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一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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北村透谷『北村透谷選集』(勝本清一郎校訂、岩波文庫) 

西欧の哲学的伝統の中でアリストテレス以来最高の地位を占めてきた「能動知性(intellectus agens)」―無時間的で質料から独立な、不断に活動する直観知であり、中世の通説にしたがってこれが個体に内在すると考えれば、そこには「個体とその知性の宇宙性とでもいうべきもの」(注1)の展望が開けてくる―がカントに至って決定的に失墜し、もっぱら「受動知性」の系譜を引き継ぐ有限な「悟性(Verstand)」として理性(Vernunft)の下位に甘んじるようになったいきさつは、坂部恵の『ヨーロッパ精神史入門』に書いてある。
坂部はこのような哲学史観を敷衍して、北村透谷(1868-1894)のロマン主義にもその残響を聞こうとする。高度の直観知という発想は、「シェリングを英語圏に導入したコールリッジからイギリスのロマン派の文人たちを通して」透谷の「内部生命論」にまで流れこんでいるのであり、この論文(発表は縊死の前年であり、一応晩年の思想ということになろう)ではまさしく「人間の霊は小宇宙にほかならず、人間の『霊知霊覚』の内に大宇宙が宿り、それは大宇宙に通ずる、とするニコラウス・クザーヌスやライプニッツに淵源する想念が述べられている」のだ、というのが彼の診断のさわりである(注2)。
しかし、ことライプニッツとの共通性という点では、「内部生命論」以外にも考慮すべき論文はありそうである。例えば、同様に岩波文庫版『北村透谷選集』に収録されている「各人心宮内の秘宮」を読んでみよう。

心に宮あり、宮の奥に更に他の宮あるにあらざるか。心は世の中にあり、而して心は世を包めり、心は人の中に存し、而して心は人を包めり。もし外形の生命を把(と)り来つて観ずれば、地球広しと雖(いえども)、五尺の体軀大なりと雖、何すれぞ沙翁をして「天と地との間を蠕(は)ひまはる我は果していかなるものぞ」と大喝(だいかつ)せしめむ。唯(た)だ夫(そ)れこの心の世界斯(かく)の如く広く、斯の如く大(おおい)に、森羅万象を包みて余すことなく、而してこの広大なる心が来り臨みて人間の中(うち)にある時に、渺々(びょうびょう)たる人間眼を以て説明し得べからざるものを世に存在せしむるなり。(注3)

このくだりは、ライプニッツ哲学における魂と身体の関係を、あたかも魂の基底たる「モナド(単子)」はいかなる部分も持たず、したがって空間的なあり方をしているわけではないという彼自身の注意に反するかのように―とはいえ十全な説得力とともに―、私的な「上の階」と公的な「下の階」という二つの階の関係(分裂および調和)として読もうと試みたドゥルーズが、魂は世界の中に、かつ世界にとって存在するというねじれた事態を通じて、襞の生成と包摂的な表現の成立とを解き明かそうとする以下の文章と、なんと相性がよさそうにみえることか。

世界はモナドの中にあるから、それぞれのモナドは世界の諸状態からなる系列全体を包摂するのである。しかしモナドは世界にとって存在するのだから、どのモナドも、そこから自分自身が生じるような、またもろもろのモナドの一致の原理としてそれらの外にとどまるような系列の「理由」を明らかに含んではいない。したがってわれわれは、あるねじれとひきかえに、世界から主体に移るのである。このねじれによって世界は、現働的には主体の中にしか存在せず、また諸主体はすべて、それらが現働化する潜在性にほかならない世界にかかわることになる。〔中略〕主体が世界にとって存在するためには、世界を主体の中におかなくてはならない。このねじれこそが、まさに世界と魂の襞を構成する。そしてこれが表現に、根本的な特徴を付与する。魂とは世界の表現であるが(現働性)、それは世界が魂の〈表現されたもの〉だからである(潜在性)。こうして神が表現的な魂を創造するのは、神が世界を創造し、また魂が世界を包摂しながら、これを表現するからである。つまり屈折から包摂にいたるからである。(注4)

加えて、省略した箇所には、つねにすでに世界へと開かれている(それゆえことさら開放を必要としない)という人間(「現存在」)のあり方を的確に言語化しようと努めるハイデガーにとって、モナド(単子)は窓を持たないというライプニッツの定式が魅力的であったのは当然だが、なお彼が見落としていたのは、モナド(単子)があくまでも「世界内存在」ではなくて「対世界的存在」でなくてはならないということ、すなわち「囲いという条件は有限なものの無限の開放にとって重要である」ということだ、というすこぶる貴重な指摘が存在する。とすれば、透谷的な心の宮の二重構造を、ハイデガー(を読む上田閑照)の「二重世界内存在」に重ね合わせようとする坂部(注5)にはいささか申し訳ないようでもあるが、むしろ我々としては、「バロックに特有なものとは、この二つの階の区別と分配である」・「ただ二つの階をもつ世界、これはとりわけバロックのもたらしたものである」というドゥルーズの見立て(注6)を参考にしつつ、透谷をライプニッツと同じく、正統的なバロックの哲学者として読み直す可能性を探ってみたい気もしてくる。このほかにも岩波文庫版『北村透谷選集』の頁をぱらぱらとめくっていると、「頑執妄排の弊」からは生気論がうかがえ、「万物の声と詩人」では自然界を貫く大いなる調和と信賞必罰の理との自覚が音楽的な語彙に仮託して語られ、「一夕観」には悲惨な経験も視点を変えて宇宙全体に思いを致せば別の新たな相貌を見せることが書いてある…という調子で、透谷はおそらくライプニッツの著作に自ら目を通したことはなかったはずなのに、不思議なほど両者の思考の軌跡は随所で交錯しているという思いを抑えることができない。
ともすれば安直な神秘主義的陶酔にも見えかねない北村透谷の詩的散文にひそむ哲学的な骨格を明るみに出すのも、実に明治時代の日本にまで余波を及ぼすライプニッツの形而上学体系の傑出した普遍性を立証するのも、取り組んでみればおもしろい作業かもしれないが、まだまとまった見通しはないので、この辺は私にとっては後日の課題である。

(注)
(1)坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店、1997年)55頁。
(2)坂部恵『モデルニテ・バロック 現代精神史序説』(哲学書房、2005年)222頁。
(3)北村透谷「各人心宮内の秘宮」、『北村透谷選集』(勝本清一郎校訂、岩波文庫、2006年第28刷)172頁。なお「大喝」の「喝」は原文では「口」に「曷」だが、表示できないようなので引用に際して改めた。
(4)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)46-47頁。
(5)坂部恵『モデルニテ・バロック 現代精神史序説』(前掲書)218頁。
(6)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(前掲書)53頁。
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