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つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

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ダーウィン『種の起原』より 

『種の起原』に書いてある説(自然選択による生物の進化)は、今日ではもはや発表当初の衝撃力を持っておらず、わざわざひもとく必要は乏しいかもしれない。それに私のような門外漢にとって、名も知らぬ動植物の習性や地質学に関する細々した具体例が、擁護されるべき主張そのものを覆い隠さんばかりの勢いで延々と続く文章はいささか読みづらい。
だがそれでも、自然界の全体に惜しみなく公平にそそがれる愛のまなざしが描き出す明暗法には、おそらくダーウィンの方法の秘密が潜んでいるばかりか、固有の鮮烈な魅力があって無視しがたいのである。

生活のための普遍的な闘争が真理であるのを言葉の上でみとめることほど容易なことはないが、同時に、この結論をつねに心にとどめておくこと以上に困難なことはない―少なくとも私は、そうであることを知った。だが、この結論が徹底的に心にしみこんでいるのでなければ、自然の経済〔原義は自然界の秩序〕全体や、それにふくまれる分布、稀少、豊富、絶滅、変異などのあらゆる事実は、おぼろげに認められるにすぎないか、あるいはまったく誤解されてしまうであろうと、私は信じる。われわれは〈自然〉の顔が喜びにかがやいているのをみる。われわれはしばしば、食物がありあまっているのをみる。だがわれわれは、われわれの周囲でのんきにさえずっている鳥がたいてい昆虫や種子をたべて生きており、こうしてたえず生命をほろぼしていることをみない。あるいは、それをわすれている。われわれは、これらの鳴鳥や、その卵や、ひな鳥が、肉食鳥や肉食獣によっていかに多くほろぼされているかを、わすれている。われわれは、いまは食物がありあまるほどでも、めぐりくる年ごとのどの季節でも、そうであるとはきまらないことを、いつも心にとめてはいない。(注1)

自然の酷薄さを選別の篩と同一視することが、必ずしも観察者自身の酷薄さに直結せず、それどころか生命の複雑性や多様性への最大限の敬意と驚嘆の念に通じていること―そのような事態を可能ならしめた理由を、私は学びたい。今ここで永遠を見ることのできる無私の視線は、どんな分野でも役に立たないことはあるまい。

いろいろな種類の多数の植物によっておおわれ、茂みに鳥は歌い、さまざまな昆虫がひらひら舞い、湿った土中を蠕虫ははいまわる、そのような雑踏した堤を熟視し、相互にかくも異なり、相互にかくも複雑にもたれあった、これらの精妙につくられた生物たちが、すべて、われわれの周囲で作用しつつある法則によって生みだされたものであることを熟考するのは、興味ふかい。これらの法則は、もっともひろい意味にとれば〈生殖〉をともなう〈成長〉、ほとんど生殖のなかに含まれるとしてもよい〈遺伝〉、生活の外的条件の間接および直接の作用によって生じる、また用不用によって生じる〈変異性〉、〈生存闘争〉を生じさせまたその結果として〈自然選択〉をおこさせ、〈形質の分岐〉と改良の劣った種類の〈絶滅〉とを随伴する、高い〈増加率〉である。このようにして、自然のたたかいから、すなわち飢餓と死から、われわれの考えうる最高のことがら、つまり高等動物の産出ということが、直接結果されるのである。生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見かた、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつあるというこの見かたのなかには、壮大なものがある。(注2)


(1)ダーウィン『種の起原(上)』(八杉龍一訳、岩波文庫、2009年第28刷)87-88頁(亀甲括弧〔〕内は訳者による補足である)。
(2)ダーウィン『種の起原(下)』(八杉龍一訳、岩波文庫、2009年第26刷)261-262頁。
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