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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』 

『のばらセックス』におけるアレゴリー(寓意)の問題について考えようとする中で(日日日『のばらセックス』11)、『大奥のサクラ』も無視できなくなってきたので、簡単な覚え書きを残しておくことにする。

なんでもこれは「戦国時代、天下分け目の関ヶ原の合戦において豊臣側が勝利した、架空の歴史の延長線上としての『現代』が舞台になったお話」(注1)であり、時代はおよそ西暦2050年頃のこと、日本の首都は豊臣幕府の征夷大将軍のお膝元である大阪で、大阪城にある大奥女学院では、全国から集められた三千人の姫君たちが、上位に勝ち上がろうとして日々しのぎを削り、生死を賭した血みどろの戦いを繰り広げているという。まあ、大坂夏の陣ならばともかく関ヶ原の合戦は豊臣政権の内紛だから「豊臣側が勝利した」という表現は意味が通らないとか、そもそも秀吉が征夷大将軍にならなかった(あるいはなれなかった)以上、西軍(石田三成)が東軍(徳川家康)に勝ったところで豊臣氏(秀頼)が幕府を開くという結果にはつながらないんじゃないかとか色々気になる点はあるのだが、そういう野暮な問題はあまりしつこく追及するにも及ぶまい。
それよりも大切なのは、大奥に集った少女たちの大部分が、関ヶ原で西軍勝利の決め手となった「時空間爆弾」の名残で生まれたミュータントの子孫であり、一人一人が特異な身体能力を持つという点だろう。主人公の「百手姫(むかでひめ)」ことさくらの能力は植物の操作であり、彼女とともに暮らし、ともに戦う仲間たちも、薬師の水蛇(みずち)は体液の操作、師匠格の銀狼(ぎんろう)は自身の肉体の硬化と質量の増大というふうに、それぞれ異能の持主である。もちろん、例えば山田風太郎をかえりみるまでもなく、時代劇風の世界の中で多彩な登場人物が人間離れした身体能力をこれでもかとばかりに披露してくれる小説ならば、我々はすでに少なからず知っている。だが『大奥のサクラ』は、対戦相手を殺害するか瀕死に追いこむべしというこの上なく明確で単純な目標が全員に定められていることもあって、手に汗を握りつつ諸能力間の多様な駆け引きそのものに関心を集中するような読み方をどこかでやんわりと拒んでいるようでもある。水蛇同様に「体液操作」ができるという阿呆鳥(あほうどり)に至っては、自身の血液を固めて拳銃と弾丸を作ったり、他人に輸血して意志を支配下に置いたりと恐るべき万能ぶりであるし、以下で検討したい第2巻では、赫竜(あかとんぼ)が人工知能研究における「フレーム問題」を引き合いに出しつつ、普段は抑制しているが本来は際限なく周囲のものを燃やし尽くすのが自分の体質だと明かしている(注2)。この過剰さ、ないし外見上の適当さは、およそ我々が生きるとは身体的な存在として生きることにほかならず、そこには否応なしに他者を排斥する暴力性ないし遠心力が伴っているという命題を認めるとき、初めて説明がつくように思えるのであり、そしてこの命題は、『パサージュ論』のための草稿から次に引用するベンヤミンのアレゴリー観にも重なるところがあるはずだ。

アレゴリー志向には事物とのどのような親密さも無縁なのである。アレゴリー志向にとって、事物に触れるとは事物に暴力を加えることである。事物を認識するとは事物を見抜くことなのである。アレゴリー志向が支配するところでは、習慣というものは一切形成されえない。事物が捉えられた途端に、〔その事物が置かれている〕状況はアレゴリー志向によってすでに排除されてしまっている。(注3)

「アレゴリー志向にとって、事物に触れるとは事物に暴力を加えることである」という指摘は、この引用文を読んでいるだけでは少々唐突に思えるかもしれないが、そもそも『ドイツ悲哀劇の根源』によれば、ベンヤミンにとってアレゴリー表現とは「歴史を世界の受苦の歴史として見るバロック的、世俗的な解釈の核心」にして「人にかかわるものより事物的なものが優位にあるという点、総体的なものより破片のほうが優位にあるという点で」シンボル(象徴)に対抗するものでなくてはならず(注4)、それゆえ「生と芸術を美化し、それらを耐えうるように見せかける全体的とか有機的なものという仮象の追放」(注5)でもあったという事実からごく自然に出てくる判断であろう。同じく「事物を認識するとは事物を見抜くことなのである」という指摘も、もともと貧弱な仮象の輝きしか持たなかったバロック期の悲哀劇は、ある意味で最初から「作品の壊死」としての「批評による解体」を待ち受けていたという洞察を引き継ぐものであるとともに(注6)、さくらが銀狼に、さくらの恋人である将軍の御曹司豊臣秀影(ひでかげ)がさくらに擬態するという第2巻の仕掛けを準備するものとしても読めるはずである。
アレゴリー(寓意)における仮象の解体、総体の断片化は、さらに意味の恣意性、ないしアレゴリカー(寓意の作り手)への依存性とも不可分である。

 対象がメランコリーのまなざしにさらされてアレゴリー的なものとなり、メランコリーがその対象から生命を排出させ、対象が死物と化しながらも、しかし永遠に確保されたものとしてあとに残るとき、対象は無条件に身柄をアレゴリカーに引きわたされたまま彼のまえに横たわる。ということはつまり、対象はそのときから一つの意味、一つの意義を内から発することがまったくできなくなるということである。意味はといえば、アレゴリカーが与えるものが対象の意味となる。(注7)

この極端な恣意性を、ベンヤミンはトルコの後宮(ハレム)の太守の振舞になぞらえている。

恣意こそ、知の力をもっとも露骨に示す証左なのである。〔中略〕たしかにこれは、自然を支配している節約の法則には合わないだろう。しかし、意味が闇の太守として事物の後宮(ハレム)に君臨しているアレゴリーの快楽は、この浪費を比類なくよく表わしている。なにしろサディストは、対象を貶め、そのうえで―あるいはそうすることによって―対象を満足させてやるのが特徴なのである。はたしてアレゴリカーは、架空の残虐さにも実際に味わう残虐さにも酔いしれていたこの時代にあっては同じことをしている。(注8)

後宮(ハレム)、それは日本風に表現しなおせばまさしく「大奥」であり、それ以外の何ものでもない。もちろん、豊臣幕府の大奥女学院は血生臭い殺戮の場であってこの語が連想させる妖艶な雰囲気からは程遠いわけだが、一応序列が三位以上の者は将軍の側室に、一位だと正室になれるという決まりであり(注9)、「漁色」と将軍家の「血筋の確保」という後宮ないし大奥本来の機能も、完全になおざりにされているわけではない。そこに君臨するのは秀影の父、征夷大将軍豊臣吉刳(よしくる)である。彼は三年前、諸国漫遊中にさくらと知り合って恋に落ちた息子に教育を施すという名目で、彼女の故郷を焼かせ、その父を殺して秀影の目の前で食し、あまつさえ彼女の四肢を切り落としたことがある(したがって現在のさくらは義手と義足を身に着けて生活している)。たぶんこの時点で吉刳はとうに寵姫の絲妃(あらくね)によって精神を狂わされていたのであろうが、理由はどうあれ、秀影が彼から学んだ倒錯気味の帝王学は、それなりに傾聴に値する。

 吉刳は舌の上に脳の切れ端をのせて、口のなかでむちゃむちゃと噛みしめながら。
「おまえは痛みを知らなくてはいけないよ。哀しみを、絶望というものを知らなくてはいけないよ。秀影、可愛い秀影。どうしてだかわかるかな?」
 口調はあくまで優しかった。けれど、狩りの獲物を踏みにじり、血まみれにして、生き様を教える野獣の優しさだった。これは教育だったのだ、吉刳から秀影に対しての。
「おまえは支配者になるからだよ。この国でいちばん偉い権力者になるからだよ。つまり僕の息子だからだよ。だからおまえは愛を知り、それを踏みつぶされる痛みを知らなくてはいけないよ。楽しさを、幸福を知り、それを奪い去られる苦しみを知らなくてはいけないよ」
 素っ気ないと思うほどの無感情で、吉刳は淡々と語った。
「貧乏を、失恋を、激痛を、知らなくてはいけないよ―でなくては、満たされていても、それを自覚できない。感謝できない。感謝が必要だよ、秀影。僕たちはこの国を所有する、天下の大将軍。僕たちが抱えているものの重みの一端でも、おまえは実感する必要があるんだよ」(注10)

まず与え、しかるのちすみやかに奪うこと、あるいはむしろただ奪わんがためにのみ与えること、この理屈がいかに倒錯的に聞こえようとも、これは世にあふれかえるあまたの小説を貫くほとんど普遍的な原理にほかならない。ただ、通常の小説においては用心深く包み隠されているはずのこの原理が、まるで冗談のような「吉刳」という名の人物―彼は秀影の初恋を黙認することでまず「吉」兆を与え、しかるのち希望を残酷な手口で「刳」り抜く―の、「名は体を表す」を地で行くがごとき、「いちど限界まで肥満してから猛烈に肉を削ぎ落としたような皮のたるみ」(注11)に覆われた怪物的な身体の中に堂々と寓意化されているところが、ベンヤミン好みの語を借りるなら、「髑髏」か「廃墟」じみた不気味な相貌を『大奥のサクラ』に与えているのだ(注12)。さしずめ、新生児を見ようと思ったのにいきなり髑髏に出くわし、落成式に出席したつもりがいきなり廃墟を目にしたときの気分とでもいったところだろうか。もちろん、放火や殺人や人肉食がそれ自体として恐るべき所業なのは当然だが、そこに模範的を通り越して戯画的な誇張にまで達した仮象の没落と、被害者たちの嘆きを無視したまま己の凶行(ことに人体の寸断)に好き勝手な意味づけを行ってのける、アレゴリー的な「闇の太守」たる吉刳の極端な恣意性とが露呈しているからこそ、読者は戦慄を覚えずにいられないのである。

主である将軍からしてそのようなアレゴリーの権化なのであってみれば、大奥に暮らす少女たちの間では、先に引用した『パサージュ論』のための草稿に書いてあったとおり、「事物に触れる」ことがそのまま「事物に暴力を加えること」に等しく、生き抜くためには「事物を認識する」ことが「事物を見抜くこと」でなくてはならないことを肝に銘じる必要があるとしても何ら不思議はない。ただし、ここに触覚の直接性と視覚の間接性という別個の主題が流れこんできていることは見落とせまい。「暴力」は対象の存在を無に帰することもありうるが、「見抜く」だけならばとりあえず対象を物理的に損傷することにはならないからだ。そのような区別は古代ギリシャ以来ずっと西洋哲学にとってなじみ深いものであり、ベンヤミンの高名な論文「複製技術時代の藝術作品」にも余波を及ぼしている。この論文によれば、「いま・ここ」にしかないという特徴(かけがえのなさ)ゆえに伝統的な藝術作品が帯びる真正性の雰囲気は、複製技術の発達によって日に日に打ち壊されつつあり、藝術は複製技術を介して日に日に大衆にとって身近なものになりつつある。この「礼拝価値」から「展示価値」への転換において失われざるをえないある種の雰囲気、それが「アウラ」である。

そもそもアウラとは何か。空間と時間から織りなされた不可思議な織物である。すなわち、どれほど近くにであれ、ある遠さが一回的に現われているものである。夏の午後、静かに憩いながら、地平に連なる山なみを、あるいは憩っている者の上に影を投げかけている木の枝を、目で追うこと―これがこの山々のアウラを、この木の枝のアウラを呼吸することである。(注13)

マルクス主義者でありながらユダヤ神秘主義に裏打ちされた繊細な批評家でもあった1930年代半ばのベンヤミンは、一方では大衆化社会におけるこのような「アウラ」の凋落を哀惜しつつ、他方ではそこにファシズム的な「政治の耽美主義化」と共産主義的な「藝術の政治化」の双方に開かれた両義性を感じとってもいるわけだが、ここでそのような論文全体の構成にもまして注目したいのは、伝統的な藝術の世界と、映画が代表するような、複製技術の発達によって初めて可能になった新しい藝術の世界との対比、すなわち「アウラ」が健在な世界とそうでない世界との対比を、ベンヤミンははっきり「視覚」と「触覚」との対比として考えていたということである(注14)。「ある遠さが一回的に現われているもの」としての「アウラ」が失われつつあり、危機に瀕しているということが、ベンヤミンをして彼の生誕(1892年)よりも少し前の、ボードレールが生きた時代のフランスを、アレゴリー(寓意)の概念を媒介として、バロック時代のドイツ文化に重ね合わせて考察せしめた共通点なのであって、それというのも「アレゴリー的表現に傾く時代は、どうやらアウラの危機を経験したらしいことだけは確かである」(注15)からだ。そして、「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」という論文には、「ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することである」と書いてあり、「アウラ」の視覚的性格をさらに厳密に定義しようとする努力がうかがえる(注16)。だとすれば我々は、断片化や意味の恣意性と並ぶベンヤミン的なアレゴリーの特質として、触覚が視覚を侵略し、あるいは圧迫するという事態を挙げても許されるのではなかろうか。
『大奥のサクラ』に描き出された大阪城の大奥女学院はまさしくそのような場所であり、そのことは何よりも第1巻の冒頭で、初めて大奥を訪れた秀影が、案に相違して少女たちの凄惨な殺し合いと、試合に熱狂して賭博に興じる大名や豪商との対照を目の当たりにすること、またこの悪趣味な見世物の中に選手として姿を現わした「百手姫」に、三年前別れてそれっきりだったさくらの面影を見出して驚きながらも、ひとたび始まった試合を止めることはできず、「あらゆる干渉を許さない絶対的な壁」であるという硬い「硝子壁(ショーケース)」(注17)越しに、彼女が命がけの戦いに挑む様をなすすべもなく眺めているほかないことから明らかである。「硝子壁(ショーケース)」の彼方には、どんなに些細な接触も油断すれば死に直結しかねない、戦国時代さながらの女たちの真剣勝負があり、手前には中で何が起きようとも手を出すことが許されない、まるで目そのものと化したかのような無力で無害な男たちがいる。そして主役はあくまでも前者のほうであり、後者は―興行を続けていく上で欠かせない出資者でもあるとはいえ―あくまでも観客という立場に徹している。もちろん、効果的な攻撃のためには正確な視認が必要なことは自明だし、観客抜きの興行というものも考えにくい以上、単純に触覚が視覚よりも上位にあるとは断定できない。なにしろ遠すぎて触れることができない対象にも、視線は一瞬で届くのだ。よって第1巻の時点では、触覚と視覚の関係は、一方的な侵略や圧迫というよりは単純な分離と考えておくほうがよいのかもしれない。ことに、秀影がさくらに触れることがかなわないのとちょうど対称的に、表向きは豊臣幕府内務監察局の二級職員「鴉」として仮面をつけて行動している彼の正体が、さくらには途中まで不明なままであること、換言すれば秀影の側には触覚的な不完全性が、さくらの側には視覚的な不透明性が課せられていることを思えばなおさらである。もっとも小説も中盤をすぎて第四幕にさしかかるあたりから、さくらは「鴉」が秀影その人であることにうすうす気づいているようなのだが、そのことは必ずしも第五幕の大詰めにおける秀影の名乗りの瞬間から劇的な衝撃力を奪うことにはならず、むしろ、大奥においては触覚と視覚の同期がどうあがいても例外的な幸福にすぎないことを立証しているようである(注18)。

この分離がはっきりと対立にまで高められ、触覚による視覚の駆逐の試みへと発展するのが第2巻である。ここでは今日の大奥を作り上げた諸悪の根源とされる、序列一位(すなわち将軍の正妻である)の強敵・絲妃(あらくね)を吉刳ともども打倒せんとするさくらたちの陰謀が筋書の中心を占め、銀狼とその母である序列四位の金獅子(きんじし)が絲妃に立ち向かうことになる。
絲妃の能力は名前の通り糸の操作である。極細の繊維を絡み付ければ人体を切断できるし、他人の神経系に介入すれば洗脳や拷問も思いのまま、糸を背中で縒りあげれば筋骨隆々たる八本の腕に早変わりという具合で、さすがは大奥の女王というべきか、「接触」の邪悪さ・狡猾さもここに極まった感がある。それに応じて視覚的な要素の貧弱さもまた顕著である。漆黒の衣装に身を包んだ彼女が潜む大阪城の「女郎蜘蛛の間」は、縦横無尽に人工の蜘蛛の巣が張り巡らされ、ほとんど光の射さない暗黒の部屋であるし、銀狼と対峙した絲妃は、失敗に終わったとはいえ手始めに相手の「眼球」をつぶそうとしている。たしかに彼女自身は盲人ではないが、銀狼の硬化能力を打ち破ってついに右手を切断することに成功したのは、絲妃が片目を、敵の弱点を解析できるという「夜鷹(よだか)」―すでに故人らしい―の眼球に取り換えていたからだ(換言すれば、絲妃の視覚的な優位は生来のものではない)(注19)。どうも糸を精製する能力は持たないことからすると、糸の操作に特化した独自の感覚が彼女の能力の正体なのだろう。おそらくそれは、己の筋繊維の活動を一本一本識別できるほどの精妙な感覚である。大奥が触覚の支配する空間であり、ほかならぬそのことによって血生臭い殺戮の場でもあることの証人として、彼女以上にふさわしい人材は他にいない。
対して、吉刳がまだ正気だった頃に最も彼の寵愛を受けていた金獅子は、純然たる視覚の世界に身を置いている。単に容姿が華やかで衣装も黄金色であるというだけでなく、本人は「分子操作」(注20)だと説明するその能力が、武器(鉄球)および彼女自身の透過性として、すなわちいかなる障壁をも潜り抜ける無遠慮さと、いかなる打撃によっても損なわれることのない手ごたえのなさとして発現しているという点において、金獅子はほとんど個々の視覚対象を超越しているような、見ることを可能にしてくれる条件そのもの、すなわち光の源なのである。「彼女は当時、『大奥』の頂点で燦然と輝く太陽だった」(注21)という文はそのことをはっきりと暗示、否明示している。これを逆に考えれば、金獅子は触覚の領域からは完全に締め出されているということに等しい。例えば、彼女は相思相愛の仲だった吉刳との間で、正常な性交によって子をなすことができなかった。息子の秀影は絲妃の力を借りた体外授精の賜物だし、銀狼ももともと捨て子で、狼に育てられていたのを金獅子が拾って養子にしたという関係である。
第2巻の筋書の悲劇性は、触覚と視覚という両極を代表するこの二人の関係が胚胎せざるをえなかった非対称性に由来している。子育てに専念したいという理由で正室の座を譲り受けたのをこれ幸いとばかり、吉刳の脳を改造して金獅子のことを忘れさせ、秀影を彼女のもとから引き離し、あの手この手で彼女を孤立させて大奥の中にいづらくした絲妃の執拗ないじめは、その実「柱の陰から、太陽を仰ぎみるように」(注22)金獅子の放つ輝かしい「アウラ」に惹きつけられる恋心の産物であり、吉刳に夢中だった彼女の心に、せめて憎悪によって己の存在を印象づけたいと願ってあがいた結果だったにすぎない。

「あんたはいつもそう、自分が周りからどういうふうに見られてるか知らないから―あたしみたいな女が、あなたに話しかけたら、恋なんてしたら……あなたを汚してしまう! だから、あたしは見てるだけでよかった。気持ちを秘めてるだけで満足だった……」
『絲妃』が、嘔吐(えず)くように。
「でも、こんなに好きなんやから―言わなくても伝えなくても理解してほしかった!」
 その、いびつだが素直な言葉に、『金獅子』はむしろ怒ったように。
「甘えるなよ、そんな遠くで好きだの愛してるだのどれだけ空虚な言葉を重ねても、私の心には届かんぞ」
「じゃあ、どうすればよかった―どれだけ愛しても、愛しても……。届かなかった、伝わる気がしなかった、だからあなたの周りで騒がしくしてる邪魔者をぜんぶ排除して、あたししか見えないようにして……!」
「あぁ、おかげでおまえがよく見える、今からおまえに会いにいくぞ!」
 どん、と『金獅子』が踏みこんだ。〔中略〕
「ひいいっ、待ってまだ待ってだってまだ愛される確信がないもの―やめて、あなたに嫌われたらあたしは生きている価値がない! 近づかないで、こないで! 勇気がでたら絶対に気持ちを伝える、その日を待ってあたしはあたしは……!!」
 八本腕が唸る、『絲妃』の悪意の結晶のようなそれが、『金獅子』の全身を打った。今度こそ牽制ではない、本気の打撃だ。血が飛んだ、骨が軋む音がした。
「何で避(よ)けへんのよォ!?」
『絲妃』が絶叫し、『金獅子』は笑った。
「馬鹿め、愛のある攻撃は痛くないぞ! むしろ心地よいわ!」
「ひいいいっ!?」
 理解不能、という表情で『絲妃』が連続攻撃、鈍い音がして『金獅子』が削られていく。だが歩みは止まらない。両手を広げ我が子を守ったまま、歩みゆく。
「もっと喧嘩をしよう、若者じみた理由で! 殴りあおう、罵りあおう、私たちに足りなかったのはそれだ! 遠慮をするなぁ、親友(とも)よ! 青春の鬱屈をぶつけてくれ、もっと殴ってくれ、もっともっと愛しておくれ―『絲妃』!!」
「何なの、何なの、今さらぁあああ!?」
『絲妃』が自棄(やけ)になったように連撃、そのたびに『金獅子』は震撼し、冗談みたいに血が噴出する。一秒ごとに建物が灰燼に帰すような重みでぶん殴られてるのだ、立っていられるのが不思議なぐらいだ、常人なら一撃で即死だ。(注23)

金獅子が殴打を避けようとしないのは、背後の銀狼を守るという意図ももちろんあるのだろうが、それだけにとどまらず、ちょうど光がそうであるように、何かにぶつかって痛みを感じるという経験からずっと逃避してきたかのような己の生き方を反省しつつ、絲妃の愛憎を真正面から受けとめ切ろうとする決意の表れだろう。とはいえこの対面は、臆病さが高じて錯乱に陥り、近づく者全てをたとえ恋しい人であっても破壊せずにはいられない絲妃と、単に肉体の厚みに拘束されないというだけではなく、まるで平面の像になろうとしているかのごとく本当に(物理的に)その厚みを削ぎ落とされて刻一刻と生命が薄れてゆく金獅子との対比を通じて、触覚の暴力性と視覚の彼岸性とを余計に強調することにしかならない。ここでの金獅子の言動が、勇気に加えてある種の捨て鉢な薄気味悪さをも漂わせているのは、たぶん、本来なら視覚の源泉として超然と遠方の高所にとどまっているべき太陽が、自分から触覚の世界に歩み寄ってきたことに原因がある。なにしろ「ある遠さが一回的に現われているもの」というベンヤミン的な「アウラ」の定義からすれば、遠さの喪失だけで「アウラ」が死ぬには十分すぎるほどであるからだ。遠くから視覚を介して憧れるだけだった対象を、いまや大衆は触覚的に我が物にしつつあるという現状認識を提示しつつ、必ずしも諸手を挙げてそのような事態の成行を歓迎するのではなしに、「アウラ」の凋落という観点から小さからぬ懸念を表明してもいる「複製技術時代の藝術作品」の分析の引き裂かれたような調子に、何かしら一脈通じるものがあるのではなかろうか。ともかくこの論文によれば―視覚が注意の集中と縁が深いのとは違って―、触覚とは新たな習慣の形成に役立つ感覚なのである(注24)。かつては「平和で、愛だけがあった」(注25)大奥を徐々に侵蝕してくる殺伐とした空気に耐えられず、全国を行脚して人助けに専念することでようやく自尊心を保っていた(銀狼との出会いはこのときのことで、かれこれ十年以上昔らしい)という金獅子を尻目に、とめどなく進んだ腐蝕の結果として、主人公であるさくらたちの世代にとってはもはや大奥は隅々まで殺戮と闘争が蔓延し常態化した戦場以外の何ものでもなく、その頂点には無敵の暴君絲妃が、まるで最初からいたような顔つきで―さながら巣の中心にいる蜘蛛のごとく―平然と居座り、一向に退く気配を見せないという事情は、このような、視覚との対照を通じて判明する触覚特有のしぶとい習慣形成力から説明すべきではないかとも思える(なお、「アラクネ」はギリシャ神話中の織物の名手の名で、女神アテナとタペストリーの腕前を競った結果、作品の出来栄えは認められたものの絵柄の主題が不敬だという理由で蜘蛛に変身させられたという)。
しかし、金獅子本人は果たして視覚の人と呼べるのだろうか。すでに書いたように彼女が「見ることを可能にしてくれる条件そのもの、すなわち光の源」なのだとすれば、彼女を評して絲妃が叫ぶ、「自分が周りからどういうふうに見られてるか知らない」という悲鳴からもうかがえるように、金獅子の眩く輝く魅力も透明性もあくまでも周囲の人々(吉刳、絲妃、銀狼…)の目にとって存在する特徴であるにすぎない一方で、彼女自身に具わった見る能力、ないし洞察力は、むしろ豪快な性格にふさわしく若干鈍そうですらある(長いつきあいだというのに、絲妃の悪意の裏に潜む恋心を見抜けなかったのが何よりの証拠だ)。吉刳の大奥の最古参にして、まがりなりにも血のつながった息子(秀影)がいるにもかかわらずいまだに処女であるという、過剰なまでの肉体的な純潔さからも明らかなように、金獅子の能力は生身の彼女にとっては結局主に極端な自己疎外、ないし身体からの意識の隔離をもたらす要因として働いている。なにしろ自分の手で自分の体に触ることならばたやすいが、自分の目で自分の顔を見るとなれば一苦労なのだ。他者の目には映っても自分では見通せない魅力をもてあまし、誰よりもそれに振り回されていたのは、もしかすると彼女自身ではなかったか。こう考えてくると、遠近法の西洋思想史を古代ギリシャから現代まで縦横無尽に駆け巡る中で神崎繁が突き当たった、見ることに定義上つきまとう間接性ないし距離は、単に大奥における視覚と触覚の分離のみならず、金獅子その人の全生涯を貫く宿命をも予告している観がある。

 見ることと動くこと、知ることと行為することは、一種の回転扉のようなもので、一方が他方を絶えず背後に退けるようにして交代するということが言われる。また、視覚は基本的に「距離の感覚」だとも言われる。つまり、触覚や聴覚と違って、一定の距離を置くことが条件となっている感覚だという意味である。眼の前にしているのに手を出せない、あるいは出してはならない。これが視覚の本性だとすれば、それが「何かを通して」という間接性の源であろう。〔中略〕
「遠近法」はその限りでいつまでも〈神話〉であることをやめない。それは寓話(アレゴリー)の、しかも最も重要な語りの様式なのである。(注26)

自ら視覚を行使するというよりも、大奥に暮らす誰もが憧れとともに仰ぎ見ずにはいられない、すなわち間に距離を挟みつつ「何かを通して」見るほかない、「眩しい太陽みたいな」(注27)視覚の絶対的な条件にふさわしいアレゴリー(寓意)とは、このように視線そのものというよりはむしろ遠近法であり、さらには光学(optics)であろう。
絲妃が雨あられと浴びせる殴打を金獅子が全身で受けとめ、触覚の破壊性に存分に身をさらす場面は、このような状況の決定的な転換として読むことができる。すでに引用したベンヤミンの文章によれば、アレゴリーを生ぜしめるのはそもそもメランコリー(憂鬱症)のまなざしである。

 対象がメランコリーのまなざしにさらされてアレゴリー的なものとなり、メランコリーがその対象から生命を排出させ、対象が死物と化しながらも、しかし永遠に確保されたものとしてあとに残るとき、対象は無条件に身柄をアレゴリカーに引きわたされたまま彼のまえに横たわる。(注28)

さて、『ドイツ悲哀劇の根源』は、ルネサンス期におけるメランコリーの寓意として、特に「犬」・「球」・「石」を挙げている(注29)。とすれば、20歳とは思えぬ幼い容姿に「尻尾」じみたポニーテールを生やし―たぶん、本人は金獅子に拾われるまで育ての親であった狼を真似ているつもりなのだろう―、本気を出すと「わんわん」と吼え(注30)、戦闘においては肉体を硬く凝固させて一時的に質量を増やすことで圧倒的な強さを発揮する銀狼は、少なくともうわべの特徴に注目するかぎりでは、何はさておきメランコリーの人であると考えなくてはならない。それゆえ彼女が立会人であることによって、絲妃との戦いを通じた金獅子の肉体の破壊は、はっきりとアレゴリーの生成として定義できることになるのだ。
それにしても、一体何のアレゴリー(寓意)なのか。接触全般からの隔離の中で、処女でありながら息子と娘がいるという齟齬ないし矛盾を抱えこんで生きてきた金獅子の経歴を考えてみれば、答は自ずと明らかであろう。それは「母」のアレゴリーでなくてはならない。

「俯(うつむ)くな、『銀狼』。私の子だろ、もっと誇り高くあるべきだ」
「せっしゃ おかあさま の …」
「私の子だ、忘れるな。子どもが何もできんのは当たり前だ、失敗してそれを糧にして成長するのだ愚かもの! 泣き言を吐いている暇があったら黙って私についてこい!」
〔中略〕
 このひとなら、この状況で、きっとこうする。
 親子ゆえの確信、確信したからこそ『銀狼』は泣く。
「おか あ さま …!」
 ぼろぼろと涙を零(こぼ)し、けれど拭(ぬぐ)って、母の背中を追う。
 忘れまい、この勇姿。
 我が人生に一片の悔いなし、そう全身で主張するかのような母の死に様よ!(注31)

このアレゴリー化が極限に達したとき、すなわちついに絲妃のもとにたどり着いた金獅子が彼女と静かに抱き合うとき、透過性はもはや触覚の欠落という宿業であることをやめ、あべこべに本来ならばありえない形で母子の一体性を創出することになる。

 母の背中が言っていた、今こそ親子になるべきだ。
〔中略〕
「おおおおおおお!!」
『銀狼』は気合いを入れて雄叫び、『金獅子』の背中に飛びこんだ。『金獅子』の分子操作能力が、『銀狼』を受けいれる。母の肉のなかを泳ぐ、出産の疑似体験のように―母のお腹(なか)を突き破り、『銀狼』が『絲妃』の前面に押しだされる。
 そのまま、左腕を突きだした。
 驚くほど呆気(あっけ)なく、それは『絲妃』の肋骨の真下から、潜りこんだ。
「げうっ―!?」
『絲妃』が目を剥(む)いて、口から大量に吐血した。『銀狼』は『金獅子』の体温を感じる、母に抱きしめられているのを理解する、ならば誰にも負けない。
 今こそ。
「てん に かわって あく を うつ」
 再び、本懐を叫んだ。
「どくふ『あらくね』ほろぶべし!!」(注32)

ここからさらに2頁を費やして描かれる絲妃への「過剰攻撃」は、『みにくいあひるの恋』と同様、恋愛が母子の愛に完膚なきまでに敗北を喫する事例として別個の注意深い検討を要するはずであるが、ともかく絲妃は銀狼の手で絶命に至らしめられ、瀕死の金獅子もほどなくその後を追うことになる。あえて作家の実人生について精神分析もどきの勘繰りを働かせるなら、あるいは幼い時分に(例えば小学生の頃にでも)母を亡くした経験に何とか理解可能な―許容可能ではないにしても―意味を与えたいという狙いが隠れているのかもしれないが、こういう憶測は若干悪趣味な気がするので深入りは避けたい。
それよりも気になるのは、死に際の金獅子が、一方的に「太陽」として仰ぎ見られる側の立場をついに脱して、逆に「太陽」を仰ぎ見る側にまわっていることである。

『金獅子』が『銀狼』の耳にくちびるを押し当て、母が赤ん坊にそうするように、めいっぱいの愛情をこめて。
「私はね、おまえのことが―だぁい好きなのだよ」
 その単純な、世界で百万回も口にされただろう言葉が、何より嬉しかった。
『銀狼』の頭をふさふさと撫でて、『金獅子』は愛しそうに。
「『銀狼』、泣くな。私の子……。胸を張れ、天晴(あっぱ)れだ。おまえは私の誇りだ、ううん―」
心を受け継ぐように。
「私の、太陽だ」
 それが最後だった。
 鼓動が止まった。(注33)

私は以前の記事の中で(日日日『ビスケット・フランケンシュタイン』)、「日日日(あきら)は現代のスピノザである」と書いたことがある。そのときは万物の「神」への内在―この場合の「神」はキリスト教的な超越神とは異なり、ほとんど自然そのものの異名である―や、心身並行論などに注目したのであるが、いましがた読んだばかりの『大奥のサクラ』第2巻の大詰めの場面は、この命題を少し違う角度から補強してくれることが期待できる。なんとなれば、ドゥルーズは『批評と臨床』(1993年)の最後を飾る論文「スピノザと三つの『エチカ』」で、「純粋に光学的なる世界に上昇することは、プラトンに対するプロティノス、デカルトに対するスピノザの役割なのだ」と述べて、スピノザの『エチカ』は第五部に至ってもはや情動でも概念でもない「本質」の書としての相貌を見せ始めること、そして本質の振舞は「光の純粋な諸形象」のそれに等しいことを、次のような言葉づかいで力説しているからである。

それらは、それ自体で「観想」なのである。それはつまり、神の単一性、主体あるいは客体(知覚対象)の単一性において、それらは観想するのと同時に観想されるということである。(注34)

「光の純粋な諸形象」といういささか謎めいた表現は、決して単なるしゃれた修辞の戯れとして受けとってはならず、観想するものと観想されるものとの一体性という独特な厳密さに沿って読まれなくてはならない。「光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である」といったスピノザ自身の言葉づかい(注35)からもうかがえる光学的な原理を推し進めた結果として、視覚はもはや自己疎外的な原理であることをやめ、さりとて絲妃の痛々しい錯乱ぶりに表れているような触覚的な自己閉塞への退行とも違う、光源(太陽)の晴れがましい自己認識へと変じるのだ。その機微はとりわけ『エチカ』第五部の定理30において明らかである。

我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。(注36)

金獅子が絲妃に会うまでの己の「神様」のような思い上がりを、どこか懐かしむような口調で回想している一方で(注37)、銀狼はそんな彼女の体内に背中から潜った結果、「母の肉のなかを泳ぐ、出産の疑似体験」を経て自分もまた母と同じく、そして母にとって一つの「太陽」であることを確実に知る。あたかも二つの「太陽」が、視線の運動にとって不可欠な距離を抹殺することはないまま、しかも寓意(アレゴリー)的な形象としての同一性ゆえに、スピノザ的な、神における、また神を通じた自己の永遠性の観想によく似た結果を将来しているかのようである。
スピノザにおいては「すべては光であり、〈暗きもの〉も影にすぎない」。これこそドゥルーズが、スピノザ哲学は「バロックよりもビザンティウムに近い」と判定した理由である(注38)。わずかな示唆ではあるが、あるいはここからビザンティン美術におけるイコン(聖像)の伝統を想起するのもあながち牽強付会とはかぎるまい。というのも、岡崎乾二郎によれば、物理的にはあくまでも人間の手で描かれた対象にすぎないにもかかわらず、それほど単純な享受のあり方にやすやすと服さないところに、8世紀から9世紀にかけてビザンティン教会が聖像破壊運動(イコノクラスム)の激震を経たのちに確立をみた、イコンというものの特色があるからだ。真正面を向く巨大なキリストの顔は、決して我々によって見られる一方の客体なのではない。

むしろ人がイコンを通して観想すべきなのは、イコンそれ自体ではなく、その像が発出されたところの不可視の源、本来測り知れない無限定な源である。言いかえれば、その不可視の源から発出されたところの光によって、はじめて、それを見ている人間自身も含めて、すべての可視的な事物の姿が現れうる。(注39)

見る側(主体)と見られる側(客体)の常識的な関係を逆転し、我々自身を神のまなざしにとっての画面へと変ぜしめること、これが聖像破壊運動後のイコンという装置のそもそもの狙いなのであり、逆遠近法(空間は奥に行くにつれて小さくなるのではなくて朝顔形に開き、線は一つの焦点に収斂する代わりに鑑賞者の側に収斂してくる)の使用もそのためなのである。

 すなわちイコンを見ることは、逆にイコンによって自分たちが「見られていることを見る」こと、「それを知る」(観照)ことである。エイゼンシュタインが正確に警察の目になぞらえたように、イコンとはわれわれの世界を統制するところの存在であり、つまりイコンが表象なのではなく、それを見ているわれわれこそがイコンによって見られている表象だった。言いかえればイコンによって絵画として描かれていた(組織されている)のは、こちらの世界のほうだったのである。(注40)

イコンを前にした者は、像そのもの(その美)を見ることに関心を限定してしまうのではなく、むしろ光の遍在の中で、見られていることの自覚から光源の不滅性へと思いを馳せなくてはならない、すなわち観想を進めなくてはならない。いまわの際の金獅子が銀狼にささやく「私の、太陽だ」という台詞が、すでに書いたとおり「光源(太陽)の晴れがましい自己認識」をもたらすことは、このようにビザンティン美術の伝統という思わぬ方向からも裏づけることが可能なのだ。もっともビザンティンの美術家の間では、神の超越性が冒瀆されてはならない(鑑賞者が主体として、客体である神を一方的に見た気になるような像を作ってはいけない)という配慮が何よりも優先していたのに対して、スピノザによればそもそも「神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない」(注41)。それゆえ観想が単に光源についての観想であるにとどまらず、というよりもまさしく光源についての観想であるかぎりにおいて、即見られる側の真の自己認識でもありうるのは、実際には前者(ビザンティンの美術家)にとってではなく、後者(スピノザ)にとってのみ成り立つことである。したがってまた、ベンヤミンの「ある現象のアウラを経験するとは、この現象にまなざしを打ちひらく能力を付与することである」(注42)という直観を参考に、瀕死の金獅子が娘の目前で「アウラ」を回復することになるという判断を下してよいのだとしても、それは銀狼の側が―大奥にいる他の少女らと同様に、主として触覚の世界で生きてきたにもかかわらず―、視覚の条件である距離ないし間接性を、無化することはないまま知らず知らずたぐり寄せ、ほかならぬ自らの内に宿してしまうという代償を不可分に伴っている。この距離の内在化ゆえに、いまや銀狼の立場からすれば、私にとって母が目には見えても手で触れることができないばかりでなく、私自身が母にとってそのような相手なのである。そこから私が、岡崎の表現を借りれば光の「不可視の源」と化すまではほんの一歩だ。これは結局母その人が、もはや太陽の地位を私に譲ってしまったがゆえに、直接私に触れることはおろか、直接私を見ることもできなくなるということと大差ない。
筆者はついさきほど、作家の実人生を立ち入って穿鑿するのは避けたいと書いたばかりだ。しかし、ここに至って読み終えた『大奥のサクラ』第2巻を閉じ、改めて「日日日」なる筆名のたたずまいに目をやれば―おのおのが「晶」一字に匹敵する大きな太陽(「日」)が三つも並んでいる上に、これでもまだ光度が足りないというのか、相当の無理強いを覚悟で「あきら」と読ませようとしている―やはり、スピノザ的(ビザンティン的)な「純粋に光学的なる世界」への上昇を望ませるような何ごとか、おそらくは触知可能性(tangibility)に由来する一体化の決定的な断念を強いるような何ごとかが、以前彼の身に、あるいは彼の母の身に到来したことを、単なる興味本位ではなくてもっと形而上学的な虚構論の観点から、ぶしつけとは思いながらも想像せずにはいられないのである。


(1)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(角川スニーカー文庫、2011年)317頁(「あとがき」より)。
(2)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(角川スニーカー文庫、2012年)215-216頁。
(3)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(今村仁司・三島憲一訳、岩波現代文庫、2003年第2刷)347頁。「どのような」には原文では傍点が付してあるが、太字に改めた。
(4)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社文芸文庫、2001年)263、299頁。
(5)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)336頁。
(6)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)289-290頁。
(7)同書293頁。
(8)同書295頁。
(9)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)211頁。
(10)同書178-179頁。
(11)同書178頁。
(12)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)262、282頁。
(13)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)592頁。
(14)同書624-625頁。
(15)ベンヤミン『パサージュ論 第2巻』(前掲書)421頁。
(16)ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)470-471頁。
(17)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)6頁。
(18)第1巻の「あとがき」は、編集者との打ち合わせの思い出として、ご丁寧にも「校舎が硝子壁(ショーケース)で区切られてて、愛しいヒロインに触ることもできないんですよ!」なる作者の発言を紹介している(318頁)。このことからも、触覚と視覚の分離こそが『大奥のサクラ』の出発点(の一つ)であった可能性は決して小さくないと考えてよいのではないか。
(19)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)247-248頁。
(20)同書262頁。
(21)同書95頁。
(22)同書251頁。
(23)同書264-266頁。なお原文では、「あなたを汚してしまう」には傍点が付してある。
(24)ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)625-626頁。
(25)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)198頁。
(26)神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館、1999年)189-190頁。
(27)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)12頁。
(28)ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(前掲書)293頁。
(29)同書237-243頁。
(30)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるいちっ!』(前掲書)230-231頁。
(31)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)267頁。
(32)同書270-273頁。なお原文では、「今こそ親子になるべきだ」には傍点が付してある。
(33)同書278-279頁。
(34)ドゥルーズ「スピノザと三つの『エチカ』」(守中高明訳)、『批評と臨床』(河出文庫、2010年)305頁。
(35)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第50刷)145頁(第二部定理43備考)。
(36)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2005年第45刷)125頁。
(37)日日日『大奥のサクラ 現代大奥女学院まるにっ!』(前掲書)263頁。
(38)ドゥルーズ「スピノザと三つの『エチカ』」(守中高明訳)、『批評と臨床』(前掲書)291-292頁。
(39)岡崎乾二郎『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房、2001年)233-234頁。
(40)同書236頁。
(41)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)64頁(第一部定理18)。
(42)ベンヤミン「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」、『ベンヤミン・コレクションI 近代の意味』(前掲書)470-471頁。
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category: 『大奥のサクラ』

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