)―を参照しなくてはなるまいし、また後半については、おそらく「ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」という一文を手掛かりにした、古代ギリシャのストア派哲学における非物体的なものの理論との比較が許されてよいはずである。
なんとなれば、ストア派によれば存在するのはひとり物体のみであり、「魂」もまた存在する物体であるばかりか、我々が接する諸物体とは、そもそも原初の火(能動的物体)が物質(受動的物体あるいは性質なき質料)と全面的に混合してその内側から働きかける際に、個別の一体性を保証する内的な力、すなわち「気息」として示すありとあらゆる緊張の諸状態にほかならず、この全面的混合の中で諸物体がもっぱらそれによって区別される内的な力(例えば、動物における霊魂や人間における精神)の性質的差異とは、実はそのまま緊張という強度の差異のことであるからだ。換言すれば、ストア派の宇宙は緊張に貫かれた諸物体が相互に浸透することをやめないトノス(緊張、張力)一元論の世界であり、あるいは、実体としては気息である内的な力がみせる、働きの個体化の様相が緊張なのである(注53)。しかるに、物体は相互浸透の結果として、ある非物体的なものを、すなわち動詞によって表現されるような出来事をその表面に産出する。ただし、言語の経験的・惰性的使用において単に物の状態の上に意味として現働化したかぎりでの出来事を表現しうるにすぎない、活用を受けた動詞と、そのつど純粋な出来事としての潜在性の次元の中でいわば反‐実現を遂げる表現可能なものに対応する不定法の動詞との区別が示唆しているように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」と「表現可能なもの(レクトン)」という二つの術語を混同してはならない。身体の力能を忘却したまま表面で分節化した言葉による言語活動においては意味が所与の条件として前提されるが、これに対して身体に生起する強度的な出来事の言語(「ドラマの言語」)の場合には、決してそのような再認の対象があらかじめ与えられることはないからだ。江川隆男によれば、ここからわかるのはとりもなおさず、有機的身体とは違い、感覚の可能性ならぬ必然性を教えてくれるような身体、すなわち器官なき身体の存在である。

要するに、物体の限界面に生じる非物体的なものを、〈意味されるもの〉(セーマイノメノン)ではなく、〈表現されるもの〉(レクトン)とするような身体が存在するということである。こうした身体が存在するということは、〈感覚されることしかできないもの〉が世界に存在することを示している。つまり、諸器官の総体としての有機的身体は感覚の可能性を意味するが、しかし、そうした器官のない身体そのもの(身体の本質)の存在は感覚の必然性を示しているのだ。(注54)

器官なき身体への生成変化のためには、表面の言葉の言語や「意味されるもの(セーマイノメノン)」から自由になった「表現されるもの(レクトン)」が、それを産出した身体の力を肯定するためにその身体に回帰することが必要である。しかるにストア派の哲学者たちが、諸物体からなる宇宙の外、当面物体によって占有される可能性が尽きているところに無限の空虚(ケノン)を、すなわち「緊張の度合が生み出す差異をけっして受け入れないという意味で、完全に不毛な無差異のうちにとどまり、それゆえそこにいかなる強度も存在しない〈強度=0(ゼロ)〉という非物体的なもの」を想定しながら、しかも周期的に発生する宇宙の大火―このときのみ、全物体は火へと解消して空虚の中に膨張する―を経て何度となく世界が再生を繰り返すという説を唱えたことは、「空虚という身体の本質に、身体の存在を強度として受け入れさせる」というこの課題に、彼らがすでに突き当たっていたことの証拠として理解できるはずなのだ(注55)。
少し回り道になったかもしれないが、ここでもう一度『のばらセックス』からの引用文に戻ろう。すると我々が気づかざるをえないのは、例えば「性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声」という文からもうかがえるように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」の秩序に陥ることも、たやすくそれに還元されてしまうこともない「表現されるもの(レクトン)」を生ぜしめ、そのようにして「感覚されることしかできないもの」の実在(感覚の必然性)を強度的に教えてくれるような身体のあり方である。まさしく、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」のだ。ゆえに、「名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに」云々と書いてあるのは、精神分析が悲劇的な調子で、あるいは斜に構えて宣告するような両性の合一の不可能性というよりも、むしろそのような身体、器官なき身体が、もっぱら火だけを受け入れて白熱するストア派の空虚のごとく、強度によってのみ占有される身体であり―「ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。〔中略〕ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」―、強度の卵であることが理由なのである。それと、「名前を呼ぶ」・「身体を押しつけあう」・「お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける」…等々の、主語を欠き、いわば裸形のまま投げ出された不定法的な動詞の連続についても、それらがみな、先行する叙述の中では活用を受けて過去形ないし完了形となった動詞が明確な主語ないし主体に従属している(「ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、〔中略〕そのまま挿入してきた」)ことと比べて著しい文体上の対照を示しているのは見落とせない。もっともこれは『のばらセックス』に特有のことというよりは、日本語という言語の性質上、印欧語における動詞の不定法に相当するはずのものと、人称・数の変化に応じた直説法現在の活用形に相当するはずのものとが外見上区別できず、また文の主語についても適宜省略が許されており、必ずしもつねに明示しなくてよいという事情の然らしめるところなのであろう。
決定的なのは、ドゥルーズと彼の盟友フェリックス・ガタリにとって、器官なき身体(Corps sans Organes)ないしCsOとはそもそも「最もスピノザ的な意味における内在的実体」にほかならないという事実である(例えば性器がそうでありうるような「部分対象」は、その実体の属性である。換言すれば、器官なき身体が敵対することになる相手とはあくまでも身体の有機的組織化なのであって、器官そのものではない)(注56)。それゆえ彼らはこう主張する。

 結局、CsOに関する偉大な書物は、『エチカ』ではなかろうか。属性attributとはCsOのタイプ、あるいは種類であり、実体にして力、生産的な母体としての強度ゼロである。様態modeとは、生起するすべての事柄、つまり波と波動、移動、閾と勾配、一定の実体的なタイプのもとで、ある母体から産み出される強度である。属性または実体の種類としてマゾヒストの身体があり、身体を縫うことから、つまり零度から始まって、強度が、つまり責苦的な様態が産み出される。麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、〈絶対寒冷〉=0から始まって、特異な強度を生産する。〔中略〕あらゆる実体にとって同一の実体があるか、あらゆる属性にとって唯一の実体があるか、という問いは、あらゆるCsOから成る一つの総体が存在するだろうか、という問いに言い換えられる。しかし、CsOがすでに一つの極限であるなら、あらゆるCsOの総体についていったい何を言うべきなのだろう。問題は一と多ではない。一と多の対立をまったく超えてしまう融合状態の多様体こそが問題なのだ。実体的属性の形相的な多様性は、このようなものとして実体の存在論的な統一を達成する。同一の実体のもとにあるあらゆる属性の、またはあらゆる種類の強度の連続体。そして同一タイプまたは同一の属性のもとにある、一定種類の強度の連続体。あらゆる実体の、強度における連続体、さらにあらゆる強度の、実体における連続体。CsOの、中断のない連続体。CsO、内在性、内在的な極限。麻薬中毒者、マゾヒスト、分裂病者、恋人たちなど、すべてのCsOはスピノザをたたえる。CsOは、欲望の内在野champ d'immanenceであり、欲望に固有の存立平面plan de consistanceである(そこで欲望はあくまで生産の過程として定義されるのであって、それに空虚をうがつ欠如、これを満たしにくる快楽などの、どんな外的契機とも無縁である)。(注57)

ここに、スピノザ的な器官なき身体の体現者、というよりも実例そのものとして、「恋人たち」と並んで「マゾヒスト」が姿を見せることは、『のばらセックス』をスピノザ主義の小説として読もうとする我々にとって無視できない。なにしろ、恋人の射精を咽喉で受けとめた直後のおちば様の苦悶は、以下のとおりに描写されているのだ。

 ソプラノは満足そうに、あたしの髪の毛を引っつかんだまま、長く吐精した。それこそ、縄張りを主張するように。あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える。
 えへへ……。
 ようやく男性器が引き抜かれ、よだれと精液とわずかな出血で、異様に輝く。まだ元気。あたしは口から溢れてくるいろんなものを手のひらで押さえたが、指の隙間から漏れてくる。床に染みができていく。
「ごほっ、げほごほっ」
 朦朧(もうろう)とした意識のなか、収まらない咳だけが痛みをともなう現実だった。目を閉じ、俯き、寝台に突っ伏したまましばし喘いだ。ソプラノとのいやらしい行為は、気持ちいいというよりも、むしろ戦いだ。どう死なずに乗り越えるかが肝心だ。
 何でそんな酷い目にあってまでソプラノを選ぶのか。疑問に思われるかもしれない。でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて。
 ならば、痛みを堪え、あるいは慣れて、快楽さえ得て、あたしは自らを調教する。ひとりよがりじゃない、ソプラノも努力してあたしに歩み寄ってくれている。以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし。(注58)

ここで彼女が自分自身に施す「調教」の過程は、まさに、次に引用するドゥルーズたちのマゾヒズム論に、この上なくみごとに呼応するものであろう。その要諦は、マゾヒストが苦痛から引き出そうとしているものとは、ありきたりのけちな快楽というよりもむしろ、いかなる欠如も知らない欲望の自足性である、という点に存する。

マゾヒストの苦痛は快楽にいたるための手段ではなく、外的な基準としての快楽に対して欲望が結んでいる偽りの関係を解体するための代価なのだ。快楽は決して苦痛による迂回によって獲得されるべきものではなく、肯定的な欲望の連続的な過程を中断するものとして、できるだけ遅延されなければならない。それはつまり、欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在するということである。この喜びはどんな欠如とも、不可能性とも無関係で、快楽によって測られはしない。なぜなら、快楽の強度をいきわたらせ、この強度が、苦悩や、恥辱や、罪悪神によって侵されるのを防ぐのは、まさにこの喜びだからである。つまり、マゾヒストは、一つの器官なき身体を作り上げ、欲望の存立平面を抽出するための手段として、苦痛を用いるのだ。(注59)

ゆえにマゾヒズムの本質とは、本能的な力を破壊し、あるいは強制的に組み替えてしまうことによって、所与の自然に抗いつつ動物への生成変化をもたらすような、一つの器官なき身体の構成として定義できるのである。

マゾヒズムの本質をなす〈動物になること〉があり、力の問題があるのだ。マゾヒストはこれを次のように示す。「調教の公理本能的な力に代えて伝達された力を得るために本能的な力を破壊してしまうこと。」実際は、それは破壊というよりは、交換であり、流通なのだ(「馬に起きることは、自分にも起こりうる」)。(注60)

とすれば、「あたしたちも動物だ」(注61)という自覚とともに、吐き気のような苦痛に満ちた「生理的反応」(注62)の克服に努めつつひたすら自分自身の「調教」に励むおちば様は、いわば模範的なマゾヒストなのだ。この際、彼女が「痛みを堪え、あるいは慣れて」に続けて「快楽さえ得て」とも述べていることは、ほんの些細な齟齬、ちょっとした言葉の問題にすぎない。むしろ、まさにそのような、自然的本能に反する特異な内在的「快楽」をも発明してしまう欲望の創造性を指して、ドゥルーズたちは「欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在する」と書いているのだと考えるべきであろう。
それでは、おちば様のこの自主的な調教の動機は一体何か。この問いの答は実に簡単明瞭で、「でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて」という彼女自身の決意が物語っているとおり、その動機とは愛、それも受動的ではなくて能動的な愛なのである。ところで、ドゥルーズたちによれば、欲望とは愛する力のことである。

欲望は、それ自身においては愛そうとする欲望ではなくて、むしろ愛する力である。すなわち、与え生産する徳、機械として働く徳である(というのも生の中に存在するものが、いかにして、なお生を欲望することができようか。誰が、こうしたものをもひとつの欲望と呼ぼうとするのか)。(注63)

ということはつまり、欠如なき欲望の内在野、欲望に固有の存立平面としての器官なき身体の獲得は、同時に愛する力が自律性を獲得することでもある、と判断してよいのではないか。そしておそらく、『のばらセックス』の作者とスピノザとの間に最も深い合致が成り立つのは、まさにその点なのである。というのも、『エチカ』第五部(「知性の能力あるいは人間の自由について」)は、「神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない」(注64)とことわった上で、神の属性の本質の妥当な観念から物の本質の妥当な認識へと進む直観知を源泉とするような、神への知的愛について、それは―人間精神によって説明されるかぎりにおける神が、原因としての自己の観念を伴いながら自己自身を観想する働きであるがゆえに―「神が自己自身を愛する無限の愛の一部分」でもあると断定しているからだ。つまり「神は自己自身を愛する限りにおいて人間を愛し、したがってまた人間に対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同一である、ということになる」(注65)。『エチカ』が至福とも呼び、事実スピノザ哲学の最高の境地としてあまねく知られる、この神の自己愛としての神への知的愛を、もはや愛されたいとも、愛し返してもらいたいとも思わない者だけが達することのできる、能動的な愛する力としての強度の母体ないし卵、そこから諸々の個物(様態)が強度として生じてくる一つの器官なき身体として理解してよいのだとすれば、「愛されなかったからって、哀しむのは、悔しいだけ」(注66)という反省を経たおちば様が、女性の量産という難事に身を削って挑み、ついに力尽きた生みの親(坂本緒礼)を前にして大詰めの場面で発する「ひとを愛するということが―『馬鹿みたい』じゃなかった時代が、かつていちどでもあっただろうか」(注67)という感慨は、瀕死の彼の意志を引き継いで自ら妹たちの母代わりになろうとする決心とあいまって、間違いなく、このような能動的で創造的な愛の奇蹟を祝福しているばかりか、それの実践に向けて決意を新たにし、ひいては我々読者にもそれへの参加を呼びかけているのであると信じなくてはならない。


(1)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(工藤喜作・小柴康子・小谷晴勇訳、法政大学出版会、2004年第6刷)265頁。
(2)桜井直文は、『スピノザーナ―スピノザ協会年報―第13号(2012)』(2013年)の「【巻頭言】スピノザのものとされているが、スピノザのものではないものについて」において、「平行論」ないし「並行説」(parallélisme)とは本来スピノザの論敵であるライプニッツが自説に与えた名称であることを理由に、この語をスピノザの体系に適用する習慣に対して疑義を呈している(5-10頁)。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、2004年初版第2刷)134-135頁。
(4)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第48刷)38頁(第一部定義6)。
(5)同書53頁(第一部定理15)。
(6)同書64頁(第一部定理18)。
(7)同書70頁(第一部定理25系)。
(8)同書37-38頁(第一部定義四、五)。
(9)同書95-96頁(第二部定理1、2)。
(10)同書108頁(第二部定理13)。
(11)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)266頁、『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)135-136頁。
(12)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)110頁(第二部定理13備考)。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。以下においても同様である。
(13)同書180頁。
(14)同書177頁(第三部定理6)。
(15)同書178-179頁(第三部定理9とその備考)。スピノザは、衝動とは「人間の本質そのもの、―自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない」とすら書いている。なお、ここでは一応岩波文庫版の訳文をそのまま引用したが、「結局人間にそれを行なわせるようにさせる」は、使役が重複していてくどいから改める必要があろう。原文は« atque adeo homo ad eadem agendum determinatus est »であり、直訳すれば「そしてその上人間はそれらのことどもを行うことへと規定された」となる。つまり、この箇所は、「衝動(appetitus)」ないし「本質(essentia)」から「人間(homo)」への主語の転換を経た上で、完了受動態で書かれているのである。ただし、完了といってもそれは古典ラテン語文法の規範に照らして診断すればということであって、スピノザ本人のつもりではここの時制はむしろ現在なのではないか。
(16)同書181頁。
(17)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)34-35頁。
(18)同書86頁。
(19)同書37-39頁。
(20)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)12頁(第四部定義一)。
(21)同上(第四部定義二)。
(22)同書20頁(第四部定理8)。
(23)同書38頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)41-42頁。
(25)同書42-44頁。
(26)同書51-52頁。
(27)同書53-54頁。
(28)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)151-153頁。
(29)同書180頁。
(30)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)54頁(第四部定理41)。
(31)同書55頁(第四部定理43とその証明)。
(32)日日日『のばらセックス』(前掲書)181-182頁。
(33)同書190頁。「どん底」という形容を支えてくれる根拠としては、ここに至って「どれだけ気持ちのいい行為も、過ぎれば吐き気になる」という、スピノザの快楽批判と同様の認識がおちば様本人に生じていることを挙げられる。この認識は前提として、狭義の性行為ばかりでなく強制された排尿行為の連続もまた快楽でありうるという命題の成立を、すなわち節の転換の直前ではなお屈辱感に耐えながら「負けるもんか……」という決意を固めていたはずの彼女の意識の惨敗を、当然要求しているはずである。
(34)同書185頁。
(35)ジョアン・コプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん』(鈴木英明・中山徹・村山敏勝訳、河出書房新社、2004年)305頁。
(36)ジル・ドゥルーズ「恥辱と栄光―T・E・ロレンス」、『批評と臨床』(守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010年)251-252頁。
(37)日日日『のばらセックス』(前掲書)235頁。
(38)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)265頁。
(39)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)236-244頁。
(40)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(41)同書299頁。
(42)同書301頁。
(43)同書302頁。
(44)同書303頁。
(45)Cf. Joël Dor, Introduction à la lecture de Lacan, Paris, Denoël, 2002, p.531-534.
(46)ジャン‐クロード・ミルネール『言語への愛』(平出和子・松岡新一郎訳、水声社、1997年)127頁。
(47)日日日『のばらセックス』(前掲書)303-305頁。
(48)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)215-217頁。
(49)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 上』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)28頁。
(50)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)314頁。
(51)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.218.
(52)Ibid., p.148: « Jamais rien n'est pacifié par une philia; comme pour les lieux et les moments, deux sentiments qui s'épousent ne le font qu'en luttant, et forment dans cette lutte un corps irrégulier de peu de durée. Même dans l'état le plus haut de l'essence comme Point de vue artistique, le monde qui commence fait lutter les sons comme les morceaux disparates ultimes sur lesquels il repose ».
(53)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社、2006年)146-150頁。
(54)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書192頁。
(55)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書194-201頁。
(56)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)206頁。
(57)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)315-316頁。
(58)日日日『のばらセックス』(前掲書)302-303頁。
(59)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)318頁。
(60)同書319頁。
(61)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(62)同書301-302頁。
(63)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(前掲書)218頁。
(64)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)116頁(第五部定理19)。
(65)同書129頁(第五部定理39の本文、証明、系)。
(66)日日日『のばらセックス』(前掲書)284頁。
(67)同書378頁。
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日日日『のばらセックス』16 

(一)ドゥルーズの時間論
ジル・ドゥルーズは主著『差異と反復』〔Différence et répétition〕(1968年)の第2章「それ自身へ向かう反復」で、三つの局面ないし三通りの総合から成る独自の時間論を彫琢した。
その内実は、第一に想像力による諸瞬間の縮約ないし受動的総合、すなわち習慣にもとづく連続性への期待としての「生ける現在」であり、これが時間の土台(fondation)である。しかるに、現在は不断に過ぎ去る。ドゥルーズによればこの事実を説明してくれるのが、彼が時間の根拠(fondement)と呼ぶもの、すなわち本来的な記憶としての過去であり、そもそも第一の総合(習慣)は、このいっそう深い受動的総合(記憶)の中でこそ生じる。そして、この場合の過去とは決してかつて現在であったものがその後変質をきたした結果なのではなく、むしろ一つ一つの古い現在が―能動的総合としての(派生的な)記憶によって―個別的に対象化される境地(場)としての、一般的な意味での過去、つまり「純粋過去」なのだという。過去が現在としてのそれ自身と同時的であるということ、どの新たな現在にも過去の全体が共存しているということ、過去一般という純粋な境地は過ぎ去る現在にあらかじめ先立っていなくてはならないこと、結局のところどの現在も、いわば円錐の頂点として、最高度に縮約された状態における過去全体以外の何ものでもないこと(ベルクソン)、これら四つの逆説が、純粋過去に関しては無視できない。
ところで、即自的に保存されているそのような過去をまた我々自身のためにも救出したければ、一体どうすればよいのだろうか。プルーストの長篇小説『失われた時を求めて』の話者(主人公)が幼年期を過した架空の田舎町コンブレーを例に挙げつつドゥルーズが述べるところを信じるなら、その答は想起(アナムネーシス)、すなわちいまだかつて現在的であったためしのない本質が忘却のただなかで遂げる復活である。

事実、想起(アナムネーシス)は、〔派生的な〕意志的記憶のあらゆる能動的総合とは本性上異なるひとつの受動的総合、つまり〔本来的な〕非意志的記憶を指示している。〔『失われた時を求めて』に登場する〕コンブレーという町は、それがかつて現在(プレザン)であった〔現前した〕ようには、またそれが現在でありうる〔現前しうる〕ようには、再び出現することはない。むしろ、その町は、それがかつては現在であったその〔古い〕現在にも、それが現働的な現在でありうるようなその現働的な現在にも、共に還元されえないということを、結局はそれら二つの現在の衝突に乗じて開示してしまうようなひとつの純粋過去が存在するのであって、コンブレーは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現するのである。古い現在は、忘却が経験的に克服されるかぎりにおいて、忘却の彼岸において、能動的総合のなかで、表象=再現前化されるがままになる。だがしかし、コンブレーが、かつて現在であったためしがない〔純粋〕過去という形式で、すなわちコンブレーの即自という形式で出現するのは、まさに忘却のなかにおいてであり、記憶にないほど古いものとしてである。過去の即自というものが存在するのであれば、想起(アナムネーシス)こそが、その即自の可想的存在(ヌーメノン)〔経験の対象にはならない本体〕であり、あるいは、それにエネルギーを備給する思考である。想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない。その場合でもやはり、過ぎ去るそれらの現在に乗じてそれらを利用し、表象=再現前化の下で出現する純粋過去を、たとえば、かつて生きられたためしがなく、愛人なるもののかなたに、そして母なるもののかなたにありながら、その愛人とともに共存し、その母と同時的であるような聖処女を、それら過ぎ去る現在どうしの関係は説明してくれないのである。現在は現実存在し(エグジステ)〔外に立ち〕、〔純粋〕過去だけが存続する(アンシステ)〔内に立つ〕。そして、現在がそこで過ぎ去り、諸現在がそこで衝突する当の境地を、その過去だけが供給するのである。(注1)

一度も現在的であったためしのない、それでいて現在が過ぎ去るという事態を理解しようとすればどうしてもその根拠として不可欠であるような純粋過去を想起すること―この発想がそれ自体として独創的でもあれば興味深いものでもあることは論を俟たない。
とはいえ、ドゥルーズの時間論の神髄は、これに続く第三の局面、すなわち、デカルトの説の不十分さを批判するカントが、規定作用と未規定なものの間、「私は思考する」という文と「私は存在する」という文の間に、「未規定なものがそのもとで(規定作用によって)規定されうるようになる当の形式」、「存在と思考をア・プリオリに関係させている内的な《差異》」として持ち込んだ、「規定されうるもの」という論理的価値であり、あるいはそのような形式としての時間である。そして実は、先回りしてドゥルーズの時間論の結論を明かしてしまうと、これ(自我に亀裂を走らせる空虚な形式)によって初めて、彼にとっては最も大切な、未来という時間が導入されることになるのである。

私の未規定な存在は、ひとつの現象の存在として、すなわち、時間のなかで現われる受動的あるいは受容的な現象的主観として、時間のなかでしか規定されることができないのであり、したがって、私が〈私が思考する〉において意識する自発性は、実体的かつ自発的な存在者の属性としては理解されることができず、ただ、ひとつの受動的な自我における触発としてだけ理解されうるのであって、その受動的な自我は、おのれ自身の思考、すなわち、おのれ自身の知性、すなわちおのれがそれによって《私》と言える当のものが、その受動的自我によっては活動せず、ただその自我においてかつその自我に対して活動する、ということを感知するのである。〔中略〕思考の能動性が、受容的な存在者へと、つまり受動的な主観へと振り向けられるので、この受動的な主観は、その能動性を働かせるというよりは、むしろそれをおのれに表象=再現前化するのであり、その能動性の主導権を手に入れるというよりは、それの効果を感じるのであって、結局、その能動性を、おのれのうちにおいてひとつの《他》なるものとして生きるのである。「私は思考する」と「私は存在する」に、「受動的、受容的な」自我を、すなわち受動的な位置(カントが直観の受容性と呼ぶもの)を付け加えなければならない。言い換えるなら、規定作用と未規定なものに、規定されうるものの形式を、すなわち時間を付け加えなければならないのである。とはいえ、「付け加える」というのは、まずい言い方である。なぜなら、むしろ差異をつくる〔差をつける〕ことが、そして差異を存在と思考のなかに内化することが問題だからである。《私なるもの》には、一方の端から他方の端まで、言わば亀裂が入っている。《私》は、時間の純粋で空虚な形式によってひび割れている。この形式のもとで、《私》は、時間のなかで現われる受動的な自我の相関項になっている。《私》のなかの或る裂け目、亀裂、そして自我における或る受動性こそ、時間が意味するものなのである。こうして、受動的な自我とひび割れた《私》との相関関係が、超越論的なものの発見を、あるいはコペルニクス的転回の境地を構成するのである。(注2)

思考そのものに時間の形式を持ち込むこと、これがもたらす成果とは、ドゥルーズによれば神の死、ひび割れた「私」、受動的な自我であり、それらの帰結を追求したのはカントその人ではなくて、詩人ヘルダーリンだったのだという。もっとも、先に検討した第二の時間、すなわち記憶が、一方では純粋過去として表象(再現前化)の根拠でありながら、他方ではそれ自身が根拠づける相手であるはずの表象(再現前化)に相関的でもあるほかないということ、すなわち記憶の領域では依然として、見本の側の同一性と、それの影像の側の類似性とが支配しており、その結果として根拠は円環を形成してしまい、思考に運動を導入するのではなくて心に周期的な運動を導入するにとどまるということ、このような記憶の弱点を克服したのは、まぎれもなくカントの功績である。こうなると時間は、循環や周期性からも、またいかなる内容からも解放されて、空虚な形式としての純粋な順序と化す。いわば歴史哲学への詩学の応用の試みとでも形容できそうなヘルダーリンの批評―とりわけ『オイディプスへの注解』―における卓抜な表現を借用するなら、それはツェズーア(Cäsur)、すなわち区切りもしくは「中間休止」によって前後に分断される、直線的な時間である。そのような「前」と「後」は互いに不等であり、非対称的であり、したがって何人にも後戻りを許さないのである。

 時間の空虚な形式あるいは第三の総合とは、何を意味するのだろうか。デンマークの王子〔ハムレット〕は、「時間はその蝶番から外れてしまった」と語る。〔中略〕蝶番、カルドーcardoとは、時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルディナル)な点に、その時間が従属しているということを、保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間、すなわち運動の数である)。反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆してしまうような、そうした時間であって、要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち、円環であることを公然とやめるのである)。時間は、機軸的(カルディナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は、〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた。わたしたちは、時間の順序を、以上のような中間休止に応じた不等なものの純粋に形式的な配分として定義することができる。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。その場合、時間はもはや運動に従属していないがゆえに、そうした総合は必然的に静的なものである。もっとも根本的な変化の形式〔順序〕があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。《私》の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって〈これを最後に〉順序づけられる〈前〉と〈後〉である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)。(注3)

それではなぜ、円環状ではなくて直線状の、空虚な形式としてのこの第三の時間が、ドゥルーズにとって大切なのか。この問いに答えるためには、不等な諸部分としての時間の総体(すなわち「前」と「後」)を包摂する、行動の映像(イマージュ)に注目しなくてはならない。彼はこれを象徴とも呼んでおり、中間休止はその中で決定されるのである。この観点から、第三の時間そのものにおける三つの局面―「前‐中間休止‐後」、あるいは「過去‐現在‐未来」―を論じるなら、以下のようになる。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注4)

この引用文の内容は、おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである。そのことは、過去がそれ自体としては―この時間においては、行動が「私にとっては大きすぎる」手本として現われるがゆえに―欠如による反復であるのに対して、他方ではまた、現在(中間休止)における変身によって構成される別の反復、等しくなることによる反復を準備するものでもある、ということ、すなわち反復は何か新しいものが産出されるための歴史的な条件であり、そもそも行動というものの条件であるということをドゥルーズが我々に説くに至っていよいよ明らかである。なぜならば、このようにして産出される新しいものとは、欠如とも等しくなることとも違う、過剰による反復であり、未来であるかぎりでの未来、永遠回帰としての未来の反復であるからだ。
いささか謎めいたというか、もってまわった書き方をしてしまったが、詳しい検討は後回しにして、とりあえず引き続き彼の考えに耳を傾けてみよう。例えば、フランス革命の立役者たちは「復活したローマ人」としての自らを生きるべく定められていたのであり、ついで行動を起こすことが可能になるや、自らを歴史的過去に属する人物と同一視するという条件において、本来的な過去の様態で反復を行うことで本格的に行動を開始したのである。

わたしたちは、過去を構成しているそのような様態でいったん反復し、変身の現在においてもう一度反復するという条件のもとではじめて、何か新しいものを産み出すのである。そしてこの産み出されるもの、つまりそれ自身絶対に新しいものは、これまた、反復、換言すれば、今度は過剰による第三の反復、すなわち永遠回帰としての未来の反復にほかならない。なぜなら、たとえわたしたちが、永遠回帰を、あたかもそれが、時間の全系列あるいは時間の総体の全体に関与するかのように、つまり、未来におとらず過去や現在にも関与するかのように説明するにしても、この説明は導入的なものにとどまるだけであって、それが有する価値は、問題的で未規定な価値にほかならず、それが有する機能は、永遠回帰の問題を立てるという機能にほかならないからである。永遠回帰は、その秘教的な真理性において、系列たる第三の時間にしか関わらず、また関わりえないのだ。永遠回帰の規定は、ひたすらそのようなところにある。それゆえに、永遠回帰は、文字通り、未来への信仰、未来における信仰と言われるのである。永遠回帰は、新しいものにしか、すなわち、欠如〔過去〕を条件として、しかも変身〔の作用者、現在〕を介して産み出されるものにしか関与しない。しかし永遠回帰は、条件作用者も還帰させることはない。反対に、永遠回帰は、その遠心的な力のすべてによって、それらを追放し、それらを否認する。永遠回帰は、所産を自律的なものにし、作品を独立させる。永遠回帰は、過剰による反復であって、これは、そのような欠如もそのような〈等しく‐なる〉ということもまったく存続させないのだ。永遠回帰は、それ自身新しいものであり、まさに新しさの全体である。永遠回帰はそれだけで、系列たる第三の時間であり、未来であるかぎりでの未来である。(注5)

こうして空虚な形式としての第三の時間が行き着く先として導入されたドゥルーズ的な永遠回帰は、字面とは裏腹にいかなる循環性とも同一性とも無関係であるどころか、むしろそれらを振り払ってしまうとともに、根拠を没落せしめて、他なるものの偏心的で脱中心化した円環、無名の平民をその彼方に到来させるように働くのである。

クロソウスキーの言うように、永遠回帰とは、私自身の一貫性も、私自身の同一性も、自我の、世界の、神の同一性も、すべて排除することによってはじめて定立される秘密の一貫性である。永遠回帰が還帰させるものは、〈平民〉、すなわち〈名もなき人〉である。永遠回帰は、おのれの円環のなかで、死んだ神とひび割れた自我を招き寄せる。永遠回帰は、太陽を還帰させはしない。なぜなら、永遠回帰は太陽の炸裂を前提にしているからだ。永遠回帰は、星雲にしか関与せず、星雲と混じり合っており、星雲のためにしか運動しないのである。〔中略〕順序としての時間が《同じ》ものの円環を打ち砕き、時間を系列に変えるのは、系列の終りに《他》なるものの円環を再形成するためでしかない。順序の「これを最後に」が現にあるのは、ただひたすら秘教的な最後の円環〔永遠回帰〕の「その都度」のためである。形式としての時間が現にあるのは、ただひたすら、永遠回帰における非定形なものの啓示のためである。極限的な形式性が現にあるのは、ただひたすら、過度に非定形なもの(ヘルダーリンにおける無形なものUnförmliche)のためである。こうして、根拠は、無底(サン・フォン)に向かって、すなわち、それ自身において回転し、そして〈将‐来〉しか還帰させない普遍的な脱根拠化に向かって、越えられてしまったのである。(注6)

ここで注意すべきは、同一性や循環性を排除するということは、決して単なる破壊に終わることなく、以下の著者自身による簡明なまとめの一節からもうかがえるように、作者の消去に伴う作品の独立という肯定的な成果を必ずもたらすという点であろう。だからこそ、先にも触れたように、この時間論の要となるのは過去でも現在でもなく、未来ではなくてはならないのである。

 さてこうなると、現在と過去は、以上のような時間の第三の総合においてはもはや、未来の二つの次元でしかないのである。すなわち、条件としての過去、そして作用者としての現在。習慣の総合たる第一の総合は、過去と未来が依存している受動的な土台において、生ける現在としての時間を構成していた。さらに、記憶の総合たる第二の総合は、現在を過ぎ去らせ別の現在を到来させる根拠という観点から、純粋過去としての時間を構成していた。しかし、第三の総合においては、現在はもはや、消去されるべく予定された当事者、作者、作用者でしかない。過去はと言えば、それはもはや、欠如によってことにあたる条件でしかないのである。所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていること、および、作品がその作者もしくは当事者に対して独立していることを、或る未来が同時に肯定するのだが、こうした未来を、時間の第三の総合が構成するのである。現在、過去、未来が、三つの総合を通じてそれぞれ《反復》として開示されるのだが、ただしこの開示は、きわめて異なった様態でなされるのである。現在は反復者であり、過去は反復そのものであるが、しかし未来は反復されるものである。ところで、その総体において把握された反復の秘密は、反復されるもの、すなわち〔過去と現在によって〕二度〈意味される(シニフィエ)〉ものにある。最高の反復、それは、他の二つの反復をおのれに従属させ、それらから自律性を剝奪する未来という反復である。なぜなら、第一の総合は、内容と土台としての時間にしか関わらず、第二の総合は、根拠としての時間にしか関わらないのだが、第三の総合はそれらを越えて、時間の順序、総体、系列、および究極目標に関わっているからである。(注7)



(二)ジャック・ラカンの「もの」
1895年10月8日のこと、ジークムント・フロイトは、医師で生物学者だったヴィルヘルム・フリースに二冊のノートを送った。記念碑的な大著『夢解釈』の発表(1900年)に先立つこの時期、まだ精神分析という新しい心の理論の創始者として世に知られる以前のフロイトが試みていたのは、神経学者として積み重ねてきたそれまでの知見を活かして臨床的な精神病理学のために基礎づけを提供することだったのであり、その成果をかねて親しく文通していた友人に問おうとしたのである。やがてフリースの没後他人の手に渡り、フロイト自身は破棄を望んだにもかかわらず結局1950年に初めて日の目を見たこの手稿が、いわゆる「心理学草案」である。その中には、想起と判断という心的活動の発生をめぐって、乳児の体験を再構成しようとした以下のくだりが存在する。いまだ活発に動き回って欠乏を自力で満たす術を知らないこの未熟で無力な生き物にとって、乳を飲ませ、かいがいしく身体的な世話を焼いてくれる母親(最も身近な養育者)は、唯一の充足の源泉でありながら、まさにそうであるがゆえにこそ、空腹なのに授乳が遅れたとか、肌寒いのに毛布を掛けてくれなかったとかのちょっとした不手際が理由となって、容易に憎しみの対象へと変わりうる。そのような両義的な同類として、いわば人間の原型でもあるこの母親にはすでに二面性が見出されるのであり、そこにさらに重なってくるのが、彼女に関して主体(乳児)が形成する知覚複合体の中の、主体自身の行動の想起を介して同一化しうる部分と、そうでない部分との区別である。そしてこの後者こそ、のちにジャック・ラカンが、主体にとってどこまでも外的で異質でありながら同時に最も近くて親密でもあるという逆説に注目しつつ、「外密性」なる奇妙な造語を献呈することになる当の相手なのであり、フロイトはそれを「ダス・ディング(das Ding)」すなわち「もの」というそっけない語で呼んでいる。訳文中に出てくる「事物」とは、ほかならぬこの「ダス・ディング」のことだ。

 知覚が提供する対象が主体と類似のもの、すなわち同じ人間であると想定しよう。この場合の理論的関心もまた、援助を与えてくれる唯一の力がそうであるように、そうした対象が同時に最初の充足的対象であること、さらには最初の敵対的対象であることで説明できる。こうした理由で、人間は認識することを同じ人間において学ぶのである。このとき、この同じ人間から発する知覚複合体は、一部は、例えば視覚の領域でのその人間の容貌のように、新しくて比較できないものであろう。他の視覚的知覚、例えばその人間の手の動きの知覚は、主体のうちで自分の身体についての自身のきわめてよく似た視覚的印象の想起に的中するだろう。この視覚的印象には、自分自身で体験した動きの想起が連合しているのであるが。対象のさらに他の知覚は、例えば対象が叫んだ場合、自分が叫んだことの想起を、それと共に自身の痛みの体験の想起を呼び起こすだろう。このようにして同じ人間の複合体は二つの構成部分に分かれるのであって、その一つは恒常的な組織体によって印象を与え、事物としてまとまっているが、もう一方は想起の作業によって理解されうる、すなわち自身の身体の情報へ帰着されうるものである。知覚複合体をこのように分解することがその複合体を認識すると呼ばれ、判断を含んでおり、目標を最終的に達成すると終結となる。(注8)

ラカンがほかならぬこのくだりを参考にしつつ、1959年から翌年にかけてのセミネール(ゼミナール)『精神分析の倫理』〔L'éthique de la psychanalyse〕で―とりわけその第IV講と第V講で(注9)―本格的に術語として導入した「もの(la Chose)」とは、端的には「近親相姦の対象」として定義され、「主体にとって外部ではあるが最も親密であり、構造的に接近不能で(近親相姦の)禁止として印され、主体が至高善として想像する主体の存在そのもの」である(注10)。それは、福原泰平の表現を借りるならば「一般に乳児期において始原の母親から乳児に与えられた、すでに失われてしまった原初の快なる感覚の記憶痕跡」であり、象徴界(le symbolique)、つまり言葉の世界に参入するとともに始原にあったはずの存在の充溢から切り離されるという運命に囚われた人間主体にとっては、二度と再会できる見込みはないにもかかわらず、一生そのまわりで堂々巡りを続けなくてはならない現実界(le réel)の核心である(注11)。

 このように「もの」とは私の始原にあって私にとって最も本質的なものでありながら、われわれの外部へと奪われた到達しえぬ地点にあるようなものであった。先にも外密性として述べたように、これは日頃から慣れ親しんだ身近なものでありながら、一方で無限の彼方にあってとらえがたい不可能なものなのである。
 フロイトはこれを隣人という概念でとらえようとする。隣人とは始原にあった母のことでもあり、それは一見身近な人間と見えながら、決してそこにわれわれがなにかを見て、これに一体化することができるといった人物のことではない、隣人は自己の内部にあって親しいものでありながら、自分を呑み込んでしまいそうな不気味さをかねそなえた違和感を持つ異次元の異物のことである。われわれは次元を異にするそれと出会おうとしながらも、常にそこから離脱し、出会いそこねていくという経験を繰り返している。
〔中略〕
 われわれは影を介して「もの」の幻影と出会う以外には手段を持たず、直接「もの」を見聞きすることなどできることではない。それは見ると同時に失われ、不甲斐ないどこにでもころがっている醜い物体へとすぐに変貌する。われわれが目にする至高の物体であるはずの対象は、燃え尽きた花火の黒く焦げた残骸であり、美しい蝶(ちょう)のはらわたを剥き出しにした死骸のようなものとしてその形態を露呈する。
〔中略〕
 それでもわれわれはヴェールの向こうの「もの」の呼びかけに応じて、それにひたすら接近しようとする。しかし、結局無いものとしてしかそこにない「もの」を手にすることはできず、その欲望は満たされぬままに「もの」のまわりをめぐってその出発点へと戻ってゆく。「もの」とはあくまで虚なる焦点としてあり、至福の場所にありながら欠けたものとして何ものをも満たさず、われわれの欲望をどこまでも喚起するだけの位置にとどまる。
「もの」との出会いはあくまで出会うことに失敗した出会いとしてあり、出会うことが奪われることであるような根源的な出会いである。
〔中略〕
 このように、われわれが出会いそこねていく「もの」とは、主体がその成立の時点において失った、主体における本質的な喪失物のことである。それは主体の側においては、最初の充足体験の記憶として、また母なるものとの接触による快なるものの痕跡としてその跡を残すことになる。しかし、すでにこれらはラカンのいうように主体において取り返しがたく失われており、満足の体験それ自体を取り戻そうとしても、もはやそれを手にすることは不可能であった。
 それでも主体は「決定的な声」を聴いた者として「もっと光を!」と欲望し、原初にあるはずの「もの」それ自体を再現しようとやっきになる。以後、主体の最大の課題はイデアの想起よろしく、忘れ去った天上の記憶をそれとして回復することとなった。
 元に戻ることが一生の仕事になる、という一つの倒錯がここに成立する。これは言い換えれば母なるものとの一体化を回復する試みであり、それによって主体は母なるものに呑み込まれ、みずからの存在をこの合一の中に解消してしまうという自己の死をも含みこむ危険極まりないものであった。そのため、主体は先にも述べたように、「もの」の手前に禁止の標識を立ててこれを取り締まり、「もの」に接近することを固く禁じたのである。
〔中略〕
 しかし、罪を恐れるあまり、「もの」に接近することを回避することは、主体の本質を構成するはずの「もの」の呼びかけを無視することになる。人間存在の根底にある「もの」の決定的な声を聴きながら、これにかかわらないなどということが、われわれ人間にとって許されることだろうか。世俗の法が「もの」の呼びかけに勝るなどということがあってよいことだろうか。〔中略〕
「もの」のありかはラカンのいうように、人間世界においては常に禁じられた地点に求められ、そこに近づく人々に罪の烙印を押すという構造を創りだす。フロイトはここに原父殺しの神話における罪の源泉を理論化した。つまり、この罪は「もの」への接近をマークする印としてあったわけである。
〔中略〕
「もの」は一つの物体として目に見える形で存在しているわけではない。それは不可能なものとして禁止の彼方に、それに枠づけられたシルエットとしてその姿をほのめかすだけなのである。 
 不可能なものがわれわれの知らない世界の外側で、その出現の時を待ちながら脈々と存在してきたわけではない。禁止の札を立てることによって、それは法という標識の前にはじめて出頭してきたものでしかない。この標識なくして「もの」は決して存在しえないのである。人はこうした「もの」と掟との同時出頭性の中に、不可能な対象を禁じられたものの彼方で捕まえようとやっきになっている。
 このように、失われた不可能な対象は現実世界で捕まえることができるようなものではないが、人々の中に悦びへの可能性の次元を切り開いていく。実際、人間は前にも述べたように、現実の対象があるかないかという存在の次元を特別重視しているわけではない。そうではなく、それが快か不快かといった快感への傾向、つまり失われた悦びの回復への虚(うつ)ろな幻影を優先して、その決定的な判断をくだしているということができるのである。これがフロイトにおいて、存在判断よりも属性判断が優先されるということの重大な意味となっている。(注12)

癖のある文章を長々と引用してしまい恐縮だが、文意そのものは十分に明瞭だろう。それにしても、このように「虚なる焦点」ないし「主体における本質的な喪失物」として、「禁止の彼方」から間断なく我々に呼びかけ、しかも我々の探求から逃れ続ける「不可能な対象」との避けがたく挫折に終わる関係という相から見てみれば、欲望の生に定められた運命たるや、なんともいじましいというか、みすぼらしいかぎりではないか。それは、つねに同一の不動なる「もの」(至高善)に隷属したまま否定神学的な磁場の中で延々と翻弄され続ける一方で、しかも結局はこの「もの」本体よりも手近な代理の対象に甘んじることをいつも余儀なくされるという運命であり、この意味で欲望の生は二重の劣位を強いられているのだ。

(三)ドゥルーズの精神分析批判から日日日へ
こうしてようやく我々は、『のばらセックス』の本文を参照する準備が整った。といっても、何も難しいことはない。我々はさしあたりただ、日日日のこの小説と、『差異と反復』の第2章でドゥルーズが展開した時間論との間に認めうる、驚くべき符合に目を見張るだけでよいのである。
少なくとも、主人公のおちば様がたどる、いまだかつて実在したためしのない彼女の母親―全人類が崇拝する神のような存在である坂本のばら様―に変装し、そしてその上で自らの死を衆目の前で上演する、というii章「謝肉祭のハーモニー」の成行きは、ドゥルーズが純粋過去(第二の総合)と、未来としての未来に通じる空虚な形式としての直線状の時間(第三の総合)について書いていることに、かなりの程度まで重なると判断してよいのではないか。なにしろこの母親たるや、二千年の時を隔てて復活したこの世で唯一の女性として全人類の崇拝を一身に集めながらも、その正体は生来の性別を捨てた彼女の父(綿志)の兄(緒礼)であるのだし、他方で謝肉祭(カーニヴァル)に浮かれる町の喧噪の中に繰り出した彼女の見た目は、単に母親そっくりなどという次元を超えて、一時的とはいえ素肌を覆う特殊な着ぐるみのおかげで「二千年ぶりの女性、この世で唯一の女性、坂本のばら様そのもの」(注13)なのである。そして、前者、つまり純粋過去についてプルーストの『失われた時を求めて』におけるコンブレーの町の復活を例に挙げつつドゥルーズが書いていることが正しいなら、想起(アナムネーシス)においては「かつて生きられたためしがない光輝のなかで」即自的な過去(過去それ自体)が「記憶にないほど古いものとして」出現するのであり、それゆえ「想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない」のだから、むしろそれが垣間見せるのは「母なるもののかなた」だったのである(注14)。同様に、後者、つまり自我に亀裂を走らせる中間休止によって不当な前と後に二分される、純粋な形式ないし順序としての第三の時間についても、我々がすでに学んだとおり、反復はそもそも行動というものが可能になるための条件であるという真理を、中間休止における変身、あるいは行動の映像(イマージュ)への「等しくなること」が教えてくれたのである。思うにおちば様の変身に次ぐ自殺は、「女性一般の不在(絶滅)」という現実を、または「母親の不在(非存在)」を、自他双方のために確認すべく反復しているのだ。
とりわけ、先に私が「おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである」と感じた以下のくだりには、ここでもう一度読み返してみるだけの価値があるはずだ。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注15)

さしあたり、この一連の文章は読む者をして次の二点に想到させてくれる。第一に、上述のごとく『のばらセックス』ii章の成行きが狭義の中間休止に相当するのだとすれば、それに先立つ「前」の時間、つまりII章「ずっと薔薇色なわけがない」においては、必ずや映像における行動が「私には大きすぎる」ものとして現れてこなくてはならないはずだ、ということである。そして事実、義父の「あいちゃん」こと坂本逢の館に監禁され、召使に強姦されて心身が疲弊したおちば様は、指一本という奇妙な姿で自分の前に現われた母親ののばら様―実は彼女本人ではなく、逢の弟でおちば様の実父である綿志がラジコンのように操作していた―から、この「あいちゃん」は偽物であり、彼の父親(つまりおちば様の祖父)が化けているのだと明かされるに至って、主役の重荷に耐えかねて泣き言をこぼすのである。

「何で、あたしばっかり……」
 あたしは、ついに泣き言を漏らした。我慢して、戦いつづけて、もうだいぶ―くたびれていた。疲れきっていた、もう嫌だった。
 女に生まれただけで。
 あたししか、いないってだけで。
 こんなふうに、物語の主人公じみた、過酷な運命なんて遠慮したい代物に―人生を踏みにじられるのはもうたくさんだった。当たり散らしたかった、せめて文句を言いたかった。あたしをこの世に産み落とした、この世界でいちばんの女性に。
「あたしは、お母さんとはちがう。もう無理だよ、ぐずっ、限界だよ―あたしは、のばら様みたいになれない。枯れて、踏みにじられる、おちばだよ。くすんだ、つまんない、おちばだよ。お母さんがそんなふうに生んだんだ……!」(注16)

とはいえ、ほどなく彼女はこのような愚痴を振り捨て、のばら様の後押しと協力を得て自らの手で逢の偽物を絞殺する。どうやらかつて彼女が誰にもまして慕っていた「あいちゃん」本人のための復讐も兼ねているらしいこの殺人は、これはこれで、彼女がこの世に生を享ける以前のほとんど神話的な歴史の筋書、すなわち坂本三兄弟(逢、綿志、緒礼)が妹である女性(すなわちのばら様)の力を借りて横暴な父親を打倒する、という「のばら様の、英雄譚(たん)」を反復しているのだ(注17)。第二に、ドゥルーズが列挙している行動の映像の具体例のうち、少なくとも「太陽を炸裂させる」および「神あるいは父を殺す」という二つについては、労せずして『のばらセックス』の作中にほとんど文面そのままの状態で見つかる、ということである。なんとなれば、のばら様は「この世界の中心で、輝きつづけていた太陽」(注18)と呼ばれているのみか、ii章のおちば様はこの母親を―自殺を通じて―殺害するに先立って、「いちど、きれいな太陽を見あげると」(注19)という仕草を示しているからだ。むろん、世界で唯一の女性として人々が信仰してやまない坂本のばら様の神性については(注20)、いましがた確認したばかりの父殺しという行為と同様、多言を要しない。
しかしそれ以上に決定的なのは、同一性や循環性を排除する純粋な形式ないし順序としての時間の先に見えてくるもの、すなわち未来であるかぎりでの未来としての永遠回帰に関する、引用文の末尾にある説明だろう。それは、無名の平民の還帰であり、他なるものの偏心的で脱中心化した円環の生成、さらには作品の独立であった(注21)。そしてドゥルーズが書いているとおり、行動ないし出来事に等しくなってしまった結果として自我に亀裂が走るということが、そのために不可欠な代償なのである。「そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる『平民』を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである」。はたしてこれを、のばら様に変身したおちば様がii章で遂げる母殺しとしての自殺を反復するかのような、坂本三兄弟の次男にして彼女の生みの親でもある緒礼がIII章で被る磨滅―「身体の七分の一ほどしかない、それは緒礼さんの残骸だった」(注22)―に厳密に呼応する文章として、あるいはむしろ彼の運命の予言として読むのはいけないことだろうか。なにしろ、緒礼のこの断片化によってこそ、女性の量産という最大の偉業が達成され、それは以下のごとく神聖性から解放された他者性(異性としての女性)の端的な肯定と、停滞から脱した時間の流れの再開という結末に通じているのである。

 世間には、これまでいなかった女が溢れた。
 のばら様が独占していた珍獣としての、あるいは至宝としての価値は下落した。数が多いものは、需要と供給の法則にのっとり、価値が目減りするのだ。女性の神性は下落し、単なる『男性とは異なるもの』になった。
 自然界では、ごく当たり前なんだけど。
〔中略〕
 神話の時代は終わり、男女が当たり前に紡いでいく、二千年前に中断していた歴史が再び動き始める。あたしは、その曙(あけぼの)を眺めていこう、のんびりと―あたしなりに。(注23)

それでは、『差異と反復』の時間論と『のばらセックス』との間の、これらの符合が我々にとって最終的な成果だと考えてよいのだろうか。否である。なんとなれば、ほかでもなくドゥルーズその人が、自らの時間論を精神分析理論の知見と照らし合わせつつ反復しているという事実がある以上、それをも無視するわけにはいかないからだ。先にラカンの「もの」に言及したのも、実はこのための下準備のつもりだったのである。
さて、ドゥルーズによれば、心的生において時間の第一の総合、つまり生ける現在に相当するのは、散在した興奮を拘束する受動的総合としての習慣による―例えば目は、光にもとづく散在した興奮を身体の表面上の特定の部位で再生することによって形成されるのであり、この意味でそれ自体が拘束された光である―エスにおける組織化なのであり、諸々の局所的なナルシシズム的自我を生ぜしめるそのような組織化は、快原理に先行しているのみならず、むしろそれこそが初めて快原理を可能ならしめるのである。しかるに、続く第二の段階においては、一方ではそれらの受動的な自我に対して現実原則に従う能動的総合が働くことによって大域的な自我が発生するとともに、他方ではその能動的総合にとって相補的な、受動的総合のある深化が起きる。これが、能動的活動の虚焦点としての潜在的対象の構成である。両者の関係は、幼児における歩行の開始という具体例に即して、次のように整理されうる。

歩き始めたばかりの幼児は、おのれの興奮を、それが内因的なものであり幼児自身の運動から生じるものではあっても、受動的総合において拘束するだけで済ましているわけではない。幼児はけっして内因的な仕方で歩いたのではない。幼児は、一方で、興奮の拘束という段階を越え出て、ひとつの〔現実的な〕対象の定立、あるいはそれへの志向性へ向かう。たとえば、努力の目標としての母、すなわち、「現実において」能動的に立ち戻るべき項としての、つまり幼児がそれと比べて自分の成功と失敗を測るその項としての母。しかし幼児は、他方でしかも同時に、自分のためにそれとは別の対象を、つまりまったく別のタイプの対象を構成するのであって、それは、幼児の現実的な能動的活動の進歩を統制し、その失敗を補償するようになる潜在的な対象あるいは焦点〔虚焦点〕なのである。たとえば、幼児は自分の口のなかに指を何本か入れ〔おしゃぶりをし〕、他方の腕でそのような〔潜在的な〕焦点〔としての母〕をかき抱き、そしてその潜在的な〔焦点としての〕母という観点から状況の総体を把捉するのである。幼児の視線は現実的な母〔という対象〕に向けられるということ、かつ、潜在的な〔母という〕対象はみかけの能動的活動(たとえば、おしゃぶり)の項になっているということは観察者に誤った判断を吹き込むおそれがある。おしゃぶりは、受動的総合の深化において観照さるべき潜在的な対象を提供するためにしか、なされないのである。現実的な母の方は、逆に、能動的総合における行動の目標として、かつそうした行動の評価の基準として役立つためにしか、観照されないのだ。〔中略〕まことに、拘束という受動的総合から出発して、あるいは拘束された興奮から出発して、幼児は二重の系列に沿っておのれを構築するのだ。もちろんその二つの系列は、対象的(オブジェクタル)なものである。一方は、能動的な総合の相関者としての現実的な対象の系列であり、他方は、受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象〔虚焦点〕の系列である。深化した受動的自我が、いまやおのれをナルシシズム的映像で満たすのは、まさしく虚焦点を観照することによってである。一方の系列は、他方の系列なしには存在しえないだろう。(注24)

このような、現実的な対象の系列と潜在的な対象の系列の二重性は、自己保存欲動と性欲動との分化に呼応するものでもあるという。もっとも、ここでのドゥルーズの哲学的関心にとって両者は決して等価ではなく、だからこそ彼は、潜在的な対象を現実的な対象から採取する分離の働きについてひとしきり考察すると、今度は前者が後者の中に体内化されているという事態へと筆を進めるのである。明らかに、叙述の力点が置かれているのは、後者つまり現実的な対象ではなくて、前者つまり潜在的な対象である。

分離の本領は、現実的な対象からひとつの部分を抜き出すことにあるばかりではない。抜き出された部分は、潜在的な対象として機能することによって新たな本性を獲得する。潜在的な対象は、〈部分対象〉なのである。そう言えるのは、たんに、潜在的な対象が、現実的なもののなかに残存している対象を欠いているからというだけでなく、さらに、潜在的な対象が、それ自身においてかつそれ自身に対して、〈分裂〉し、二分化され、互いに一方が、つねに、他方において欠けているような二つの潜在的な部分になるからである。要するに、潜在的なものは、現実的な対象に関わる大域的な特徴には服従していないのだ。潜在的なものは、その起源からしても、またそればかりでなくその固有な本性からしても、切れ端であり、断片であり、剥皮である。潜在的なものは、それ自身の同一性において欠けるところがあるのだ。〈良い母と悪い母〉、あるいは父親的二重性に基づく〈謹厳な父と遊んでくれる父〉は、二つの部分対象ではなく、分身においておのれの同一性を失ってしまっているものとしての同じもの〔自体〕なのである。能動的総合が受動的総合を越え出て、大域的な〔自我の〕統合および全体化可能な同一的な〔現実的〕対象の定立へ向かうとき、受動的総合は、深化しながら、おのれ自身を越え出て、全体化されえない部分対象の観照へ向かう。(注25)

このように分離についての考察が、潜在的な対象に特有な、つねに部分的にして断片的であるという性格を教えてくれるとすれば、体内化という事態は、潜在的な対象を現実的な対象の中に解消すべく統合してしまうどころか、逆に現実的な対象の中から何がそれに欠けているかを告げることで、そのような統合や全体化を拒む異分子を表わしている。

体内化は、〈分離〉に対立するどころか、反対に分離を補完するものである。だが、潜在的な対象は、どのような現実のなかに体内化されていようと、どの現実のなかにも統合されてはいないのである。潜在的な対象は、現実のなかに、むしろ植え込まれ、打ち込まれているのであって、現実的な対象のなかに、その対象を補う半身を見いだすことはなく、反対に、その現実的な対象のなかに、あい変わらずその対象に欠けている別の潜在的な半身を証示しているのである。メラニー・クラインが、どのようにして母の身体は潜在的な諸対象を含むのかという点を指摘しているが、その場合、母の身体は潜在的な諸対象を全体化あるいは包括していると考えるべきではなく、またそれらの対象を所有していると考えるべきでもなく、むしろ、それらの対象が母の身体に〔中略〕植え込まれていると考えるべきである。(注26)

したがって、両者つまり分離と体内化には、潜在的なものとしての潜在的なものの権利を認めるよう我々に迫ってくるという点が共通している。ここからドゥルーズは、大胆にも、潜在的な対象は純粋過去の切れ端である、という非常に興味深い帰結を引き出そうとする。

 潜在的な対象は、本質的に過去的なものである。〔中略〕潜在的な対象は古い現在なのではない。なぜなら、現在という質と、過ぎ去るという様態は、能動的総合によって構成された系列であるかぎりでの現実的なものの系列に、いまやそれしかないといったやり方で関与するのだが、しかし純粋過去は、すなわちおのれ自身の現在と同時的で、過ぎ去る現在に先立って存在し、あらゆる現在を過ぎ去らせる過去としてすでに定義された純粋過去は、潜在的対象の質を表わしているからである。潜在的対象は純粋過去の切れ端である。虚焦点〔潜在的対象〕に対する私の観照の高みからしてはじめて、私は、過ぎ去る私の現在と、虚焦点が体内化されている現実的対象の継起とに立ち会い、それらを司るのだ。その理由は、そうした虚焦点の本性に見いだされる。現前する現実的(レエル)対象から採取されている潜在的対象は、本性上、その現実的対象と異なる。潜在的対象は、それがそこから抜き出されてくる当の現実的対象に比べて、何ものかが欠けているばかりでなく、さらに、それ自身において、何ものかが、すなわち、つねに自己自身の半身であるものが欠けているのであって、潜在的対象は、自己自身のそうしたもうひとつの半身を、異なるもの、不在のものとして定立するのである。ところでこの不在〔のもの〕は、やがてわたしたちが見るように、否定的なものとは反対のもの、つまり永遠の〈自己の半身〉である。こうした不在のものは、存在するべきところには存在しない場合にのみ、それが存在するところに存在しているのである。それは、存在しないところで探し求められる場合にのみ、それが発見されるところに存在しているのである。またそれと同時に、不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである。不在のものはいつでもひとつの「存在していた」ということなのである。(注27)

そして彼によれば、このような純粋過去としての潜在的な対象―決してそれが存在すべきところに存在しない、それ自身の断片にしてそれ自身の過去であるような何か―についての最も洗練された説明は、ジャック・ラカンの精神分析理論、なかんずく現実的なものとの対比における、象徴的なものの概念の内に見つかるのだという。

わたしたちにとって以上のような意味で範例的に思われるのは、ラカンの著作〔『エクリ』〕の或る箇所であり、そこで彼は、潜在的対象をエドガー・ポーの盗まれた手紙になぞらえている。ラカンの教えるところでは、現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は反対に、それがどこへいってしまおうと、それが存在するところに存在しかつ存在しないということを特性としているのである。「隠されているものとは、結局のところ、あるべき場所に欠けているものでしかないのであって、それはちょうど、図書館のなかで或る一冊の本の行方がわからなくなったときに、その本を探すといったことで表現されるような事態である。これはあるべき場所に欠けている、と文字通りに(ア・ラ・レトル)〔その手紙において〕言えるのは、その場所を変えうるもの、すなわち象徴的なものに関してだけである。なぜなら、ほかならぬ現実的(レエル)なものこそが、その現実的なものにどれほどの混乱がもたらされうるにせよ、〔あるべき場所に〕つねにどんな場合でも現存するからであり、またあるべき場所をおのれの足裏にくっつけて運んでゆき、その際おのれをあるべき場所から追放しうるようなものについては何も認めないからである」。純粋過去、すなわちその普遍的な可動性、普遍的な遍在性が、現在を過ぎ去らせ、そして永遠に自己自身と異なるような純粋過去に、過ぎ去り、そして自己と共に運び去られる現在を、これほどうまく対立させた者はだれもいなかった。潜在的対象は、ひとつの新しい現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのではまったくないし、その対象がかつては現在であったという場合の現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのでもない。潜在的対象は、凝固した現在のなかで、その対象がそれであるところの当の現在〔現前するもの〕と同時的であるものとして、換言すれば、潜在的対象が、一方では同時にそれであるところの当の部分を他方では欠いているものとして、すなわち、潜在的対象があるべき場所に存在するときに遷移したものとして、過ぎ去っている〔過去である〕のだ。だからこそ、潜在的対象は、自己自身の断片としてでしか現実存在(エグジステ)しないのだ。すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである。潜在的対象は、現在〔現前するもの〕としての自己と同時的であり、おのれ自身にとっておのれ自身の過去であり、現実的な系列のなかで過ぎ去るあらゆる現実に先立って存在するのであって、まさにそのような対象こそが純粋過去に属しているのである。潜在的対象は、純然たる断片であり、自己自身の断片である。だが、たとえば身体的な経験におけるように、質を変化させ、現実的諸対象の系列のなかで現在を過ぎ去らせるのは、まさにそうした純然たる断片の〔現実的対象への〕体内化なのである。(注28)

このように、純粋過去としての潜在的な対象というものは、根源的に失われたものとして再発見される、という以外のあり方を通じては知られることがない。しかるに、ここに一つの奇妙な事実がある。すなわち、潜在的な対象に固有のそのような性格を我々に教えてくれる、いましがた読んだばかりのドゥルーズの文章―「すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―は、むしろ現実界の核心を占めるあの「もの(ダス・ディング)」について語るときのラカンの言葉づかいにそっくりなのである。ラカンは言う。

 もし〈もの〉が根本的に覆われていなかったとしたら、我々は〈もの〉とのあいだに次のような関係を持たずにすんだでしょう。つまり、〈もの〉を把握するためには〈もの〉を取り囲み迂回せざるをえないという関係です。精神というものは全てそれを余儀なくされているのです。そして、〈もの〉が確かに認められるところでは、〈もの〉は飼い慣らされた領野に認められます。ですから、そのような領野について、〈もの〉はつねに覆われたひとまとまりとして現れる、と定義できます。
 〈もの〉は、フロイトが快原理という主題系を基盤にして定義した心的構成のなかでこのような場所を占めています。この〈もの〉とは、現実界に属しており原初的な現実界であるにもかかわらず、シニフィアンを言うなれば受苦するものだからです。ここで現実界とは、まだ我々が限定すべきではないひとつの現実界、全体性における現実界、主体の現実界でありながら、主体が彼の外部にあるものとして関わっている現実界のことだと理解して下さい。
〔中略〕
 一方で、発見に対する反応の以前として、つまり「再発見されたwiedergefundene」対象が存在する以前として、フロイトが示したものは、まさに〈もの〉の領野に位置づけられなくてはなりません。「再発見された」、これこそがフロイトにとっては、対象がもつ主導的機能に関わる根本的な定義です。この定義の逆説についてはすでに触れました。逆説というのは、この対象はすでに実際に失われていたとは言えないからです。対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です。しかしそれは事後的にそうなのです。ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの発見によってしか知りえないのです。
〔中略〕
 これが、覆われたものとしての〈もの〉の第二の特徴です。つまり〈もの〉はその本性上、対象の再発見という形で、他のものによって表わされるのです。(注29)

はたして、ドゥルーズは潜在的な対象の概念を創造するにあたって、「もの」についてのラカンの所説を参考にしたのだろうか。のちに『精神分析の倫理』と題して刊行されることになる一連のセミネール(ゼミナール)において、この発言をラカンが口にしたのは1960年1月27日のことであり、一方ドゥルーズの博士学位主論文である『差異と反復』が上梓されたのは1968年のことであるから、少なくとも時間的には十分な余裕があったと判断してよさそうである。だが、いま私の手元にはこれ以上の資料があるわけでもないので、あまり憶測をたくましくするのは気が進まない。
ただ、使う用語こそよく似ていても、ラカンが現実的な(réel)ものについて語りつつ、どうやら紛失という特徴を再発見の結果として考えようとしている―「対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です」―のと比べて、ドゥルーズの叙述はもっぱら潜在的な(virtuel)ものに焦点を合わせながら、紛失を積極的な規定として評価しようとしている―「この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―という対照性は見落とせない。もちろん、対象(「もの」)の見失いや忘却について、それが避けがたいことをラカンの考えに即して理論的に証明することなら可能であるにせよ(注30)、そのような対象、ないし「もの」に関して、ドゥルーズがしているように、そもそも現在的であったためしがないという意味での潜在性を云々するなどということが、はたして許されるのだろうか。
換言すれば、ドゥルーズはラカン的な「もの」が本来現実界に属する、というよりも主体にとって最も原初的な現実そのものにほかならないという事情は承知した上で、強引にそれを潜在的なものの領域の解明のために転用し、独自の理論的展開を試みているのではないか、ということだ。そうだとすれば、その操作はほとんど牽強付会に近い(第一、ラカンその人の関心にしてからが、ドゥルーズが『差異と反復』を執筆していた頃はともかく、もっと後年になると明らかに象徴界から現実界に移っているのだ)。
とはいえ、象徴的器官としての男根、ないしファルス(phallus)について、それが幼児にとっては、母の中の欠如を埋め合わせるものであり、つまりは母の欲望の対象である(具体的には子である幼児自身、ついで父が母に愛されるゆえんであると思しい彼の持ち物を指す)という精神分析の知見を参照しつつ―ちなみに、少し前に『差異と反復』から引用したくだりの中の「不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである」(注31)という箇所は、この間の機微を念頭に置いた記述であろう―、「おのれ自身の不在と、過去としての自己とを証示していること、本質的に自己自身に対して遷移していること、失われているかぎりでしか見いだされないこと、分身において同一性を失うようなつねに断片的な存在であること」等々の理由から、これこそ部分対象としての潜在的対象の典型であるとドゥルーズが書くとき(注32)、我々としては、少なくとも『のばらセックス』という小説の批評にとっては、あるいはこのほうがラカン的「もの」よりも好都合かもしれない、という予感が抑えがたい。例えば、義父の「あいちゃん」の館に監禁されたおちば様の前に現われた母の指、あるいは指の姿になった母とは、もっぱら母の側で探し求められるというそのようなファルスのことではないのか。

 あたしの眼の前で、何かが動いた。ちいさい。虫? と思って悲鳴をあげそうになる。暗闇に慣れた目でそれを凝視し、あたしは想像よりもなお気味の悪いものを見つけてしまって、絶句する。
 指に見えた。
 人間の指だ。
 人差し指だか中指だかはわからないが、天井をさして一本の指が立っている。その根元には蜘蛛(くも)の足みたいな、機械の質感があるものが複数生えていて、その指を自立歩行させている。(注33)

単に残余の身体から分離された小部分であるのみならず、その状態のままで、つまり部分的かつ断片的であることをやめないで活発に動き回り、持ち主であるのばら様がとうの昔に死んでいるという衝撃的な真相を告げるこの指は(注34)、辛うじて保存された小脳のおかげでまがりなりにも彼女自身の人格のなごりをとどめているという表向きの説明とは裏腹に、すでに触れたとおり、実際には彼女本人ではなく、おちば様の実父である綿志が操作していたのであり(注35)、そしてその事実の発覚がきっかけとなって、母親の絶対的な不在といういっそう衝撃的な真理―坂本のばら様という女性はもともと坂本三兄弟の合作であり、一度もこの世に存在したためしがなかった―を、主人公であるおちば様が知ることになるのである。このような成行きと相性がよいのは、やはりラカンの説く現実的な「もの」以上に、ドゥルーズの説く純粋過去としての潜在的対象であろう。
とりわけ、現働的な現在から古い現在に向かって生じる反復の実態を問う中で、反復強迫に関する精神分析の理論はなおあまりにも現実主義的・唯物論的・主観的ないし個人主義的であり、古い現在における同一性の原理と現働的な現在における類似の規則とに支配されていて、したがって不十分であるという趣旨の批判を展開するに先立って、その場合の古い現在は反復されるべき「もの(chose)」の不動の源泉であるはずだと彼が書いているのを読むと、ことによると『差異と反復』の時間論、なかんずく純粋過去の理論には、ラカン的な「もの(das Ding/la Chose)」の概念の改作という意図が隠れているのではないか、という我々の印象はひとしお強まるのだ。

 もとより、いま検討しているのは、反復が有する精神分析的な、すなわち愛に関する遊び=ゲームの全体である。現実的(レエル)な系列において、一方の現在から他方の現在へ向かって、すなわち現働的な現在から古い現在へ向かって遂行されるような反復を理解することができるかどうか、それが問題なのである。そのような反復があるとするなら、古い現在は、或る複雑な点の役割を、言わばあるべき場所にとどまって引力を発揮するような究極的なつまり根源的な項の役割を果たすだろう。その古い現在こそが、反復さるべきものchoseを提供するだろうし、またその古い現在こそが、反復の全過程の条件となるだろう。(注36)

それでは、ドゥルーズ自身はどう考えるのか。この文脈で同一性の原理と類似の規則の支配に従うことを拒むとは、一体何を意味するのか。二つの現在の系列(古い現在と現働的な現在)は、実は何らかの潜在的対象、ファルスがそうであるようにたえず循環する同一性を欠いた対象に対して共存しているのであり、したがってどちらかが根源的でどちらかが派生的であるような関係にはないこと、それゆえ反復や遷移や偽装はそれら自体が説明の原理として肯定される必要があること―これが彼の出した独創的な答である。

 これまでわたしたちは、反復の過程を考えるにあたって、その難しさを何度も強調してきた。二つの現在、二つの〔原〕光景、あるいは二つの出来事(幼児期のものと成人期のもの)を、時間によって隔てられたそれぞれの実在性(レアリテ)〔現実〕のなかで考察する場合、古い現在は、現働的な現在に間隔を置いて作用し、その現働的な現在を〔おのれをモデルにして〕つくりながら、反対にその現働的な現在からおのれの全有効性を受け取るというのは、いったいどうしたことであろうか。また、時間的間隔を埋めるために必要不可欠な想像的な働きを援用する場合、その想像的な働きは、反復を独我論的主体の錯覚としてでしか存続させないにもかかわらず、結局のところそれら二つの現在の全実在性を吸収してしまわないというのは、いったいどうしたことであろうか。しかし、それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でどちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかもそれら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、おのれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象がファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(注37)

決して実在するものとして表象の中に現前することはないまま、つねにそれ自身に対して遷移し、探す者の目から逃れ去って循環し続ける潜在的対象、および、この対象に対して共存する新旧二つの対等な現在の間で生じる、偽装としての反復―ドゥルーズがことさらラカンを引き合いに出しながらここで試みている精神分析理論の変奏、ないし精神分析批判の当否は、このような構図をこのとおりに積極的に肯定できるかどうかにかかっているはずである。かつて実在したことのある不動の同一的な根拠も、ましてやそれの抑圧も、反復や遷移や偽装に先行しているわけではない。
いまや我々には、『のばらセックス』こそが、以上のようなドゥルーズの思考の理路に狭義の哲学の外から最も力強く呼応する実例であることが理解できる。少なくとも確かなのは、生来の性別を捨て、「文字どおり、己を殺して」(注38)偶像としての女性(坂本のばら様)を演じ続けたあげく狂気の所業(弟との近親相姦、および娘の強姦)に走り、その結果名前も人格も失うはめになった緒礼、他の全人類と同様、娘であるおちば様もその正体を知らぬまま探し求めてやまない母なるもの、ただし「架空の母親」(注39)である彼が、つねにそれ自身に対して遷移を続け、決して現前するものとして把捉することのできない潜在的な対象に相当するということだろう。実際には巻頭の時点で―「ななちゃん」こと坂本綿志として―姿を見せているにもかかわらずついに生身の坂本緒礼本人として娘と言葉を交わすことはないまま、女性の量産と引き換えに力尽きて廃人と化し、「身体の七分の一ほどしかない」残骸として再登場する(注40)という彼の運命も、疑いなくそう考えるよう促している。
だが、それだけではない。そもそも主人公であるおちば様にしてからが、幼少期に生みの親である緒礼に強姦されており―そしてこの事件は、それ自体が、かつて坂本三兄弟がでっちあげた、幼いのばら様が強姦されたという架空の事件を反復しているのである(注41)―、ゆえにI章「きれいな薔薇には棘がある」において彼女が加工種(エルフ)の男性たちに犯されるという成行きは、それとの関係によってすでに反復(二回目の性交)なのであり、にもかかわらず続くi章「殺人鬼のシャンソン」の末尾で恋人(ソプラノ)と交わる彼女がことさら自身の処女性に言及するのは(注42)、これはこれで、修辞の力を借りた演出の中で初回を反復しようとする意志の表れなのである。おそらく、『のばらセックス』の作中で起きる出来事は、そのほとんどがこのように何らかの意味で反復として規定することが可能なのであって、しかも、「おちば様はソプラノのものを貪り、何度も求め」(注43)、「これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注44)、「何度も何度も何度も、繰りかえし水をたらふく飲まされて、すぐに排泄(はいせつ)させられて」(注45)、「身体の奥にある気持ちのいいつぶつぶを、ソプラノがひとつずつ潰して、何度も掻きむしってくれる」(注46)、「何度、そのちいさな膣のなかに精を吐きだしたことか」(注47)…等々のくだりが教えてくれるとおり、反復の歴然たる影響力は個々の文章の中にまで及んでいるのである。とりわけII章「ずっと薔薇色なわけがない」を読めば、そこにはまた遷移と偽装も欠けてはいないことが明らかになる。かねて憎からず思っていた義父の「あいちゃん」(坂本逢)から、結婚と、瀕死ののばら様に代わる新たな三人目の女子の出産、すなわち母親の地位の代行とを要求され、彼の館に監禁されたおちば様は―ちなみにこの際彼女は、かつてI章でのばら様(緒礼)から受けた「身体が書き換えられるような激痛」(注48)を反復するかのごとき、「お腹の奥で何かが書き換えられている」ような苦痛を与えられている(注49)―、しかしなぜか義父本人ではなくてその召使、研究所で生まれた女性の出来損ないにして、身体の一部に過剰で奇形的な女らしさ(複数の乳房)を宿すシオン(姉音)に連日強姦され、あるときなどは大量の水を無理やり飲まされて疑似的な妊娠と不毛な出産(もちろん、排尿は決して新生児へと結実することがない)の体験を繰り返すことになる(注50)。これらがおおむね「遷移」の相を表わしているとすれば、くみしやすいもう一人の召使であるセノン(妹音)を性的に誘惑して味方につけ、すでに触れたようにこれまた「のばら様の、英雄譚(たん)」(注51)を反復するという形で、実は「あいちゃん」の父親が化けていた彼の偽物をやはり演技を駆使して性的に籠絡してしまい、ついで自らの手で殺害する、という章の大詰めにおけるおちば様の行動のほうは、明らかに「偽装」の相を反映しているのである。やがて直後のii章「謝肉祭のハーモニー」がこの親殺しを今度は父ではなくて母に対するものとして反復することだろうし、そこに導入される虚構の現実化、あるいはむしろ有効化(effectuation)という状況は―「TVのなかの、夢のなかの住民だった母親、憧れと―愛されなかったことへの怨みがぎゅうぎゅうに詰まった、ほとんど崇拝の対象。そんな相手が、自分の恥ずかしい部分に手を添えている。少年はそんな嘘みたいな事実に、正気を失わんばかりになっていた」(注52)―、全篇を締めくくるべくさらに後続するIII章「いつかは散る薔薇」において、緒礼によってもっと完全に達成されることだろう。「もっと完全に」とはつまり、同一性を保つ根源としての母あるいは「もの」(ラカン)が至高善の王座から最終的に失墜し、代わりに複数の、無数の仮面が乱舞を始めるということ、そのような成果に緒礼の尽力を通じて万人が与るに至るということだ(注53)。先に私が『のばらセックス』の読者にとって決定的なものと考え、二度にわたって参照した、時間の空虚な形式あるいは第三の総合についてのドゥルーズの文章は、こうして三度(みたび)我々の行く手を照らしてくれることになる―「その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである」。そしてここから、劣らず決定的と思える以下の帰結が生じる。すなわちドゥルーズは、我々の愛情を母なるものの(母という「もの」の)磁場から解放するとともに、むしろ母そのものを際限なき仮面の戯れへと粉砕しようともくろむのである。

要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいないのである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデット〔スワンの妻になる人物〕に対するスワン〔主人公が子どものころに知り合った人物〕の愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(注54)

もともと緒礼は兄(逢)や弟(綿志)と同じく「父の遺伝子をそのまま複製した、クローン人間」として生まれ、「坂本のばら様と同じ顔をした、三兄弟」の一人(次男)であった(注55)。換言すれば、坂本三兄弟においては、いわば生まれつき素顔そのものが仮面であり、仮面以外の素顔はなかったのである。いまやその彼から、またしてもクローン技術によって「ほとんど同じ見た目」をした「坂本のばら様の、量産品」、おちば様の妹たちが何人も誕生する(注56)。本来ならばここで、『差異と反復』第2章を締めくくる、永遠回帰としての未来の時間において主役を務める見せかけ(シミュラクル)についての一連の記述の検討に入らなくてはなるまいが―見せかけ(シミュラクル)は、第一にそれを構成する諸系列の非類似と、諸視点の発散とを内化しているがゆえに、同時に複数の事物を見せてくれ、複数の物語を教えてくれるものであるばかりか、第二に「同じもの」ではなくて「他なるもの」という見本を非類似の源泉として指示し、ひいては第三に、見本(モデル)と複写(コピー)という階層的な対立図式そのものに異議を唱えるのだという(注57)―、すでにこの記事は当初予定していた分量を大幅に超過しているので、その検討は他日にまわさざるをえない。
ともかく以上のような次第で、哲学的な美と強さの点で『のばらセックス』に匹敵する小説がそうざらにあるとは、私には思えない。これは、厳密な意味で各人のための書物、我々一人一人を欲望する者として個体化に(したがってまた孤立性に)与らしめる書物であると同時に、まさしくこの普遍的な当事者性の達成ということのゆえに、真に万人のための書物でもあるのだ。以前私は日日日を「現代のスピノザ」と呼んだことがある。それに加えて、いまや次のことも認める必要があるようだ。やはりスピノザ主義者だったドゥルーズの哲学は、他のどの日本語の小説にもまして巧みに『のばらセックス』において反復された、つまり新たな生命を獲得したのである。


(1)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)235-236頁。ただし引用に際して、訳文中の「コンブレ」を「コンブレー」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「エレメント」を「境地」に改め、また傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。
(2)同書238-240頁。ただし引用に際して、訳文中の「先験的」を「超越論的」に、「エレメント」を「境地」に改めた。
(3)同書245-246頁。
(4)同書247-249頁。ただし引用に際して、訳文中の「イマージュ」を「映像」に、「セリー」を「系列」に、「イデア的な自我」(原語は« un moi idéal »である)を「理想自我」に改めた。
(5)同書250-251頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(6)同書251-252頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(7)同書257-258頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「最終目的」(原語は« le but final »である)を「究極目標」に改めた。
(8)ジークムント・フロイト「心理学草案」(総田純次訳)、『フロイト全集3』(岩波書店、2010年)44頁。
(9)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年)63-105頁。
(10)「もの」、R.シェママ・B.ヴァンデルメルシュ編『新版 精神分析事典』(弘文堂、2002年)488頁。
(11)福原泰平『ラカン 鏡像段階』(講談社、2005年)210-211頁。
(12)同書211-220頁。
(13)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)274、279頁。
(14)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)235-236頁。
(15)同書247-249頁。
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)212頁。
(17)同書215-216頁。
(18)同書148頁。
(19)同書290頁。
(20)同書262、290頁。
(21)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)251-252、257-258頁。
(22)日日日『のばらセックス』(前掲書)376頁。
(23)同書381-382頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)271-272頁。訳文中の「セリー」を「系列」に、「イマージュ」を「映像」に改めた。
(25)同書274-275頁。ただし引用に際して、« lambeau »の訳語を「切片」から「切れ端」に改めた。
(26)同書275-276頁。
(27)同書276-278頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「切片」を「切れ端」に、「控除されている」(原語は« prélevé »である)を「採取されている」に、「もっている」・「もたれている」を「持つ」・「持たれる」に、それぞれ改めた。
(28)同書278-280頁。訳文中の「置き換えられているものとして」(原語は« comme déplacé »である)を「遷移したものとして」に改めた。
(29)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(前掲書)177-178頁。引用に際して、訳文中の「快楽原則」を「快原理」に改めた。
(30)若森栄樹『精神分析の空間』(弘文堂、1988年)194-195頁。
(31)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)278頁。
(32)同書280頁。「置き換えられていること」を「遷移していること」に改めた。
(33)日日日『のばらセックス』(前掲書)159頁。
(34)同書161頁。
(35)同書238-289頁。
(36)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)281頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「プロセス」を「過程」に改めた。
(37)同書284-287頁。引用に際して、訳文中の「プロセス」を「過程」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「セリー」を「系列」に、「置き換えられる」・「置き換え」を「遷移する」・「遷移」に、「審廷」を「審級」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に、それぞれ改めた。
(38)日日日『のばらセックス』(前掲書)265頁。
(39)同書290頁。
(40)同書376頁。
(41)同書117-118、265-266、347頁。
(42)同書109頁。
(43)同書110頁。
(44)同書182頁。
(45)同書190頁。
(46)同書284頁。
(47)同書343頁。
(48)同書46頁。
(49)同書156頁。
(50)同書188-190頁。
(51)同書216頁。
(52)同書286-287頁。
(53)ただし、枝川昌雄著『ラカン空間を読む』(青山社、2008年)218-221頁にも書いてあるとおり、「もの(das Ding)」とは厳密には母の身体そのものというよりも、むしろ「『母の身体』を代入することの可能な構造的な枠組み」として、「シニフィアンの連鎖によって構成される象徴界に空いた裂け目、穴」として考えられるべきであり、だからこそそこへと表象の世界が収斂していく当の欠如でありうるということ、そしてラカン自身がメラニー・クラインのよく似た理論に対して自説の差別化を図るという文脈においてまさしくこの点に言及していることは、ともに注意されてよい。
(54)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)287頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「置き換え」を「遷移」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に改めた。
(55)日日日『のばらセックス』(前掲書)258-259頁。
(56)同書375頁。
(57)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)341-344頁。

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日日日『のばらセックス』15 

序文

前回の記事と同様、以下に掲載するのも、私とある人とのメールでのやりとりの一部に適宜加筆や修正を施したものである。
当然そのような経緯は文中のそこかしこに跡をとどめているので、このたびの公表に際しては、読者の便宜のために、一応序文を付して脈絡を補うことにした。
といっても本文の長さ自体たかが知れているので、それほど大それた前置きは必要あるまい。まず前篇では、記事の題名通り『のばらセックス』について、本作の結末における緒礼の処遇が甘すぎるのではないかという問いかけに対する、私なりの答を出そうと試みている。ことに大切なのは、「母親と一緒に暮らしたい」というおちば様(主人公)の願望と、「生きた女性と対面して触れ合いたい」という緒礼(黒幕)の願望とが、実はすでに巻頭の時点でどちらも実現をみており、ただ当事者が二人ともそのことを知らないだけだ、という論点であろう。これは、緒礼がまだ「坂本のばら様」を演じていた頃にさんざん彼を苛んだあげくついに狂気へと至らしめたものが、遠すぎて手の届かぬ対象(高嶺の花)への憧れではなくて、あべこべに極度の近接性ゆえの悩み、すなわちほかならぬ彼自身がのばら様(の正体)であるがゆえに、生きた彼女と対面することも、いわんや会話や肉体的接触も決して許されないという悩みであった…という事情と同様、『のばらセックス』の最も秘教的な奥義の一つと考えてさしつかえあるまい。表象の原理への批判はよいとして、代わりに「近接性(proximité)」を―いわばすっかり消毒の済んだ、単なる親密性(intimité)として―謳歌する一方であるかのように思えるときもある、ドゥルーズ哲学のある種の能天気な受容(これについてドゥルーズ本人に全く責任がないとは思えない)に一石を投じるものとして、これは見落とせない論点だと私は信じる。
後篇では打って変わって、欲望こそが人間の本質であるというスピノザ的な命題が日日日にも共通しているとして、では貨幣経済(欲望の外在化・平準化の機構)は彼の小説世界の中で一体いかなる地位を占めることになるのか、という問いかけを受けて、『狂乱家族日記』の中に出てくる、不解宮(わからずのみや)一族のmillionという架空の通貨をめぐって若干のことを論じている。平常運転の日日日がシューマン的であるとすれば―狂気の瞬間沸騰、偏執的なまでに厳格な形式性・対称性、執拗な反復癖、響きが混濁するほど数多くの楽器を一度に重ねてくる手法、ついいましがたの昂揚がまるで嘘だったかのように突如訪れる空漠たる荒涼さ…等々、シューマンに特徴的な語法はどれもこの類比を支持しているように思う。あるいは、分裂症(スキゾフレニア)の積極的な評価という文脈の中でドゥルーズがシューマンの名を挙げたことの意義を、日日日論の一環として再考する余地があるのかもしれない―、『のばらセックス』はブルックナーの交響曲からしか聞こえてこないような天体の諧調を思わせる非情なる自然の声と、マーラーばりの極度に個人的な内面性の露悪的なほどあけすけな告白とを統合してのけた唯一無二の力技であるが、『狂乱家族日記』はそのどちらでもない、いわばラヴェル的な、どこまでも人工的で端正な完結した美の世界である。この取りつく島もない作品はこういう機会でもないと、なかなか単独では分析することが難しい。しかし(付記)は剰余価値(マルクス)と剰余享楽(ラカン)の相同性に導かれ、またしても『のばらセックス』に立ち戻って論を締めくくっている。
本文中でも書いたが、この作品の複雑さと豊かさは全く前代未聞であり、いくら声高に強調してもしすぎにはならない。つい先日も、「どうせなら中学の国語の教科書に『のばらセックス』が載って、それでいたいけな中学生が男女問わず全員この小説で自慰を覚えるようになればいいのに! いいのに! あああもう凄作(すごさく:凄い作品の意)すぎて辛抱たまらん、舐めたい、揉みたい! 揉ませろ日日日さん!」と意味不明な叫びをあげたところ、冷たい目をした友人に「うぜえ、この色キ○ガイが…」と蔑まれてそれがかえって快感だったくらいである(末期症状)。


本文

(前篇)
なるほど、緒礼は許されるのかどうか、許されてよいかどうか、という疑問だったわけですね。まあ、おちば様の側にも「のばら様を愛している緒礼さんは、彼女を世間的に殺したあたしをゆるさないかもしれない」(348頁)という引け目があることだし、それによってすでにいくぶんかは彼の罪が相殺されそうだという点を考慮に入れるなら、致命傷を負って苦しんだあげく全てを(再び)忘れて廃人同然になるという最終的な成行きは、十分かどうかはともかく一応贖罪になっていると思います。たしかに彼の身内(おちば様や綿志)には笑いごとで済まない多大な迷惑をかけていますが、客観的には、つまりそれ以外の全人類にとっては、女性の量産を果たした緒礼は、犯罪者どころかまさしく救世主でしょう。こういう大局的な視点に立てば(そもそも「立ってよいのか否か」という問いはありえますが)、緒礼の傍迷惑な行動の数々は、埋め合わせがつくどころかお釣りがくるほどです。それに、どうせ問いつめたところで、主観的な次元では、つまり彼自身の口からは、弟と娘の強姦、そして育児放棄といった醜行の数々について、「悪いと思ったがどうしても我慢できなかった」という以上に何か筋の通った(傾聴に値する)弁明が聞けるとも思えません(苦笑)。このような尋問は、たとえあったとしても小説にさらなる充実をもたらす要因とはなりえないのではないか。
「埋め合わせ」といえば忘れてはならないのは、巻頭の時点で、記憶を失った緒礼は「ななちゃん(綿志)」としておちば様と起居を共にしており、これについて彼女自身は、のばら様(=緒礼)から捨てられたときの苦い思い出を反芻しながら、「保護の名目でななちゃんを確保して、家族の真似事をしているのは、あたしが家族という概念に満たされない依存症を患っているからなのか」(43頁)と考えている、という事実でしょう。あいにく彼女には、未練がましく自分が慕うのばら様の正体(「中の人」)がいま現に自分と一緒に暮らしているこの「ななちゃん」こと綿志という男(実は緒礼)であるという知識は欠落しているし、もう片方の当事者である緒礼(=のばら様)に至ってはすっかり自らの来歴を忘れて別人(ななちゃん=綿志)と化しているわけですが、実はこの二人に焦点を合わせるかぎり、「家族(母親=のばら様)と一緒に暮らしたい」というおちば様の願望は、「女性の役を自ら演じるだけでは飽き足らないので、生きた女性と対面して触れ合いたい」という緒礼の願望ともども、すでに開巻の時点で実現しています! おちば様が一緒に暮らしたいと願う家族とは、具体的には母親ののばら様です。そうであるかぎり、この願望をかなえられる人物は緒礼(生みの親)以外に誰もおらず、そして彼は、そんなつもりではなかったにしろ、現に(「ななちゃん」として寄り添うことで)娘のこの願望をかなえてきたのです。したがって、彼女の兄についての「子供が自分のちからで手にいれたと思ったすべてのものは、たいてい、大人が子供のために用意してくれた、おもちゃみたいなものだ」(101頁)という皮肉な調子の文は、彼女自身にも妥当します。
それに、緒礼に強姦されたときのいやな記憶は現在のおちば様自身からは消されているのだし(119頁)、そこからあえてもう一歩怖い見方に踏みこむなら、彼女がセノンについて(地の文で)述べる、「幼い子供は、自分が虐待されていることを認めない」(200頁)という言葉が、緒礼に対する彼女自身の心理にも当てはまる真理としてはね返ってくる、と考えることが可能なのではありませんか(こういう「怖い」読み方がどこまで作者の本意にかなっているのかわかりませんが、このように高度の自律性・自己完結性が底知れぬ無意味さ・無根拠性の地平を開いて見せてくれるのが、絶好調のときの日日日の小説の醍醐味の一つでしょう)。
まあ、実際にあのような(娘の強姦と育児放棄という)事件が起きたとして、犯人が法的・社会的に「許される」までには相応に長い刑期が必要だろうと思いますが(というか作中でも、できるだけ彼をかばおうとしてきた兄弟までがとうとう愛想を尽かした結果として、巻頭の時点で「植物刑」に処せられていたわけですが)、そこをあえて「ひとを愛するということが―『馬鹿みたい』じゃなかった時代が、かつていちどでもあっただろうか」(378頁)という開き直りのような理屈で、あるいはむしろ修辞(レトリック)で押し切ってしまい、荘重なまでの宗教的感動のほうへと無理やり突破を果たすというところに、いかなる道徳哲学にもまさる小説としての『のばらセックス』の強さ(よしんば「正しさ」ではないにせよ…)を求めるのは、それほど見当外れではないはずです。生はその自己中心性によって、またその豊かさによってもともと「善悪の彼岸」(ニーチェ)にあるということ―あるいは、緒礼個人の性的な動機のよこしまさも人為的な創造行為の関与も、自力で撤廃してのける「生成の無垢」(これもニーチェ)―、あらゆる常識的な異議をはねのけてこの間の機微を力ずくで読者に納得させてしまうのが芸術作品の使命の一つであり、少なくとも芸術作品が最もうまく果たせる使命です。要するに、緒礼は社会的にはどうであれ、いわば美的な要請として「許されなくてはならない」のであり、そしてそのことがこの作品を比類なく倫理的なものにしています。第一、神に挑戦して力尽きたがどうにか相打ちに持ちこんだ、とでも表現できそうな彼の壮挙を、そのために誰よりも不快な思いをしてきたはずの娘であるおちば様が、どんな心理からであれ一応は承認しているばかりか、ひいては性愛に罪の印を刻印しようとする宗教的な制度全般への決別の辞(「ファック」)を彼女が代弁している以上(378-379頁)、所詮は部外者たる読者にとって、これ以上の緒礼の追及は困難でしょう。
なお、フロイト(そしてラカン)によれば、女性の精神においては、男性の場合ほど超自我(良心)が厳格でない、とのことです。これは悪く言えば、女性は男性ほど道徳的感覚が発達していない、ということを意味します。このようなことになる理由は、父親の権威が内面化されたもの、という超自我の定義そのものに由来します。父親という存在は、男子にとっては異性の親(母親)との仲を裂く同性の強者として畏怖の対象となりうるのに対して、女子にとってはそうでないからです。いろいろと因縁のある相手だというのに、おちば様がかなりあっさりと緒礼を許容してしまうことについては、このように精神分析の観点からすると「なぜなら(彼女は)女性だから」という身も蓋もない理由による説明が可能なのであり、たぶん私とあなたで結末の評価が異なる理由も、根本的にはこのあたりに求めるべきではないかと思います。情欲のために全てを犠牲にした緒礼の社会的・道徳的・宗教的な犯罪について、読者の性別次第で感想が分かれるというのは妙な気もしますが、厚かましく思われそうなのは承知であえて書くと、あるいはほかならぬこの事実こそが、『のばらセックス』が性の真理を射抜くことに成功した作品であることの有力な証かもしれません。
何よりも、彼の心身をすり切れるまで蹂躙し酷使したのは、女性の理念(Idea)あるいは概念であり、虚構の中にしかいない(いなかったはずの)絶対的な女性としての「坂本のばら様」であり、ひいては彼女を現実に誕生せしめることという目的です。すなわち、緒礼の「欲望」が全ての原動力であるということは、同時に、欲望には現実的なものであれ虚構的なものであれとにかく対象が必須であるという事情からして、真の原因をこの対象ないし目的、つまりのばら様であると考えることで彼を免罪する余地がある―「そんなに、のばら様に会いたかった?」(376頁)―ということでもあります。「目的」を「原因」の一種として勘定するのは日本語の感覚として奇妙かもしれませんが、少なくともアリストテレス以来の西洋哲学はそのように考えてきたし、スピノザがこの伝統的な「目的原因」を我流に定義して「人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない」(注1)と述べていることは、かえって、一見がむしゃらな衝動(欲望)にもとづく緒礼の行動を、目的に関わる語彙の秩序の中で把握し直す可能性を示唆するものでもあるはずです。
ご存知かもしれませんが、スティーヴ・ジョーンズ著『Yの真実―危うい男たちの進化論』(岸本紀子・福岡伸一訳、化学同人、2004年)などからもうかがえるように、どうやら近年の生物学は、雄は本来雌がお互いの遺伝子を交換しながら存続していくための仲介のような存在にすぎなかった、という知見に達しているようなので、日日日の発想の根幹にあったのもおそらくこれでしょう(まあ、私自身は『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の「もこっち」みたいな感じの、限りなく女子力とは縁がない生き物なので、日日日流の生物学的フェミニズムに対しては「そんなに持ち上げられても困る…」というのが率直な感想ですが)。

ドゥルーズ哲学の最大の原動力は、あらゆる圧迫をはねつけ、必要ならば人格の自己同一性を壊してでも、生そのものの奔流のような力能(puissance)を肯定することです。それゆえ彼の絵画論においては、モデルに従属し続ける素朴な写実主義はもとより、あまりに整然としすぎた抽象主義(カンディンスキー)や、逆に単なる混沌にしか行き着かないアクション・ペインティング(ポロック)のような道ではなくて、むしろ形態(人物像)の歪曲ないし「脱形態化」(déformation)という手段を通じて、非人格的な、ほとんど非人間的ですらある元素的・微粒子的な情動の力そのものの、観る者の神経系に直接突き刺さってくるような荒々しい波動を現前させる、というフランシス・ベーコンの画業が特権的な地位を占めます。このような作品は、観る者に対していかなる距離も介在しない直接的な融合を求め、そのようにしていわば目に固有な触覚的感性、すなわち「触視的(haptique)」感性を喚起するものです。さて、「できがよい場合には」という留保条件が必要であるとはいえ、総じて日本のエロ漫画は、局部の強調によるデフォルメ(déformation)や、まるで手の代わりに頁(画面)を直接まさぐるような振舞いを目に強いることなどからして、実はドゥルーズ的な絵画論の理想をある程度実現しているのではないか、という仮説を私は立てています(誰だったか名前は忘れましたが、以前講談社の編集者が、日本の少年漫画のような躍動感に富むコマ割りや人体の部分的な強調は、フランスの漫画では成人向け作品にしか見られない、と話していたのを思い出します)。もちろん、読者の神経系に直接作用するかのような情動的な強度については言うまでもありません。
しかしそれでもなお、漫画の世界は視覚的なものであるかぎり、「表象(représentation)」の原理から完全に自由になることはできません。である以上は、表象の内部、すなわち自他の(究極的には母子の)想像的一体性(ラカン)という甘美な夢の内部で、徹底的にこの甘さを―甘さ「の」強度を―追求するのが正しいエロ漫画の道です。ただ小説における一人称のみが、元素的な力の解放を、他人事ならぬ「我が事」として、「我が身」に生じる残酷な出来事として、換言すれば真の生成変化つまり「なること」(le devenir)として読者各自に経験させることができます。ドゥルーズが絵画の任務を「見えるものを描く(写す)(rendre le visible)」ことではなくて「(見えないものを)見えるようにする(rendre visible)」ことであると規定したように、文学は本来「書かれぬことをやめないもの」(ラカン)、すなわち性関係という不可能なる「現実界」を何らかの仕方で「読めるようにする」ことが任務なのではないか、と私は思います。一人称を使える、ということはそのための手段として非常に強力なものでしょう。実際、ラカンは他方で「この私、真理である私が語る」とも書いています。この奇妙な文は、現実界の不快な真理が、我々主体の側の抵抗にもかかわらず、結局はこの抵抗を押し切ってそれ自身を表明せずにいない、という事態に注意を促しています。
さて、女性の一人称によるポルノグラフィは数あれど、主に男性の主体化に関わる象徴的去勢の機構(および男女の性器の結合)にとっては余計でしかないような、もっぱら女性的な「剰余享楽」、というラカン派精神分析の最も秘教的な真理をして、それ自身を語らしめることに成功したのは『のばらセックス』くらいのものではないかと思います。剰余享楽は性器に局限されない全身的な享楽であって(ラカンが例に挙げているのは、神秘家として有名なアビラの聖女テレサが神との合一を遂げた恍惚の一瞬を捉えた、ベルニーニの彫刻作品です)、ここからドゥルーズの唱えた「器官なき身体」の理論を照らし返すことができるはずです(ラカンと同様、ドゥルーズの美術上の好みも、ベルニーニに限らず「襞」を多用するバロック様式へと次第に傾いていったことは見落とせない点です)。
今日のフランスのフェミニズム思想にはécriture féminine(エクリチュール・フェミニーヌ)という概念があります。英語だとfeminine writing、直訳すれば「女性的な書き方」ということになるかと思います。代表的な理論家はエレーヌ・シクスーやジュリア・クリステヴァでしょう。ただ、従来の文学がおおむね男性中心のものであったということはとりあえず主張しうるにしても、ではそれへの対処としてどのように女性的な要素を打ち出していくか、という具体的な面になると、なかなか心もとないのが現状です(シクスーたちは小説の実作もしていますが、いかんせん「頭でっかち」です)。ドゥルーズは、このような同時代のフェミニズム思想の動向もおそらくは考慮しつつ、「女として書く」のでも、ましてや「女を描く」のでもなく、「書くことによって女性になる」という生成変化の思想を提唱しました。女性への生成変化は緒礼一人の経験ではなく、創造者であるかぎり彼は作家の分身でもあるという印象を私が感じるのは、これの影響でもあります。
毎度のことながらどうもこの小説のことを考え始めるとたちまちとぐろを巻くような錯綜した思弁が始まってしまいますが、ここには実際それだけのものがあるのです。なにも煙に巻いてやろうというつもりで、好き好んで専門用語(「触視的」、「生成変化」、「象徴的去勢」、「剰余享楽」、「器官なき身体」、「エクリチュール・フェミニーヌ」…)を連発しているわけではありません。「きっと、あたしもいつか子供のころの寂しさも、不条理な我が身への嘆きも、のばら様への複雑な気持ちも忘れてしまう」(385頁)という一文の目もくらむような美に逆らってでも、あえて立ち去りつつある作品を引きとめて真理を聞き出すためには、どうしてもこういう無粋な武器が必要なのです。この本は、きっと中高生には本能的に隅々まで理解できるものでしょうが、哲学者や精神分析家にとっては絶望的に難解です! 

(後篇)
そういえば日日日の貨幣論として、すでに『狂乱家族日記』のmillionという実例がありましたね…。大変面目ないが、うっかり失念していました。
ただ、無自覚なスピノザ主義者として、あるいはそれ以前に個性と自由を尊ぶ(尊ばざるをえない)芸術家(小説家)として、人間生活のあらゆる分野に規格化と平板化をもたらす貨幣経済という仕組みを手放しで肯定するわけにいかない、という日日日の基本姿勢は、millionと不解宮にまつわる諸々の事件からもうかがえるように思います。財力による平和の強制という不解宮ミリオン(百万子)の構想は、彼女自身の死という深刻な代償を伴いながら、端的な善というよりも少なからず独善の色合いを帯びたものとして実現をみているのだし(第10巻、第11巻)、また第12巻の正夢カジノにおいても、「野獣五連戦」における凶華の手助けといい、どうやら胴元(賭場の元締め)としての特権を駆使してか圧倒的な額の蓄財を背景に勝負を有利に進める乱命といい、あるいは地道にカジノで稼ぐ代わりに外部(不解宮)からの支援に頼る黄桜組の仁王像といい、決定的な場面ではむしろ反則が、あるいはそこまでいかないにせよ規則の裏をかくような作戦が鍵を握ることになるのは見落とせない点です。
もっとも、ともに外界に対して独立を保とうとする小天地である正夢カジノおよび鬼ヶ島におけるmillionの流通そのものは、不解宮の体現する世界大の(global)権力への抵抗という性格を持つものであって、そのかぎりでは、反グローバリゼーション運動の一環としての「地域通貨」に通じるものでしょう。貨幣経済という制度そのものをいきなり全否定するのではなく、あくまでもその内部で、時流に乗りきれない弱者やあぶれ者によりどころを提供しうるような、個性的な少数派の立場を目指す、という方針です。たしかに、自己の身体にまで入場と同時に問答無用で値段がつけられるというのは当事者の身になってみればおぞましい体験に違いありませんが、正夢カジノの描写の全体的な調子には、拝金主義の行き過ぎを真面目くさって糾弾するというよりも、面白おかしく戯画化することに徹している観があります。いずれにせよ、主催者である乱命本人の思惑はどうあれ、これは客観的には(作品の外にいる批評家にとっては)あくまでも世界政府とグローバリゼーションへの局地的な(local)抵抗であるというところに妙味(意義)があるように思います。
また、「誰も命を奪われることのない、恒常的な戦争状態」(第13巻309頁)という鬼ヶ島の構想は、ドゥルーズに影響を与えた人類学者ピエール・クラストルが、南米のインディオ社会の「求心的」ならぬ「遠心的」な諸制度を研究する中で見出した、中央集権的な国家の発生を未然に防ぐ叡智に重なるようなところがあり、これはこれで思想的に興味深いものです(注2)。
ドゥルーズとガタリの共著『千のプラトー』によれば、クラストルが教えてくれるのは国家に対する「戦争機械」の外部性であり、たとえ常識的な発想では前者(国家)の中の軍事機関という姿でないと後者(戦争機械)を思い描くことが難しいとしても、実は両者がもともと本性を異にしているということ、それどころか戦争機械は国家の形成を阻みさえするということです(注3)。それにもかかわらず国家は戦争機械を所有して政治的な目的に従属させようとするのであり、資本主義がもたらす総力戦は、この傾向の頂点であると同時に、逆に諸国家を部分とする一つの全体であるような、世界規模の戦争機械の出現を準備するものでもあります。こうなると地球全体の管理者として「戦争機械は目的すなわち世界平和を自分で引き受けたのであり」、「ファシスト的な死よりもおそらくもっとおそろしい平和」を目標とするようになるとともに、「他の国でも他の体制でもない新しいタイプの敵として『任意の敵』に狙いを定め、一度は裏をかかれても二度目には立ち直る反ゲリラ要員を特訓しているのだ…」(注4)というドゥルーズたちの文章は、1980年のものでありながら、対テロ戦争に熱中してきた21世紀の米国を、さらには、もともと戦争に次ぐ戦争で領土を拡張した過去がある上に、(これまたテロリストへの報復を主張しながら)新たに帝位に就いた不解宮のもとで社会が混沌や多様性を失ってひたすら均質化されてゆく『狂乱家族日記』の大日本帝国をも予言していたかのような、不気味な先見性を感じさせます。
座標も方向も知らない開放的な空間、すなわち平滑空間と、その反対の条理空間という区別に依拠しつつ、ドゥルーズたちはこのような世界規模の戦争機械に抵抗するものとして、戦争機械のもう一方の極、すなわち「戦争ではなく、創造的な逃走線を引くことと、平滑空間とその中における人間の運動の編成を目標にする」極に注目し、遊牧民の形象に託して、「この場合の戦争は国家に対して、そしてすべての国家によって表現される世界的公理系に対して戦いを挑むのである」と述べます(注5)。アナーキスト(無政府主義者)ドゥルーズの面目躍如たる一種の煽動文書であり、正夢カジノについで鬼ヶ島を描くときの日日日の心情的な立場も、おおむねこれに近いものではなかったかと私は想像します。
もっとも、第13巻の結末で乱命が「乱華」として乱崎家に迎え入れられると同時に、それまで鬼ヶ島という小社会を支配する主として彼女が思い描いてきた「恒常的な戦争状態」が、外延的な(extensive)規模の縮小と内包的な(intensive)凝縮度の高まりを伴いつつ、「千花‐銀夏‐乱華(=乱命)」という三角関係(恋の鞘当て)へと引き継がれることは決して見落とせない点です。これこそが、哲学的でも人類学的でもなくまさしく文学的な思考と名づけるほかない、あくまでも個性ある登場人物同士の関係を重視する小説家ならではの結論でしょう。

(付記)上で触れた女性の「剰余享楽」について、ラカンはマルクスの「剰余価値」になぞらえて説明しています(注6)。剰余価値とは何か。マルクスによれば、労働者の労働力に対して支払われた給料の額は、実は、日々の具体的な労働が結果として創造する商品の総体的な価値によって凌駕されるのであり、この差額から生じてくるのが、労働者への給料の支払いや原材料の購入費などですでに相当の額を散財している経営者ないし資本家にとっての、実質的な儲けとしての「剰余価値」です。すなわち、労働者には給料と同額に相当する量の商品を生産し終えた時点でただちに解放が訪れるというわけにはいかず、なお毎日何時間かの「剰余労働」を資本家の命で果たさなくてはならないのであり、その分の価値は当然ながら(給料として)労働者自身の懐に入ることはありません(これがマルクス的な「搾取」の概念です)(注7)。ただし、資本家は資本家で工場の設備の維持など、生産活動を続行し、あわよくば拡張していくためにも再び投資をする必要があるので、儲けをただ享受する一方というわけにはいきません。ラカンの類比の真意はつかみにくいのですが、このように当事者の双方、すなわち資本家からも労働者からも逃れ去る価値、という性格に彼が注目しているのは疑いえないところです。なぜならば、存在の充溢(母親との一体性)からの脱落に続く言葉の秩序の中への参入(父性の介入による象徴的去勢)という、そもそもの誕生の過程自体が主体に強いる、語りえぬ余計なものの発生、として剰余享楽は定義できるからです。原理上主体に必ず伴うこの空無を担うのがいわゆる「対象a」であり、十全なる存在という幻想を支える「欲望の原因」です。
福原泰平はこの間の機微を整理して、「主体は愛する父に叩かれた者として去勢され、斜線を入れられて消え去ると同時に、自己の存在を保証するものとしてのこうした幻想を手に入れる。この幻想の成立により、主体は楽園の存在を想定し、私というものの存在を確信することができるようになる」(注8)と述べています。したがって、『狂乱家族日記』の不解宮とmillionをめぐる一連の事件において、一方では銀夏(銀一)の過去に即して「私(息子)をいじめて男らしくしようとする父」という像が現れ(象徴的去勢の作用が主体の成立にとって不可欠であるのは、とりわけ男性の場合です)、他方では閻禍の思い出に託して「楽園喪失」の物語が示されると同時に、剰余価値(剰余享楽)を取り逃がすくせに貨幣経済の全能を信じきって疑おうともしない資本主義(不解宮)の独善に対しては、たとえあらわな批判ではないにせよ、少なくとも懐疑が表明される…という構成になっているのは、精神分析とマルクス主義双方の観点からしてかなり面白い事実です。
ただ、剰余価値は所詮資本主義の体制下では否定的に、陰画として想定するほかない(資本家も労働者もこれを手に入れることはできない)のに対して、後期ラカンによれば、女性や神秘家は、剰余享楽とは何かを知ることはないまま、もっぱら忘我の境地でそれを体験するのだ、ということになっています。これと同じ意味で、つまり女性の身に即した剰余享楽の否定的ならぬ肯定的な提示とともに、ともすれば教条的な調子を帯びがちな日日日流のフェミニズムが、例外的に猥褻なまでの具体性(生々しさ)を獲得しているという意味で、少なくとも享楽の問題系に関しては、『のばらセックス』はいわば約束に対するその実行よろしく『狂乱家族日記』に呼応しています。


(1)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)9頁(第四部序言)。
(2)ピエール・クラストル『国家に抗する社会』(渡辺公三訳、書肆風の薔薇、1987年)。
(3)ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 下』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)23-25頁。
(4)同書148頁。
(5)同書149-150頁。
(6)Jacques Lacan, Le séminaire XVI: D'un Autre à l'autre, Paris, Seuil, 2006, p.29.
(7)カール・マルクス『資本論―第2分冊』(資本論翻訳委員会訳、新日本出版社、1988年第8刷)330-333頁。
(8)福原泰平『ラカン―鏡像段階』(講談社、2005年)176頁。

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日日日『のばらセックス』14 

序文

ここに掲載するのは、以前ある人から日日日作『蟲と眼球と愛の歌』(MF文庫、2006年)の中の「神と私の一致構造」という神話観(第一奏「歌だけじゃ届かないけど」)について問われて書き送った返事の抜粋に、若干手を加えたものである(当然ながら、私の独断ではなくて許諾をいただいた上での公開である)。
そのような素性のために、文中ところどころこれに先立つやりとりへの示唆が混じっているが、そのせいで内容の理解が著しく妨げられるということはたぶんないはずなので、そういった箇所は気にせず読み飛ばしてかまわないと思う。
この不体裁な文章をそれでも公開しようと思った理由は二つある。
第一は、今月上梓された『ゆめにっき』(ききやま原作、PHP研究所、2013年)のことである。私は、本文の終わりに書き足した(付記2)で、精神分析の始祖であるフロイトの理論と、彼の弟子でのちに決別したユングの説(「分析心理学」)とを比べると、前者のほうが後者よりもはるかに知的にまっとうでかつ急進的な学説であると指摘した。このとき私の念頭にあったのは、日日日がユングにかぶれては困る、という一抹の危惧である。あいにくなことに、この危惧は的中した。どこまでが作者本人の見解であるかは実のところ判然としないものの、どうやらこの『ゆめにっき』という作品は、フロイトを批判する一方でユングの主張を比較的好意的に扱っているようなのである。だが、ほんの少しでもフロイトの理論を、あるいは第二次大戦後のフランスでフロイト理論を継承しつつさらなる探究を推し進めたジャック・ラカンの仕事を、余計な先入見に囚われることなく虚心坦懐に学ぶ術を知っている人であれば、このような評価に同調することは到底不可能であろう。それゆえ私は、『ゆめにっき』の上梓になるべくおくれをとらぬよう、早々に(付記2)で示したような意見を公表しておきたいと感じたのである。
そもそも『ゆめにっき』におけるフロイト批判は、第一に無意識と意識(自我)のみからなる心の二重構造、第二に下品な汎性欲主義、そして第三に不埒な性欲を無意識の中に押しこめるという、「抑圧」の作業を完遂できない個人の弱さを許そうとしない無慈悲さ、という、少なくとも三つの不正確な前提をフロイトに押しつけているが、これらがいずれも誤解であることは容易に立証できる。実際には、フロイトが人間の心について最終的に考えていたのは「エス‐自我‐超自我」という三重構造なのだし、いわゆる汎性欲主義にしても、実態はせいぜい自ら多くの患者に接した実地の経験がフロイトをして当時としては非常識なほど心的生活における性的な要因の意義を強調せしめたというだけのことで(だから上品とか下品とかの問題ではない)、欲動論全体は性一色で塗りつぶされることはないまま何度か組換えをこうむった末に、「生の欲動」対「死の欲動」という最も根本的な二元論に到達している。
だが、この二つにもまして深刻なのが、無慈悲さという第三の誤解であろう。なぜならば、『ゆめにっき』の記述とは違い、精神分析家はつねに「抑圧」の味方であるわけではないからだ。正しくはその反対で、「抑圧」はときに精神分析家の敵なのである。抑圧されるべき性的な欲動は、同様に抑圧に服する不快な思い出と同様、そもそも患者本人にとって脅威的なのであり、だからこそ無意識に押しやられなくてはならなかったわけだが、これが必ずしもつねに成功するわけではないことは、フロイトによる無意識の発見まで心理学者たちを悩ませてきた種々の病的な症状(強迫神経症等)の存在が端的に物語っている。それゆえ「抑圧は症状形成の予備条件」であり、「症状とは抑圧によって妨げられたものの代替物」なのである(注1)。フロイトは、そしてラカンは、放っておけば日常生活を送ることすらままならなくなるような諸欲動のうごめきを、抑圧せよと命じているわけではない。むしろ、そのような欲動が抑圧されることは破綻のない日常生活を送る上で我々自身にとって必要なことであるにもかかわらず、しばしばこの過程が失敗に終わるという経験的な事実に注目し、それの理論化に努めたのである。ただしこの失敗というのは、抑圧が不十分なせいで何かがそれの影響力の圏外に無傷のまま残ってしまう、ということではない。むしろ肝心なのは、ひとたび抑圧されたものは、まさしくそれが抑圧を被ったというその同じ事実の結果として、別の出口を求めたあげく奇妙な言動の形で、症状として再び表に現われてくる、という事情を理解することである。「抑圧されたものの回帰」という名高い概念は、この間の機微を指すものである。この回帰は抑圧の機構につきもので、そのかぎりでは自然な帰結ですらある。つまり、フロイトは患者に対して、「もっと気を強く持て」などと頭ごなしに叱咤激励していたわけではない。むしろ、ある意味ではなお苛酷なことに、フロイトの精神分析が我々に突きつけてくるのは「己の弱さを認めよ」という要求なのである。精神を病み、苦悩を訴える人々をありきたりな同情で慰めはしないが、代わりに彼らの話にひたすら真摯に耳を傾けてその奥にある未知なる秘密を認識しようと努めること、おそらくはこの稀有な能力こそが彼をして無意識の発見者たらしめた最大の資質であった。しかるに患者の心の中では抑圧の機構が働いている。この場合それは症状の真の原因を覆い隠す一種の「強がり」であり、そのかぎりで精神分析家にとって打破すべき障害なのだ。それゆえ、『ゆめにっき』のフロイト批判が頭ごなしに抑圧を命じる無慈悲な冷酷さを彼に帰したのは、致命的に間違っている。
もちろん、そうかといって一切の抑圧から解放された生を送ることなど思いもよらない。そんなことはそもそも無理であるし、個人にとっても社会にとっても破局的な結果しか招きそうにない。患者の話の稀有な注意深い聴き手であり、それゆえに比類なく公正な無意識の観察者であったフロイトの理論の真骨頂は、我々人間が置かれたにっちもさっちもいかない運命についての、いわば悲観主義的な楽観主義(純白でも漆黒でもなくて灰色の、混濁してはいるが陰影に富む認識)にある。例えば、『文化の中の居心地悪さ』(岩波版フロイト全集第20巻)という著作は、文明そのものが性欲や攻撃性の抑圧の上に初めて成り立つものであるがゆえに、人間の本性にとって不自然な人工物であるということを認めつつも、この抑圧が他面では制御でもありうるという両義的な事情に着目して、性欲を共同体の絆としての愛(生の欲動)に一般化する一方で攻撃性を超自我(良心)として内面化していくという、文明の歩みそれ自体に一縷の希望を見出そうとしている。
フロイトの精神分析が、元来臨床という実践的な場に出自を持つ治療的な知であったことを忘れてはならない(この点は、錬金術の文献によりどころを求めたユングとは全く対照的である)。我々人間は誰しも、生きているかぎり決して空しさや喪失や不満足から自由ではありえない存在である。隣で寝ていたはずの親の不在に気づいた乳児のよるべなさ、青年期の性愛的な葛藤や挫折、肉親の死に伴う喪の悲哀などの例を思えば、そのことはただちに了解できるはずだ。こうしたことがきっかけで、我々が症状という苦境に陥ったとしよう。上述のとおり、そこには抑圧が伴うので、我々自身には自分に何が起きているのかがわからず、適切な対処ができない。さて、精神分析家は、現実的な原因をなかったことにする方法を我々に教えてくれるわけではないが(なぜなら、それはすでに起きてしまった問題だからだ)、代わりに我々が自分は一体いかなる欲動や経験を抑圧してしまったのかを知り、その認識をきちんと言葉に出すことでとりあえず抑圧―強引な忘却―に走った己の弱さを率直に認め、病的な状態から脱して日常生活への復帰を考え始めるまで案内人として付き添うくらいのことはしてくれる。もしもこの期に及んでなお「強さ」を云々することができるとすれば、それはただ自分が抑圧してしまったものの正体を逃げずに正面から直視する強さ、あるいは勇気でしかありえない。間違っても、何かを抑圧するための強さが求められるわけではないのだ。いわんや主体とは「シニフィアン(意味するもの)」の連鎖から派生してくる効果にすぎないと断定してはばからないラカンに至っては、空しさを人間が人間であるための決定的な条件として考えている観すらある。ラカン的な主体とは、存在の充実(母の欲望の対象であること)を失い、それと引き換えに意味の次元に誕生した結果として、そもそもの出発点からしていわば斜線を引かれ、無の刻印であるほかないもの、「消し去られた無なるものとして存在し、その存在において不在であるようなもの」(注2)であるからだ。
それにしても、『ゆめにっき』のこのような誤解に満ちたフロイト批判は、一体何に由来するものか。この問いは、日日日が実際には人一倍フロイト理論に忠実な作家であるという見まがいようのない事実を思うとき、ひときわ不思議さを増す。私は(付記2)において、「幼児にも性欲が存在すること、近親相姦が実は万人の無意識的な願望であること、全ての生き物には『死の欲動』が宿っていること…等々、我々から心の平安を奪ってしまうぎょっとするような指摘をフロイトはいくつも残していますが、その種の凄味はユングには求めるべくもありません」と書いた。そしてこれらは、実は三つとも『のばらセックス』の作者がよく知っているはずの指摘なのである(ただし、こう主張するためには引用文中の「幼児」は「ローティーン」に改める必要がある。性欲とはほぼ縁のない無邪気な年代と思われている点は同じである)。ほかにも、おそらくほかの作家であればSMの描写として鞭打ちあたりを選びそうなところ、強制的な排尿という状況が選ばれたことは、サディズムの根が排泄のしつけの経験と不可分であるというフロイトの説との共通性を示すものであろう(注3)。この作品のある程度立ち入った精神分析的な批評は以前の記事(「日日日『のばらセックス』11」「日日日『のばらセックス』12」)で試みたから、詳しくはそちらに譲る。
おそらく日日日は、小説『ゆめにっき』の中に作家としての固有の領分を確保するべく、題名どおりもっぱら精神分析から夢理論としての側面のみを取り入れることにしたのであろう。そして、このような割り切った処置と相性がよいのは、明らかにフロイトではなくてユングのほうである。なぜならば、ユングの夢理論は各種の神話や伝説にもとづく類型論であり、それゆえ我々はこれに従うかぎり、誰がいつ見た夢であろうとも出来合いの分類枠の中に放りこんで、それ以上のややこしい個別的な(singular)問い、例えばこの夢は当事者が直前の日中に経験した現実と一体いかなる接点で関わっているのか…等の問題については頭を悩ませなくて済むからだ。この思考の放棄には、普遍的無意識に根ざした人類共通の豊かな想像力の礼讃という、体のよい美称がついている。これに対して、作者が確保しようとした「作家としての固有の領分」とは何か。それは、夢から覚醒することであり、夢から現実への帰還にほかならない。むろん、これは『蟲と眼球…』なり『ピーターパン・エンドロール』なり『のばらセックス』なり、あるいはもっと最近の例であれば『図書館パラセクト』なり『ビスケット・フランケンシュタイン〈完全版〉』の「potato chips : つめあと神経質」の章なり、相応に長い系譜の遡行を許す恒常的な主題であるから、断じて我流の夢理論を唱えてユングに対抗するのをあきらめた結果として選ばれた消極的な方針などではあるまい。しかしながら、夢とは現実において不首尾に終わった欲望が充足をみる場である、という『夢解釈』の名高い命題(注4)、および快原理(快感原則)と現実原理(現実原則)というこれまた有名な用語の対を考えてみれば察しがつくように、夢を外界から独立した想像力の遊び場としてというよりも、どちらかといえばつねに個々人の特異な(singular)現実との関係の中で把握しようとする姿勢は、いかに夢の世界が快適であってもいずれ我々はそれから目覚めて現実に戻って来ざるをえないという点の強調ともども、ほかならぬフロイトその人の―ユングとは対照的な―夢理論の特徴なのである。『ゆめにっき』の結末で、ついに自分は出産を間近に控えた妊婦であったことを思い出し、流産への恐れを振り切って現実へと覚醒しようと決意する話者は、言葉を通じた抑圧の解除によって、できればずっと忘れたままでいたかったような自己の素性を想起するとともに本来の生活の場に(再)適応し始める、というすこぶるフロイト的な成行きに従っているのだ。この場合、そこへと目覚めるべき「現実」の生が、『ゆめにっき』の本文そのものにとっても見知らぬ外部であることに注目するなら、あるいはそこに、せいぜい我々の経験を可能にする条件ではありえても決してそれ自体が認識の対象にはなりえない生物的な生の次元という、ラカン的な「現実界(le réel)」を重ね合わせることすら許されるのかもしれない。現実界は、定義上「書かれぬことをやめないもの(ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire)」として、言葉の秩序(「象徴界」)の外に残り続けるからだ。それは結局のところ、「不可能なもの」としての性関係(le rapport sexuel)である(実際、話者を待ちかまえているのは出産という出来事ではなかったか)(注5)。このようにユング的な夢理論に別れを告げ、改めて小説家としての自らの道を踏みしめようとするときにこそほかのどの瞬間にもまして日日日が無自覚な―無意識的な―フロイト主義者であるという事実は、上述のとおり少なくとも三つのフロイト理論に関する深刻な誤解があったことを思うと、なおさら驚異的である(注6)。
それでも私としては、『ゆめにっき』の出版を手放しで歓迎しようという気にはなれない。お世辞にも正確とは評しがたいフロイトの理解を巷に広める結果になりかねないから、ということももちろんある。だが、この点に関しては、むしろ不正確で安心した、とすら思っているくらいなのだ。なぜならば、ユングはまだしもフロイトの理論ともなれば、有無を言わさぬ治療的効果を発揮して日日日から小説の執筆という「症状」(もどき)を奪ってしまいかねないからである。作家に限らず藝術家たる者はわざわざ貴重な時間を割いてこんな小賢しいものに近づこうとせず、知識人に任せておけばよいのである。私は私のガイスト(Geist=霊魂、精神)を、日日日からもらった。両親にもらったのでも、身近な友人や教師にもらったのでもない。そんなわけで私は恩返しがしたいのだが、あいにく私から日日日に貢物として差し上げられるものとしては、なけなしのつまらぬ学識と教養(苦笑)くらいしかない。そこでやむなく、『ゆめにっき』についてはこのようになにやら批判がましいことを書き連ねる結果になったのだし、精神分析につきあうのはこれっきりにして、今後はあまり深入りせぬほうがよろしいのではないか、という忠言も申し上げることにしたのである(いっそ私を秘書にしてくだされば、哲学だろうと神話学だろうとあるいは精神分析だろうと、創作の参考になりそうなかぎりで、微力ながら力の及ぶかぎりいくらでも整理して調査の手間を省いてあげられるのですがねえ…そうなれば全身全霊粉骨砕身誠心誠意お仕えいたす所存ですのよ)。
序文のくせにすでにだいぶ長くなってしまって恐縮だが、以下に本文として書簡(の抜粋)を公開しようと思った第二の理由は、題名どおり『のばらセックス』の批評ということにある。ヘーゲルやシェリングらドイツ観念論の哲学が枠組として有効に機能しそうなことを確認できたのもよかったが、とりわけ「(三)メタフィクション論の観点から見た日日日の小説における『神と私の一致構造』について」の章で試みたような分析は、読み返すと方向性が定まらずいくぶん散漫な印象も受けるものの、逆にその分この作品の複雑さと包括性が浮き彫りになっているようでもある。創造的な欲望としての愛に端を発し、表象の原理がなりきり(偽装の徹底)を通じてそれ自身の廃棄(自壊)を志向しつつその中で志向性を道連れにして燃え尽きるという運動、これは単に日日日の他の小説を批評する上でも役に立つというだけでなく、およそ過程というもの一般の本性を概念化するのに必須なものでもあるように思える(注7)。こういう成果が引き出せてしまうあたり、もしかすると『のばらセックス』という作品は人類の文明史にとって究極的な目標だったのではあるまいか。なんとも大それた仮定だが、そのうち確信に変わってしまいそうなのが我ながら空恐ろしい。

序文の注
(1)フロイト『精神分析入門講義』第三部第19講(新宮一成訳)、『フロイト全集15』(岩波書店、2012年)360頁。
(2)福原泰平『ラカン―鏡像段階』(講談社、2005年)164頁。
(3)ただし尿道性愛の重要性に注意を促したのはメラニー・クラインの功績であろうが、『児童の精神分析』(衣笠隆幸訳、誠信書房、2009年第4刷)はこれをもっぱらサディズム的な性格のものとしている(155-156頁)。
(4)フロイト『夢解釈』第2章(新宮一成訳)、『フロイト全集4』(岩波書店、2007年)161頁。
(5)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.132.
(6)もちろん、ラカンのことをどこまでフロイト理論の忠実な後継者と考えてよいかは、本当はもっと慎重な検討を要する問題だろう。ここではとりあえず、福原泰平『ラカン―鏡像段階』(前掲書)にも紹介されている、「お望みならラカン派になるのは貴方がたの勝手ですよ。私自身はフロイト派なのですから」という彼らしい人を食った発言(17頁)を信用しておくことにする。
(7)ヴァルター・ベンヤミンは『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)の「認識批判的序論」で、真理を「みずからを描き出す諸理念の領域」として定義し、そしてこの描き出すという点こそが「美全般を庇護してくれる避難所にほかならない」と述べているが、ただし、彼によれば、美の内実が明らかになるのはむしろ以下のような出来事においてであるという。「その出来事を比喩でいうなら、理念の圏内に入ってゆく覆いが燃えあがり、作品が燃焼し、燃焼するなかで作品の形式が自分の照度の最高点に達するのだ、といってよいかもしれない」(18-20頁)。このような燃焼の理由は、「真理とは、いくつかの理念から形成された無志向の存在である」ということに求めうるようだ。「したがって、真理にふさわしい態度とは、認識における志向ではなく、真理のなかに入り込んで消滅することである。真理とは、志向の死なのだ」(27頁)。


本文

(一)超越と内在について
先のメールで私が(勝手に)定式化した、日日日流の虚構論としての宗教論の大筋、すなわち、偶像崇拝への批判から出発し、「神」としての自覚の喚起を経て、各人による自由な創造活動の促しへ至る、という歩みは、あえて哲学用語を使ってさらなる一般化を試みるなら、「超越(transcendence)」から「内在(immanence)」への歩み、として概念化できます。
「超越」とは、上位の者(神)が決して埋められることのない距離を隔てて下位の者に君臨するという事態のことであり、キリスト教であれイスラム教であれ、一般的な宗教にとってはこれが自然です。それだけに、その反対に相当するはずの「内在」、つまり文字通りには「内に存在する」という事態のほうは、いざ論じようと思ってもいまいち文献が貧弱なのですが、「すべて在るものは神のうちに在る」・「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」と断定したスピノザ(1632-1677)は、数少ない内在の哲学者の中では代表的な人物だし、「スピノザ主義の意義は内在性を原理として肯定すること〔中略〕であるように思われる」(注1)と主張したドゥルーズも、生前最後に発表した文章が「内在―ひとつの生……」という題名であることからわかるように、終生この主題に関心を持ち続けた人でした。ドゥルーズの内在論は、「何かが何かの内に存在する」という伝統的な形すら捨ててしまい、絶対的な内在性そのものを純粋に追究するという点で非常に極端なものです。一般論として、絶対神の威信に由来するような宗教的な超越性は時代が下るにつれてだんだん懐疑の対象となり、特に啓蒙主義の流行(18世紀)と実証主義の発展(19世紀)を経験した20世紀初頭の西欧ではこの傾向が顕著でした。ただ、他方では、20世紀の哲学者であっても、「超越的」という形容詞を単に「意識の外にあって我々の意のままにならない」というだけの意味で使うフッサールのような人もいれば(この場合、外界の事物はどんな些細なものであろうと我々の精神にとって「超越的」です)、人間には個々の存在するものに関する問いを超えて存在それ自体について問う―「『何々が存在する』と言うときの、この『存在する』とはそもそも一体どういうことなのか」と問う―能力が具わっているという事実に注目してこれを存在者(Seiendes)から存在(Sein)への「超越」と呼ぶハイデガーのような人もおり、そうかと思えばレヴィナスのように宗教的な超越性(神的な他者への畏敬の念)を倫理学の要として重視する人もいるという具合で、超越への関心は一概に時代遅れとも決めにくいところがあります。

(二)思想史における「神と私の一致構造」の諸相
さらに、一番初めにあなたから尋ねられた、『蟲と眼球…』における「神と私の一致構造」の問題についても、神話と寓話との関係をめぐる歴史上の諸事例を検討しつつ、一応それらしい回答をしておきましょう。そのような検討は一見迂遠なようでも、「そもそも神話とは何か」という疑問を無視するのでないかぎり、省略するわけにはいかないものです。

(1)神話の定義
神話とは何か。いま、我流の定義を思いつくままに述べると、「ある民族(部族)が自分たち自身、および自分たちの暮らす世界の成立起源への根源的な関心に突き動かされて、この謎を解決するべく想像力を働かせて案出した、物語の形式による説明の試み」となります。この定義そのものに対しては、おそらく専門家(神話学者、宗教学者、文化人類学者ら)の立場から見ても、またあなたからもそれほど深刻な異論は出ないかと思いますが、そうなると、潜在的な主語が胎児もしくは新生児時代の「私」(一人称単数)でなくて、少なくともそれよりは年上の―少年や少女ならばともかく、胎児や新生児のような、幼すぎて意識的に行動することすらままならない存在が神話に登場することは稀だと思います―「我々」(一人称複数)の先祖である、という違いこそあれ、この常識的な定義(と、私が信じるもの)は、すでに日日日的な「神と私の一致構造」を何ほどか予告するものを含むのではありませんか。ただ、微妙な違いとはいえとにかく両者が完全には重なり合わない以上、赤子の状態の「私」(全員のというよりも各人の自我)への注目というこの一点にこそ、常識的な神話観と比べたときの日日日の独創性を認める考え方はたしかに許されるようにも思います。

(2)神秘主義の伝統とスピノザ哲学における「神と私の一致構造」
事態をややこしくするのは、神話と、神話に淵源しつつも理論的な面でより高度な複雑化を遂げた、後代の宗教の体系、なかんずく神秘主義(mysticism)との相違でしょう。古来インドでは「梵我一如」の境地(宇宙を創造した最高の原理と、個々人の生命もしくは精神の原理との同一性を直覚すること)への到達が究極的な悟りとされてきたことなどは典型的ですが、ほかにもキリスト教やイスラム教の神秘主義にせよ、あるいは仏教や道教にせよ、ある種の修行、特に度重なる瞑想を通じて、真理(神)をただただ畏怖すべき超越的な(transcendent)対象として思い描いて外界に求める習慣から脱却するとともに、自己の内面に深く沈潜していけば、いずれは身を以て究極的な真なる実在もしくは本質とのいわば内在的な(immanent)一体性を知ることができる、という思想は世界各地に遍在しており、しかも何世紀もの長い伝統があるからです。そして、例えばキリスト教神秘主義における人間の「神化(deification)」なる用語の存在からもうかがえるように、あるいはイスラム教の神秘主義者が忘我の境地で口にしたと伝わる、神自身の一人称による名乗り(「我は神なり」)からもわかるように、内なる絶対的なもの(the Absolute)との合一を目指すこのような瞑想の伝統は、日日日が「神と私の一致構造」という表現で意図したのと同じ内容を、すでに自家薬籠中の物として実現している観もあります。ただ、これは神話というよりはやはり宗教の中の事例だろうし、よしんばその点に関しては、むしろ素朴な神話的思考への批判という基本姿勢を日日日と共有しているのだという評価が可能なのだとしても、結局はどの宗教においても少数の求道者専用の秘教的な課程にすぎず、いくら瞑想の技術が深遠さを増したところで、一般の信徒の間では、依然として木や石でできた像を礼拝し、儀礼を重んじ、ことあるごとにまじないを唱えるという、悪く言えば迷信的な態度が普通だったのですから、そうした態度が今日の人々にも残っているのであれば、そのかぎりでは作家がことさら自分の言葉で「神と私の一致構造」を力説することにもなお実践的な意味があるはずです。なお、この種の伝統についての理解は本来ならばただ文献を読むだけでは不十分で、実際に修行の場に身を置く必要があるのでしょうが、門外漢がとりあえず大要を手っ取り早く知りたいと思う場合(私自身もそうなのですが)、イスラム神秘主義を含む東洋思想については、井筒俊彦の著作『意識と本質』(岩波文庫)や『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)における説明が大変明快で優れています。
このように、神話とは総じて人間にとって一体何であり、いかなる役目があるのかという一般的な問いの視座からすれば、「神と私の一致構造」は決して荒唐無稽な神話観ではなく、しかも諸宗教の伝統がお墨付きを与えてくれるということにもなります。
このような瞑想の伝統はまた、スピノザ哲学における、いわゆる「第三種の認識」にも通じるものでしょう。彼の主著『エチカ』によれば、認識には三種類あり、第一種の認識(「表象」)は個物の知覚か記号(しるし)によるもの、第二種の認識(「理性」)は共通概念―物体であれ身体であれ、いくつかの「体」に共通な何かを表す概念―によるものであるのに対し、第三種の認識とは、神のいくつかの属性の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へと進む直観的な知です(注2)。このような認識が可能なのも、『エチカ』の「神」は「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(注3)と定義されているために、一切の擬人化・人格化と無縁であり、その上「あらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」(注4)からです。この意味は、第四部序言の「神あるいは自然」(注5)という大胆不敵な等式からも端的にわかるように、我々が目にする一切のものは、我々自身と同様、どれも神(自然界)から産出された結果であり、しかも現に原因としての神(自然界)のもとにとどまっている(内在している)ということです。つまり、スピノザの考えでは「すべて在るものは神のうちに在る」(注6)のであって、この立場からすると、神の属性についての妥当な観念から出発する真なる認識こそが、同時に、いずれも神を原因とする結果にほかならない自己および個物の双方についても唯一の正しい認識の仕方なのであり、それだから「精神の最高の努力および最高の徳は、物を第三種の認識において認識することにある」(注7)、ということになります。この場合、物は神の中に含まれ、神の本性の必然性から生じてくるものとして「永遠の相のもとに」認識されるのであり、その点我々自身の心身も例外ではありません。つまり、「我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る」(注8)という事態が成り立つのであって、ここに生じる神への永遠なる「知的愛(amor intellectualis)」(注9)こそが、あるいは神の自己愛としての人間に対する神の愛こそが、スピノザ哲学における最高の境地です。要するにスピノザの体系においては、「神と私の一致構造」を直観的に知ることが、人間の精神に最高の満足をもたらす究極の真理への到達であると考えてさしつかえないのです。
以上の確認を前提として、続いて神話と寓話との関係という、より錯綜した問題、あるいはそもそも神話とは寓話なのかどうかという問題についても、思想史を手がかりにしながら少しばかり考えてみたいと思います。

(3)神話の寓意的使用について
まず考えられるのは、何らかの非神話的な(神話外の)関心から出発して神話的な意匠を借用する、という場合です。これについては、古代ギリシャの哲学者プラトンが魂の構造やイデア(理念・理想)論などに関する自説を、しばしば「ミュートス」の形で述べた、という史実が典型的でしょう。「ミュートス(ミュトス)」というギリシャ語は、「作り話」とも訳せますが、英語のmyth(神話)の語源でもあります。ただしプラトン的な「ミュートス」に関しては、注意すべきことが二点ばかりあります。第一に、「作り話」といっても、これは決して不真面目とか遊び半分というわけではありません。例えば、プラトンの主著である『国家』には、詩人は物事の外見を美しく真似てみせる術をわきまえているだけで本物の知識を持たない上、感傷的・衝動的な生き方を助長しがちな人種であるから理想的な国制には連中の居場所があってはならない…という悪名高い「詩人追放論」が出てきますが(第10巻第1-8章)、それにもかかわらずこの対話篇の結末(第10巻第13章以下)で、魂が死後にたどる運命を、あの世から復活したという「エル」なる架空の人物による報告と称して、詩的な物語仕立てで話し終えたソクラテスが、「物語(ミュートス)は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば、それはまた、われわれを救うことになるだろう」(注10)と発言することからもわかるように、プラトンが自らの「ミュートス」に期待したのは、あくまでも我々の生の道徳的向上に資する真摯な「作り話(虚構)」であること、既存の神話や詩と対決し、可能ならばそれらに取って代わるような哲学的寓話としての役割を果たすことでした。しかしそのためには、その「ミュートス」はそれ自体が十分に魅力的かつ迫真的でなくてはならず、一見して作者は本気でないと思われてしまうようでは、無意味どころか逆効果に終わるはずです。
この点、『国家』の中のいわゆる「洞窟の比喩」(第7巻第1-5章)や「エルの物語」に限らず、総じてプラトンの「ミュートス」はその美しさと迫力において哲学史上特筆すべき独創的な成果であり、単なる学説の伝達に仕える方便という以上に、彼以前の神秘主義的伝統(オルフェウス教など)の残した影響や、またひいては彼自身の「哲学=知への愛(philosophy)」を貫く広義の宗教的な情調の深さを、生々しく伝えてくれる資料として注目に値します。これが第二の注意点です。『国家』に続く対話篇『パイドロス』には、一人の御者を乗せた二頭立ての馬車に魂をなぞらえる「ミュートス」が出てきます。馬車は二頭の天馬にひかれて天空を駆け、天の彼方にあるという真実の実在(イデア)を目指しますが、いかんせん人間の魂は神々の魂と比べると左右の馬の性質が不揃いなために、上昇は困難を極めます。感覚の世界から離脱してイデアを認識せんとする人間の希求がいかに激しいかも、にもかかわらずこの認識に与ることが人間にとっていかに容易でないかも、読者はこの「ミュートス」を通じて初めて生き生きと実感できるのであり、これはつまり、こういう物語的な形式がある程度まではプラトン自身によって生きられた体験からおのずと出てきたもので、純然たる空想の戯れとは本性を異にしていると考えざるをえない根拠でもあります。すでに名前を挙げた井筒俊彦も、神秘主義と哲学との関係をギリシャ哲学の発展史の中に探求しようとした『神秘哲学』において、通念に逆らうことになるのは覚悟の上であえてプラトンの哲学から神秘主義的な基層を掘り起こすべく一章(第二部第2章)を割き、そして『パイドロス』の「ミュートス」は「要するに一篇の美しい詩話にすぎない」とことわりつつも、「自ら親しくイデア観照を体験した人であってこそ、このようなミュトスを創造することができるのであり、また、自ら同様な体験を有する人だけが、このミュトスの真の生命を感得できるのである」という見地から、「故に、これを見る人もまた、詩的象徴の外面的形態に停止することなく、ミュトスを越えてミュトスの彼方に伏在する体験的基体にまで透徹しなければならない」と論じています(注11)。つまり、プラトンの「ミュートス」は、先に私が述べた我流の神話の定義―「ある民族(部族)が自分たち自身、および自分たちの暮らす世界の成立起源への根源的な関心に突き動かされて、この謎を解決するべく想像力を働かせて案出した、物語の形式による説明の試み」―に照らせば、たしかに民族(部族)の共有財産としての「神話」というよりも独創的な「作り話」の類ですが、しかもなお「善き生」という目標に対するプラトン個人の哲学的な、ひいては広義の宗教的な情熱をそこに認めることが可能なかぎり、神秘主義の伝統に一脈通じるものでもあります。
また、プラトンに比べれば少々「文学的」すぎる(思弁的でない)きらいもありますが、例えば『荘子』のような東洋の哲学書にも類似の発想は見出せそうです。それと、功績のあった偉人を神格化する習慣自体はエジプトにも古代ローマにもありましたが、日本の場合はそれに加えて、天皇家が神話の時代から連綿と続く神の子孫の家系であるとされてきたこと、および偉人に限らず非業の死を遂げた者(菅原道真や平将門)にも神格化が及ぶこと、そもそも神道において死者は平等に神としての待遇を受けることなどが独特です。ただし、日本では近世・近代に至るまで著名人の大がかりな神格化(豊臣秀吉、徳川家康、乃木希典、東郷平八郎ら)が途切れることなく続いたのに対して、西欧では、中世に入るとキリスト教の影響で各人の個性を神聖視する見方は古代の神話ともどもすたれてしまい、この状況が本格的に一変するのはルネサンス期以降です。ルネサンス時代を特徴づける古代文化の礼賛はさまざまな分野にわたるものですが、神話との関係で個人的に興味深いと思うのは、ギリシャ悲劇の登場人物は全員台詞を歌っていた、という誤解からオペラが誕生したことです。史上初の本格的オペラとして知られるモンテヴェルディ作『オルフェオ』は、歌の力で妻を冥界から連れ戻そうとした詩人オルフェウスの伝説が題材となっており、神話的な寓意を通じて自らの芸術家としての栄光を高らかに主張しようとする音楽家の意図は明らかです。中世を通じて発達した寓意(アレゴリー)的な芸術表現が、ルネサンス的な古代復興の気運と融合した特異な結果でしょう(『オルフェオ』の前口上を受け持つのは、「私は音楽…」と名乗る女性歌手です。「音楽」そのもののアレゴリー的な擬人化です)。日本の明治維新などもそうですが、文化的・政治的な革新が古代の(ただし理想化された古代です)文物や制度の復活という体裁をまとうことは珍しくなく、マルクスやヴァルター・ベンヤミンやドゥルーズの関心を引いたこのような現象において神話が参照される頻度の高さは、ほとんど文明の歴史とともに古い神話というものの、長続きする威厳と、それゆえの汎用性、ないし幅広い応用可能性とをともにうかがわせるに足ります。
もっとも、中世を通じてすっかりキリスト教化した西欧文明においては、ルネサンスを経たのちもギリシャ・ローマの神話が聖書や教会の権威を押しのけるまでには至らず、こうして神話の世界は、建築・彫刻・絵画・音楽・文学等の芸術の領域で生き延びることになりました。古代の神々は、もはや真面目な信心の対象というよりは、単なる美的な意匠にすぎなくなったのです。この問題はともすれば「暗い中世」対「明るいルネサンス」という単純な図式として考えられがちですが、そのような見方に修正を迫る研究として貴重なのは、批評家ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)です。これによれば、古代の神々が本来の環境から引き抜かれて場違いなものと化し、しだいに生気を失ったあげく邪悪な存在とすら思われるようになったという事情こそが、被造物の堕罪という教義と不可分であるような西欧的な寓意(アレゴリー)の成立をそもそも可能にした決定的な要因です。それゆえ、17世紀ドイツの悲哀劇(悲劇)が寓意の多用という傾向を中世から受け継いで発展させたことには、わざとらしい混乱や誇張や歪曲への好みと同様に、一種の歴史的必然性があったことになります。なんとなれば、悲哀劇はまさしくこのようにしてルネサンス的な調和のとれた美への反動であったからこそ、三十年戦争(1618-1648年)がもたらした社会的な荒廃をまのあたりにして、もはや容易に信じられなくなった救済の到来をそれでも心のどこかで待ち望まずにいられない、当時のドイツ人の間で共感を呼んだからです。ユダヤ系でマルクス主義者だったベンヤミンはまた、法を措定することで罪人を作り出す支配者の側の「神話的暴力」を批判するとともに、法そのものを破壊して一切の罪を帳消しにする革命家の側の「神的暴力」をそれに対置したことがあります(「暴力批判論」)。いわばギリシャ神話に対する一神教(ユダヤ教)からの挑戦といった趣があり、明らかに神話というものに対して好意的でない用語法であるとはいえ、これも参考になります。

(4)神話の寓意的解釈の諸例
しかしもっと重要なのは、既存の神話(伝説)を何らかの寓意として解釈すること自体が目的となる、という場合のほうでしょう。これは結局、神話の内容を文字通りには受け取らず、その背後には権力者の家系による自己正当化の企てや、擬人化による自然界の現象(昼夜の交代や季節の移り変わり、落雷や燃焼など)の説明の試みが隠れていると考えることであり、すでに先のメールでも書いたように、しばしば冷笑的な態度を伴います。中国では、もともと「怪力乱神を語らず」と言われ、超自然的な領域に関しては頑なに沈黙を守ったとされる孔子に始まる儒教の体系が、特に宋代および明代以降になると、合理主義的な宇宙論(朱子学)としての、ついで実践的な道徳哲学(陽明学)としての性格を強めた結果、民間信仰とは一線を画しつつもそれとの折り合いのつけ方を模索するようになったし、日本の江戸時代においても、例えば作家の上田秋成が、『古事記』の研究で有名な国学者・本居宣長の素朴な国粋主義を嘲って、「この国には、天が皇孫の御本国にて、日も月もここに生れたまふといひし也。是はよその国には承知すまじき事也(=この国では、天界こそが天皇家の故郷であって、日も月もここでお生まれになったと言い伝えてきたものである。こんなことは外国では認めてくれるはずのないことである)」・「月も日も、目・鼻・口もあつて、人体にときなしたるは古伝也。ゾンガラスと云千里鏡で見たれば、日は炎々タリ、月は沸々タリ、そんな物ではござらしやらぬ(=月も太陽も、ツクヨミノミコトだのアマテラスオオミカミだのと、目鼻や口を具えた人間の姿に擬人化してしまったのが古い伝説というものだ。しかし望遠鏡で見てみれば、太陽は燃え盛っているようだし、月は水が湧いているようで、とても人間の姿をしておいでではない)」…等々の辛辣な批判を残しています(『胆大小心録』)。
秋成の同時代人で(一世代ほど年下ですが)いわゆるドイツ観念論を代表する哲学者ヘーゲル(1770-1831)も、さまざまな民族の神話や諸宗教の体系を、哲学以外・哲学以前の人間の文化的営為の中では最も高度なものであると認めつつも、無自覚な状態を脱して哲学的な思惟に目覚めた人間の精神は、自分こそがそれらの体系の真理であることを理解するのでもはや神話も宗教もあらかた必要としなくなるはずだ、と考えました。ただし、ここで見落とせないのは、第一にドイツの教養人のつねとしてギリシャ文化に心酔していたヘーゲルは、家族の愛と国家の法との衝突から生じる葛藤を考察するにあたってソポクレスの悲劇『アンティゴネー』に依拠するなど、主に文芸(戯曲)という二次的な形態を通じてとはいえ、自身の哲学を鍛えあげる際にギリシャ神話の世界を特権的な参照先として意識せざるをえなかったという事実であり、また第二に、当時のドイツ人として平均以上に信心深いわけではないとはいえ神学校出身だったヘーゲルにとって、「まことの神にしてまことの人」というイエス・キリストの称号や三位一体の教義が、一体何を意味していたかという問題です。
『宗教哲学講義』によれば、神とは精神であり、およそ精神というものの一般的理念なるがゆえに、単に「父なる神」という抽象的な呼び名の不十分さに甘んじることなく、自己自身に区別を施して人間という有限な精神になりきることができなくてはならず(「子なる神」たるイエス)、しかもこの区別を解消して他者から自己へと帰るのだから紐帯としての愛の統一性でもあり(聖霊)、このように永遠の過程にして自己自身への関係であることにおいて初めて精神としての神の本来的な無限性の発露が見られます。そしてヘーゲルにとっては、精神一般の本性、つまりおよそ精神というものは永遠の過程であり自己自身への関係であるということを教えてくれるがゆえに、三位一体とは単にキリスト教の最重要の教義であるにとどまらず、絶対的な哲学的真理でもあったのです。より具体的な次元で説明するなら、神の一人息子であるはずのイエスが十字架上で人間として不名誉な刑死を遂げ、やがて復活するまでの聖書の叙述は、ヘーゲルによれば、彼岸の超越的な存在にとどまっていた神が此岸、つまり現世へとじきじきに歩み入り、身を以て死を殺す(有限性の極致である、死という現象そのものに死をもたらす)ための苦闘の過程として読むことができます。ここには、ヘーゲル哲学に特徴的な「否定の否定」という発想が如実に表れています。そして、生身のイエスがこの世から過ぎ去ったのちもなお内面的な信仰は万人を自発的に共同体へと結集させるのであり、聖霊に象徴されるこの愛の共同体がすなわちキリスト教会です。父なる神はいかに偉大であろうとも、否むしろ無限に偉大であるためにこそ、運動を欠いた孤立性の中で完結するのではなしに、イエス・キリストという息子を介して死の体験とその克服を経るべく人間の姿に受肉すること、ついで聖霊もしくは教団を介して全人類にとっての主観的な真理となることを必要とする、というヘーゲルの三位一体論には、それがそもそも精神一般の原理の理念的記述という性格を併せ持ち、かつ人間の側の新たな自覚の芽生えを伴っているかぎり、ある意味で日日日を先取りするような「神と私の一致構造」を認めることが可能でしょう。例えば、フランスの哲学者であるジャン‐クレ・マルタン(ドゥルーズの弟子)も、ヘーゲルの主著『精神現象学』(1807年)を解説した『哲学の犯罪計画』という著書の中で、彼がキリストを人間に引きつけて解釈していることに読者の注意を促してから、こう述べています。「それゆえに、宗教はまもなくその超越性をすべて失ってしまうことになるはずなのだ。ただし条件が一つ。それは人間が、自分のうちになにがしか神的なものを所有している者としておのれを再認することだ! キリストは、こうしてまずは《神》にその身体を提供した人間のなかに、つまり《神》がいまここにある可能性を与えた人間のなかにその姿を現す。その人間は《神》に、人間の意識を通じて神の自己認識を提供したのである。人間なしには、《神》は自己意識を持つことはできなかったろう」(注12)。とはいえ、少なくともマルタンの読解では、『精神現象学』の醍醐味は、死んだキリストの復活という、人間の死と神の死に通じる出来事とともに到来する「普遍的自己意識」、ひいては名高い「絶対知」を、いわば「デジタル画像処理を行うハードディスク上で起こっていることにも似た」・「精神化された機械内部への精神の吸収」として、すなわちもはや有機的ではなくて機械状であるような生、「自分自身のやり方でみずからを提示し、生の彼岸の生へと神経を張り巡らせる《概念》に依拠した非人称的な語りの様式」による、記録媒体の不滅性として理解させてくれる点に存します(注13)。この、いかなる超越性をも呼び寄せることのない人間の技術的な自己超克というニーチェ風の主題は、たぶん『蟲と眼球と白雪姫』では芥川白雪が教え子に読ませる原稿として、また他の作品、例えば『のばらセックス』ではポラロイドカメラで撮った記念写真(388-389頁の見開きの挿絵)として実現をみているのであり、ここでは深入りしませんが、これはこれで日日日の小説と無縁ではありません。
ヘーゲルの宗教観については、ほかにも『キリスト教の精神とその運命』と呼びならわされる初期の論稿の存在や、『精神現象学』に続く第二の主著『大論理学』が天地創造以前の神の様子を純粋に叙述したものとされていることなど、哲学的に興味深い話題が多々ありますが、基本的には、『精神現象学』のキリスト論と『宗教哲学講義』の三位一体論(注14)が重要です。たしかに、人間主義的な宗教観は『精神現象学』の著者にとって究極的な立場でないことはマルタンも書いているとおりだし、ヘーゲルはあからさまに超越から内在への歩みを主張したわけではありません。しかし、彼にとっては、少なくともそれと方向を同じくする世俗化(secularization)の過程を推し進めたからこそ、つまりやみくもに現世とそこに生きる人間という有限なものをおとしめようとはしなかったからこそ、ルター以来のプロテスタント教会は、一応カトリック教会よりも進歩的であると評価しうるものだったのです(注15)。
他方で、18世紀イタリアのジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)のように、寓意的解釈を採用しながらもあくまで史実との対応を求め、神話が古代人の習俗に関して伝えているはずの歴史的事実を見抜こうと努力した哲学者もいることはいますが、いかんせん今日の神話学の水準と比べるとその研究(『新しい学』)には強引なところが目立ち、むしろヴィーコ自身の思想として受けとめておくのが無難です。幾何学を偏重しがちなデカルト的な学問の流行に一石を投じ、人間の行為の所産を対象とする人文学、なかんずく歴史学もまた確実な知識でありうる、と説いたヴィーコの信念は、これはこれで立派な見識ですが、諸民族の神話を読み解けばノアの洪水後に人類が経験した野蛮な状態と、その後の文明の歩みとがわかるはずだ、という彼の神話論そのものは、もはやそのままでは通用しません。
ほかに、神話に強い積極的な関心を示した哲学者としてはヘーゲルと絶交した19世紀ドイツのシェリング(1775-1854)がいます。シェリングの最終的な神話観は、元来歴史以前の人類は神との盲目的な一体性の中で安らいでいたが、この一体性が破れた結果として諸民族および言語の多様性が多神教ともども成立したという前提から出発するもので、神話は民族の歴史にとって決定的な意味を持つこの危機的な急転(Krisis)についての記憶であり、よしんば客観的な史実ではなくとも、人類の意識の中で現実に生じた出来事の記録としての価値がある…と考えます。あいにく邦訳版シェリング著作集(燈影舎、全5巻計8冊)では第5a巻に相当する『神話の哲学』は未刊なのですが、山口和子著『後期シェリングと神話』(晃洋書房、2004年)の説明を拝借するなら、1841年(『神話の哲学』講義の時期)のシェリングにとって、神話とは「人々の心に深い痕跡を残し、何世代にもわたって語り継がれた事実であり、意識を深く揺り動かし、意識を変えた予期しえない出来事、それゆえに意識の中で実在性を持ち続け、内面化された出来事」である(注16)、ということになります。この場合、「太古の人々のうちに神々の表象とその物語を生み出した力は、シェリングにとり、自然を産出する宇宙論的な力でもあり、また歴史を形成する力でもあった。それゆえ、後期シェリングの神と宗教の概念は、既成の宗教から自由であるのみならず、存在論や宇宙生成論とも重なり合う、広い意味において解されている。〔中略〕自然、意識、学、芸術、宗教、歴史、社会、それらの始まりを神話のみが記す」(注17)…という風に、神話は自然と文化の双方にまたがる、およそ人間が経験しうるかぎりの一切の領域の根源についての証言者として、無制限の権能をほしいままにしている観すらあります。実は、早熟でしかも長生きしたシェリングは、哲学者としての経歴のほとんどどの時期においても神話への関心を示しており、それだけに彼の見解を要約するのは容易ではありません。例えば、まだ仲が良かった青年期のヘーゲルとシェリングに、後年自らドイツ語訳を試みるほどギリシャ悲劇の世界に心酔することになる詩人ヘルダーリンも加わって三人で執筆したという説もある哲学的断片、いわゆる「ドイツ観念論の最初の体系プログラム」(1797年頃)は、ごく短いものながら、フランス革命の激震がヨーロッパを揺るがす中で、時勢の変化に応じた「新しい神話」、「理念に奉仕する」ような「理性の神話」が哲学者と民衆とを結びつける絆とならなくてはならない、と主張しています(注18)。これは、いわば啓蒙的な意図にもとづく哲学の神話化(物語化)という計画であるわけですが、対して後期のシェリングは、上述のとおり、そもそも哲学であれ詩であれ、およそ人間の文化は神話のうちにその起源を見出せる、とまで考えるに至りました。狭義の哲学と詩の両者に先行しており、神話の理解を通じてのみ垣間見ることのできる根源的な産出力、それをシェリングは、精神の奥底から人間の意識を揺り動かす内なる他者としての「根源的偶然」とも、「不協和」とも、あるいは一切の形式を超出する激情の力とも呼びます。そして山口によれば、今日の人間にとってはほとんど破壊的なほどのこの法外な爆発力への注目こそ、神話を論じるシェリングと、彼に比べればあまりに経験主義的なヴィーコとに共通する要素です(注19)。以上、神話とは親元(神の懐)からの離反に伴う危機的な急転に関する民族の集合的な記憶である、という後期シェリングの神話観は、のちのニーチェの『悲劇の誕生』を思わせるような、形式に収まりきらない原始的な情動の過剰がもたらす不協和への注目ともども、考えようによっては伝統的な哲学の中で最も日日日的なものかもしれません。ことに、彼が好んでスピノザ主義者を自称したことを思い起こすならなおさらです(スピノザその人はたしかにルネサンス哲学の影響下で非ユダヤ‐キリスト教的な神の概念を説いたものの、その際重要なのはあくまで神が超越的な原因ではなくて内在的な原因である、という論点であって、ルネサンス期の文化人のように古代の神話に心酔することはありませんでした)。
19世紀の後半以降は近代的・科学的な神話学がミュラーやタイラーやフレイザーによって着手された時代であり、神話は自然現象を正しく説明できない未開人の知的な無力さに由来する、迷信的で幼稚な世界観だ、という見方が主流になりました。それまで西欧世界にとって最も神聖な真理だったはずのキリスト教の体系すら、実証的な歴史学による批判の運動から超然としているわけにいかなかったことは、例えば物議をかもしたルナンの『イエス伝』からもうかがえます。
こうした中で、ニーチェ(1844-1900)があえて実証主義的な時代の風潮に抗うかのように『悲劇の誕生』(1872年)で披露したのは、アポロンとディオニュソスというギリシャ神話の対照的な神々の関係を、明朗な造形と音楽的な陶酔という芸術上の二大原理の対立として解釈しつつ、一般に前者(アポロン的な明朗性)の側面がよく知られているギリシャ文化の奥底にひそむ後者(ディオニュソス的な陶酔)の執拗な回帰を、ギリシャ悲劇のたどった沿革の中に探るという試みです。これが歴史的に正しい説明かどうかはともかくとして、ヘーゲルやシェリング以上に心理学的な傾向が強まり、神話の本来の舞台を音楽に感応する無意識的な内面の領域に移そうとしているのは興味深いところです。「私はこの事実から、神話、すなわちもっとも意味の深い実例を生む力が音楽にあるという結論を引き出すのである。しかも音楽が生み出す神話は、ほかならぬ悲劇的神話なのだ。すなわち、ディオニュソス的認識について比喩で語る神話にほかならない」(注20)と書いたニーチェにとって、音楽こそは個人の破滅という悲劇的事件にもかかわらず、それを通じて暗示される深遠な意味を永遠の生命として解き明かしてくれる唯一無二の芸術分野だったのであり―「音楽の精髄からはじめて、われわれは個体破壊の歓喜というものを理解できるのである。というのは、このような破滅の個々の実例でわれわれに明らかにせられるのは、ディオニュソス的芸術の永遠の現象だけだからである。〔中略〕『われわれは永遠の生命を信じる』と悲劇は叫ぶ。一方、音楽はこの生命の直接的な理念なのである」(注21)―、こうして音楽の力から生まれた悲劇的事件の表象こそ本来的な神話であると確信するに至ったニーチェは、「どのような文化も、神話を欠く場合、その健全な創造的自然力を失なう」(注22)という立場から、当時彼が熱中していたワーグナーのオペラ(楽劇)に「ドイツ神話の再生」(注23)を期待しています。ただし『悲劇の誕生』の場合、悲劇的神話とは一体いかなるものでなくてはならないかという点については、個人の破局という以上にあまり詳しい説明はなく、あくまでも個人の明朗な輪郭と、その奥底を流れ、ときおり噴出してくる個体化以前のおどろおどろしい情念との対立が、悲劇の源泉でもあると同時にそのまま悲劇の筋書の内容なのでもあります。
したがって、この心理学的傾向が頂点に達するには、精神分析の創始者が収めたいっそう充実した成果、つまり、ソポクレスが悲劇に仕立て上げた古代ギリシャの伝説上の英雄オイディプス(エディプス)の呪われた運命の内容―父親の殺害、およびそれに続く母親との近親相姦―は、実はあらゆる子どもの(少なくとも、あらゆる男子の)無意識的な願望そのものである…と看破したフロイト(1856-1939)による、いわゆるエディプスコンプレクスの発見を待たなくてはなりません。エディプスコンプレクス自体については『夢解釈』をはじめフロイトの著作の各所で言及がありますが、民俗学の知見を存分に取り入れながら、人類史の暗部に果敢に切り込んでいった研究として非常に重要なのは『トーテムとタブー』(1913年、岩波版フロイト全集第12巻)であり、フロイトは、自ら最高傑作と呼んだこともあるこの著作で、太古の原始部族において起きたと想定できるある殺人事件、すなわち女性を独占する暴君のような父親を、息子たちが力を合わせて殺害し、食べてしまうに至った事件を再構成してみせ、その結果いまだかつてないほど強烈な罪悪感が彼らを襲ったという仮説から宗教(トーテミズム)の起源を説明しようとしています。
付言すれば、ここまでヘーゲル、シェリング、ニーチェとドイツ人の哲学者の名前が続いたのは、フロイトや先に触れたベンヤミン、あるいはさらに両人の同時代人である思想史家エルンスト・カッシーラーのようなユダヤ系の知識人が、どちらかといえば神話というものを批判的に相対化し、あるいは解体してしまうような懐疑的な視線への理解力を持ち合わせていたことと同様に、たぶん全くの偶然ではありません。というのも、フィリップ・ラクー‐ラバルトとジャン‐リュック・ナンシーの共著『ナチ神話』によれば、神話とは何らかの手本への擬態を通じた自己同一性の獲得を可能にする「一個の同一化の装置」(注24)であるがゆえに、国民国家としての統一が長らく欠けていたドイツにおいては、一時的とはいえナチスに加担したハイデガーの時代(20世紀)に至るまで、ドイツ民族の確立を目指して執拗に神話への参照が繰り返されざるをえなかったのだ、と考えることができるからです。このように「ドイツ民族」の純化を目指す運動の結果、特にナチス体制の成立後は、ドイツに暮らし、ドイツ風の名を名乗り、ドイツ語を話しながらも、キリスト教よりも古い独特の(似て非なる)宗教的背景を保持してきたユダヤ人は、金融業に従事する者が多いこともあってかいわば獅子身中の虫とみなされ、「劣等人種」としての差別的な待遇を受けてしだいに肩身の狭い思いをするようになりました(ちなみに、ナチスによるユダヤ人迫害が深刻さを増す中で、英国に逃れたフロイトはユダヤの民の成立起源を問う『モーセと一神教』をいわば思想的遺言として公にすることができましたが、ベンヤミンは亡命途上で服毒自殺を遂げるというあえない最期を迎え、またカッシーラーは米国に移住して、戦後『国家の神話』という題で日の目を見ることになる全体主義の批判的研究を続けました)。

(5)今日の神話学と「神と私の一致構造」の哲学的意義について
ともあれ、神話とは我々人間の魂の奥底でうごめく根源的な情動、表層的な意識の静穏をかき乱しかねない衝撃的な情動の次元に属する、内面的・体験的な真実の記憶であるというシェリングやニーチェやフロイトの発想は、そもそも実証の作業となじまないところがありますが、おそらくスピノザ哲学は別格として、狭義の神話論の枠内で考えるかぎり、『蟲と眼球…』から引き出せる「神と私の一致構造」に一番近いのはこのような発想だろうと思います。
なんとなれば、総じて現代の神話学は、神話の内容を実際にあったことの記録、あるいは少なくともその反映として真に受けすぎる(ヴィーコ的な)傾向からはもちろん、性急に「この神は太陽の擬人化に違いない…」といった類の断定に走るようなあまりに単純な寓意的解釈からも脱却し、主に複数の神話の比較というもっと堅実な方法を駆使するようになっており、加えてすでに先のメールでも書いたように、特にクロード・レヴィ‐ストロース(1908-2009)の構造人類学以降は、「人間の精神はどんな環境に育とうとも、条件の許すかぎり理路整然とした体系的な世界観の構築を欲するものだ」という前提から出発して、内容(素材)よりも形式(パターン)を重視する考え方を知ったからです。幸い、中央公論新社から出ている『哲学の歴史』の第12巻『実存・構造・他者【20世紀III】』(2008年)をひもとき、「V 構造主義」の章のレヴィ‐ストロースの節(渡辺公三筆)を参照すると、彼の神話観が論文「神話の構造」(『構造人類学』所収)を手がかりとして簡潔にまとめられているので、以下に引用します。「神話においては死は、もともと永遠の生を享受していた人間がある出来事をきっかけに限りある生を与えられてしまう、というふうに語られる。その出来事とは人間の生を維持するための狩猟あるいは農耕の開始であり、前者はまさに死をもたらす戦争に類比される活動、後者は労働と栽培植物の獲得とに直結している。生と死の矛盾という人間の条件を、人間は狩猟や農耕という両者の論理的な媒介項を導入し、それらの起源を神話として語ることによって思考のレベルで解決するとレヴィ=ストロースは考える。人間はなぜかくあるのか、という問いに、その条件がいまだ存在しなかった状況を起点に論理的な媒介項を導入することで思考しうるものに変える、それがレヴィ=ストロースが想定した神話の機能である」(注25)。こうなると、神話の研究、なかんずく互いに変奏の関係にあるような複数の神話の間に成り立つ顕著な共通性の研究から我々が学びとるべきなのは、究極的には論理の構造の、ならびに人類の思考の普遍的な型といったものであり、これとは反対に個々の神話が伝える事件の具体的な内容にこだわりすぎ、関係性の面をおろそかにしたままもっぱらその起源や深い意味を探し求めようとするような態度は、学問的にはあまり実りがないものだと結論づけざるをえません。
こうした考え方からすれば、例えば『蟲と眼球と愛の歌』で論じられている大洪水の神話の遍在性という現象にしても、単にたまたまどこかの土地に住む人々にとって洪水が最も恐ろしい脅威だったから発生し、その後よその土地に伝播していっただけと説明しておけば十分で、別に赤子が母体から誕生したときの記憶に由来すると考える必要はないことになります(実際、ノアの洪水の伝説のもとになったのは、メソポタミア地方を周期的に襲った水害に関する誇張された記憶であるという説は珍しくありません。付言すれば、著者=芥川白雪はうまくごまかしていますが、日本の『古事記』・『日本書紀』には「洪水神話」そのものに相当するような説話は存在せず、単にできたての国土は「浮ける脂の如く」水上を漂っていたとか、海幸彦と山幸彦の兄弟の争いで、後者が前者を、潮の干満を自在に引き起こせる神宝の力で翻弄して屈服させたとかの記述があるにすぎません)。したがって、もしも『蟲と眼球と愛の歌』の執筆当時に今日の神話学研究の動向を知っていれば、作者はあのような神話観を書かなかった可能性が高い、というのが私の意見です。
しかし、必ずしもこういった外野の学問の動向に左右されないで済むというのがまさしく文学や哲学や精神分析の強みの一つだろうし、とりわけ「私」もしくは「自我」について、それも現代の一般的な心理学とは若干違った角度から問いを提起することが必要な文脈ではそうでしょう。このメールの冒頭で、あえて超越から内在へ、という哲学的な概念の対に訴えて日日日の宗教論を定式化しようとしたのも、一つにはそれが理由です。『精神現象学』の「V 理性の確信と真理」の章の叙述を始めるにあたって、ヘーゲルは、「自己意識は世界が自分の新しい現実的な世界であることを発見したのである。〔中略〕即ち自己意識は世界のうちに、ただ自分だけを経験するにすぎぬことを確信しているのである」と宣言しました(注26)。このように、意識はそもそも自己が存在するという暗黙の前提から出発してしかものを考え始めることができず、それゆえつねに世界の中に己を見出す自己意識であるという宿命を背負っているのであり、意識というものに特有なこういう性格についての、ヘーゲルと同様な認識、あるいはそこまで明瞭なものではなくとも一種の勘が働いたことが、『蟲と眼球と愛の歌』の作者をして、「神と私の一致構造」という神話観を着想せしめた根本的な要因なのではなかろうか…こう私は考えます。
要するに、『蟲と眼球…』における「神と私の一致構造」については、それが各宗教における瞑想の伝統(神秘主義)やスピノザ的な「第三種の認識」との比較を許すような一般論の次元にとどまっている間はともかく、この次元を離れて個々の神話の寓意的解釈にまで踏み入りかねない性格のものであるかぎり、今日の神話学研究の標準的な観点からすればたぶん正しくはないが、それでも哲学(ヘーゲルやシェリングやニーチェの哲学)や精神分析の観点からすればなお大変興味深いものである、というのが、あなたの当初のご質問に対する私からの回答です。
もっとも、偶像的な絶対神の破壊に、人間―ちなみに、英語のmanがそうであるように、西欧の言語では「人間」と「男性」はしばしば同じ一つの語です―の自立に欠かせない出来事という意味を明確に付与しつつ、それを(のばら様の)自壊として、ひいては(おちば様の)自己破壊として、すなわち誰かを責めてそれで済ませるわけにはいかない・かつ他人事でない経験として、観客はもとより役者にとってもこれ以上考えられないほどの痛みの中で実演してしまった『のばらセックス』のほうが、正(生)でなく負(死)の方向でこの一致を確認しているという点でより徹底的な気はしますし、偶像崇拝の想像的狂気は当人(坂本緒礼)の精神ばかりか実に身体にまではたらきかけるほどのまがまがしい威力を発揮しうること、そしてほかならぬこの身体性という一点(あるいは、女性への変身という行為)において、超越性という障害の突破、すなわち創造者を被造物から絶対的に隔てる次元の違いという、『蟲と眼球…』終盤の袋小路の突破(女性の「量産」)が現に果たされていること、等々からしても、やはり私なら『のばらセックス』を、単に日日日の他の諸作品と比べて傑出しているというよりも、むしろそれらが突きつけてくる諸々の難問に対する模範的な応答の書として読もうとするはずです。

(三)メタフィクション論の観点から見た日日日の小説における「神と私の一致構造」について
最後の指摘になりますが、いわゆる「メタフィクション」的な発想そのものは、たしかにジッドの『贋金つかい』(1925年)以降、特に20世紀のフランスで第二次大戦後に発達した、「ヌーヴォー・ロマン(新しい小説)」と総称されるような作品群において顕著になり、今日では日本のライトノベルの世界に少々露骨すぎるほど大量に氾濫するようになったとはいえ、実際にはセルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605-1615年)―急に話の流れが中断したかと思うと作者(地の文の話者)が一人称で顔を出し、市場で買い求めたアラビア語の本の翻訳と称して叙述を再開しながら、どうせアラビア人の書いたものだから嘘だらけに決まっている、などと軽口を叩いたり、後篇に入ると当時流布していた贋作版について登場人物自身がくどくどと論評を加えたあげく、「贋作版ではわしらはサラゴサに行くことになっているそうだから、その裏をかいてバルセロナに行ってやろう」などと言い出したりします―や、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』(1759-1767年)などにも現われる技法であり、むしろ小説の歴史とともに古いものであって、決してそれ自体が新しいわけではありません。もっとも、20世紀を代表する長篇小説の一つで、神話のパロディにもなっているようなメタフィクションの事例として読むことができるジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922年)などは、技巧的な複雑さの点でこれに匹敵する作品をそれ以前の時代に見つけることが難しく、その点は間違いなく斬新であると評価できます。
『蟲と眼球…』に限らず、日日日の小説がメタフィクション的な観点から注目に値するとすれば、それはおそらく、「ある作品の中に、関連する(同じ作者による)別の作品への示唆、ひいてはほかならぬその作品自身への言及が何らかの形で現れる」という入れ子状の構造の組織化が、一見すると虚構性の暴露に起因する作品の形式的な自律性をもたらすかに思えながらも、それでいて決してその外部の忘却や閑却には帰着しないという点でしょう。むしろ我々読者がここに認めざるをえないのは、複数の作品を横断しつつ水平方向に走る『県立香奈菱高等学校』なら『県立香奈菱高等学校』といった固有名詞を通じて、テクストの相互参照的な運動がもたらす特有の現実味(リアリティ)に支えられながら―このような現象は批評理論において「間テクスト性(intertextualité)」と呼ばれるもので、1960年代にフランスの批評家ジュリア・クリステヴァが提唱した概念です―、「宇佐川鈴音が芥川白雪として目覚めなくてはならなかったように、我々にもいつかある日、『(一つの世界の)作者』であるような別の誰かとして覚醒することを迫られる瞬間が訪れるのではないか…」といった問いが芽生えるという事態であり、換言すればメタレヴェルへの叙述の上昇、ないし垂直的な飛躍の運動が、余勢を駆って頁の外にいるはずの我々のもとにまで届く(かのように感じられる)、ということなのではありませんか(余談ながら「香奈菱」は「カナビス」、つまり大麻に通じます。大麻のもたらす朦朧とした精神状態は、いずれは現実へと覚醒することを要する虚構への没入を意味しうると同時に、そもそも虚構による現実の浸食を準備する条件でもありうるはずです)。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「円環の廃墟」(『伝奇集』所収)の筋書は、夢の中で一人の「息子」を創造して現実へと送り出した魔術師が、実は自分もまた、自分よりも上位の誰かの夢から生まれた幻影にすぎなかったことを悟る…というものですが、このような能動性から受動性への転換(作者の立場から登場人物の立場への下降)と比べて、『蟲と眼球と白雪姫』における受動性から能動性への転換(登場人物の立場から作者の立場への上昇)が、客観的には解放であり自由の獲得であるにもかかわらず、はるかに衝撃的で救いのない残酷な結末と感じられるとすれば、それは単に短篇と長篇の相違に起因するというよりも、日日日の場合はボルヘスの場合と比べて、創造者(宇佐川鈴音=芥川白雪)の側の被造物に対する感情的な思い入れ(愛)が段違いであるからだと思えます。
このような作風は、人間はみな本質的に孤独な存在であり、ただwork(仕事・作品)を通じて間接的に交流しうるのみだ、という覚悟とともに、こうした状況をいわば逆手にとって、自らのwork(仕事・作品)を通じて、大袈裟に表現するなら世界を変革してしまわんばかりの強固な意志をもうかがわせるものであり、十分詳しく説明する余裕がないのが残念ですが、少なくとも私のみるところでは、結局この種の頼もしい倫理性こそが日日日流の「メタフィクション」の真骨頂ではないかと思います。
むろん、こと『蟲と眼球…』に限っては、いまだ作家であることに不慣れな(たしか、これが長篇第一作ということになるのでしたか?)・これから作家にならなくてはいけない作者の逡巡や戸惑いが、自分の創造した作品に文字通り我を忘れて没入しつつも最終的には名残惜しさゆえの苦悩を振り切って作中人物に別れを告げることを強いられる、宇佐川鈴音=芥川白雪の運命を、良くも悪くも参照すべき例ないし教訓として必要とした―「執筆中は節度を忘れて精一杯『没入』せよ、ただし脱稿と同時に訪れる別離の『苦悩』についてもあらかじめ心構えをしておけ」、というわけです―、と考えることにさほど無理はなさそうなので、だとすれば本作における「メタフィクション」的な仕掛けとは、我々読者にとって何であろうとも、それ以前にほかならぬ作者その人にとっていわば一種の職業訓練(job training)だったことになり、この点からしてもやはり、単なる作品の形式的自律性への寄与にとどまりはせず、それに加えて現実との密接な関わりの中でも機能するものと判断せざるをえません。また、『ギロチンマシン中村奈々子』や『アンダカの怪造学』における、果てしなくそれ自身の中心へと落下していく渦巻を思わせるような蟻地獄状の叙述の運動にしても、疑いなく『蟲と眼球…』以上の洗練を示す形式的な自律性に劣らず、同時にそれへの執拗な渇望をもあらわにすることで、かえって、ひたすら自己を自己から産出し、自ら自分の親代わりを務めようとするこの執拗さは、一体いかなる切実な動機に由来するのか―いかなる現実的な喪失に応えようとしているのか―という問いに否応なく我々を直面させてしまうようなところがあります。
もっとも私としては、しつこいようですがここでも『のばらセックス』の特異性に注意を促したいところです。なんとなれば、この作品においては、「まだあたしが生まれていないころの物語」だったはずの「のばら様の、英雄譚」(注27)、つまり「世界で一番目の女性」の力で、その父親に相当する暴君が打ち負かされる、という神話的な事件の筋書を、彼女の娘である自分がいま一度「物語の主人公」(注28)として―敵は一回目と同じ人物、つまり「あたし」から見れば義父(坂本逢)に化けた彼の父です―再演しなくてはならないかと思えば、ついでこの母親がもともと架空の存在でしかなかったという事実の判明とともに、ずっと彼女が独占してきた「世界で一番目の女性」の地位へと図らずも「あたし」がいわば繰り上げ当選を果たしてしまったり、ひいてはその結果全ての男性の「信仰の対象」であり「神様みたいなもの」(注29)だった女性という存在に信者たちが身体的に接触して思いのたけを(精液として)ぶつけることが可能となり、こうして「坂本のばら様という女性は、ほんとうの意味で神になった」(注30)もののその正体は母親に変装したおちば様だったり…といった具合に、あいつぐ虚構性の暴露がそれだけでは終幕に直結せず、なおも「あたし」=おちば様が自らの活動、それも役者としての身体的活動の中で「神と私の一致構造」を具体的に経験することになるのは明白だからです。だからこそ、おちば様の斬首はそのまま、「神の死」(ニーチェ)の公的な上演(representation)でありうるわけです(注31)。この死の上演にはまた、上演の死という価値、つまり偶像崇拝を成立させる原理としての「表象=再現(representation)」の機構そのものの根絶という価値もあるかと思います(ちなみに「表象=再現」への批判は、ドゥルーズ哲学においても非常に大切な論点です)。もちろんこの場合の「神」とは「あたし」(おちば様)の母親である、全ての男性にとっての唯一無二の女性(女神)・のばら様を指すわけですが、他方で自身の懐妊の場面、つまりのばら様=坂本緒礼とその弟である綿志との近親相姦の場面を、父親(綿志)の立場、ということはとりもなおさず男性の立場から、「あたし」(おちば様)が射精に至るまで逐一追体験する場面では、今度はその神を長らく演じてきた緒礼と綿志(「わたし」)=おちば様との性的な合体という意味でも―ついでながら、兄弟の顔立ちはどちらも同じ「のばら様」であることを忘れてはなりません(注32)―、またそもそもおちば様が彼女自身の存在(生命)をこの世に到来せしめた精子の源にほかならぬ人物(父親)の主観と一時的に一体化しているという意味でも、やはり「神と私の一致構造」を認めることが許されるはずです。そしてこの場面は、主犯である坂本緒礼の立場からすれば、彼は彼で、あまりにも非の打ちどころがなく完璧すぎる「神と私の一致構造」のせいで、つまりほかならぬ自分自身が「坂本のばら様」であるせいで、生きた彼女との対面の可能性を誰よりも熱烈に欲しながらかえってそこから最も遠いという逆説に悩んだあげくついに見出した、生殖という創造的な解決法の実践でもあります(「ないなら自分で作ればよい」、という理屈ですね)。
「生殖」といえばいかにもどぎつく聞こえ、真面目な仏教の僧であれば眉をひそめそうですが、キリスト教的な価値観では、三位一体が父と子の関係を含む上に時代や地域によっては聖母マリアをイエスの生みの親として尊ぶ風潮も根強く、そもそも聖書の文面が多産を推奨している(『創世記』第1章22・28節、第9章1・7節)という具合なので、生殖活動に励むことは必ずしも神と無関係になることを意味しません。むしろ、例えば5世紀のギリシャの哲学者プロクロス(412-485)も、直接間接に中世の西欧に深い影響を及ぼした『神学綱要』という著作で、「完全なものはすべて、それ自体で宇宙万有の唯一の源を模倣し、この模倣をとおして、自分が生むことのできるものの出産へと向かう」(命題25)とも、また「発出するものの数をふやすことと、原因の中に秘められているものを引きだして出産へと導くこと、これ以外に、神々の無限の力にふさわしいものがあるだろうか。(そのようなものは、あるまい。)〔中略〕充実した神はみな、この溢れんばかりの力によって、自己自身の中から、他のものを生みだすのである」(命題152証明)とも述べていることからわかるように(注33)、自分とは異なるものを産出するという能力はただでさえ西洋では神々しいものと考えられてきたというのに、緒礼の事例では、あまつさえ第一に、産出する者(緒礼)本人にとって産出されるべき「自分とは異なるもの=異性」(のばら様という女性)が何よりも尊い信仰の対象であること(この点はプロクロスであれ誰であれ、伝統的な哲学者・神学者の説とは正反対です)、および第二に、虚構(偶像)の現実化という一種の無からの創造が目的であること―キリスト教徒にとっては、「無からの創造(creation ex nihilo)」というものはただ世界の創造者である神だけに可能で、神以外の誰にも許されない特権です―、という二重の条件が事態にさらなる曲折と充実を加えているのであって、このようにして緒礼における「神と私の一致構造」は、キリスト教の神のごとき天上の超越者の手から創造のわざを奪回し、かつ転倒させるような志向を有することが確認されるに至ります。女陰崇拝を唱える宗教団体に潜入したおちば様が、女性の「量産」と引き換えに固有の心身を極限まで磨り減らした瀕死の緒礼の傍らで、「寂しがり屋のアダム」と彼に呼びかけつつ天に向かって「ファック」サインを突きつける大詰めの場面(注34)は、この志向を最終的に裏づけるとともに、緒礼流の「神と私との一致構造」が、例えばヒトラーのもとでナチス・ドイツが魅入られたような民族の確立のための神話、先にも言及したフィリップ・ラクー‐ラバルトとジャン‐リュック・ナンシーがそれに屈さぬよう世人の注意を喚起しようとしている政治的神話の危険な魅力とは無縁であることを、最終的に教えてくれるものでもあります。なんとなれば、ラクー‐ラバルトとナンシーの考え(『ナチ神話』)によれば、神話とは何らかの手本への擬態を通じた自己同一性の獲得を可能にする「一個の同一化の装置」であるのに対して、第一に緒礼が同一化を遂げた相手であるのばら様はそもそも実在の人物ではなく、第二にこの変身の目的も自己同一性の確保ではなくて、あべこべにあたかも神のごとく自分とは異なるもの(異性)を産出することなのだし、そして第三に、したがってこれは必然的に自らの固有性(固有の人格と身体)の磨滅を伴う命がけの危険な反逆であり、よしんば成功を収めた場合でも当人(緒礼)がその成功を見届けることは到底かなわず、結局は彼以外の誰かに、例えば娘であるおちば様に向後を託すほかないからです。
以上、『のばらセックス』における「神と私の一致構造」は、おちば様(娘)と緒礼(母親)のどちらか片方ではなくて両者にまんべんなく働きかけ、そして前者が体現する演劇的な道と後者が体現する生殖的な道、換言すれば「人為」と「自然」という対照的にして両極端な経路を通じて、両人の心身に現実的な磨滅(致命傷)を強いながら、いずれの場合も虚構を現実に引き入れるという成果に帰着します。もっともその成果は、おちば様の場合はもともと実在したためしのない一人の女性(のばら様)が現実に死ぬという否定的な事件であるのに対して、緒礼の場合はそれまで実在していなかった複数の女性(おちば様の妹たち)が現実に生まれるという肯定的な事件なので、またしても対照的な関係にあると判定でき、共通するのはせいぜいどちらの場合も当事者が致命傷を負うという一点くらいのものです。この極大の対照性と極小の共通性からわかるのは、既存の宗教の説く超越的な神の観念への批判と一体になった、創造性の奪回という課題は、全能性とはおよそ程遠い苦難に満ちた歩みになる(一足飛びに成果だけを手にするわけにはいかず、段階を踏んで自らの足で歩み通すほかない過程である)、ということでしょう。このように創造者の全能性に疑問符が刻みつけられるという事態は、『蟲と眼球…』における「神と私の一致構造」に比して新しい認識の表れと呼んでさしつかえなさそうだし、のみならず「なぜ人は虚構を創造し、虚構に夢中になるのか」という動機の問題についても、スピノザ‐ヘーゲル‐フロイト的な「人間の本質は欲望である」という人間観を引き継ぐかのように、性的な欲望という明確な答を与えているばかりか、それを自分でないもの(異性)への憧れといういっそう純粋な形に定式化しえていることや、結局のところ神=緒礼の欲望だけでは創造の偉業は達成をみることがなく、被造物(娘)であるおちば様が彼に対面したがり―「会わなくちゃ。/あたしを異性として愛し、同時に子供として見てくれた、あのひとに」(注35)―、その成果(すなわち、緒礼の心身の磨滅と引き換えに誕生した彼女の妹たち)を見届け、そして自分の手で守り育てようと決心したときにようやく一段落するという成り行きが、創造の営みは本来当事者にとっても完全な予見や制御を許さないもので、それゆえにこそ人間の自由の証でありうるというベルクソン的な創造性の概念をこの上なく力強く再生させていることなど、狭義の「メタフィクション」らしさの領域から出発しつつもその限界を踏み越えて我々の実存にまで食い入ってくるような特異性を示す『のばらセックス』の美点は、枚挙にいとまがありません。というよりも、「『己を殺して』(注36)代わりに女性を現前させる」という緒礼の行為が、単なる虚構(演技)の次元から現実(生死)の次元への移行を果たさなくてはならず、それはさながら予言の内容が文字通りに実行に移されるようなものであるという事情に思いあたるなら誰しも気づかずにいられないように、「それ自身に言及する虚構」の「メタフィクション」性は、とことんまで徹底していけば結局「虚構の外部の現実の、虚構の内容に沿った変容(を描く虚構)」へと帰着するということは、ほかならぬ彼の運命こそが作中で最も雄弁に教えてくれることです。この場合、予言が「文字通りに」実現をみるということは、かえっていかにも創造の過程にふさわしい、出発点と到達点の間の極端な懸隔を強く印象づける物差しのように働くのであって―実際、いくら「己を殺して代わりに女性を現前させる」という字面は共通しているようでも、自ら唯一無二の女性であるのばら様を演じる中で固有の心身を忘れ果てること(出発点)と、固有の心身と引き換えに自ら新たに女性たちを産み出すこと(到達点)とは、相当かけ離れています―、だからこそ、『のばらセックス』における「神と私の一致構造」は、「神話の時代は終わり、〔中略〕二千年前に中断していた歴史が再び動き始める」(注37)という、明確に反神話的な結果に通じることになるのです。この点、つまり「神と私の一致構造」が予見不可能な過程を通じてある意味でそれとは反対の結果を招来するという逆説も、メタフィクションとしての『のばらセックス』の特異な成果の一つでしょう。
私としては、ここで再びマルタンのヘーゲル論を参照したい気持ちに駆られます。なんとなれば、『精神現象学』をいわば一冊の犯罪小説として読み解こうとする彼の考えでは、超越から内在への歩みは、あくまでも神ご自身の中に死や犯罪や不完全性のごとき不穏なる否定性が人間によって見出されることを必要不可欠とするというのがヘーゲル哲学の教えなのであり、おそらく神と人間のこのような関係は、瀕死の緒礼(父)とおちば様(娘)の対面の場を読む者にとっても少なからぬ示唆を与えてくれるはずだからです。マルタンはこう書いています。「おのれの不確実性の行路を見つけ出してくれるはずの人間抜きで最初からいまここにあり自足している《神》などいないのである。〔中略〕ただ死と犯罪と完全性を犠牲に供することによってのみ、純粋に天使的な《理念》に異を唱えることによってのみ、概念はおのれをいまここにあるものへと至らしめるための術を見つけるのである。〔中略〕《絶対者》は高みを目指した分離を実現するのではなく、その超越性によって世界から離脱するのでもない。逆に、失墜することでみずからを分離するのだ。それは沈潜し、内在的な痕跡に沿ってみずからを分割するという運動である。底の底まで突きつめれば、悪は創造の根源を体現するのである」(注38)。さて、傷と恥辱にまみれて天上的な超越性から失墜し、「内在的な痕跡に沿ってみずからを分割する」ことで初めて「創造の根源を体現する」ことが可能になる―ただしこの体現者は、「悪」つまり低俗な反逆者(現世的なもの)という汚名を覚悟しなくてはならない―というこの運動、ヘーゲル的な絶対者(絶対的なもの、神の本性)に課せられるこの試練は、間違いなく、栄光に満ちた「世界で一番目の女性」の役柄から転落したあげく、自己の身体の寸断を引き受けてまで女性の創造(量産)に挑んだ緒礼の運命そのものです。あるいは、いまだかつて彼女自身は実在したためしがないにもかかわらず、汚辱に染まりながら公的な斬首という形で―おちば様の肉体に即して―無残な崩落を遂げたのち、緒礼の心身を酷使して大勢の幼い分身という姿で現実の世界に誕生(復活)してのける、絶対的な「女性」、女性なるものの概念である反面いわば概念としての女性にすぎなかった、「坂本のばら様」の運命なのでもあります。現に、彼女は娘のおちば様から、「今世紀最大の悪党」と評されているのではなかったか(注39)。マルタンが『精神現象学』から引き出してみせた「犯罪計画」の筋書を『のばらセックス』の中にも探り当てようとする者にとっては、この台詞はこの上なく心強い味方です。
このほか、明らかに巻頭の「ファック」サイン(注40)に呼応する巻末の「ピース」サイン(注41)は、単なるVictory(勝利)のVであるばかりかVagina(女陰)のVでもあると思いますし、「女性なるものは実在しない」というラカンの命題(これは、全ての女性に共通するような、本質としての女性らしさを語ることは決してできない、という意味です)や、「あらゆる生成変化は女性への変化に始まり、女性への生成変化を経由する」というドゥルーズとガタリの唱えた公式(『千のプラトー』)との比較も大変興味深い作業になりそうですが、こうした論点についてまで考えているときりがなくなりそうなので、ひとまずこのあたりで切り上げることにします。

(付記1)フロイトやベンヤミンやカッシーラーのようなユダヤ系の知識人について、私は「どちらかといえば神話というものを批判的に相対化し、あるいは解体してしまうような懐疑的な視線への理解力を持ち合わせていた」と述べ、そしてその理由を、ドイツにおいてはナチスの時代に至るまで、民族としての自己同一性の獲得を目指す運動がたえず神話を参照し続ける一方で、ユダヤ人に対する風当たりは強くなっていったからだ、と説明しました。この点、さらなる例として見落とせないのが、ベンヤミンの友人でやはりユダヤ系だったテオドール・アドルノ(哲学者・社会学者・美学者)が、亡命先の米国で書いたマックス・ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』(徳永恂訳、岩波文庫、2007年第1刷)です。アドルノたちは、文明化が進んだはずの当時のヨーロッパにおいてなおナチスのように野蛮な体制の出現が避けられなかったという事実を重く受けとめ、素朴な進歩主義が抱くような、「蒙昧な神話の呪縛から啓蒙のおかげで解放された人類は文明の発展につれて世界の支配者となるのであり、この幸福な歩みが逆転することは決してありえない」、という信念に対して懐疑を表明します。彼らによれば、そもそも神話と啓蒙の素性はそれほど截然と区別できるものではないし、また啓蒙が進んだからといって必ずしも人間が幸福になれるわけでもなく、かえって社会に蔓延する暴力の支配という形で、神話への退行が生じることのほうがむしろ確からしいからです。
このアドルノたちの考えを本文中で紹介しなかったのは、二人の批判が神話的世界観のみならず、通常はそれの対極と思われている啓蒙的な合理主義をも標的としているので、他のユダヤ系知識人と並べると論旨に混乱をきたしそうだったからというのが第一の理由ですが、ベンヤミンがいかに絶望的な状況の中でも救世主(メシア)の到来を期待し続けるという辛抱強い思考の様式をユダヤ教の伝統から受け継ぎ、またフロイトやカッシーラーがあくまでも理性への信頼を捨てようとしないのと比べると、アドルノたちの標榜する全面的で出口のない悲観主義は―そうならざるをえない必然性も重々理解できるとはいえ―、ある意味ではむしろ、安直な態度(捨て鉢な開き直り)のように思えてくるからでもあります。
(付記2)フロイトの弟子で、のちに彼と決別したユングは、我々人類が誰しも先祖代々受け継いできたという「集合的無意識」の説と、本能の導き手として集合的無意識を形作るいくつかの類型的な心像(イメージ)つまり「元型(archetype)」の説とにもとづいて、神話や昔話や錬金術に関する数多くの心理学的研究を残しましたが、師のフロイトが決して知性への信頼を放棄することなく、終生科学としての精神分析の確立を目指したのと比べると、あまりにもオカルト的なものへの無批判な傾倒が目立つ上に、解釈もかなり恣意的です。幼児にも性欲が存在すること、近親相姦が実は万人の無意識的な願望であること、全ての生き物には「死の欲動」が宿っていること…等々、我々から心の平安を奪ってしまうぎょっとするような指摘をフロイトはいくつも残していますが、その種の凄味はユングには求めるべくもありません。もっとも、執拗に我々の心を苛む欲望というものの手ごわさにも、欲望の本性や由来の究明というこれまた厄介な問題にも等しく頬かむりを決めこんだまま、深層心理や世界の秘密(と称するもの)をもっともらしい物語仕立てで教えてくれる、というふれこみのユング流精神分析(「分析心理学」)は、ライトノベルやアニメを制作する側からすると重宝そうだし、案外『蟲と眼球…』や『ささみさん@がんばらない』あたりとは相性がよい気もしますが、事実としてフロイト‐ラカンの路線とユングの路線とは、いくら看板が似ているようでも内実が全く異なるので注意が必要です。
(付記3)ライトノベルに限らず、現代日本のポップカルチャー全般について、現代思想を参考にしながら「神話」という観点から考察を加えた試みとしては、批評家・福嶋亮大の『神話が考える』(青土社、2010年)という本があります。ただし日日日への言及はないし、少なくとも私の印象では、西尾維新についても東方Projectについても、またドゥルーズについても、著者の見解には誤解や牽強付会がところどころ目につくように思えます(例えば、ドゥルーズの『意味の論理学』の叙述は、ルイス・キャロル的な「表層」の軽やかさ、非物体的な意味の次元だけで完結するわけにはいかず、アントナン・アルトー、ついで精神分析へと筆が進むにつれて、むしろこのような表層性をあるいは脅かし、あるいは目指すような、諸物体の混在の場たる「深層」へと赴くことになります)。しかし私以外の人が読めばまた違った感想になるかもしれず、そもそも類書が他にないということもあるので、一応紹介しておきます。


(1)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(工藤喜作・小柴康子・小谷晴勇訳、法政大学出版局、2004年第6刷)185頁。
(2)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第48刷)142-143頁(第二部定理40備考2)。
(3)同書38頁(第一部定義6)。
(4)同書64頁(第一部定理18)。
(5)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)9頁。
(6)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)53頁(第一部定理15)。
(7)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)122頁(第五部定理25)。
(8)同書125頁(第五部定理30)。
(9)同書127頁以下(第五部定理32系以下)。
(10)プラトン『国家(下)』(藤沢令夫訳、岩波文庫、2004年第40刷)372-373頁。
(11)井筒俊彦『井筒俊彦著作集 1 神秘哲学』(中央公論社、1991年)312-313頁。
(12)ジャン‐クレ・マルタン『哲学の犯罪計画―ヘーゲル『精神現象学』を読む』(信友建志訳、法政大学出版会、2013年)255頁。
(13)同書298-299頁。
(14)ヘーゲル『改訳 宗教哲学 下巻』(木場深定訳、岩波書店、1984年)43頁以下。
(15)ヘーゲル『改訳 歴史哲学 下巻』(武市健人訳、岩波書店、1957年第3刷)279-281頁。
(16)山口和子『後期シェリングと神話』(晃洋書房、2004年)118-119頁。
(17)同書122頁。
(18)「ドイツ観念論の最初の体系プログラム」、寄川条路編訳『初期ヘーゲル哲学の軌跡―断片・講義・書評―』(ナカニシヤ出版、2006年)6-7頁。
(19)山口和子『後期シェリングと神話』(前掲書)166-169頁。
(20)ニーチェ『悲劇の誕生』第16章(秋山英夫訳、岩波文庫、2003年第45刷)154頁。
(21)同書154-155頁。
(22)同書210頁。
(23)同書212頁。
(24)フィリップ・ラクー‐ラバルト、ジャン‐リュック・ナンシー『ナチ神話』(守中高明訳、松籟社、2002年)45頁。
(25)『哲学の歴史 第12巻 実存・構造・他者【20世紀III】』(中央公論新社、2008年)334-335頁。
(26)ヘーゲル『精神の現象学 上巻』(金子武蔵訳、岩波書店、2002年)232-233頁。
(27)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)216頁。
(28)同書212頁。
(29)同書264頁。
(30)同書290頁。
(31)同書269、292-293頁。
(32)同書258-259、333頁。
(33)プロクロス『神学綱要』、田中美知太郎責任編集『中公バックス 世界の名著15 プロティノス ポルピュリオス プロクロス』(中央公論社、1995年第6版)468、549頁。
(34)日日日『のばらセックス』(前掲書)378-379頁。
(35)同書348頁。
(36)同書265頁。
(37)同書382頁。
(38)ジャン‐クレ・マルタン『哲学の犯罪計画―ヘーゲル『精神現象学』を読む』(前掲書)323-325頁。
(39)日日日『のばらセックス』(前掲書)291頁。
(40)同書8頁。
(41)同書386頁。

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日日日『のばらセックス』13 

「『のばらセックス』におけるアレゴリー(寓意)」なる題目で、以前から折を見て書いているものの続き(前回の記事はこちら)に取り組んでいるのだが…いやはや難物である。書けん、ほんまに書けん。
もっともいかがわしさを引き受ける覚悟であえて主張してしまうと、小生この小説は究極絶対の普遍的真理にして全人類を導く教科書であるから、分析の作業を面倒だからという理由で放棄するのは決してよろしくないと信じているのだけれど、それにしてもこう難航するとは思わなかった。
まあ、あれだ。『ささみさん@がんばらない』のほうは、自己同一性の混乱への志向―あるいはいっそう表現の正確を期すなら、対人関係の網の目の中である者の占めていた地位に別の者を再配置し、そのようにして正当な権利者がつつがなく愛を享受するのを妨害してやろうという趣向(この点は『ちーちゃんは悠久の向こう』以来一貫している)―やら書き手の女性性(異性の立場をあたかも我が身のこととして主体的に想像できるのは、まぎれもなく藝術家としての長所である)やらがもりもり入り込んでいるせいで、結果的にいまいち「萌え豚ホイホイ」としては煮え切らないものになっているというか、いざ父や夫の視点に立って特定の女性キャラクターを気楽に愛でようというつもりで鑑賞し始めるとどこかで裏切られちゃうこと必定の作品であるがゆえに、アニメ化したところでオタクの固定客はそこまで期待できないんじゃないかなー、みたいな不遜なことをぼんやり考える一方で、それに比べて『のばらセックス』はなんといっても坂本緒礼がいるだけに心強いというか、彼の狂気の愛が招いた女性の量産という奇蹟を通して、「おまえらここまで行き着かないといかんぜよ」的なドスの利いたオタクへのアジテーションがびしびし伝わってくるようでまことに頼もしく、漫画化するならぜひとも第I、ii章はエレクトさわる御大に、そして第i、II、III章は鈴木狂太郎さんにお願いしたい(第III章は『魔法教えました!!』所収の「茜色! 覗いていろ!」の感じで)! だとか、「身体の奥にある気持ちのいいつぶつぶを、ソプラノがひとつずつ潰して、何度も掻きむしってくれる」(注1)とある以上、おちば様の女陰はいわゆる「カズノコ天井」型であって「ミミズ千匹」型ではないのだなあ、ということはやはり日日日の書法はアレゴリー的な細分化(ヴァルター・ベンヤミン)に近いのであって、もしも西尾維新=ライプニッツ(この等式については「西尾維新論のために」を参照のこと)が似たような描写を手がけるとすればきっと「身体の奥にある気持ちのいいひだひだ」と書いてくれるのだろうなあウフフ(注2)…などという埒もない妄想をついたくましくしたりして、それで分析が進まなかったのである。じつに楽しい。
いや、もっと正直になるべきだろう。実は『のばらセックス』の第III章「いつかは散る薔薇」があまりにエロく、読んでいるとむやみと男性と性交がしたくて悶々としてくるので批評どころではなかったのである。ああ恥ずかしや恥ずかしや(しかし私はともかく、男子中学生がこの章を読んだらなんだか性的嗜好に取り返しのつかない影響を受けてしまいそうで、空恐ろしいことこの上ないな…)。

ただ―あまり弁解じみたことばかり書き綴るのもどうかとは思うが―、そもそも原理的な次元で合理的言説(ロゴス)への翻訳を拒むような要素がこの小説の、特に第III章にあるのも確かだろう。
あ、以下ラカン派精神分析の用語とか説明抜きで混じってくるんで本来は公開に適さないような気もするが、主に自分用の覚え書ですのでそのあたりはひらにご容赦ください。
例えば次のくだりである。

 それは絶対に噛み砕いてはいけない禁断の果実。舐めて味わう大事な大事なおちんちん。(注3)

たぶん他の作家、少なくとも男性作家であれば、ここはもっと別の書き方をするのではないか。つまり、第一文の「禁断の果実」なる隠喩に続けて、次の文でもなにがしかの隠喩を使用するか、もしくは第一文と第二文の順序を逆にし、まず「おちんちん」という正しい名称を挙げてから「禁断の果実」という隠喩に訴えるか、するところだろうと思うのだ。それなのに実際は、ご覧のとおり「禁断の果実」という隠喩の作りかけた秩序がその直後にもう「おちんちん」という正しい名称の登場によって突き崩されている。一応精神分析的には、藝術家といえどもめったなことでは現実的なファルス(男性器)を表象することはできないはずなのに(注4)、その前提が成り立たない。というか、言語や表象の秩序に風穴を開けるような形で唐突に現実的な「おちんちん」が闖入してくる。こういうものを強いて理性の言葉(象徴界)に翻訳しようとするのは、私にはなにかどうしようもなく徒労であるような気がしてならない。
同時に見逃してはならないのは「以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし」(注5)なる一文の存在で、ここを読むと他の多くの作家・藝術家とは違って、少なくともこの小説の場合、作者の動機が去勢(母の身から引き離されること)の否認というよりはむしろその逆、つまり去勢が不完全に終わったこと、換言すれば母との別れが、彼女の意志に関与の余地が与えられないほどの理不尽な事件として突発したことの否認であるように思えてくる。
しかしここから生じてくる(はずの)自主的な去勢への意欲は、とうとう私の身体から肉を削ぎ落として骨だけを残すまでに徹底されるや―「あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを、無条件で味方と信じる」(注6)なるくだりは欺瞞という負の価値を開示するのに対して、「ばちんばちんという互いの肉が当たる音は、もはや骨と骨がぶつかってがちんがちんになる」(注7)は正の価値を帯びていることに注目すべし。まったく、肉こそが真理と信じるメルロ‐ポンティに爪の垢を煎じて飲ませたいような冴えた指摘である―反転を遂げ、それにつれて「あたしの人生はあたしのものじゃない」(注8)という巻頭の自覚もまた、「外はきっと、あんたたちが胸を張って暮らせる世界だから」(注9)なる台詞からもうかがえるように、負から正への符合の逆転を経ることになる。自分の人生が徹頭徹尾自分だけのものであるわけではないということ、まさにこの命題がもたらす逆説的な豊かさを、性愛の経験を通じておちば様は学んだのだ。なんとなれば、我々は性愛の場において、他者の存在の侵入とそれに伴う自らの心身の流出とを、一方では逃れがたい宿命として思い知らされながら他方ではしばしば同時に目的として切に欲さずにいられないから、おまけに自分一人に限らず、誰しもそのように感じていることをも予感するからである。
となれば、社会常識的に見て明らかに男根への暗示として理解されうる、最初の頁の「ファック。ファック。ファック」(注10)という仕草との対照において、最後の頁の「みんな満面の笑顔で、ピース!」(注11)は単なる「平和(ピース)」や「勝利(Victory)」にとどまらずに"Vagina"すなわち膣をも意味しなくてはならないわけだが、そうなると男根的でない象徴界、あるいは女陰的な象徴界…などというけったいな代物を考えなくてはならなくなり、どうにもこのあたりで精神分析的な整理の試みが行き詰ってしまうようなのである。困ったことだ。
したがってまた、我々はいくら主人公だからといっておちば様一人を過度に英雄視して礼讃するわけにはいかない。彼女の変身はたぶん、主として自己中心的な立場からの脱却に認めうるものであるからだ。というか、『のばらセックス』の中から英雄的な壮挙を果たした登場人物を誰か一人選ぶとすれば、結局のところ彼女以上の自己犠牲的な創造のわざを実行した人、すなわち文字どおり我が身を削って彼女とその妹たちをこの世に送り出した緒礼(のばら様)こそが真っ先に名指されなくてはならないはずである。
とはいえ劣情に負けて実の娘を強姦したという行状からしてもなかなか緒礼の評価は難しく、おちば様にとっても、またおそらく大半の読者にとっても、彼の印象は卑小と偉大の間を揺れ動いて一定しないというのが正直なところではあるまいか。こうなるとジル・ドゥルーズの『意味の論理学』ではないが、ついパラドクス(逆説)の生産性などとうそぶきたくなってくる。
もっとも狭義の文学的な文脈に話題を限定するのであれば、より簡明なのは、例えば『プルーストと記号』の第一部4章にある、次の一節などだろう。ドゥルーズはここで、個別化をもたらす究極的な差異としての本質を藝術作品がいかに体現するかを究明せんとしつつ、本質(essence)を「スティル(style)」、すなわち文体もしくは様式そのものとして定義するに至っている。

 ある世界の性質であるがゆえに、本質というものは決してある対象とは混じり合わず、かえって反対に二つの全く異なる対象を近づけるのであり、それらに関して人は両者とも啓示的な環境においてこの性質を持っていると正(まさ)しく気づくのだ。本質がある物質の中に具体化するのと同時に、それを構成する終極的な性質はゆえに自らを相異なっているが、この光り輝く物質の中でこねあげられ、この屈折を生ぜしめる環境の中に浸(つ)かった二つの対象に共通な性質qualité commune〕として表現する。様式(スティル)〔文体〕が存するのはその点である。「描写される場に姿を見せていた諸対象は描写中で果てしなく継起せしめることができるが、作家がやがて二つの異なる対象を取り上げ、それらの関係、科学の世界において因果の法則という唯一無二の関係がそれにあたるような関係に藝術の世界において類比的である関係を定立し、そして両者をある美しい文体(スティル)の必然的な何重もの環の中に閉じ込める瞬間になってようやく真理は開始することであろう」。これはつまり文体(スティル)とは本質的に隠喩(メタフォール)であるということだ。しかし隠喩(メタフォール)というもの〔la métaphore〕は本質的に変身(メタモルフォーズ)〔métamorphose〕であり、そうしていかに二つの対象がそれらに共通性質を授ける新しい環境において、それらの規定を交換し、ひいてはそれらを指示する名前を交換するかということの次第を指している。こうして、エルスチールの絵では、海が陸地に、陸地は、海になっており、町は「海の用語」でしか、そして水は、「都会の用語」でしか指示されない 。つまり様式(スティル)は、物質を精神化して本質に適合的なものとするため、不安定な対立、起源的な折り合わせ、本質それ自体を構成していた本源的諸元素の闘争と交換とを再生産するのである。ヴァントゥイユのもとでは、格闘技のように二つの動機(モチーフ)が闘っているのが聞こえる。「本当を言えば、ただもっぱら力同士の格闘なのだ、というのもこれらの存在者が対決するとしても、それは両者の物理的身体を、両者の外観を、両者の名前を取り払われた上でのことなのだから…」 。一つの本質とはつねにちょっとした世界の誕生である。しかし様式(スティル)とは継続され屈折せしめられたこの誕生、諸本質に適合的な物質の中に見出されたこの誕生、対象らの変身と化したこの誕生である。様式(スティル)は人間ではない、様式(スティル)、それは本質それ自体である。(注12)

このゆえにドゥルーズにとって藝術作品とは、真理を生産する一種の「機械」であらねばならない(注13)。そしていみじくも『プルーストと記号』第二部1章が「反理性(Antilogos)」と題されていることからもわかるように、文学作品もまたそのような強度の両義性、ないし逆説性の機械であるからには、知性の先行性は、有機的な全体性ともどもあくまで拒絶されるべきなのだ。いかにも、所与としての全体とそれを見抜く理性、というギリシャ的な発想に則った作品が現に存在するという事実は否めない。しかし、ドゥルーズの考えでは、それには時間が欠落しているのだ。

 反対に〈時間〉を、対象〔objet〕とする、あるいはむしろ題材〔sujet〕とする一つの作品がある。それはもはや貼りなおされることのできない断片の数々を、同じ嵌め絵(パズル)の中に入りはせず、一つの先行的な全体性に所属してはおらず、一つの一体性から流出することはたとえ失われた一体性からであってもない破片の数々を関わり相手とし、自らとともに引きずっている。たぶんこれこそがかのもの、時間なのだ。適応させられることを潔(いさぎよ)しとしない、同じ律動に即して展開することのない、そして文体の河が同じ速度で押し流すことのない寸法も形態も相異なる部分らの終極的な実存なのだ。宇宙(コスモス)の秩序は崩壊し、数々の連想の鎖と数々の交流しない観点との中で細分された。諸記号の言語活動は不幸と嘘との資源へと還元され、それ自体のために語り始める。それはもはや存続する〈理性(ロゴス)〉に依拠してはいない。ひとり藝術作品の形式的構造のみは自らが使用する断片的な材料を、外的な指示〔référence〕なしに、寓意的もしくは類比的な格子なしに解読できることだろう。(注14)

末尾でドゥルーズが「寓意的もしくは類比的な格子」をも拒否している点については、名前は同じであってもベンヤミン的な「寓意(アレゴリー)」は一般的な用法よりもかなり彼独自の哲学的含蓄がこめられた概念になっており、むしろ先の引用文中の表現を借りるなら、「不安定な対立、起源的な折り合わせ、本質それ自体を構成していた本源的諸元素の闘争と交換」という、ドゥルーズ的な文体の諸特性を深く刻印されていることを指摘しておく必要があるのかもしれない。それはさておき、『失われた時を求めて』の作中には、フェルメールの描いた『デルフトの眺望』の小さな黄色い壁面、ヴァントゥイユの作曲したソナタが含む小楽節、バルベックの地にある教会の竜の彫刻と、まさしく不協和な諸部分の事例がめじろおしである。我々はそれらから何を学ぶべきなのか。

バルベックの竜ども、フェルメールの壁面、小楽節という、神秘的な観点らは、シャトーブリアンの風と同じことを我々に言ってくれる。それらは「共感」抜きで作用する、それらは作品を一つの有機的全体性にするのではなく、かえってむしろある結晶化を規定する一つの断片として機能する。我々がやがて見るように、藝術にとっても性(セクシュアリテ)にとっても、プルーストのもとでは植物の手本(モデル)が動物的な全体性のそれに入れ替わっているのはたまたまではない。かかる作品は、時間を題材〔sujet〕とするのだから、格言(アフォリズム)によって書く必要すらも持たない。〈反(アンチ)‐理性(ロゴス)〉という文体〔un style Anti-logos〕の何重もの紆余曲折と環との中でこそその作品は終極的な諸破片を集めなおすため、全ての諸断片を数々の相異なる速度で押し流すために必要なだけの迂回を行なうのであってそれらのおのおのはある異なった集合へと送り返すか、あるいは全くいかなる集合へも送り返さないか、あるいは文体の集合以外のいかなる集合へも送り返さないかである。(注15)

しばし引用が続いたので改めて要約すると、第一に隠喩(メタフォール)ないし変身(メタモルフォーズ)としての文体は「いかに二つの対象がそれらに共通性質を授ける新しい環境において、それらの規定を交換し、ひいてはそれらを指示する名前を交換するかということの次第を指している」こと、第二にそのような逆説の編成であることによって、文体は当然にも互いの間の共感を欠く諸部分の齟齬から切り離せないこと、第三にかくして時間そのものが作品の題材‐主体(sujet)とならねばならないとともに、植物が動物の代わりに手本の位置を占めるようになること、この三点はともかく確認しておきたいところだ。
さて、この三点を念頭に置いた上で再び『のばらセックス』に戻ると、いずれの論点ももののみごとに作品の実態に符合しているということに、誰しも驚かされるはずだ。あとの二点から検討を始めると、まず共感なきちぐはぐな諸部分の並存(第二点)については、相継ぐ勘違いや欺瞞の連続が作品の筋書そのものを形成しているという事態からたやすく読みとることができる。なかんずく見逃せないのは、野性的で人の世の理を十分に解さない加工種(エルフ)のソプラノが、まさにそれゆえにおちば様にとって魅力的な恋人となりうる(注16)と同時に、他方では―その善良で素朴な性格とは裏腹に―流血を伴わぬ性行為では興奮できない残虐なサディストでもあり、したがって対人関係においても、のみならず彼自身の内部にも齟齬を抱えこんでいる存在であるばかりか、その男性器は「嘘ばかりの彼の身体のなかで数少ない正直な部分」(注17)として、身体の残りの部分をさしおいて例外的な厚遇に値するという事実であろう。次に時間の作用、および植物的な比喩の特権的な地位(第三点)も、多少身を入れて通読すれば誰しも見落としようがないほどに明らかだ。例えば、前者については、「彼らがあたしにしたことは、いまも激痛をともなって刻みこまれているけれど。乗りこえていける、まだ、子供なあたしたちだから。/すべての痛みを傷を、成長の糧にできる、きっと」(注18)や、空行が前後を区切る「三年がすぎた」(注19)―余談ながらこんな風に一切の不純な説明を除去して一挙に時の経過を加速させてしまう空行はフローベールの『感情教育』にもあり、プルーストはこれを同書のいかなる文章よりも美しいと評価した(注20)―等の箇所を、また後者については「植物刑」の制度を、そしてそれに加えておちば様の名前の由来―「おまえの名前は、祈りだ。〔中略〕派手なばかりの薔薇よりも、この世界の肥やしになる落ち葉になってほしかった」(注21)―をも参照しなくてはなるまい。
しかし、この二点にもまして基本的なのは第一点、すなわち藝術作品を藝術作品たらしめる文体ないし様式(スティル)というものは、何はさておき互いに遠く隔たった二つの異なる対象の間に共通性質(qualité commune)を樹立し、そのようにして逆説の編成から真理を生産する運動であらねばならないという論点であろう。すでに見たとおりドゥルーズが例として挙げているエルスチールの絵では、「海が陸地に、陸地は、海になっており、町は『海の用語』でしか、そして水は、『都会の用語』でしか指示されない」。これに近い状況も、探そうと思えば『のばらセックス』の中にいくらでも見つかるはずである。わかりやすいものとしては、次の台詞が好例であろう。

「ね、あんた童貞でしょ?」
 耳元で囁いてやると、セノンは面白いぐらいに全身をびくんと痙攣させた。
「あたしが捨てさせてあげる、あんたのおちんちんの処女膜―だから、お願い、あたしの味方になって。たくさん、あたしのなかでシコシコしてあげる、おしっこにしか使ったことないあんたの童貞ちんこ。だから、ね、あたしを助けて……」(注22)

おそらくこれが『のばらセックス』全篇を通じて最も猥褻な台詞であり、その種のものとしては谷崎潤一郎作『刺青』の掉尾を飾る「お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」(注23)などと並んで日本文学史上に残るべき屈指の力作と思える。この猥褻さの由来はやはり主として、女性器のごとき男性器(「あんたのおちんちんの処女膜」)と自慰のごとき性交(「たくさん、あたしのなかでシコシコしてあげる」)という逆説的な比喩を通じて、通常は能動的であるはずの男性の性行動に女性的ないし幼児的な受動性を人為的に刻印してしまう過程に求めるべきなのではないか。いまだ経験したことのない未知の快楽を前にして童貞の男子が覚えざるをえない期待も不安も、これによって否が応でも強調されるというものだ。
問題は、この種の逆説的な生産性が単にいましがた引用した台詞にとどまらず、『のばらセックス』を最初から最後まで貫いていることである。少女のように可愛らしい年下の恋人(ソプラノ)がその実残虐な殺人鬼でもあったり、憎からず思っているとはいえ父に相当する男性(義父の「あいちゃん」こと坂本逢)から結婚を迫られて困惑するもなぜか本人ではなくて召使に強姦され、あげくは偽物とわかったこの父(実は祖父)を自分の手で絞め殺す羽目になったり、自ら愛する母(のばら様)に扮して、破廉恥な性的饗宴の中で彼女の姿を穢してから快楽の絶頂で首を切り落とさせたりと、おちば様が作中で経験する諸々の事件はことごとく同時に正負の二方向に引き裂かれており、まさにその亀裂から筋書を前へ前へと推進する原動力が絶え間なく生じてくるのだ(注24)。
なるほど、日日日の他の作品をひもとけば、「顔で笑って心で泣いて」的な外面と内面の背反をいくらでも拾ってくることはできるのだろうし、あまつさえ『私の優しくない先輩』のごとく、心それ自体の二方向への分裂から好悪の差し引き勘定を経て発生してくる感情の強度に関しても、事例に事欠かないで済みそうではある(注25)。だがそれでも『のばらセックス』が特別でありうるのは、肉体的快楽そのものが精神に対して発揮する暴力性と欺瞞性とを通じて、いわば「快原理の彼岸」(フロイト)に達する視野を読者に開いてくれるからでもあり(「日日日『のばらセックス』11」)―この点において、本作は一見ポルノグラフィでありながらも同時に苛烈なほど禁欲的な書でもあるのだ―、またひいては、男性である緒礼が(女性化した上で弟と交わって)子を出産し、娘であるおちば様が(怪しげな機械を介して)父である綿志の射精を我が身のこととして追体験するというこよなく極端なねじれの中で、逆説性がほとんど個人の実存の根底に抜きがたく食い入った、生成の欠くべからざる条件として現れてくるから、そしてそのようにして存在論的な価値を帯びてしまうからでもある。むろんこの場合の「個人」とは、緒礼と綿志がともに日本語の一人称である「俺」と「私」に通じる一方で、おちば様はときに一人称(「あたし」)で話者を兼ねる主人公であるということからも明らかなように、言語を通じて自己意識を表出するかぎりにおいて全ての読者が共有せざるをえない人称としての「我」であり、それ以外ではありえまい。
このような作品を前にして、出来合いの理性的な枠組を押しつけて事足れりとするような怠慢は許されまい。というよりも我々が『のばらセックス』から読みとるべきなのは、知性を含めてありとあらゆる諸能力を、有無を言わさず活動へと押しやる、最も根底的な触発の力としての生の逆説性そのものではないのか。
どうやら記事が書けない理由をああだこうだと考えているうちに、いつの間にやら一本記事ができてしまったようなので、ここらでそろそろ切り上げることにしたい。と、その前にもう一度『プルーストと記号』を引用して、本質が宿る諸記号に対する知性の避けがたい事後性という問題について、ドゥルーズの考えを参照しておくとしよう。もっとも彼は創作家の態度について述べているのだが、『失われた時を求めて』と同様に『のばらセックス』もまた一種の藝術家小説であり、小説家の心がまえを探究した小説であるという私の考えに何ほどかの妥当性があるとすれば(「日日日『のばらセックス』7」「日日日『のばらセックス』9」)、そして上述したようにこの小説における逆説の機構が頁を開く者一人一人の生を巻き込んでしまうような性格を持っているのだとすれば、以下の省察を『のばらセックス』の読者の参考に供したところであながち場違いとも限るまい。

 プルーストはプラトン派である、ただし漠然とではない、なぜならば彼はヴァントゥイユの小楽節に関して諸本質ないし諸〈理念(イデー)〉を引き合いに出すからだ。プラトンは諸々の出会いと諸々の暴力という記号〔旗印〕の下にある思考の像(イマージュ)を我々に提供する。『国家』中のある文章(テクスト)で、プラトンは世界における二種類の事物を区別する。思考を非活動的なままにしておくか、あるいは思考に対してもっぱら活動の外観という口実をしか与えない諸事物と、思考させてくれる、思考することを強いる諸事物である 。前者は再認の諸対象である。全ての諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕はこれらの対象に対して行使されるが、ただしある偶然的な(コンタンジャン)〔contingent〕行使においてなのであって、それが我々に「これは一本の指だ」、これは一個の林檎だ、これは一軒の家だ…、等々と言わせる。反対に、思考することを我々に強いる数々の他の事物がある。もはや再認可能なreconnaissables〕対象ではなく、かえって暴力を振るう事物、出会われるrencontrés〕記号だ。これは数々の「同時に反対な知覚」である、とプラトンは言う。(プルーストはやがて、二つの箇所に、二つの瞬間に共通な感覚と言うことだろう。)感覚的記号は我々に暴力を振るう。それは記憶を動員する、それは魂を運動させる。しかし魂は魂で思考を動かし、感性の強制をそれに伝え、思考されなくてはならぬ唯一の事柄として、本質を思考することをそれに強いる。こうなると諸能力(ファキュルテ)〔facultés〕はある超越的な行使の中に入り、そこではおのおのが自らの固有な極限に立ち向かって合流する。記号を把握する感性。それを解釈するものである、魂、記憶。本質を思考することを強いられた思考。ソクラテスは正当にもこう言うことができる。私は友人である以上に〈愛神〉である、私は愛する者である。私は哲学〔知への愛(la philosophie)〕である以上に藝術〔技術(l'art)〕である。私は善意(ボンヌ・ヴォロンテ)というよりはむしろ、シビレエイであり、強制と暴力であると。『饗宴』、『パイドロス』および『メノン』は三つの偉大なる諸記号の研究である。
 しかしソクラテスの守護神(ダイモーン)、皮肉(イロニー)は、諸々の出会いに先んじることに存する。ソクラテスのもとでは、知性がなおも諸々の出会いに先立つのだ。それはそれらを惹き起こす、それはそれらを掻き立てまたそれらを組織する。プルーストの諧謔(ヒューモア)はある別な本性のものである。ギリシャ的皮肉(イロニー)に対抗するユダヤ的諧謔(ヒューモア)だ。諸記号に対する天分に恵まれていること、それらの出会いに自らを開くこと、それらの暴力に自らを開くことが必要である。知性はつねに事後にやって来る、それは事後にやって来るときに優良であり、事後にやって来るときにしか優良でない。プラトン主義に対するこの差異が他にもたくさんの差異を誘発するのはいかにしてかを我々は見届けている。〈理性(ロゴス)〉などありはしない、数々の象形文字(ヒエログリフ)があるだけだIl n'y a pas de Logos, il n'y a que des hiéroglyphes〕。思考するということ、それはだから解釈することである、それはだから翻訳することである。諸本質とは一度に翻訳すべき事柄でも翻訳自体でもあり、記号でも意味でもある。それらは思考することを我々に強いるべく記号の中に巻きつく、それらは必然的に思考されるべく意味の中に解(ほど)ける。いたるところに象形文字(ヒエログリフ)があり、その二重の象徴は出会いの偶然(アザール)〔hasard〕と思考の必然性である。「偶発的にして不可避」。(注26)




(1)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)284頁。
(2)ライプニッツ哲学における「襞(pli)」の概念の諸相については、ジル・ドゥルーズ著『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)が参考になる。
(3)日日日『のばらセックス』(前掲書)299頁。
(4)藤田博史『人形愛の精神分析』(青土社、2006年)66-70頁。
(5)日日日『のばらセックス』(前掲書)303頁。
(6)同書180頁。
(7)同書304頁。引用に際して、傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(8)同書8頁。引用に際して、傍点が付してある箇所を太字に改めた。
(9)同書379頁。
(10)同書8頁。
(11)同書386頁。
(12)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.61-62: « Etant qualité d'un monde, l'essence ne se confond jamais avec un objet, mais au contraire rapproche deux objets tout à fait différents, dont on s'aperçoit justement qu'ils ont cette qualité dans le milieu révélateur. En même temps que l'essence s'incarne dans une matière, la qualité ultime qui la constitue s'exprime donc comme la qualité commune à deux objets différents, pétris dans cette matière lumineuse, plongés dans ce milieu réfractant. C'est en cela que consiste le style: "On peut faire se succéder indéfiniment dans une description les objets qui figuraient dans le lieu décrit, la vérité ne commencera qu'au moment où l'écrivain prendra deux objets différents, posera leur rapport, analogue dans le monde de l'art à celui qu'est le rapport unique de la loi causale dans le monde de la science, et les enfermera dans les anneaux nécessaires d'un beau style". C'est dire que le style est essentiellement métaphore. Mais la métaphore est essentiellement métamorphose, et indique comment les deux objets échangent leurs déterminations, échangent même le nom qui les désigne, dans le milieu nouveau qui leur confère la qualité commune. Ainsi, dans les tableaux d'Elstir, où la mer devient terre, la terre, mer, où la ville n'est désignée que par des "termes marins", et l'eau, par des "termes urbains". C'est que le style, pour spiritualiser la matière et la rendre adéquate à l'essence, reproduit l'instable opposition, la complication originelle, la lutte et l'échange des éléments primordiaux qui constituaient l'essence elle-même. Chez Vinteuil, on entend lutter deux motifs, comme dans un corps à corps: "corps à corps d'énergies seulement, à vrai dire, car si ces êtres s'affrontaient, c'est débarrassés de leur corps physique, de leur apparence, de leur nom...". Une essence est toujours une naissance du monde; mais le style est cette naissance continuée et réfractée, cette naissance retrouvée dans des matières adéquates aux essences, cette naissance devenue métamorphose d'objets. Le style n'est pas l'homme, le style, c'est l'essence elle-même ».たぶん察しがつくとは思うが一応補足を加えておくと、エルスチールとヴァントゥイユはともにプルーストの『失われた時を求めて』に出てくる架空の人名で、前者は画家、後者は作曲家である。
(13)Ibid., p.176.
(14)Ibid., p.136-137: « Au contraire une œuvre qui a pour objet, ou plutôt pour sujet, le Temps. Elle concerne, elle traîne avec elle des fragments qui ne peuvent plus se recoller, des morceaux qui n'entrent pas dans le même pazzle, qui n'appartiennent pas à une totalité préalable, qui n'émanent pas d'une unité même perdue. Peut-être est-ce cela, le temps: l'existence ultime de parties de tailles et de formes différentes qui ne se laissent pas adapter, qui ne se développent pas au même rythme, et que le fleuve du style n'entraîne pas à la même vitesse. L'ordre du cosmos s'est effondré, émietté dans des chaînes associatives et des points de vue non communicants. Le langage des signes se met à parler pour lui-même, réduit aux ressources du malheur et du mensonge; il ne s'appuie plus sur un Logos subsistant: seule la structure formelle de l'œuvre d'art sera capable de déchiffrer le matériau fragmentaire qu'elle utilise, sans référence extérieure, sans grille allégorique ou analogique ».
(15)Ibid., p.138-139: « Les dragons de Balbec, le pan de mur de Ver Meer, la petite phrase, mystérieux points de vue, nous disent la même chose que le vent de Chateaubriand: ils agissent sans "sympathie", ils ne font pas de l'œuvre une totalité organique, mais fonctionnent plutôt comme un fragment qui détermine une cristallisation. Nous le verrons, ce n'est pas par hasard que le modèle du végétal chez Proust a remplacé celui de la totalité animale, tant pour l'art que pour la sexualité. Une telle œuvre, ayant pour sujet le temps, n'a même pas besoin d'écrire par aphorismes: c'est dans les méandres et les anneaux d'un style Anti-logos qu'elle fait autant de détours qu'il faut pour ramasser les morceaux ultimes, entraîner à des vitesses différentes tous les fragments dont chacun renvoie à un ensemble différent, ou ne renvoie à aucun ensemble du tout, ou ne renvoie à aucun autre ensemble que celui du style ».
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)261頁。
(17)同書298頁。
(18)同書354頁。
(19)同書379頁。
(20)フローベール『感情教育(下)』(生島遼一訳、岩波文庫、2004年第19刷)292頁、プルースト「文体とその周辺」(鈴木道彦訳)、『プルースト評論選I 文学篇』(保苅瑞穂編、ちくま文庫、2002年)229-230頁。なお、『感情教育』の訳者の名(「遼一」)が含む「遼」の字体は、岩波文庫版だとしんにょうの点が二つなのだが、表示できないようなので一つに減らさざるをえなかった。
(21)日日日『のばらセックス』(前掲書)212、373頁。
(22)同書202-203頁。
(23)谷崎潤一郎『刺青・秘密』(新潮文庫、2004年第71刷)17頁。
(24)なお以前も私はこの作品について、「めまぐるしくなるほどあちらこちらに、状況の反復や対称や反転がはりめぐらしてある」(「日日日『のばらセックス』7」)と書いたことがある。
(25)日日日『私の優しくない先輩』(2010年、講談社)118頁。
(26)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.122-124: « Proust est platonicien, mais non pas vaguement, parce qu'il invoque les essences ou les Idées à propos de la petite phrase de Vinteuil. Platon nous offre une image de la pensée sous le signe des rencontres et des violences. Dans un texte de la République, Platon distingue deux sortes de choses dans le monde: celles qui laissent la pensée inactive, ou lui donnent seulement le prétexte d'une apparence d'activité; et celles qui donnent à penser, qui forcent à penser. Les premières sont les objets de recognition; toutes les facultés s'exercent sur ces objets, mais dans un exercice contingent, qui nous fait dire "c'est un doigt", c'est une pomme, c'est une maison..., etc. Au contraire, il y a d'autres choses qui nous forcent à penser: non plus des objets reconnaissables, mais des choses qui font violence, des signes rencontrés. Ce sont des "perceptions contraires en même temps", dit Platon. (Proust dira: sensations communes à deux endroits, à deux moments.) Le signe sensible nous fait violence: il mobilise la mémoire, il met l'âme en mouvement; mais l'âme à son tour émeut la pensée, lui transmet la contrainte de la sensibilité, la force à penser l'essence, comme la seule chose qui doive être pensée. Voilà que les facultés entrent dans un exercice transcendant, où chacune affronte et rejoint sa limite propre: la sensibilité qui appréhende le signe; l'âme, la mémoire, qui l'interprète; la pensée forcée de penser l'essence. Socrate peut dire à bon droit: je suis l'Amour plus que l'ami, je suis la torpille, la contrainte et la violence, plutôt que la bonne volonté. Le Banquet, le Phèdre et le Phédon sont les trois grandes études des signes./Mais le démon socratique, l'ironie, consiste à devancer les rencontres. Chez Socrate, l'intelligence précède encore les rencontres; elle les provoque, elle les suscite et les organise. L'humour juif contre l'ironie grecque. Il faut être doué pour les signes, s'ouvrir à leur rencontre, s'ouvrir à leur violence. L'intelligence vient toujours après, elle est bonne quand elle vient après, elle n'est bonne que quand elle vient après. Nous avons vu comment cette différence avec le platonisme en entraînait beaucoup d'autres. Il n'y a pas de Logos, il n'y a que des hiéroglyphes. Penser, c'est donc interpréter, c'est donc traduire. Les essences sont à la fois la chose à traduire et la traduction même, le signe et le sens. Elles s'enroulent dans le signe pour nous forcer à penser, elles se déroulent dans le sens pour être nécessairement pensées. Partout le hiéroglyphe, dont le double symbole est le hasard de la rencontre et la nécessité de la pensée: "fortuit et inévitable" ».なお、この原文を読めばわかるとおり、ドゥルーズは『メノン』でなく『パイドン』〔Phédon〕と書いているが、ソクラテスが「シビレエイ」になぞらえられるのは『メノン』であるので、訳出に際して書名を変更した。

category: 『のばらセックス』

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