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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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c91の反省 

せっかくビッグサイトの改修が済んで初めての記念すべきコミケだというのに、今回のc91では反省すべき点が多々あった。
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category: 同人誌

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SAZ『この快楽がすごい!』 

サークル「SAZ」のsobaさんがまたやってくれた。
5月1日のコミック1で出す予定と告知されながらも20日遅れて21日に店頭販売の運びとなった、『この素晴らしい世界に祝福を!』のサキュバス本『この快楽がすごい!』は、時間をかけただけあって本当にすごい。

アニメ版第9話に出てきたサキュバスのお店のお姉さんと欲望に正直なカズマの組合せで、となれば頁のほとんどを性行為そのものが占めている無駄のない構成は予想通りである。
武田弘光的な女性の表情の崩し方をよく研究した上でその成果を男性の顔に活かすという独自の路線や、姿勢に多少の無理が生じるのは承知で女性の顔の正面性を維持する工夫など、見どころを数え上げればきりがない。指で自ら女性器を左右に押し広げる仕草も、みやもとゆうあたりならともかく、この人の漫画では目新しい。
特に男性の描き方からは、高すぎない鼻をはじめあっさりとした顔立ちに加えて、陰茎の血管の強調、やや胴長で腰や太腿の筋肉が目立つ体つきなど、最近の定番をしっかり摂取している様子がうかがえる。それに、陰毛を描かないのは相変わらずながら、それゆえの視覚的不自然さを気にしてか、それとも品位の点でためらいがあったのか、ともかくいままであまり描いてこなかった「種付けプレス」についても、上乃龍也の『エロい娘って思われちゃうかな♡』あたりを参考にしたのではないかと思しき1コマがあり、まことに頼もしいかぎりである。
気合を入れて描いた絵の立派さだけでなく、開幕早々無意味に揺れるお尻といい(アニメでもそんな感じだったのう……)、再戦をねだるカズマに快く応じるときの笑顔といい、何気ないコマにまでいちいちサキュバスの底抜けの善人ぶりがにじみ出ていて、それがまたなんとも言えず笑える。「カズマ様そんなに/緊張なさらないで/ください/楽しい快楽の時間を/たのしみましょう♡」という台詞は、「楽」の字(概念)が三度も出てきて明らかに多すぎるはずだが、この作品に限ってはぴたりとはまっているようで、特に気にならない。
たぶん『立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は18禁』以来の収穫であろう本作において、sobaさんの藝風は、朗らかな笑いと妥協のないエロティシズムの融合という点で、いよいよ完成された自在な境地に達しつつあるようだ。いやむしろ、バロックの天井画のように際限のない高揚を可能にしてくれる、魔法の気流をつかんだのかもしれない。
不思議なのはいまだに単行本の音沙汰がないばかりか商業方面での活動が途絶えたままであることで、イシガキタカシのようにコミックゼロスあたりで短期集中連載をするか、いまだとコミックエグゼもよさそうに思えるのだけれど、こればかりは部外者が気をもんでも仕方がない。意図してかどうか、絵柄はワニマガジン風に近くなってきた印象がある。例によって例のごとき幼馴染の若女将だの、鰐禍大学水泳部の後輩だのといったありがちな話をこの人が描くさまはあまり想像できないが、それはそれで見てみたいようでもある。

category: 同人誌

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C89の反省 

大晦日の冬コミでは、なかなかの苦戦を強いられた。

一日目(29日)はまだよかった。
サークル「かんむりとかげ」(つん)の『制服咲道楽2』は、詳細な意匠の解説といい、再現の正確さを追求するためか鋭さと繊細さを増した、いっそう迷いのない線といい、一冊目以上に制服本としての体裁が充実していて、空恐ろしいばかりだ。夏服から冬服への衣替えこそ経ているものの、表紙を飾るのはまたしてもシロ(小瀬川白望)である。前回は彼女が表紙だったから今回は別の人に変えよう、などという小細工に走っていないところが痛快で、このふてぶてしい一途さは同人誌ならではの醍醐味だろう。内容が内容なので性的な雰囲気は極力抑えることにしたとかで、その分出てくる子たちの姿勢はいっそうおとなしめになっているのだが、一人一人の顔や手の表情が絶妙で飽きさせない。心なしか全員やや細身(胴長)に見える点が気になるとはいえ、肱の野趣ある風情は健在なので安定感は保たれている。身も世もあらず恥じらう三十路間近の針生アナや小鍛治健夜、動きやすいキュロットスカートをはいてまんざらでもなさそうな江口セーラ、可愛らしい水色のワンピースを着せられて恨めしそうにこちらをにらむ末原恭子、進学校のお堅い制服を悠々と着こなして得意気に眼鏡に手をやる船Qあたりは、少しでも原作を知っている人ならにやにやさせられること請け合いである。一番躍動感に富むのが―しかも、良い意味で制服らしからぬ華やぎがある、チェック柄のワンピースを着ている―、よりによって地味な印象のある安河内美子だというのも、心憎い配役で苦笑を禁じえない。あと、解説文を読んでいると、「上下真っ白という攻めの姿勢で我々の度肝を抜いた2011年からの新制服です」(三重県・セントヨゼフ女子学園高校)だの、「ここのようにその地域の公立トップ校が可愛い制服というだけで、皆きっと勉学にも身が入ると思うよ」(岡山県・岡山朝日高校)だのと、ちょくちょくおかしな文に出くわすのも相変らずで、もちろん計算づくの藝なのだろうが、まるで制服に興味を持つのは人として当然のことだと言わぬばかりのこの狂気がたまらない。宮守愛が煮詰められたおまけの小冊子(こちらは盛岡市近辺の公立中学の制服を特集している)では本体以上に趣味に走ってよいと判断したのか、妙に艶めかしい姿勢や顔つきが目立ち、解説の文章も「です・ます」調を捨てているのも一興だ。特に巻末の姉帯さんは、一体何を思ってこんなに頬を赤らめているのやら、想像がかきたてられて仕方がない。いや、はっきり言葉に表せるようなことは何も考えていなくても、ふとしたきっかけでこんなにも意味ありげで謎めいた色気を漂わせてしまう、そういうお年頃ということなのか。けだるげなまなざしといい、しどけなく垂れ下がった長い黒髪といい、これは単に『咲-Saki-』の二次創作という枠組にとどまらず、思春期の少女の生の一瞬をもののみごとに切り取った絶品である。
サークル「アジサイデンデン」(川上六角)の『わっちとにょっひら本 FULL COLOR』(『狼と香辛料』)は過去作をもとに描き直したものだが、色鮮やかなので贅沢感があるし、エロ同人誌としても、同じサークルの一連の『DARKER THAN BLACK』本を思わせる完成度である。

二日目(30日)になると、やはり人出が増え、その分思うに任せぬことが多くなった。「伊東ライフ」の新刊(艦これ・北上本)はまたしても買えず。書店委託を利用して後日購入することはできたが、どの時機を見計らって列に並ぶべきか、そもそも会場で買い求めるべきかどうか、今後も悩まされることになりそうだ。
この日買った中で出色だと思ったのは、サークル「その他大勢」(ゆかたろ)の『みなみじゅうじの君。』である。沈んでしまった時津風のことを思い出すたびに罪悪感に悩まされる雪風だったが、長門に教え諭された結果、生き残った幸運をむげにすることなく、友と再会できる日を目指して己の旅路を前向きに歩み続けることを誓う―というのが粗筋で、艦娘の再生可能性・量産可能性を前提として、その背景の上で個体のかけがえのなさを問う、という行き方自体はそう奇抜でもない。だが、雪風と時津風の初対面の場をあえて序盤ではなくて、ある程度話が進んで読者がとうに両者の親密さを了解し終えた後半に持ってくるとか、おまけにその場面ではまず時津風が雪風に呼びかけてから、呆気にとられつつも正しく相手の名を呼び返す雪風の感想として「初めて/見た」「初めて/名前を/呼んだ」「なのに」「すごく/なつかし/かったんです」という独白が入る、などの演出は注目に値する。また、「雪風」「ぜったい/そこまで/行くから」「かならず/逢いに行くから」「それまで/まってて/―」という終盤の台詞も、前後の脈絡はもちろん、夜空に向かってこの台詞を口にする雪風の姿からしても、明らかに主人公である彼女から時津風への呼びかけであるはずなのに、それらを度外視してあえて文面だけに注意すると、まるで出だしの「雪風」が一人称ではなくて二人称の代わりであるかのように思えてくる。ここでは、個体の特異性が一般的な秩序(輪廻の理)と何ら矛盾するような関係にはなく、むしろ前者は後者によってこそ可能ならしめられるのであり、そのことを漫画としての構成自体が証拠立てているのだ。
サークル「az+play」(赤りんご)の艦これ画集『金襴』はさすがに洗練の極みで、描きながら感じたことや試行錯誤のいきさつ、ちょっとした種明かしなどを綴った雑談風の短文の魅力も健在である。
「くまのとおるみち」(くまだ)の今泉影狼本『わんナイト人狼』は獣姦もので、目新しい。どうもこのサークルの本からは、18禁であると否とを問わず、女性が怖くて仕方ない、奥手で気弱な男性の煮え切らない利己心のようなものが感じられ、それがある種の初々しさという持ち味とともに、釈然としない読後感にもつながっていた。しかし、今回はなにしろ男性の側が人間ではなくて犬ころである。それだけに、あれこれ言い訳を重ねることなく一直線に女体に挑みかかり、影狼の側も欲望のまま存分にそれに応えてやるという、迷いのない状況を実現することができたようだ。
あと、間抜けなことにあけっぱなしの鞄の口にさしこんでいた某サークルの艦これ・愛宕ポスターをなくしてしまったので、藁にもすがる思いでインフォメーションセンターに行き、落とした戦利品は誰かが拾ったとして、はたして届けてくれるものなんでしょうかと恐る恐る問い合わせたところ、意外や「結構届いてますよ」とのお返事で、実際見つかったのには驚いた。皆さん、善い人揃いなのですね。

いまだに反省の種が尽きないのは三日目(31日)である。
朝行くときは道端に犬星の漫画の1頁が落ちているのを見て「すわ吉兆か」と喜んだのだが(注1)、会場に入るとそんな楽観的な気分は吹き飛んだ。とにかく人が多い。混雑が尋常でない。公式に発表された人数はどうだか知らないが、開始から正午までの人口密度という点では前例がない域に達していたのではないか(実際、複数のサークルが雑談の中で異口同音にそう話しているのを聞いた)。
よって戦果も、満足できる内容には程遠い。特に、サークル「といぼっくす」(くりから)の列が思いのほか長く、長時間並ぶことになったのが効いたようだ。むろん、サークル側の落ち度なぞを問う気は全くない。私のイッパイアッテナ、違った、おっぱいアンテナがビンビンに反応するので、どうしても列を離れがたかったのが根本の理由だ。大体、今回は所持金がかなり乏しくて、よしんばここに立ち寄らなかったとしても、そうそう自由に何でもかんでも買い放題という状況ではなかったのである。なお、新刊の『乳理継続挟射機関弐』はFGOのタマモキャットとマタ・ハリの本で、例によってすがすがしいほどにおっぱいだらけ(だけ)なのは変わらないが、丁寧にあやすようでいながらねちねちと男の心をいたぶる台詞の藝にますます磨きがかかっている。
それにしても、いざ人込みをかき分けて訪ねてみると、「んーちゃかむーむー」も「MOZUCHICHI」も「キネトスコープ」も「SHIS」も「Digital Accel Works」も「Maniac Street」も「チョットだけアルヨ。」も「うどんや」も「百々ふぐり」も「乙女気分」も「せみもぐら」も「もすまん」も「秘密結社うさぎ」も「龍企画」も目的の新刊は完売、「夜★FUCKERS」や「すいーとみるくしぇいく」や「紅茶屋」や「嘘」は懐と相談したあげく買わずじまいとあっては、一体何のために来たのか自問したくもなるというものだ。書店委託や今日(1月31日)のCOMITIA115を利用して補充を進めているものの、ここに列挙した以外にも数多くの欠落があり、なかなかに前途遼遠である。
せめてもの救いといえば、会場で購入した本には一冊として外れがなかったことだろう。
一般向けの本では、去る夏コミ(C88)のときに買い損ねたサークル「Ko-wa's Inn」(こーわ)の『制服の幾何学』を入手できたのがよかった。奇しくも「かんむりとかげ」の新刊と同様、巻末でプリーツスカートの解説をしている。パスカルのいわゆる繊細の精神と幾何学の精神の対比を思い浮かべながら読み比べると、とても面白い。
18禁本では何といってもまず、「tete a tete fragile」(佐々原憂樹)と「Candy Pop」(いとうえい)の新刊が、夏コミのとき以上に読み応えがあって嬉しい。前者のプリズマイリヤ・クロエ本『Bruder Zufuhr』は、執拗な寸止めとやけに気合の入った腋の描写にうならされる。また、後者のだがしかし本『無知シチュと食ザーとクロッチ射精だけ!』は、このサークルならではの、題名に恥じぬひどい内容である(褒め言葉です)。しかし、以前のぬら孫本『お狐様は食事中』(C81)を基準に考えると、良質の「食ザー」ものを成り立たせるにはやはり注入(射精の瞬間)の場面が不可欠で、できればさらに、狂骨のような実況役としての第三者も居合わせるべきだと思う。特に注入の場面は、これがないと絵面としてはただほたるがヨーグルを食べているだけの情景になってしまうので、ぜひとも省かないでもらいたいものだ。
Dr.P(サークル「オシリス」)がコピー本をまとめて、初のオフセット本(『SIRIOTOME』)を刊行したのもめでたい。人によってはもっと過激な作風のほうが好みかもしれないが、この、ふっくらした無防備なお尻や股間を愛してやまないフェティシズムととぼけた笑いの絶妙な配合は貴重だろう。
「しぐにゃん」の『我、榛名たちと夜戦に突入す!!』は、題名どおり、いままでの榛名(改二)に加えてもう一人の榛名(改)ともケッコンしてしまった提督に二人で仲良くご奉仕するという内容で、このサークルにしては珍しい趣向である。とはいえ、当然ながら二人の榛名の外見は大差ないわけだし、絵柄ももともと対象の個性の違いをならしてしまう傾向があるので、例えばサークル「MOZUCHICHI」(もずや紫)あたりの老練な手腕と比べると、人数が増えたのでその分お得という感じは必ずしもしない。いっそ前回の冬コミ(C87)のときのサークル「PKグリッスル」(井雲くす)の『加賀これくしょん』のように、二人といわず何十人も同じ艦娘だけを登場させて頁を埋め尽くす手もあったのではないかと思うが、そこまで極端な奇策には走らないところが「しぐにゃん」らしさなのだろう。どんな工夫を凝らすにしても、あくまでも遊戯の範囲内に踏みとどまっているのだ。「一生/榛名以外とは/ケッコンしないよ」と誓った舌の根も乾かぬうちに「二人めの榛名と/ケッコンしましたー☆」などとのたまう、提督の台詞の脱力を誘う流れも、そのことの証左である。この作品を読んでいると、ふと、「しぐにゃん」の同人活動がサンリオあたりのキャラクターグッズを愛でる感性に根ざしているのではないかと思えてくる(そういえば、ハローキティにも双子の妹ミミィがいたのだった)。
「稍日向屋」(稍日向)の飛鷹本(『飛鷹さんは可愛い』)は、いままで描いてきた駆逐艦勢とは方向性が異なるものの、もちろん悪くない。想像するに、恰好が巫女っぽいので抜擢されたのだろう。とはいえ、駆逐艦以外でもう少し雰囲気が幼い艦娘ということで、例えば秋津洲あたりにしておけば、もっと相性がよかった気もしなくはない。稍日向の強みはやはりロリコン向けの作品で発揮されるように思うのだが、この人の場合は単に幼女が好きというのとも違い、体型が幼いだけで実はそれなりの年齢であるとか、実はそもそも人間ではないとかのひねった設定を必要とするらしい。難儀な嗜好だと思うが、今日のコミティアで出た『哉羅さまの日常 玖』のように、うまくはまったときの出来栄えは比類がない(注2)。
グラブル関係では「藤屋本店」(藤ます)の『GRANCOLOR FANTASY 2』が桃色まみれで楽しい一冊だったが、「ヘルメットが直せません」(大出リコ)が珍しく18禁本(『この自己評価低い系おねえちゃんがちょろい!!』)を携えて参加していたのも忘れがたい。秋の末に出た『スペアボディで遊ぼう!』といい、絵柄からはちょっと想像しがたい、身勝手な暗い欲望が全開になった月吉ヒロキばりの背徳的な内容に驚かされる。これを読んでからいつもの一般向けの漫画を読み返すと、もともとこのサークルの作品は、単に人物を人形のように愛らしく描いているのではなくて、もっと自覚的な、文字通りの人形愛―例えば人間と人形とどちらを選ぶかと問われれば、躊躇なく人形と答える用意ができているような、そういう孤独な愛―の延長線上にあるように感じられる。そこに漂うかすかな居心地の悪さは、批評性の証でもあるはずなのだ。
サークル「不可不可」(関谷あさみ)の分厚い一冊『milk〈in the milk総集編〉』は刊行自体が記念碑的な一大事だったのはもちろんだが、コミティアでもらったおまけのバッグも(どうやら、冬コミで頒布する予定だったのが手違いで遅れたらしい)、紺と白の落ち着いた色合いで、中学の制服とどんこちゃんを模様としてあしらったなかなかに小粋な品物である。なお、コミケ会場では買えなかったため、やはりコミティアで購入することになったサークル「嘘」(中村葛湯)の総集編『HYDRANGEA』は、まだ空間の使い方に無駄(空白)が目立ったり、男の顔立ちが写実的すぎるせいで無用な威圧感が生まれたりと気になる点はあるものの、さながら二代目関谷あさみといった風情に心惹かれる。
岡田コウ(サークル「おかだ亭」)の『娘の制服』は、無垢な娘を父親が自分専用に調教してしまう近親相姦ものの一次創作で、商業作品に比べればやや粗い仕上げに見えるが、このくらいのほうがこの人の絵は映えるように感じる。
女装少年・男の娘部門では、「T-NORTH」(松本ミトヒ。)が総集編『オトコノコクロニクル2』に加えて新作の18禁本(『男子寮の風俗くん』)を出してくれたのが嬉しいかぎりだ。淫乱で尻軽な美少年というだけなら他のサークルの作品にもたくさん実例があるが、変に強がって男らしさを気取るようなことがなく、最初から素直に快感に身を任せて可愛い声でひたすらあえぐ姿が楽しめるのは、「T-NORTH」ならではの特色だろう。対照的に、「Ash wing」(まくろ)の二冊の新刊、『BF IV』と『酔った勢いでホテルに連れ込まれ女装した男になぜか俺が掘られる話』は、一種の禍々しさや荒々しさが加わったことで絵柄の凄味が増していて、こちらもすこぶる魅力的だ。後者のあとがきを読むと、犯される側をもっとむさくるしい見た目にしてもよかったと書いてあるが、私の好みではいまくらいがちょうどよい。オープンブラと呼ぶのもためらわれる、瀟洒なリボンやフリルがついているくせに肝心の乳首を隠す気が全くないブラジャーもどきといい、ぎりぎりまで減らされた前面の布が性器の凹凸に密着して余計に卑猥な感じを煽る紐パンといい、美少年の体を魅力的に見せる衣装の選択という点で、毎度のことながらこのサークルの手腕にはうならされる。
サークル「SAZ」(soba)の食蜂操祈本『瑙色豊雅』は、私にとっては間違いなくこのたびのコミケで買った本の中で最高の一冊だが、見るたびにスタンダール症候群よろしく眩暈と感涙に襲われるので、なかなか冷静に分析するのは難しい。伝家の宝刀とも呼ぶべき女性の困り顔と堂々たる乳房が、またしても前作の成果を塗り替えて途方もない次元に達している。一方でネームの構成は相変わらずややぎこちなく、もたつき気味なのだが、それが必ずしも欠点とはならず、さながらクリームに滑らかな舌触りを与える空気のようにさえ感じられるのは全く稀有の作風と評するほかない。

最後に今後のための覚え書を二つ残しておく。
(一)三日間を通じて、待機時間中はずっとホイジンガの『中世の秋』(堀越孝一訳、中公文庫、上下巻)を読んでいた。高校に入学してからしばらく愛読していたはずなのだが、幸い内容はすっかり忘れていたので新鮮な気持ちで読む。いままでも柳田國男の『明治大正史世相篇』や榎本武揚のシベリア日記やサミュエル・ベケットの小説など、なるべく分量の割に時間がかかりそうな本を選んではいたのだが、この種の本、つまり専門家以外の読者をも想定した、いわゆる「文学性」豊かな歴史書の類を翻訳で読むという経験は、訳注がついているのでこちらに最低限の知識さえあれば途中で調べ物をする必要がないのに加えて、とても面白くて退屈しないがそれでいて中断を未練がましく思わせるほどの没入は要求してこない(なにしろ具体的な事例を次々と挙示しないことには話にならないのだから、ほとんど一段落ごとに、ということはつまり一頁につき三度も四度も、叙述の区切りが訪れるのだ)という点で、何かに備えた空き時間を埋めるのにはまさにうってつけである。早く読み終えてしまってはもったいないので、年が明けてからも電車等による移動の時間以外にはひもとかないという制約を自分に課し、一か月後のコミティアの待機列でも依然として読んでいたほどだ。いずれ読了してしまうときがくるのは仕方ないが、今後も即売会での待機時間には、可能ならばこの種の本を読むことにしようと思う。
(二)会場内を歩き回ったり列に並んだりするときに頭の中で鳴らす音楽として、このたびはラモーの『ナイス』組曲を選んだのだが、これはよくなかった。こちらの意向までがついひねくれてしまい、直観的に「こうしたい」と思うのとは反対の行動をしそうになるのである。夏コミのときのように、メンデルスゾーンのオラトリオあたりにしておくのが無難のようだ。


(1)ちなみにその場所には、以前も奴隷ジャッキーの単行本の一部が落ちていた。わざとだとすれば目的は一体何なのか、考えてみるといささか不気味ではある。
(2)なお、この『哉羅さまの日常 玖』でも、晴秀が幼女の幽霊と(生身の幼女ではない)、それも哉羅さまの感覚を介して疑似的にまぐわうという、やけにまわりくどい状況が設定されている。

category: 同人誌

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C88の戦利品 

幸い資金がそこそこ潤沢だったためか、今年の夏コミ(C88)はまずまずの戦果だった。
一日目(14日)に買った一般向けの本の中では、サークル「サイチル」(北斗)の『ベクトルスペクタクル下』を筆頭に挙げたい。上巻、中巻とも、活きのよい元気な絵柄、そして少名針妙丸と鬼人正邪の二人をはじめ『東方輝針城』の面々が口角泡を飛ばして演じる、漫才のようなにぎやかな掛け合いがなんとも楽しかったが、肝心の筋書については、正直なところ輝針城のゲームの焼き直しのように思えたし、当初は針妙丸を利用するだけのつもりだった正邪が彼女の真っ直ぐな性格に打たれて本気の親愛の情を抱くに至り、心の中で葛藤を繰り返すようになるという展開もそれほど意外性はなかった。それだけに、この下巻では話がどういう方向に転がっていくかが気がかりだったのだが、その心配はどうやら杞憂にすぎなかったようだ。いや、霊夢や雷鼓の奇襲を受けて絶体絶命の窮地に追いつめられた正邪が、せめて針妙丸だけは死なせまいとしてまたしても十八番の裏切りに走り、せっかく嘘偽りのない信頼関係で結ばれたはずの彼女を皆の面前で人質に取ったばかりか(もちろん、すぐに奪還される)これでもかとばかりに口汚く罵ってみせ、そのようにしてただ一人悪者の役を引き受けようとするのはこれまた当然の成行きで、既刊の内容を知っている人なら誰でも読み進めるうちに予想できたはずのことだ。予想外だったのは、以下の三点である。
第一に、いましがたの要約は大筋としては間違っていないはずだが、正確には、客観的な事態はそれほど正邪たちにとって切迫しているわけではなく―ただちに首謀者二人を拘束してもよさそうなところ、雷鼓の粋な計らいで束の間の猶予期間(昼食の開始から終わりまで)が設けられ、その間彼女は正邪の生き方に一定の共感を示し、一方霊夢は針妙丸を改心させようと説得を試みている―、しかも針妙丸に至っては正邪のために命を賭すことを毫も恐れていないという状況下で、最も重要な事件は正邪一人の心理の劇として、生まれて初めて知った愛の喜びと苦しみに揺れる彼女の内面を舞台に進行する、という点が挙げられる。天使のような外見の「正」と悪魔のような外見の「邪」、二つの人格が心の中でぶつかり合う、その演出自体は別段目新しくはないけれど、強敵のひしめく幻想郷で針妙丸とともに戦い続ければいずれ彼女を死なせてしまうかもしれないという可能性に思い当たって以前の威勢はどこへやら、いまやなす術もなく子供のようにめそめそ泣き続けるしかない「正」の人格と、そのせいで際限なく肥大化してゆく巨人のような神妙丸の存在感が舞台である心そのものに亀裂を走らせ、これを破裂寸前に追い込む様を見て狼狽する「邪」の人格との間には、注目すべきことに、もはやいままでのような明快な対立は成り立たない。このあたりは、ゲーテの『ファウスト』の大詰めにおいて、死んだファウストの魂をめぐって天使たちと争奪戦を演じるときの、メフィストフェレスの様子を髣髴させるものがなくもない。天使たちがばらまく、薔薇の花びらのような愛の炎に心ならずも身を焦がす彼の悲鳴は、読む者の心に深く突き刺さってくる点では、全篇を通じて屈指の台詞の一つだろう。

 ああ。頭が燃える。胸が、肝(きも)が燃える。
 悪魔以上の火だ。
 地獄の火よりよほど痛い。
 お前達、失恋の人達が、棄てられて、
 首を棙じ向けて、恋人の方(ほう)を見て、
 恐ろしく苦しがるのは、こんな火のせいだね。(注1)

どうしても針妙丸を喪うのが嫌なら、たとえ不本意でも、たとえ幻滅のあまり二度と信用してもらえなくなるとしても、彼女を裏切るしかない―この結論に達するや否や、懸命に思いとどまらせようとする「邪」の人格に対して、錯乱する「正」の人格は痛烈な殴打を食らわせる。するとこの一撃がきっかけとなって、すでにひび割れが走っていた前者の肌はたちまち砕け散り、その下からはもはや無力な傍観者でしかない、白く輝く「正」の人格が現れるが、あべこべに後者は、覚悟を決めた険しい表情とともに、黒々とした「邪」の人格に変身するのである。この一連の描写については、せっかく手に入った愛を自力で担い続けることもできなければ、苦境を打開する知恵も勇気も持ち合わせない、正邪の中の「正」の痛々しいほどの未熟さ、脆弱さと、彼女の本体ないし狭義の自我であり、個体としての自己保存にも気を配りながら計画的な行動を受け持つ「邪」の思慮深さとの対比を表現したものとして、実に冴えていると評するほかない(両者の反転はあくまでも殴打の直後に起きるのであり、その瞬間までは、舞台を崩壊の危機に瀕せしめた張本人でありながら泣きじゃくるばかりで一向にその責任を自覚してくれない「正」の人格が、あまつさえ駄々っ子のように感情に任せて相方に暴力を振るうことも辞さないのに対して、主人公よろしくその場に召喚され、いちいち後手に回ることを余儀なくされた「邪」の人格のほうは、いかなる危機が生じつつあるかを代わりに見極めながら、しかもその原因である針妙丸に対して背信で応えるという短絡的な案にはただちに同意せず、彼女との信頼関係に―これがそもそも、鬼人正邪として目下対外的に掲げている公式の方針でもある―なおも望みをつなごうとしている)。と同時に、「正」と「邪」のいわば弁証法的な統一を知らず、ただ裏と表の反転として、両者が交替し続けるだけというこの精神のあり方が、すでに触れたような『ベクトルスペクタクル』の筋書のある種の単調さ、意外性の乏しさの一因であることは明らかだ。しかるに、このたびの下巻においては、殴られた「邪」の表皮の下から現れた「正」が無力感を噛みしめながら口にする、「いつもの/天邪鬼(わたし)/じゃないか…!!」という悔しげな台詞に続いて、「…虚しさだけが/響いてくるわ」「難儀な生き物ね/天邪鬼って…」「裏と表を/繰り返すだけで」「どこにも/行けずに/堕ち続ける」「実に哀れ」という雷鼓による分析が、まるで読者の反応を先取りするかのように、そのような予測可能性(冗長性)を作品の内側から批評している。あるいはむしろ、信義にもとづく発展や成長とは縁がない、この循環の単調さが、単に正邪の外面に現われた言動に接する者たちのみならず彼女自身の内面をも翻弄してやまない、一つの深刻な倫理的問題としてえぐり出されているのである。そしてこれこそが、予想外だった三点のうちの、第二点にほかならぬ。第三の点として見落とせないのは、描線が繊細さに加えて力強さを獲得した結果いままで以上に鮮烈なものになった、千変万化する顔の表情の豊かさである。とりわけ、一番の強敵である霊夢が針妙丸を連れて立ち去った後、上記の辛辣な分析を口にする雷鼓と九十九姉妹に対してなおも気丈に喧嘩を売りながら巻末の正邪が見せる絶望的な泣き笑いの表情は、牙を剥き出しにした、耳まで裂けた大口といい、深い苦悩が刻み込んだ無数の皺といい実に強烈で、一度見たら忘れられない。この見開きの二頁は、作者にとっても会心の出来栄えではなかろうか。
それと、サークル「火鳥でできるもん!」(火鳥)の『さとり様の尿管にこいしができる話』も大変な力作で、実体験をもとにしているというだけあって笑ってよいものかどうか迷うが、そんな罪悪感は読み始めてものの数秒でたちまち消し飛んでしまう。マラン・マレが(これまた実体験にもとづき)ヴィオールのために作曲したかの標題音楽の傑作『膀胱結石手術図』と並んで、「結石もの」の藝術作品の数少ない実例として、人類の文化遺産に登録されて然るべきであろう。やはりこのサークルの場合は、四コマ漫画という形式にこだわりすぎないほうが、絵の上手さを存分に活かせるし、ギャグの勢いも切れ味も増すように思える。例えば見開き二頁を丸々費やした『恋思のグルメ』(サークル「あなたを、廃人です。」)のパロディなど、四コマでやるのは無理な相談というものだろう。それにしても、「こいし」と結石を掛けた語呂合わせはともかく、主役のさとりが作者と同じく同人活動をしており、そのサークル名がどうやら「さとりでできるもん!」というらしいのは話ができすぎていて、つくづく天の配剤を感じさせられる。
ただ、ギャグ本を一冊に絞るとすれば、サークル「萌え緑」(モスグリーン)の『モス本5』を採らざるをえない。例によって、日常生活に支障をきたすほど重度のアルコール中毒を患う鬼たち、すぐに溶けるチルノ、幼女に目がない咲夜や小町、無邪気な魔理沙を毎度変態的な言動に誘導したがるアリス、粘土のようにたやすく形が変わるパチュリー、懐に余裕がなくなると神々しく光を放ち始める霊夢など、おかしな独自の設定がてんこ盛りで、そしてそれが、ゆるいとかのんびりとかの言葉では足りない、まさしく間が抜けた、間延びしたような呼吸の中で、他の追随を許さない独自の世界を作り上げている。東方のギャグ本のサークルなど数えきれないほど存在するが、読むたびに呼吸困難に陥るほど笑わされるという点ではここが一番であろう。けだし、幻覚に苛まれる萃香や勇儀が鬼の念力で具現化させた力士たち(なぜかひどく焦ったひょっとこのような顔つきをしていて、これだけでもう可笑しい)を押しつけられたあげく、とうとう国技館のようなセットの中で大勢の観客を前に戦うはめになった紫が取組前の意気込みを尋ねられ、放心したような目つきでマイクに向かって語る、「え~…/何故みなさん誰も~」「止(と)めて下さらないのか~…」という台詞は、他のサークルならもう十分と考えて切り上げるはずの地点に来ても停止せず、さらに二つか三つのコマを駄目押しのように追加することで事件をいっそう不条理なものに仕立て上げる、このサークルに特有の方法論をも反映しているのかもしれない。
18禁本の中では、サークル「あんみつよもぎ亭」(みちきんぐ)の『射精管理してくださいっ咲夜さん!』がすばらしい。
いわゆるゆとり教育の影響なのか何なのか知らないが、2012年から2013年頃のエロ漫画界の迷走ぶりは結構なものがあったように思う。元来、心の底から熱愛している人をだからこそ力ずくで我が物にしてしまいたいとか、嫌いなはずの相手の求愛を心では拒んでも体は快感に抗えないとかの、経験のいわば逆説的な多層性というものは、人生における他のどの局面にもまして性愛の領域でこそ顕著なのではないかと思えるのだが、そういった多層性についての理解が不十分なままエロ漫画を描こうとすれば、結果はどうなるか。むろん、性行為に本来伴わなくてはおかしいはずの緊張感や強度の表現が不足するわけであり、それを回復させるべく女性の側を大人気のアイドルという設定にしてみたり、あるいはむやみと醜悪な外見の男性を登場させたり果ては危ない薬物の力を借りたりしたところで、いかんせん男女とももともと自然な感情の起伏(とりわけ羞恥心)が欠落しているせいで空回りに終わる、ということになるほかない。情欲と分かちがたく一体となった攻撃性や、我々を日常的な自我の埒外へと連れ去る強烈な陶酔感などは、あくまでも性行為自体に内在するものとして表現されるべきであり、そしてそのために必要なのは一にも二にも描写の繊細さであって、外延的なこけおどしの類をごてごてと加算していくことではないからだ。ただ、年上の女性が可愛らしい少年を好き放題に弄ぶ、いわゆる「おねショタ」ものの擡頭につれて、最近では若干風向きが変わってきた観がある。角の立たない、終始平和な雰囲気がよしとされるのは相変わらずながら、強い男が腕ずくでか弱い女を征服する、という古来の物語とは正反対の方向から、性行為の自然な高揚感が復活しつつある兆しが感じられるのである。
昨年末の冬コミで急に進歩を遂げた(注2)「あんみつよもぎ亭」の新作は、そのことを知るための格好の実例だろう。「射精管理」というと何か成人男性が女性に厳しくしつけられるような印象があるが、この場合はそうではない。新しく紅魔館に雇われた少年に咲夜が手取り足取り性教育を施すという内容であり、ろくに我慢もさせないで、一日に何度も定期的に射精させてやっている。この、性の知識がない本人に代わって咲夜がしてやるという点、それから一応時間は決めていることが、「管理」らしいところなのだろう。それにしても、一般的な用法からのずれは否めない。裏を返せば、ここでは軋轢の回避という根底的な志向がそれほど強い権限を持っているということだ。伊東ライフをよく研究した上で、あの作風を女性の視点から独自に再構成しているような趣がある。ことあるごとにPAD長などと呼ばれていた頃とは隔世の感がある、柔らかそうなのに適度に張りがあって形が崩れすぎない大きめの乳房をはじめ、絵柄は全体的に楷書的な端正さに傾いていて、それだけに一度見ただけで忘れられない印象を残すというほどの個性はまだないのだが、反面、線に自然な強弱がちゃんと具わっている。すなわち、どんな楷書の字でも筆で書かれたものであるかぎりは必ずとどめている、手の勢いに相当するものが認められるのであり、そしてそれが、赤ん坊のように乳房を吸わせながら手で射精させるときの姿を真正面ではなくて斜め前から描くとか、あるいは少年の体の上にのしかかるときの姿も、真っ直ぐ立たせるのではなくて、腰は向かって左下に、肩は向かって右下に傾けた上で顔に関してはあえて水平性を維持するなどの基本的な工夫とあいまって、漫画らしい推進力をもたらしている。
心残りなのは、伊東ライフの艦これ本『やわらか愛宕さん』が買えなかったことだ。最初からあきらめて列に並ばなかった場合はともかく、買うつもりで並んでいたのに売り切れてしまったのだから残念さはひとしおである。博麗神社例大祭程度の規模の即売会ならまだしも、コミケでこのサークルの新刊を購入しようとするのはもうよしたほうが無難かもしれぬ。いずれ書店委託に頼るつもりだが、内容自体は会場で見本誌を読んだので、大体頭に入っている。まだあどけなさの残る年頃の提督が優しい愛宕に甘え放題、甘やかされ放題という、これも「おねショタ」風の本で、完成度はもちろん高い。極力余白を残さず、詰め込めるだけ詰め込んだ稠密な画面構成、そしてそれを支える、変形ゴマやぶち抜きを使いこなした技巧的なコマ割りも、見ているだけで楽しい。しかし、こんな風に長々と頁を費やして二人の仲睦まじさが丁寧に描かれれば描かれるほど、この溺愛ぶりの動機がわからなくなり、その無根拠さゆえにそこはかとなく不気味な印象を受ける(もちろん、そんなことを作者が意図したはずもない)。『好き好き高雄さん』(C87)に出てくる高雄の性格が、ここの同人誌の登場人物にしてはいささかきつすぎたのとは対照的な問題だが、しかしたぶん根は同じであろう。例大祭(第十二回)で入手した『ぬえちゃんに土下座してヤラせてもらう本』と同様、金太郎飴のように思えて実は割と原作の設定に忠実な、伊東ライフの同人誌の意外な繊細さを改めて感じさせられるとともに、艦隊これくしょんというゲーム自体の限界がここに露呈しているようでもある。
似たような感想は、サークル「遥夢社」(源五郎)の『きよしもも!』についても抱かされた。例えば「藤屋本店」(藤ます)や「紅茶屋」(大塚子虎)や「黒錦」(タカハル)のような他のサークルが提督と艦娘の関係をことさら相思相愛の仲として描く場合、それは要するに、そのほうがすんなり性交に持ち込むことができるという身も蓋もない理由からだろうし、別にそれでかまわないと私も思うのだが、「遥夢社」の場合は、まだ小学生くらいの少女の膣に大人の男性器を挿入するという、どう取り繕っても到底美談になりそうにない行為を無理やり美談に仕立てようとした結果、中途半端な言い訳がましさの中で迷子になった欲望が行き場を見失い、作品全体を委縮させているようだ。清霜自身が提督との肉体交渉を熱烈に望んでいる、というのか。よろしい、それならばその動機を教えてほしい。なぜ彼女がそれほど提督の人柄に惚れ込み、破瓜の痛みに耐えてまで彼の男根をその身に受け入れたがるのか、この疑問に答えてほしい。意地が悪い質問のようだが、源五郎の商業作品にも同様の言い訳がましさが感じられる以上、そしてそれでいて雪雨こんや藤崎ひかりらと並んでこの人の双肩に現在のコミックLOの命運が少なからずかかっていると思える以上、私としてはこの疑問を捨て置くわけにはいかない(注3)。これは、妖夢やナズーリンら、見た目からして明らかに人間ではないとわかる(その点が艦娘とは違う)少女たちを心置きなく欲望のままに凌辱していた、同じサークルの以前の東方本では生じなかった問題だ。もちろん、東方Projectにも艦隊これくしょんにもそれぞれの魅力があり、単純に優劣を問うのは愚問でしかないが、しかし唐突な思いつきにしたがって例を挙げるなら、サークル「az+play」(赤りんご)の『樂璽』のような本が、今後艦これの同人界から生まれるとも思えない。東方の場合はやはり、皆の共有物としてその中にこめられた夢、あるいは幻想の密度が段違いなのであり、しかもその幻想は構造化されている、つまり大域的な安定性があらかじめ部分的な可変性(各サークルごとの創意工夫)を準備している。伊東ライフや「遥夢社」の新刊に感じられる底の浅さは、そのような奥行のある構造を持たない艦これそのものの底の浅さであって、そこに突き当たったこと自体はとりもなおさずサークルの実力の高さゆえと考えるべきなのだろう。

二日目(15日)に購入した同人誌では、サークル「かんむりとかげ」(つん)の『制服咲道楽』がすごい。『咲-Saki-』に登場する女の子たちに、各自の出身地に実在する高校の制服を着てもらおうという趣旨の本(画集)で、れっきとした『咲-Saki-』の二次創作に分類してよいかどうかわからないし、このサークルのつねでサイトの文面から予想されるよりは一見おとなしめというか、常識に配慮した仕上がりなのだが、表紙のシロ(小瀬川白望)があまりに性的でけしからぬ魅力を放っていたので―堂々と天を突くふくよかなおもちが明らかに小さすぎるブラウスを押し上げ、おへそが見えてしまっている―、邪まな気持ちに負けて買ってしまった。当然中身もすばらしく、各校の制服についての理解が深まるのはもちろん(そうやって学んだ知識をいつどこで活かせるのかは不明だが……)、ただでさえ単独で一頁を占める子は多くないというのに、その中でもエイスリンはとびきり大きく描かれているばかりか両腕を広げていまにもこちらに飛びついてきそうな人懐っこい様子を見せており、あからさまに作者の寵愛を反映しているとか、シロ塞、池キャプ、はやしこ、哩姫など、仲の良い(とされる)者同士はちゃっかり二人一緒に同じ頁にいるとか、随所に凝らされた工夫の数々が楽しい。総勢33人、考えてみれば全員いつもと違う装いで、人によっては横顔のこともあり(末原恭子、白水哩)、笑顔ゆえに瞳を確認できないこともあるが(石戸霞)、にもかかわらず一人一人ちゃんと見分けがつくのは、当たり前のようでいて並大抵でない。原作や外伝(『阿知賀編』・『シノハユ』)よりもだいぶ写実寄りの、枯れた叙情性が美しい上品な画風であることも考慮するならなおさらだ(注4)。また、それだけに国広一や穏乃については、定番の露出狂みたいな恰好をやめてまともな制服を着ているというだけでもう、問答無用の笑いがこみあげてくる。下着の有無を問うことなど、許されそうにない雰囲気である。そういえば、この二人以外の面々をざっと眺めても、スカートの下がどうなっているかを確かめたくなるようなはしたない姿勢は見当たらない。学校ごとの特色を打ち出した個性的な要素はえてして上半身に集中しがちとはいえ制服の基本は上下一体だから、本の趣旨を考えるとそれも当然か。しかし唯一の例外である鶴田姫子を見ると、案の定何もはいている様子がないので、澄ました真顔との落差にまたしても困惑まじりの笑いを誘われる。
驚くのはそれぞれの絵に書き添えられた寸評の数々で、「平日夕方に花巻駅に行くと大量にたむろっているので」(岩手県・花巻北高校)とか、「松本に行ったときに出会った個人的に印象深い制服」(長野県・松商学園高校)とかの、現地に赴いて実物を見た経験を匂わせる記述はまだしも、それに加えて、ここ数年の通時的な変化にも抜かりなく目を配っていないと書けないような観察が散見される。例えば、「しかし現在はデザインが微妙~に変わりまして、襟は浅めの関東襟になり、胸当てもちょっぴり覗く程度の大きさになりました」(埼玉県・秩父農工科学高校)や、「こんなに可愛い吊りスカートですが、残念なことに2012年に廃止され普通のスカートになってしまいました」(和歌山県・開智高校)や、「これは2009年に制定された新しい制服でして、以前の夏服は青い細かなストライプ柄のセーラーブラウスでした」(岡山県・山陽女子高校)、等々のくだりがそうだ。余人の追随を許さぬ徹底ぶりで、昨日今日の付け焼き刃でない、制服に燃やす本物の情熱に気圧される。

三日目(16日)については、いつものことながら反省点が少なくない。本来ならもっと早くに済ませておくべき各サークルについての事前の下調べが、諸事情により前日の深夜どころか当日の朝2時半過ぎまでかかった結果、起床時刻が予定の4時から5時にずれこんでしまったのは、その最たるものだろう。当然その余波で会場に到着する時刻も、入場の時刻も遅れるし、それがひいてはお買い物の成否をも左右するわけである。おそらく今回のコミケの最大の目玉の一つであろう、ずいぶん長らく予告されてきたサークル「うどんや」(鬼月あるちゅ、ZAN)の『FUROHILE』こと『自宅の風呂に入ると先に知らない裸の女が入ってる』の上巻も、本単体での頒布は終了したと聞いて、結局会場での購入はあきらめた。いま思うと、セット販売で二千円ならけちけちしないで払えばよかったという気もしなくはない。ただ、実物はまだ見ていないが、輪郭を司る主要な線がへなへなして頼りない一方で、陰影を司る、細かい、副次的な線が霜のように降り積もって画面に余計な混乱をもたらすという結果になってはいないかどうか、やや不安がある。「彦二部屋」(西野彦二)や「嘘つき屋」(大嘘)の新刊も、まだ大丈夫だろうとたかをくくって他をまわっている間に売り切れてしまった。特に後者のサークルでこういう経験をするのは昨年の夏コミに続いて二回目だが、資金自体が乏しかったあのときとはこちらの状況が違う。近く商業単行本も出るらしく、いままでと同じ心構えで接していてはいけないのかもしれない。それと、これはサークル側の都合だが、「KEY TRASH」(緋鍵龍彦)の新刊はなく、「T-NORTH」(松本ミトヒ。)は18禁本での参加ではなかった(注5)。
会場で本を購入したサークルでは、一連の高雄・愛宕本の掉尾を飾る濃密な一冊(『おあずけ高雄とおねだり愛宕』)を出した「MOZUCHICHI」(もずや紫)、短いながら気合の入った極彩色の艶麗なグラブル本(『GRANCOLOR FANTASY』)とともに勝負に出た「藤屋本店」(藤ます)―まだこの一冊しか存在しないとはいえ、モンハンに劣らずグラブルとの相性は抜群のようだ―、そしてしぐにゃんなどが、期待に違わぬ立派な仕事ぶりを見せてくれる。とりわけ惚れ惚れさせられたのはしぐにゃんの『我、榛名と夜戦に突入す!!7』で、もう7冊目の榛名本というだけあって、どういう言葉でいじめれば榛名が悦ぶのか、身体のどこをどう可愛がれば良好な反応が返ってくるのかをすっかり知り尽くした提督が、風邪を引いているにもかかわらず大いに奮闘して存分に彼女をいたぶってくれる。複雑な筋書や微妙な心理の綾などは見当たらない代わり、好きな相手と愛し合うときの幸福感という、その一点のみにあらゆる繊細な演出上の工夫が集中しているから、読者もただひたすらその幸福感を噛みしめながら、むせ返るような甘さに酔っていればよい。もちろん、同時発行の『しぐにゃんetc総集編02』も示しているとおり、以前からずっとこういう作風ではあるのだが、最近は一作ごとの充実ぶりが本当にすごくて、そういえば井ノ本リカ子やみやもとゆうとともにポプリクラブで連載していた時代もあったことをつい思い出させられる。盤石とか、はずれがないとかの言葉は、このサークルのためにあるようなものだ。これが単調で物足りないと思うのは、そもそもエロ漫画を必要としていない人だけだろう。総集編のほうは、表紙のメリアとクリスからもわかるように、ゼノブレイドとシンフォギアの二次創作が特によい(といってもシンフォギアのクリス本は『CHIMPOGEAR』一篇だけだが、巻末にそれを補うかのような書き下ろしがあり、そちらも実に密度が高い)。また、いずれも一次創作を携えての参加となる、「ManiacStreet」(すがいし)や「PKグリッスル」(井雲くす)や「NANIMOSHINAI」(笹森トモエ)などのサークルも忘れてはならない。中でも「NANIMOSHINAI」の『サキュバステードライフ2』は、第1巻以上に内容が盛り沢山で読み応えがあるし、巻末の設定資料の部では「あっもちろん黒髪多いから一人くらい色変えようとかそういうバランス感覚も私にはないです/好きなものだけ描いていたいです」などと、低姿勢の割に妙に強気な宣言をしているのも頼もしい。ただ、私の個人的な意見としては、線にはもう少しめりはりをつけたほうが全体に見やすくなるはずだし、女体の描き方ももっと骨盤を意識すればなおよくなるとは思う(気前よくこちらに突き出されたブルマ越しのお尻の形がほとんど真球に近く見えてしまうのは、さすがにいかがなものか)。
「アジサイデンデン」(川上六角)、「Candy Pop」(いとうえい)、そして「tete a tete fragile」(佐々原憂樹)などの新刊については、それぞれのサークルに望みうる最高の出来栄えかと訊かれれば疑問も残るが、ずいぶん久々ではあり、ともかく買って読めるというだけでありがたい(中でも、「tete a tete fragile」の艦これ・ろーちゃん本『Nicht gut Gruß』は特にそうだ)。この、もっと高度な境地を狙えそうだという印象は、「enuma elish」(ゆきみ)や「70年式悠久機関」(おはぎさん)の新作にも共通するところで、我ながら贅沢でわがままだとは思いつつも、去る冬コミ(C87)のときの本の記憶が忘れがたいので、どうしてもそちらと比較してしまう。
逆に、新境地の開拓に挑んで成果を収めたと思しいサークルは、「絶対少女」(RAITA)と「ドウガネブイブイ」(あぶりだしざくろ)と「龍企画」(龍炎狼牙)である。まず、「絶対少女」の『魔法少女14.0』は、温泉同好会の合宿ということでおなじみの四人の魔法少女とともにやってきた南紀白浜温泉を舞台に、浅井君が彼を慕い追い回すキララ、ついでキララの魔の手から彼を救い出したミサ姉と事に及ぶという内容で、その辺はいつもどおりなのだが、絵や台詞に加えて克明な解説を書き添えることで脳内の妄想を極力忠実に紙の上に写し取ろうとする作者の執念こそが、他の一切をさしおいて何より強く感じられる濃い作風にますます磨きがかかり、それが南国らしい解放感を圧倒している。普通なら背後に隠れているはずの細々とした設定が流れ込んできた結果本文がひどく異形な様相を呈するのもなんのその、一向に意に介する風がないのは大したもので、呆れ半分感心するほかない。のみならず、シニョレッリかマンテーニャばりの、引き締まった細身の胴体の表面に浮き出た筋肉のうねりの描き方には、サークル「SHIS」(Zトン)からの影響がうかがえるようでもある。去年の夏コミ(C86)で出た「SHIS」の艦これ本(『艦ディドール★これくしょん 敷波』)を読んだときは、肋骨の強調や入念な解説などを見て、直観的に「絶対少女」の藝風だなと感じたものだが、もしかして相互に影響を与え合う仲なのだろうか。ただの偶然かもしれないし、ツイッターなりを覗けば答が見つかるのかもしれないが、ともかく面白い変化(進化)である(余談ながら、キララが口にする浅井君の呼び名が「モヤシ様」なのは、馬鹿にしているのか敬っているのかわからなくて笑える)。「ドウガネブイブイ」の『CANDY GIRL』はすーぱーぽちゃ子本で、一枚の静止画の中に時間の経過を折り込むという、紙芝居形式のエロゲー的な発想に支えられていたこれまでの作風とは違い、明らかにもっと漫画らしい、荒々しい躍動感の追求に大きく舵を切っている。そしてこの試みは、ちゃんと成功しているようだ。ただ、『小さなこころの種』(C80)やすーぱーそに子本『キミにいまとどけたいコトバ』(C81)など、これまでの作風があまりに水際立った達成を示してきたせいか、私はまだこの新しい傾向になじめず、戸惑っている。もしかすると、人一倍豊かな胸やお尻(そしてお腹)の重量感が目立ち、その分いわば揺らせ甲斐のある体つきのぽちゃ子が相手だからこそ突発的にこういう傾向が生じたのかもしれず、いずれにしても今後どうなるのかが気になって目が離せない。また、「龍企画」の『騎士団長陥落ス』は、「女身変化に屈した騎士」という副題が示すとおり、お得意の性転換ものの一次創作で、魔術師が実在する中世ヨーロッパ風の舞台設定が、このサークルにしては妙に肉付きのよい、生々しい女体とあいまって目新しい感じがする。憧れの姫の姿を得た騎士団長ジリアムが淫らな欲望を看破されて自ら男たちに体を開くようになるきっかけとして、「鏡」に大きな役割が付与されているのも、どこかラカンの鏡像段階論やジュネの女性化願望を思わせるものがあり、興味深い(視覚的な情報が心理の機微に直結する、漫画家ならではのいわば目の思考の賜物だろう)。
今回初めて買ったサークルの中で印象深いのは「百々ふぐり」(しんどう)で、新刊はパズドラ本(『おま●こには勝てなかったよ』)とだがしかし本(『ボスのだがし』)の二冊、どちらも「Ash wing」(まくろ)の『ご主人様は召使いがコワい?』や「んーちゃかむーむー」(雪路時愛)のデレマス本『凛お姉ちゃんと僕』、それに一日目の「あんみつよもぎ亭」や伊東ライフの本と同じく「おねショタ」ものである。このサークル、昔は汚いおじさんばかり好んで描くので敬遠していたのだが(注6)、いつの間にやらこんな魅力的な同人誌の作り手に変貌していたのだ。しぶりんが自宅に連れ込んだ近所の男の子(当然、武内Pとは縁もゆかりもない)にいけない遊びの手ほどきをしてしまう『凛お姉ちゃんと僕』に劣らず、いかにも作者が自らの欲望に正直そうな感じで、大変よろしい。
最後はサークル「SAZ」(soba)の『奏色豊纏』、価格は若干高めながら(千円だった)なかなかの分厚さである。ただし内容は、昨年出た三冊の食蜂操祈本をまとめた総集編で、表紙を除けば、実質的な新作と呼べるのは巻頭10頁分の書き下ろしにとどまる。丸ごと完全な新作であれば今回のコミケの真打ちとして申し分なかったと思えるだけに、物足りなさを感じないわけではない(注7)。せめて、この機会に東方本の総集編を同時刊行してみてもよかったのではないか。また、表紙の彼女の胸元をよく見ると下向きの亀頭の輪郭がうっすら認められるにもかかわらず、この書き下ろし漫画では、頁数の都合なのか、おまけのGATE本(『此の身御身に斯く捧げり』)ともどもおっぱいがあまり活躍しないのも不可解である。しかしそれらの点に目をつぶれば、相変わらず水準が高くて、ぐうの音も出ないほどすばらしいので困ってしまう。いや、相変わらずという評言は不正確で、少なくとも絵に関しては、精緻でありながら煩雑に陥らず、写実的でありながら勢いを失わず、中庸の道をますます邁進して完璧の域に達しつつあるのが明らかだ。もちろんこの場合の中庸とは、決してほどほどのところでやめておくというような消極的な姿勢を指すわけではなく、例えば『中庸』第一章に「中(ちゅう)・和(わ)を致(いた)せば、天地位(くらい)し、万物育(いく)す」(注8)とあるような、すなわち個人が主体的な努力によって究めてゆくべき、世界の調和と万物の生成との形而上学的な原理としての中庸のことである。特に、角ばった外枠(頁の縁)と人体との間に必然的に生じる余白を埋めるべく、吹き出しや柄トーン、あるいは視点を切り替えた二、三のコマを配置することによってこれまで以上に無駄のない空間の使い方が実現をみたこと、線に再び強弱が戻ってきたこと、汁気の陰影表現が大胆でわかりやすくなったこと、および一つ一つの顔の表情にいっそう自然な多様性が認められること、この四点は見落とせない。あるいは第五点としてさらに、例の堕天使エロメイド服のようなぴっちりした衣装で締めつけるとみさきちの身体は魅力が倍増することの発見を挙げてもよいかもしれないが、今回の書き下ろし漫画におけるこの衣装の使い方を見ると、まさに満を持してという言葉がぴったりの、思わず膝を叩いて「ここしかない」と言いたくなるような絶妙さであり、まるで第一作(『好色豊蘭』)に着手した時点で予定されていたかのようだし、その上以前出た総集編『天草模様なEX%』(C82)の、これまた巻頭の書き下ろし漫画のねーちんとも対になっているから、これが発見なのは作者にとってではなく、あくまでも読者にとってであると考えるべきだろう。こんな風に何から何まで計算ずくで制御したがる知性は、分野を問わず、冷淡で硬く縮こまったものであることが珍しくないと思うが、sobaさんの場合はつねにあふれんばかりの善意がその根底にある。たぶん、スコラ哲学の全盛期を支えたボナヴェントゥラやトマス・アクィナスのような、徳の高さと学識の豊かさを両立させ、それどころかむしろ徳の高さゆえに豊かな学識の持ち主でありえた神学者たちも、こんな感じではなかったろうか。
時流に逆らい、彼らスコラ哲学者への讃辞を惜しまなかったライプニッツは(注9)、前世紀の名高い神秘家であるアビラのテレサにも、いわば数世紀の隔たりを超えて彼らの系譜に連なる思想家の一人として注目しており―ちなみにボナヴェントゥラやトマスと同様、テレサも聖人にして教会博士である―、彼女が書き残した神秘体験を、それとなく自らの哲学体系の中に摂取した(注10)。一般に、ライプニッツはバロックの哲学者と呼ばれる。それというのも、三十年戦争の惨禍の中から生まれた彼の哲学においては、調和の成立が決して自明ではなく、ちょうど不協和音の解決という発想とともに始まったバロック音楽のように、問われ、信じられ、見出されるべきものであるからだ。そしてそれはまた、劇的な明暗の対比や躍動感などを特徴とする、造形美術の分野におけるバロック様式にも共通する姿勢である。そもそも聖堂を飾る壮麗な天井画のことを考えてみればわかるように、バロック美術の発展を支えた原動力の一つには、宗教改革運動に接したカトリック教会が巻き返しを図った、いわゆる対抗宗教改革を数えることができる。激烈な感覚的刺戟に満ち、誇張された大仰な身振りが目立つバロック(その語源は、周知のとおり「いびつな真珠」である)の美術作品は、逆風の中で霊性の回復や神学的秩序の再建を進めるという宗教的な意図を担いつつ、眩惑された鑑賞者の精神にも、この不可視の対応物を答として探し出すよう求めてくる。しかしそこにはまた、むしろ宗教的な体験がその感性的な本性を露呈するかのような場合も少なくない。だからこそ、バロック文化への偏愛を表明してはばからなかった晩年のジャック・ラカンは―彼はこれを定義して、「身体的視による魂の制御〔la régulation de l'âme par la scopie corporelle〕」と言う(注11)―、ベルニーニの手になる聖テレサの彫像に、女性と神秘家が法悦の境地で体験する、ファルス的でない、開かれた「〈他者〉の享楽」の表現の実例を見たのである(注12)。オリアナ、オルソラ、ねーちん、あるいは小野塚小町や浅間・智、そして今回の堕天使エロメイド服を着た食蜂操祈など、修道女的なものや巫女的なもの、より一般的には何がしかの宗教的な伝統を体現する女性たちが、忘我の快楽に悶える豊満な肉体を惜しげもなく揺らし、大きくねじる姿とsobaさんの漫画との相性のよさは、どれほどまでこの人が、本質的な次元でバロックの美学を継承しているかを教えている(注13)。
みさきちの表情にいままで以上に自然な多様性が認められるという、先に書いた印象が正しいのだとすれば、それをもたらしたものは一体何か。いまやこの問いに答えることは、顔の造作自体に生じた変化さえ見落とさなければ難しくない。恍惚の境地でうっとりと細められて垂れ目になることをあらかじめ見越して、目全体の輪郭がやや角ばるとともに釣り目気味に修正されたのと軌を一にするかのように、やや縦長の形に縮小された瞳は、だからこそここぞという瞬間には逆にしどけなく潤んで横方向に広がることができるのであり、加えてやや上方に圧縮されてその分尖り、小ぶりになった鼻も、いまはまだおとなしく閉じられた口がいずれ盛んにあえぎながら大きく開かれるときに備えてあらかじめ場所を空けている―ここには、ちょうどブラームスが交響曲第4番の終楽章でバロック時代のパッサカリアを試みたときのような(周知のとおり、主題そのものもバッハのカンタータからの借用である)、意図的に採用された変奏の原理が働いている。この書き下ろし漫画における彼女の顔の造作は、単に以下の頁に続く三作が証言しているような一連の変奏の成果を活用しているというだけでなく、どこもかしこもいずれその近辺に生じるはずの変動を、褶曲あるいは襞の形成を予告しているのだ。これこそバロック的な、変転常ない流動性というものではないか。
この変動はたしかに、一つ一つのコマの仕上げが丁寧な分、かえって流麗さを欠き、作為的にも見えるが、しかしそのぎこちなさ自体において、例えば水銀で人工の滝を作る場合のように、重い肉体を軽々と舞わせる作り手の精神の現前を教えている。身体の領域で働く、機械状の、派生的な諸力と、生の非物質的な原理である、魂という始原的な諸力との区別(注14)、そして、運動する身体がたどる曲線の統一性をその内側から理解するための「観点」こそを、真なるものの出現の条件として指定する遠近法主義(perspectivisme)(注15)、ひいては「観点にとどまるもの、観点を占めるもの、それなしには観点が一つでありえないもの」という、魂ないし主体の地位(注16)―ドゥルーズが主張するとおり、これらの発想がライプニッツの、そしてとりわけバロック的と呼ばれるに値する哲学の特徴なのだとしたら、我々が生きている文化の中でその後継者を探し求める試みが、いずれエロ漫画を最も有力な候補として見出すことになるのは不可避である。私にはそう思えてならない。


(1)『ファウスト 森鷗外全集11』(ちくま文庫、2002年第3刷)830頁。
(2)商業作品の連載も至って順調なようで、単行本化が待ち遠しい。
(3)この点、年端もゆかぬ少女に欲情することの罪深さ、後ろめたさを重々自覚した上でその自覚それ自体を結晶化させた、クジラックス―男性の側の、心根はともかく見た目の醜さゆえに私の好みではないが―や御免なさいの漫画のほうが、美学的にも倫理的にもよほど筋が通っているし、潔い。
(4)ただ一人「これは誰だろう」と思わされたのは、19頁で博多女子高の制服を着ている子だが、地域、そして髪の色(紫)と前髪の分け方から察するに、どうも新道寺のすばら先輩こと花田煌らしい(とすれば、傍らの小さな参考図版の中で中学の制服を着ているのは加藤ミカだろう)。いつも明るい彼女にしては珍しい、物憂げに伏せられた流し目の色気もさることながら、本来ならば前方に突き出るはずのクワガタムシを思わせる両の角がしんなりと垂れ下がり、おまけにほどかれて数が倍(片側二本ずつ、合計四本)に増えていたので、すぐにはわからなかったのだ。私はそこまで熱心な『咲-Saki-』の読者ではないのだが、たとえそういう人でもこの姿を見たら一瞬判断に迷うのではないか。多少なりとも髪型が変化した子は他にもいるが、それらはおおむね作者の遊び心ということで説明がつきそうなのに対して、彼女の場合は、この写実的な絵柄の中でいかに例の角を不自然にも滑稽にもならぬよう再現するかという問題に悩んだ末の答のように見えて、なかなかに興味深い。
(5)もとよりどんな同人誌を作るかは作者の決意一つに委ねられているとはいえ、「abgrund」や「たまふわ」の撤退後は、「Ash wing」と並んでことのほか魅力的な女装少年本を描いてきたサークルがこの「T-NORTH」であるだけに、今回の判断は個人的に惜しまれる。
(6)もちろん、日本文学には谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』や川端康成の『眠れる美女』のような傑作もあることだし、中高年の性愛生活そのものを、ましてその藝術的表現を否定し、蔑むような気持ちは、私には毛頭ない。むしろ、ある種のエロ漫画家のように、作品の中に中高年の男性を登場させる際、判で押したようにことさら醜い容姿や下卑た性格を付与したがることこそが、ある意味では彼らに対して酷なのではなかろうか。
(7)ただ、このたび以前の原稿をまとめるにあたって一通りの見直しはしているらしく、例えば第三作『蜂色豊艶』の中の、「除いちゃ/だめよぉ~」という台詞を見ると、誤字がちゃんと修正されて「除」が「覗」になっている。
(8)島田虔次『中国古典選7 大学・中庸(下)』(朝日文庫、1989年第2刷)40頁。
(9)ライプニッツ『形而上学叙説』(河野与一訳、岩波文庫、2005年第5刷)86-87頁(第10節)。
(10)同書147-148頁(第32節)。
(11)Jacques Lacan, Le séminaire XX: Encore, Paris, Seuil, 1975, p.105.
(12)Ibid., p.70-71.
(13)こういう類比をどんどん遊び半分に広げていけば、例えばアシオミマサト(「MUSHIRINGO」)がゴシックに、しぐにゃんがルネサンスに、大槍葦人(「少女騎士団」)がマニエリスムに、たくみな無知が古典主義に、すめらぎ琥珀(「L.L.MILK」)がロココに、すがいし(「ManiacStreet」)がラファエル前派に、荒井啓(「関西オレンジ」)が写実主義に、岡田コウ(「おかだ亭」)が印象派に、それぞれ相当するということになるかもしれない。
(14)ジル・ドゥルーズ『襞―ライプニッツとバロック』(宇野邦一訳、河出書房新社、1998年)25-26頁。
(15)同書35-36頁。
(16)同書40-41頁。

category: 同人誌

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夏コミまでに買った同人誌のまとめ 

苦手な果物は基本的にないが、苺だけは例外である。好きな人には申し訳ないと思いつつも、私は苺に心を許す気になれない。例えるなら、自分の可憐さを熟知した上で素知らぬ顔を装い、あえて純朴な田舎娘を演じている―そうすれば一番魅力的に見えるからという理由で―少女のような、油断のならぬ狡猾さを感じるのだ。
サークル「たくみな無知」がCOMIC1☆9(5月2日)に合わせて発行した『ニセコイ』の宮本るり本『メガネのよしみR』を読みながら、以前読んだ同じサークルの小野寺小咲本と比べて何が違うのかを考えているうち、ふとそのことに思い当たった。つまり、小野寺は苺なのではないか。対して、普段は沈着冷静で思慮深いはずのるりが、別に弱みを握られて逆らえないというわけでもないのに、ただただ流されるままに舞子集との肉体関係にずるずるとはまってゆくこの本は、それだけにかえって、人目を惹く華やかな美貌や媚態はおろか、当人たちの意識や自覚とも別の深い次元で男女を結びつける、謎めいた暗い力を把握しえている。もちろん、卑劣な挙動(盗撮)とは裏腹にひどく一途な舞子の心情にほだされたのだろうとか、きっと体の相性がよいので離れられないのだろうとかのもっともらしい理屈はすぐに思いつくが、それよりも、漫画の生命とも呼ぶべきコマ割りや構図に関する緻密この上ない具体的な工夫の積み重ねそれ自体の中から、性行為を大いなる神秘として顕現せしめるという結果が自ずと生じていることが貴重なのではないか。ともすれば女の子の体型を胴長に描きがちな傾向も、るりの場合だと幸い違和感がない。特に、後ろから彼女にのしかかった舞子が、得意気に「るりちゃんの/ことなら/排卵周期だって…」「なんだって/知ってるから♡」と宣言した直後に、胴の上に胴を長々と折り重ねて密着したまま、顔の表情が隠れて見えないばかりか、よく見ると左手を彼女の胸に、右手をお腹に巻きつけた状態で射精するコマは、変態じみた台詞とあいまって、逃げ場のない立場に追いつめられた女性のか弱さの表現として成功している。もう幼くはないがさりとて一人前の大人と呼ばれるにはまだ早い、中学生くらいの少女のどっちつかずの肢体を、隅々まで神経の行き届いた精緻な絵柄で描いてきたこのサークルの美点を最大に引き出してくれるのは、相思相愛の恋人同士の和やかな情交よりも、こういう、ちょっと威圧的な雰囲気の中で強引に迫られるときの、ほのかな恐怖や不安を伴う状況であるようだ。
COMIC1☆9の会場で買った本の中で興味深かったのは、サークル「不可不可」(関谷あさみ)の『わたしたちの新田さん』で、珍しく二次創作、それもデビューを間近に控えた時期のデレマスの新田美波という、女子大生ものである。ラクロスサークルの飲み会のさなか、下心のある先輩の自宅に連れ込まれた彼女がひたすら犯されるというだけの単純な内容ではあるのだが、「なにゆえ新田さんはあれほど性的なのか」という問題に対する一種の謎解きとして読むこともできるかもしれない。もっともそうなると、わけもわからず混乱している間に無理やり手籠めにされてしまったこのときの理不尽な体験を彼女なりに合理化・正当化したがっているから、というなんとも気の毒な答が避けがたくなる。そこで今度は、新田さんの性格は、実はジュースしか飲んでいないのに、未成年飲酒が露見するとまずいという口実でしきりと彼女を引き留めたがる先輩にそのことを告げる勇気さえなかったこの頃と比べて本質的には変わっておらず、彼女がふしだらに見えるのは結局見る人の側の思い込みにすぎないと考えてみると、それはそれで、現在の彼女の言動について卑猥だなんだと騒ぐのが申し訳なくなってくるのである。どちらの想定もそれなりに正しそうだが、ひとしきり全裸で弄ばれた後、先輩の要望どおり、用意されていたユニフォームを大人しく身に着けた上で再び犯される姿を見ていると、この従順さを説明できるのは後者よりも前者だろうと思えてくる(着用の過程そのものは省略されているが、まさか彼の手で着せられたとも思えない)。同じサークルの一次創作に出てくるジュニアアイドルたちが年の割にしっかりしているのと比べて、なんという違いだろう。このように後味の悪さがあるのだが、エロ同人誌としての完成度はもとより申し分がなく、生々しい、赤黒い男根をしつこく女体にこすりつけるとか、男のあえぐ様子が雄辯であるとかのおなじみの描写に加えて、そこはかとなく岡田コウ風の瞳の崩し方など、新しい試みらしきものも随所に見つかるのが面白い。あとは、サークル「70年式悠久機関」(おはぎさん)の『ピクチュリア』や、サークル「G-Power!」(SASAYUKi)の『アンナと魔女の触手遊戯』(注1)、それに去年の夏コミで出たサークル「秘密結社うさぎ」(だんちょ)の『CUSTOM LOVECATs』なども秀逸だった。

COMITIA112(5月5日)では、「Appetite:」(べにたま)や「NANIMOSHINAI」(笹森トモエ)などのサークルの画集もよかったが、最も感銘を受けたのはサークル「骨と肉」(にくまん子)の『よよの渦』だった。美大生のしろりんこと矢白凛は、予備校以来の腐れ縁で同じアトリエを共有するよよ(世々子)から「好きな男性ができた」と告げられ、呆気にとられて大笑いする。それもそのはず、彼から見れば、がさつで大食いのよよはおよそ女らしさとは縁がなく、単に品のない冗談もあけすけに言い合える気の置けない親友でしかなかったからだ。それでもよよよりは経験豊富な指南役として、請われるままになにくれと助言を与えて彼女の恋を後押ししてやるしろりんだったが、やがて、それまで交際していた女性から別れ話を切り出された自分のために本気で悲しんで泣いてくれるよよの優しさを再認識したり、待ち合わせ場所に恋人が姿を現すや否や思いがけぬ可憐な笑顔を見せてはしゃぐ彼女につい声をかけそびれたりといった体験を重ねる中で、その心境は次第に変化していく。自分はよよのことが好きなのではないか、よよにふさわしい恋人の地位を、いまからでも自分が手に入れることはできないのか―鬱積する疑問は、とうとう彼女が「おとまりしてえっちした」その翌日、とめどないよよへの罵倒となって爆発する。傷心を糊塗するための心無い暴言の数々に対して、怒らず抗わず、ことさら穏やかな口調でよよはあることを明かす。それは、そもそも彼女もまた、しろりんへの無邪気な好意を募らせるあまりに恋愛とはどんなものか知りたくなったのだ、という告白だった。

「しろりんが/言ってたからだよ」
〔中略〕
「しろりん彼女の話/ばっかりでさあ/ずっと楽しそう/だったんだもん」
「だから私も/知りたかったの」
「そしたら/しろりんの気持ち」「もっともっと/わかるのかなって」

意外な真相を聞かされて固まり、絶句するしろりんを一人残し、よよは最後まで彼を責めるようなことは一言も口にしないで、おびただしい涙を流しながらアトリエを出ていく。その後は、まだ二人が仲良しだった頃(たぶん、昨年だろう)のやりとりが、「もっと前の夏」と題された章においてなお数頁にわたって回想されるものの、「4月」の章から始まって「5月」・「5月の暑い頃」・「6月のさいしょ」・「夏の前」と、現在形で進んできた筋書は事実上ここまでで終わっている。人によっては、さすがに救いがなさすぎるのでもう一度転機が欲しいという意見もあるかもしれないが、まるでアンドレ・ジッドか西尾維新の小説のごとく読者の心を引き裂いてくれるこの鮮やかな手腕には、まずは素直に感心するほかない。避けがたい力に押されるがまま悲劇的な結末に向かって整然と進む、綿密に計算された歩みは、同時に青春そのもののような痛みを結晶化させるための努力の跡をもとどめており、その潔癖にして非情な感傷性には、例えばバッハの「三台のチェンバロのための協奏曲第2番ハ長調BWV1064」の終楽章を思わせるものさえある。
絵柄は全体的にもう少し丁寧でもよいと思うが(注2)、危なげはないし、感情の乱れの表現としてときに子供の落書きのような雑然たる様式に訴えたり、当初は人間とも思えぬちんちくりんな容姿に描いていたよよを、しろりんが彼女に対する見方を改めるにつれてだんだん年頃の若い女性らしい見た目に変化させたりと―とりわけ、恋人の家に泊まった翌日の、静かな自信をまとって神秘的に微笑む彼女の立ち姿は忘れがたい―、文脈に応じた多様性がある。おおかた作者自身も美大の出身なのだろう。それに、工夫が凝らされているのは絵だけではない。
終章に相当する「もっと前の夏」を締めくくる頁を見ると、白紙に近い紙面の中に―ただし、完全な白地ではなく、頁の輪郭よりもひとまわり小さな長方形の枠が設けられている。たった一コマしか存在しないとはいえ、この頁はまだ本篇の一部なのだ―、「よよは僕の」という縦書きの文句が認められるが、ついにまともな文章として完結することはないまま、殴り書きのようにぐしゃぐしゃと引かれた痛々しい線が上からこれを消し去ろうとしている。むろん、この文句は、直前の頁でしろりんが呟いていた「たしかになあ」「こんなことも/話せる人なんて俺/よよくらいだもん」「よよは」という一連の台詞を引き継いでいるに違いない。ただし、すでにこの(約一年前に発せられたと思しき)台詞からも明らかなとおり、しろりんはよよの前で話すときは一貫して「俺」という一人称を使ってきた以上、「よよは僕の」という文句は実際に発言されたものではないはずだ。とすると、この文句は一体どう読むべきなのか。ここでは、ともすれば登場人物の内面に侵入してこようとする無遠慮な作者による観察と、あくまでも視覚的な性格の対象としてそれを懸命に食い止めようとするしろりんとの攻防が演じられてきた場である、外形(顔の表情や、実際に口に出された台詞)という防衛線がついに突破されるとともに、絵の名に値するものは何一つ見当たらない広漠たるコマがそのまま、一切の虚飾を剥ぎ落とされた彼の心の内と一致してしまう(もっとも、「僕」の一字がひときわ念入りに塗りつぶされ、見づらくなっていることから察するに、熾烈な攻防はなおも続いているらしい)。
しかしながら、そこを舞台として響き渡る「よよは僕の」は、無残なまでの赤裸々さの中で震えながらも、せめて彼が自分を慰めるべく寄りかかることができるような、純一でわかりやすい感慨(本音)へと成長してくれることさえ期待できない。そのことは、この文句に続くべき後半を補って完全な文章を作ろうと試みるだけで誰にでも確かめられる。「よよは僕の好きな人だ」ではどうか。いや、そうであってはならない。なぜなら、よよに対する漠然たる(しかし決して些少ではない)好意を感じはしてもはっきりと自覚していなかった当時の彼には、彼女が自分にとっていかなる存在なのかをことさら定義することなど思いもよらなかったのだし、また現在の彼には、ひどい暴言を吐いた以上、このような身勝手な文章をぬけぬけと口にする資格がないからだ。いわんや、「よよは僕の恋人だ」ではありえない。なぜなら、当時の彼は、わざわざこんな宣言をするまでもなく、他の誰よりも彼女の恋人に近い存在であるという幸福を(それが幸福であるとは意識しないまま)享受していたのだし、また現在の彼は、いくらこの文章を真実にしたいと願おうとも、彼女がもう他人のものであって自分のものではないという厳然たる事実によってただちに反駁される立場にあるからだ。そしてまさに、この二つの「ない」、不可能性の混じった禁止と禁止の混じった不可能性という二重の「ない」こそが、書かれ、そして消されようとしている「よよは僕の」という五文字が究極的に体現している当のものだと判定すべきではないか。あえて「(絵を)描かない」、さらには「(書いた文字を)見せ消ちにする」、という、この消去法による表現の冴えは侮れない。
コミティアで買った本からもう一冊選ぶなら、サークル「ミルメークオレンジ」(水あさと)の『ふくしょくじょし』である。憧れの生徒会長・四谷先輩の正体が着用済みの服を食べる「ゾンビ」であることを知った少女上原は、自身の感染(ゾンビ化)を回避しつつ会長の食欲を満たすため、毎日彼女にパンツを献上することに決める。これだけでもすばらしく気が狂った設定なのだが、大人しく渡されたものをそのまま食せばよさそうなものを、ご丁寧にもちゃんと料理した上でいっぱしの食通ばりにあれこれと論評する様が延々4頁にわたって続くので、腹の皮がよじれる。

「まずクロッチの/前部分の縫目に包丁を/強く入れ、切断」
「活〆というもので/ここにパンツの/神経が集中してるので/ここを切断するとパンツを/生きたまま調理することができ/鮮度の持ちが/だいぶ良くなるんだ」

「パンツの神経? パンツを生きたまま?」などと思ってはいけない。そんな読者の疑問などどこ吹く風とばかりに突き進み、楽しげにパンツを三枚におろした四谷は引き続きみごとな腕前を発揮し、かたい縫目はぶっかけうどんに、脂の少ない「前肉」はかき揚げに、「後肉」と「クロッチ」は一口大に切って焼き肉に、という具合に、それぞれの持ち味を活かしながら本格的な料理を三品も作ってしまうからだ。終始上機嫌の彼女が語り続ける、大真面目のパンツ料理談義、そして味の感想は、まさしく抱腹絶倒である。どういうわけか私はもともと料理の手順を読むのが楽しく、特に語尾が「です・ます」の丁寧語の文体だと背筋にぞくぞくするような快感が走る。そのせいもあるかもしれないが、作者があとがきで「少し課題が残る結果となった気がします」と書いているのとは裏腹に、このサークルの本の中では、これがいままでで一番笑えたし、出色の出来栄えだと感じた。四谷が丁寧語を話してくれればなおよかったろうが、彼女は上原の先輩で立場も上(生徒会長)なのだから、こればかりは仕方がない。

第十二回博麗神社例大祭(5月10日)では、「ドウガネブイブイ」や「秋風アスパラガス」や「といぼっくす+くぢらろじっく」に加えて総集編を出した「はんなま」など、常連のサークルの18禁本が相変わらずすばらしい(注3)。面白いのは伊東ライフで、本命の『カノジョになったこいしちゃん』もよかったが、それよりもおまけ本(『ぬえちゃんに土下座してヤラせてもらう本』)のぬえが、これまで描いてこなかったのが不思議なくらい生彩に富んでいたのだ。どうしてなのか考えてみると、射命丸に八雲紫ににとりにお空に藍さまにさとり、それに今度のこいしらとは違って、欲情する男をほどほどに蔑み、ほどほどに嫌がり、ほどほどの抵抗で応えてくれるということが、どうやら主たる理由のようだ。ほどほど、とはつまり、平和なじゃれあいの範囲を逸脱して洒落にならない域(例えば、強姦罪が成立しかねない域)にまで至るようなことはない、という意味である。そして、『いいなリグル2』あたりのリグルとか、パチュリーとか、霊夢らが示してきたこの系譜に、ぬえもまた属しているのだ。なるほど、世間が伊東ライフに期待しているのは、どちらかといえば、男をやすやすと手玉に取り、最初から最後までひたすら甘やかしてくれる前者の組かもしれないが、あるときは釣り目で男を睨みつけ、あるときは頬を真っ赤に染めて恥じらい、しきりと憎まれ口を叩きながらも結局はいつも押し切られて体を許してしまう、後者の組にもなかなかに捨てがたい魅力がある(ただし『好き好き高雄さん』の高雄まで行くと、いささか性格のきつさが度を越していると思う)。わけてもぬえは、実年齢はともかく見る者に与える印象としては年上でも年下でもなく、孤高の立場を標榜しつつも冷酷さに徹しきれず、憎からず思っている命蓮寺の面々にさえいまいちなじめず、おまけに世を忍ぶかのような黒づくめの恰好をしているくせに妙に肉感的な太ももの風情を隠しきれていないなど、なにかにつけて中途半端なところがあり(注4)、だからこそいじめ甲斐というか、困らせ甲斐があるのだ。「もー怒った!!」「絶対ヤらせて/やんない!!!」とか、「んも~~~~~/デキちゃったら/どうすんのよアホぉ…」とか、その他この類の台詞を伊東ライフの同人誌の中で口にする姿がこれほど様になる東方の少女が、はたしてぬえ以外にもいるかどうか(これに比べれば、リグルは気弱すぎるし、パチュリーや霊夢は逆に高飛車すぎる)。
一般向けの本では、偶然の一致だろうが、やや陰鬱な、または重苦しい結末を迎えたり、不条理な破滅を描いたりした作品が目立つ。例えば、サークル「ヘルメットが直せません」(大出リコ)の『某季某日、博麗の巫女が死んだ。』では、霖之助と添い遂げるために妖怪(魔法使い)になった魔理沙を退治しようとして逆に打ち負かされ、重傷を負った霊夢が、幸い落命こそ免れたものの博麗の巫女を解任されてしまうし、サークル「にくたまそば」(みつもとじょうじ)の『小鈴とおじさま』では、高利貸で財を成した成金のおじさんが小鈴に亡き娘の面影を見出し、仕事にかまけてろくに面倒を見てやれなかった娘の身代わりとして何不自由のない贅沢三昧の暮らしを送らせてやろうとするが、根拠の薄弱な施しを受けることに慣れた結果彼女の道徳観念が狂うのを危惧した阿求の差し金で、なんと急な病死を装い、下女によって暗殺(毒殺)されてしまう。さらにはサークル「その他大勢」(ゆかたろ)の『非月面ウサギと二十億光年の恋人』でも、終始笑いの絶えない和やかな雰囲気とは裏腹に開巻早々地球が粉々に壊れているばかりか、この崩壊のあおりを食って同様に砕け散った月の残骸の上に辛うじて残っていた、いまや人類の文明をしのばせる唯一のなごりと思しき宇宙飛行士の足跡もウドンゲの手であっさりと消し去られてしまうとか、あとがきによれば当初はこの破局を輝夜と妹紅の殺し合いが激化した結果として描く予定だったらしいとか、よく考えると笑えない要素が至るところに見つかる(なお、この作品の絵柄について一言しておくと、睫毛の長いたれ目と官能的な唇が印象的で、銀幕を彩った往年のヨーロッパの名女優を髣髴させる永琳の端正な顔立ちや、兎らしい曲線を描くてゐの上唇、さてはいかにも苦労知らずの貴族らしい、腹立たしくなるほど能天気な輝夜の笑顔など、永遠亭の面々の個性の表現はどれもみごとで、一見の価値がある)。
興味深いことに、サークル「火鳥でできるもん!」(火鳥)までが、この風潮を機敏に察知してか(まさか)、『ゆかりん、余命三日ちょい。』などという題名の本を出している。もっとも、内容はいつもどおりの四コマ連作で、まともな性格の登場人物はほとんど出てこず、これでもかとばかりに詰め込まれた過激で下品な事件の数々が、読者の腹筋を容赦なく笑いの痙攣で痛めつけてくれる。複数の筋書をときに交錯させながら同時に進行させ、かと思えば一つの台詞に二重の意味を持たせもする知的な構成力は健在であり、その手際には舌を巻くほかないが、反面、四コマという形式にこだわりすぎず、適宜以前のように自然な勢いに任せた頁も増やしたほうが、構成力も、また抜群の絵の上手さも、さらに活かせるのかもしれないと思わされる瞬間もある(突然スキマの中から現れたメリーが紫の首根っこをつかみ、彼女を三途の川から連れ戻す大詰めの場面は、その最良の例であろう。ここでは、頁の左半分を占める真っ黒に塗りつぶされた暗闇を背景として、現世に引き返す二人の軌跡を植物の芽に、そしてその末端に位置する閉じたスキマを双葉になぞらえるという、注目すべき表現が認められる。「再生」を象徴するものとしてまことに適切であり、一種厳粛な感動を誘われる)。
こうしたあくの強い同人誌たちと比べれば、サークル「からあげ屋さん」(からあげ太郎)の『ドローンとレミリア』はいかにも他愛ない、子供向けの絵本のように無難で淡白な作品にも感じられるが、いつもと変わらぬその優しい味わいが無性に嬉しくてほっとする。その気になればもっと毒のある漫画も描けるはずだが、一分の隙もないコマ割りの妙や、感情の推移を反映してころころ変化する愛らしい瞳の描き方を見れば一目瞭然、この平明さが並々ならぬ洗練に支えられていることは全く疑う余地がない。

例大祭以降現在までに書店で買った同人誌の中では、まずはサークル「夜★FUCKERS」(ミツギ)の『梅女 弐』(『境界線上のホライゾン』)に指を屈する。特に、ホライゾンが無表情のままトーリのお尻をしつこく責め抜いて悶えさせる前半は、このサークルの同人誌の中では艦これの二次創作を先駆として挙げることができそうだが、ほとんど台詞が与えられなかったむくつけき提督と比べると、容姿が涼やかで口の減らないトーリの反応のほうが、見応えがあるのは間違いない。よほど原作に思い入れがあるのか、ネイトのお尻をトーリが「しっぽ」でいじめる後半も含め、男も女も、『梅女 壱』(C87)と同様、一つ一つの言動が自然で真に迫っている。
それを男女逆にしたようなのが、サークル「ギリギリ虹色」(上乃龍也)の『ヒナとハヤテ2』で、初版が2013年の冬コミ(C85)だから最近出た本というわけではないのだが、いまのところ、今年買った同人誌全ての中でも最高の一冊である。
上乃龍也は、ムサシマルや天太郎らと並んで、評価の難しいエロ漫画家だ。活動歴は結構長いから、右も左もわからぬ新人とは明らかに格が違う。絵は上手でしかも明確な個性があり、話の作り方も手慣れたもので無駄やぎこちなさがない。なによりエロ表現の強度それ自体が侮りがたく、エロ漫画を愛する人なら誰でも一目置くような存在である。しかし、例えば単行本の年間売り上げという点でこの人が業界の頂点に立つような光景は、頑張ってもなかなか想像できない。かといって、だから実力が足りないとか、そういう結論になるわけではなくて、いなければそれはそれできっと寂しい。しかし単なる賑やかしにすぎないのかといえば、もちろんそんなことはない……と、このように、どういう位置づけがこの人にふさわしいのかを真面目に考え始めるとたちまちきりがなくなり、歯切れの悪い辯解もどきの言葉を延々と積み重ねるはめになる。
『「身体中、ヌルヌルです。」』(コアマガジン、2009年)の、バスケ部のマネージャーの話はよかった。何本もの男根を突きつけられたマネージャー(兼委員長)は、淫乱な本性を解放されて、歓喜とともに精子の海の中で息も絶え絶えになってしまうのだ。ただその後は、これと同じような男根祭り(注5)の路線を進むかと思いきや、なぜか電動マッサージ器をはじめとするアダルトグッズの達人になってしまった。そういう作風の人は珍しく、したがって貴重であることは否めない。しかし、私の感覚では、この手のいかがわしい玩具類は、頁の手前、読者の手元が本来あるべき位置なのであって、作品の内部で活躍するというのは何か場違いな気がする。また、漫画としての技術的な完成度が上がる一方で、羞恥心の表現は依然として未発達というか、不十分なのも違和感があった。上乃作品の女性が顔を真っ赤にして目に涙を浮かべるとき、それは恥ずかしがっているというよりもむしろ、耐え難いほど強烈な快感の合図なのだ。さらに、女体の描き方の特徴として、他の部分と比べると脚の様式化(XO脚化)が著しく、そしてそれが、全体的にそつのない絵柄の中で、あるときは太ももが細すぎたり、あるときは膝から爪先までの線が妙に角ばっていたりと、画竜点睛を欠く結果につながっているように思えた。
そんなわけで、最新の商業単行本『エロい娘って思われちゃうかな♡』(富士美出版、8月5日)も、実際に読むまではいささか気がかりだったのだが、これが期待を大きく上回る凄さだったのだ。まず絵柄の面では、脚の極端な様式化という、上述の問題点はほぼ改善されている(ちなみに裏表紙を見ると、あたかもそのことを誇示するかのように、表紙で上半身を見せているのと同じ女の子の、肉付きのよい太ももが目一杯の大きさで載っている)。さらに、狭義のアダルトグッズ以外にもメイド服や裸エプロンやエロ本などを含めた小道具類に関しても新境地が開拓され、使い方がより巧妙というか、自然なものになった。これらの小道具は、あるいは愛情の伝達を手助けしてくれる回路として、あるいは、仮にこれらが結びつけてくれなかったとすればついに疎遠なままだったはずの、男女の仲をとりもつ媒体として機能している。その機能は一様でないが、いずれにせよ、そこにはつねに、単なる気紛れとは違う、何らかの必然性を認めることができるのだ。また、女性の羞恥心の不在ないし不足という現象についても、注目に値する独特の解決がもたらされ、違和感の払拭に貢献している。すなわち、ここで問題にされるのは、あられもない裸身とかはしたない姿勢を見られるがゆえのありきたりな恥ずかしさというよりも、書名が暗示するとおり、元来旺盛な性への好奇心と、快楽の追求に貪欲な肉体の持ち主である女性が、そのような自分の正体を他人に知られるときの危惧であり、ひいては自身がそれに気づくときの当惑なのである。この当惑ないし危惧を杞憂に終わらせ、むしろ大喜びしながら深々とした愛情で彼女の淫らさを受け入れるところに、上乃作品における男の甲斐性が存する。男性向けのエロ漫画の世界の中ではとかく従属的な地位に置かれがちな女性の悦楽や歓びというもの、その自主性や自律性についての、ひそかな、しかし根強い作者の信念を聞く思いがする。長篇『モザイク×三姉妹』にはすでにその萌芽が現れていた以上の諸要素の本格的な開花が、前作『気持ちいい?×気持ちいい♡』と同様の短篇集ながら、『エロい娘って思われちゃうかな♡』をそれら以上の水準に押し上げているようだ。
そして、女性的な官能生活の自主性、自律性というこの論点は、かねがね姉の横柄な態度を憎んでいた弟が、彼女が隠し持っていた大量のアダルトグッズの発見を機に立場の逆転を企て、恐喝まがいの強引さで性的な関係を要求するようになるが、実はもともと二人とも相手のことが好きで、お互いその好意がばれないよう腐心している―という「TRAP×TRAP」の筋書を通じて、ほとんど自己完結性に近づくのである。作中ではついにどちらの本心も相手に対して明らかになる瞬間が訪れない以上、ここには単なる喜劇というより悲喜劇的なものの存在を認めるべきだろうが、それならばしかし、疲れてぐっすりと眠る弟の傍らで一人にやける姉の、「や~っと お姉ちゃんに/手を出してくれたぁ♡」云々という独白にみなぎる、心を蕩かすような至上の満足感は一体何なのか。もちろん、このような場合に、当事者が満足を覚えること自体には何の不思議もない。尋常でないのは、丸々一頁を費やして味わわれるその成就の感激が、弟の返事が欠落したままでも、いやたぶん欠落しているからこそ、これほど完全な、つまりは混じり気のないものでありうるということなのだ。大袈裟かもしれないが、まさしくこの作品で上乃龍也は真に上乃龍也になったのだと私は思う。なんと遅咲きな、と呆れるべきだろうか。しかしその前に、自己自身という鉱山の採掘事業に着手する者の数の多さに比べて、首尾よく鉱脈を掘り当てた例がどれほどあるか、この点はぜひとも考えてみなくてはなるまい。
『エロい娘って思われちゃうかな♡』の検討が長くなったが、さて、『ヒナとハヤテ2』である。サークル「ギリギリ虹色」名義での『ハヤテのごとく!』のエロ同人誌としては、これで一体何冊目になるのか知らないが、商業誌の作品に登場する青年たちと比べてなかなかにサディストぶりが顕著なハヤテと、抗う余裕もあらばこそ、毎度毎度あっという間に組み伏せられては堂に入ったマゾヒストぶりで応え、ねっとりとしつこく心身をいたぶられて快楽の渦の中で失神寸前に追い込まれるナギやマリア、そしてヒナギクたちが一致協力して築き上げる濃密な世界に惹かれ、昔はちょくちょく買っていた。その後は何かのきっかけで離れてしまったのだが(注6)、こうして改めて手に取ると、これはやはり大変な代物である。表紙のヒナギクを見ると、かなり大きめの、水気をたっぷり含んだ表情豊かな瞳、そして大きく波打ちながら伸び広がる艶やかな長髪がまずは目を引き、原作との相性のよさを強く感じさせられる(というよりも、一連の『ハヤテのごとく!』の二次創作を通じてこそ上乃の絵柄が完成へと導かれ、現在あるとおりの姿になってきたと考えるべきかもしれない)。しかしそれと同時にいやでも見る者の目に入ってくるのが、きつく彼女の胴体を締めつける荒縄と、ごつい首輪の存在である。そう、題名からして甘詰留太の『ナナとカオル』を意識しているらしいこの作品では(実際、単行本が小道具として作中に登場する)、未だかつてないほどSM的な趣向が明確なのだ。ただし、ヒナギクはたしかに責められ、痛めつけられる側なのだが、それは決して彼女の歓びがないがしろにされることを意味しない。逆に、ここではヒナギクこそが主人公であり、一切の行為は彼女の快楽を目的とし、かつその中で終始している。彼女は、自分からは何もする必要がない。屈託のない笑顔が魅力的な優男なのに、こと女体のいじめ方にかけては専門家顔負けの熱意を発揮するハヤテの巧みな腕前に、ただ身を委ねてさえいればよいのだ。そうすれば、縄で縛るのも、後ろの穴を指で開発するのも彼が一手に引き受けてくれるし、さらには突かれている最中に言うべき台詞さえ逐一教えてもらえる。だから、たとえ頭を片手で地面に押さえつけられようとも、その実ヒナギクは女王のように一方的に奉仕される立場にあるのであり、難しいことは何も考えずにただ指示に従っているだけで、未知の刺戟が次々と向こうからやって来る。この受け身の快楽には、癖になりそうな強い魅力がある。来たる夏コミ(C88)に参加してくれないのが残念でならない。


(1)触手ものは当分描かないというだいぶ以前の宣言は、これをもって撤回ということになるのだろうか。触手に手を出す人は多くとも本当に上手な人は稀なのだから、そうであってもらいたいものだ(ついでながら、鈴木狂太郎も一度無望菜志ばりの本格的な触手漫画に挑戦してみれば、画力の高さを存分に活かせるのにとときどき思う)。
(2)というよりも、もっと丁寧なのがこのサークルの本来の絵柄で、おまけとして貰ったペーパーの中で作者が書いているとおり、いまは漫画らしい、流れを重視した絵柄への移行を模索している最中のようだ。手元にあった『○○君はいつも不幸』(COMITIA104)を『よよの渦』と見比べると、確かにそう思える。
(3)欲を言えば、これであと「すいーとみるくしぇいく」が参加してくれれば申し分なかった。
(4)この中途半端さを個性として積極的に評価するなら、それがつまり「正体不明」ということになるのだろう。
(5)まるで彫刻刀を使って彫り上げたような、雁首や裏筋が発達して反り返った男根、絵柄全体の統一的な印象の中で唯一異彩を放つ禍々しいそれは、耐え難い欲情の疼きに苛まれ、命令者か請願者かはいざ知らず、持ち主の全人格の集約であるかのように、解放を求めて女体の前で張りつめ、震えている―他にこの手の描写が上手な人として、うろたんとか、世間の評判はどうなのかわからないが、『Strawberry Pink』のくまこうなども私は好きである。
(6)ご多分に漏れず第11巻の伊豆旅行のあたりで感涙にむせんだ者として、こんなことを書くのはいささか心苦しいものがあるが、どこかの時点で「いまさら『ハヤテのごとく!』でもあるまい」と思ってしまったからかもしれない。

category: 同人誌

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