Admin New entry Up load All archives

つじこの

一応、本とかの批評のつもり。趣味的な備忘録

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

CM: -- TB: --   

日日日『のばらセックス』17 

『のばらセックス』がスピノザ主義の小説であるとすれば、一体それはいかなる点においてか。
この問いに対してはいろいろな答え方がありそうだが、強いて最も簡潔な定式を求めるなら、主著『エチカ』第三部定理2に続く備考の中にスピノザが書きつけた、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの警告とも慨嘆ともつかぬ驚くべき指摘との共通性から出発すべきかもしれない。
かつてこの指摘から勇ましい「鬨声(ときのこえ)」を聞き取ったジル・ドゥルーズも書いているように(注1)、心身の並行論(parallélisme)が、その由来はさておき(注2)ほかのどの哲学者よりもスピノザの哲学にこそふさわしい名称であるのは、ここでは身体と精神の間の関係があくまで対等であって、決して一方が他方に対して優越するということがないからだ(注3)。
スピノザにとって、神とは「絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」(注4)にほかならず、したがって「すべて在るものは神のうちにある、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない」(注5)。このゆえに、いかなる個物もそれの内在的原因(注6)としての神の属性を一定の仕方で表現する何らかの様態なのであり(注7)―属性の定義は「知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの」であり、様態の定義は「実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの」(注8)である―、そのような属性としてスピノザは思惟と延長の二つを挙げている(注9)。つまり、神は思惟する物であると同時に延長した物でもある(いかなる思惟する物、延長した物も、神の属性を表現する様態である)。とすれば、このように神の属性の様態である個々の人間が自らの身体についてその変状の観念を有する以上、「人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない」ということ、すなわち精神と身体の合一が導き出されなくてはならないのは当然である(注10)。ドゥルーズが感嘆してやまない(注11)スピノザ倫理学の真骨頂は、ここから、あらゆる従来の伝統に逆らって、身体の能動はそのまま精神の能動であり、同じく一方の受動は他方の受動でもあるという帰結を敢然と打ち出したところにある。

私はただ一般論として次のことを言っておく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することがより多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然たる認識に対してそれだけ有能である。(注12)

この主張は、精神と身体の間に一方が能動的なとき他方は受動的であるという反比例的な力関係を持ち込んだ上で、つねに前者が能動的で後者は受動的であるべきだ(精神は身体を支配できるし、支配しなくてはならない)と信じてきたスピノザ以前の発想と比べれば、事実上身体の復権という意味を持つものとして評価しうる。それどころか、スピノザはいっそう端的な言葉づかいで、次のようにさえ断定することさえはばからないのだ。

すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。(注13)

まさしくこの文章に、すなわち『エチカ』第三部定理11の本文に伴う備考は、喜びを「精神がより大なる完全性へ移行する受動」として、また悲しみを「精神がより小なる完全性へ移行する受動」として定義するとともに、精神と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、同様な関係における悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ旨を宣言し、あまつさえ喜びと悲しみに欲望を加えた三者以外に―「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」(注14)のであり、精神もその点で例外ではありえない。そして、この努力(自己保存の努力)が精神だけに関係する場合は意志と呼ばれるのに対して、同時に精神と身体とに関係する場合は衝動と呼ばれ、特に意識を伴った衝動は「欲望」として定義される(注15)―、何ら基本的感情を認めていない(注16)。このことは、いかにスピノザの倫理学が彼以外の者の手になる倫理学の体系と比べて身体の自発的な活動能力を重視しているか、そしてその点においていかに「あれをしろ、これをするな」という命令や禁止に満ちた道学者的な説教の類から自由であるかをよく表している。
ただし、身体の復権がそれ自体としてスピノザの倫理学にとって究極の目標であると信じるのは早計である。スピノザ流の並行論がもたらす心身の対等性のもとで、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」という先の指摘を真面目に受けとるとすれば、我々は必然的に、身体が我々の認識を超えているのと同様に、結局思惟もまた我々の認識を超えていると結論づけざるをえなくなるからだ。

身体のうちには私たちの認識を超えたものがあるように、精神のうちにもそれに優るとも劣らぬほどこの私たちの認識を超えたものがある。したがって、みずからの認識の所与の制約を越えた身体の力能をつかむことが私たちにもしできるようになるとすれば、同じひとつの運動によって、私たちはみずからの意識の所与の制約を越えた精神の力能をつかむこともできるようになるだろう。〔中略〕いいかえれば身体というモデルは、スピノザによれば、なんら延長〔私たちの物質としてのありよう〕に対して思惟をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思惟に対してもつ価値が切り下げられる〔意識本位が崩される〕ことだ。無意識というものが、身体のもつ未知の部分と同じくらい深い思惟のもつ無意識の部分が、ここに発見されるのである。(注17)

「意識は、どっぷりと無意識の海に浸かっている」(注18)。原因に対する無知から物事の順序を転倒してしまう傾向に起因する目的因の錯覚、身体に対して意識自身が行使する単に想像上でしかない権力ないし自由裁量の錯覚、そして目的因や自由裁量を駆使して人間に賞罰をもたらすような架空の人格神の存在を信じるという神学的錯覚―意識が抱く、というよりも意識そのものにほかならないこの三重の錯覚への容赦ない批判が必要である(注19)。そして、これらの錯覚からの脱却と表裏一体のものとしてスピノザのもとに現れるのが、前代未聞の簡潔さと身も蓋もない率直さで我々を射抜く、新たな善悪の定義なのだ。

とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。(注20)

これに反して、とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するもの、と解する。(注21)

善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(注22)

これに続けて『エチカ』第四部定理30の証明が告げているように、悪とは「悲しみの原因であるもの」、換言すれば「我々の活動能力を減少ないし阻害するもの」なのである(注23)。ドゥルーズの説明を借りるなら、それは構成関係の分解に通じるような悪しき出会いのことを指す。「わるい」のはつねに「一種の消化不良、食あたり、中毒であり」、いわゆる罪のことではない(そのようなもの、つまり禁止されたことを実行したがゆえの罪悪とは、想像上の産物にすぎない)(注24)。したがって、その対義語である「よい」とは、もはや道徳的な禁止の反対ではなくて、例えば何らかの食糧がそうであるように、我々の身体と直接的に構成関係の合一をみて、我々の力能の増進に寄与するような体のことを、ひいては自分の利益の増進につながる「よい」出会いを上手に組織立てる術を知っているような人物の才覚のことを指すのでなくてはならない。それは、いわゆる善良さというよりは優良さである。同様に、「わるい」出会いの結果に振り回されるばかりで、不平不満をこぼす以外に何ら出会いを積極的に組織する術を知らない無能な人物のことも、やはり「わるい(劣悪である)」と呼んでさしつかえないのである(注25)。
ここに、ただただ我々を自分たち自身の生から切り離してしまう一方である悲しみの受動的感情、またそれから派生してくる憎しみや罪責感やさまざまな迷信の体系(そこには、ユダヤ教やキリスト教も含まれる)に対してスピノザが突きつける告発を重ねて考えるとき、『エチカ』の全体的な構図は、身体的次元での活動力能の増大にもとづく喜びの念をきっかけとする、真に能動的な生への手引きとして整理できることになる。能動と受動は、ともにある個体の経験する変状ないし変様であるが、前者はその個体の本性から説明されるのに対して、後者は他のものから説明されるという点が異なる。しかしそればかりではなくて、受動にもすでにみたように喜びと悲しみの二種類を区別しなくてはならない。たしかに、一見すると両者には我々を自らの活動力能から切り離したままにするという点が共通しているようでもある。

けれども、私たちが自身の体と適合・一致をみない外部の物体や身体と(すなわちその構成関係が私たちのそれとはひとつに組み合わさらないような体と)出会ったときには、すべては、いわばその相手の体の力能がこの私たちの力能に敵対し、これに対してマイナスや固定化にはたらくかたちで進行する。すなわちこの場合、私たちの活動力能は減少するか阻害されるのであり、それに対応する受動〔受動的情動〕が悲しみの感情である。それとは逆に、私たちが自身の本性と適合・一致をみる体と出会い、その構成関係が私たちのそれとひとつに組み合わさるときは、いわば相手の体の力能がこの私たち自身の力能にプラスされるかたちとなる。そうした変様を私たちに引き起こす受動、これが喜びの感情であり、この場合には私たちの活動力能は増大するか促進されるのである。この喜びも、外部にその原因をもつ以上はまだ受動の域を出るわけではない。私たちはまだ、みずからの〔能動的な〕活動力能から切り離されたままにとどまり、この力能を形相的に所有しているわけではない。しかし、それでもこの活動力能がそれにともなって増大することに変わりはない。ここに私たちは一歩、転回点に―ついに私たちがそのあるじとなり、真に能動〔みずからの活動〕の名、能動的な喜びの名に値するものに変わるだろう質転換の起こる地点に―「近づく」のである。(注26)

最大限の喜びの受動に達し、そこから自由で能動的な感情へと移行するための方途を人間に示すこと、これこそが『エチカ』においてスピノザが取り組まなくてはならなかった課題であり、それは原因に関して十全な観念を形成すること、および自己自身と神と他の全てのものを、最終的に永遠の必然性によって意識すること(むろん、この場合の「神」とは、『エチカ』が定義する徹底して非人格的な「絶対に無限なる実有」ないし自然そのもののことであり、そのかぎりでいかなる既成の宗教が教える神とも違う)、というなお二つの局面とあいまって三重の課題となる(注27)。

いまや我々には、意識の地位の格下げを伴う身体の存在感の強調と、よい出会いがもたらす喜びの感情を経由する受動性から能動性への飛躍という、二つの点から『のばらセックス』とスピノザ哲学との共通性を確かめる準備ができている。
まず前者から検討しよう。第II章「ずっと薔薇色なわけがない」において、義父の「あいちゃん」こと坂本逢(に化けたその父親)の館に監禁されたおちば様は、彼に結婚を迫られた上に女子の出産を要求される。その際の愛撫の情景を見てみよう。

 空気を吐くと、それは快楽で味つけされていて、勝手に舌が喋ってるみたいだ。あいちゃんは巧みで、何人もいるみたいだった。ちっとも痛くなくて、全身が肉から解放されて、気持ちよさだけになる。
「ああ、うう」
 優しい。
 あいちゃんは優しい。
 優しい優しい優しい。
「うああ」
 怖い。
 知らない感覚が、背筋を這いあがってくる。生まれてはじめての出番に、身体の奥で準備運動をはじめる部分がいくつもある。身をよじり、寝台のシーツがおおきく乱れ、片足がベッドから落ちる。びくんびくんと、腰が勝手に跳ねる。
 あいちゃんが全身を愛撫(あいぶ)しながら、指先を膣の奥に奥にといれて、ぜんぶ探って確かめて、いちばん弱いところをいじめる。あたしは完全に掌握されて、あいちゃんから逃げようと身体を引きつらせたまま。
 あいちゃんの名前を呼んで。
 一瞬、真っ白。
 いちばん奥から透明な体液が噴出して、ベッドシーツを濡(ぬ)らしていく。全身が脱力して、あたしは無抵抗になる。自分の身体じゃないみたいに、指先が、髪の毛の根本が震えている。
「あ、あ、ああ……」
 とろけて、あたしは放心する。
「あう……」
 よだれまで、垂れていた。経験豊富なおとなのあいちゃんに、あたしみたいな小娘が抵抗できるわけがなかった。あたしは素人同然で、どこもかしこも狙いほうだいな、か弱い獲物だった。
 足を折り、燃えるような身体を丸めて、耐えた。今さら遅い。あれだけ感じておいて、抵抗も何もない。あいちゃんは何も言わずに、あたしの頭をまた撫でている。もう、その手つきまで心地よい。
 あいちゃんの馬鹿。ゆるさない。一生怨んでやる。娘に手をだす異常性欲者。子供相手に興奮するペドフィリア。いくらでも罵倒語が浮かび、すべてがあいちゃんの指先で簡単なパズルゲームみたいに消滅していく。
 あいちゃんは、お父さんだ。
 だけど、いま迫られたら、抵抗できないのがわかっていた。
 ソプラノへの恋心も忘れて、そんなふうにたやすく整えられてしまう。自分がいやだった。(注28)

少なくとも近現代の日本語の小説の中に、これに匹敵する精度と克明さで、息づまるような緊迫感の中で心を引き裂く惑乱とともに女性の官能を追跡しえた実例がほかにあるかどうか寡聞にして私は知らないし、その点だけでも『のばらセックス』は文学史上特筆に値する作品だと思えるが、それはさておき、ここではあくまでも身体の勝手な先導によっておちば様の意識が翻弄され、本来ならば恋人(ソプラノ)への義理という観点からしても、また家族同士の性交渉を忌避する常識の観点からしても決して抱くべきでない情愛の念が彼女の中に生まれていることがわかる。たしかに、よく読めば「全身が肉から解放されて」なる表現もまぎれこんでいるわけだが、これとて意識にとっての肉体の制御不可能性を暗示するための修辞と考えることはあながち強引でもないはずだ。身体は、「肉」であるそれ自身から「肉」ならざる「全身」を快楽の塊として瞬時に発出せしめることすらできるほどに計り知れぬ働きを秘めている。このような読み方が妥当だと思えるのは、主人の代理として現れた召使のシオンに強姦され、重傷を負った瀕死のおちば様をあいちゃんが自らの手で治療してくれるときの場面が、ゆめゆめ侮るべからざる「肉」の権能を、もっとあからさまに、それに振り回される我々人間の意識の側の無残なまでの脆弱さという文脈において教えてくれるからだ。

 あたしたちは肉の身体で生きている。肉を癒し、快楽を与えてくれたものを、無条件で味方と信じる。(注29)

むろん、この文章は、いささかたりともいわゆる快楽主義の積極的な主張として読まれてはならず、むしろそれへの痛烈な諷刺として読まれなくてはならない。すなわち、我々が肉に縛りつけられたもっぱら受動的でしかない精神というものの有限性について反省し始め、そしてそれを自分たちの無力さとして哀しむようになるというところに、この文章の効能が存するのである。思い出さなくてはならないのは、スピノザによれば、喜びはたしかに受動の一種であってしかもその下位区分として快感(「精神と身体とに同時に関係する喜びの感情」)を含むとはいえ、それ自体としてはあくまでも「精神がより大なる完全性へ移行する受動」なのであり、つまりは身体の活動力能の増大と並行的でなくてはならないということだ。それだから、『エチカ』第四部において、喜びは「直接的には悪でなくて善である」(注30)にもかかわらず、快感については「過度になりうるしまた悪でありうる」と書いてあるのは、断じて著者の思考の不整合の表れではなくて、むしろその思慮深さを示すものであり、ぜひとも必要な区別である。快感は「身体の一部分あるいは若干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する」以上、度が過ぎれば身体が刺激される仕方をひどく狭めてしまい、こうして我々の有能性を損なってしまうからだ(注31)。まさにこれこそ、あいちゃんの館で連日シオンに強姦されている最中のおちば様の状態であり―「その日からあたしは、文字どおり家畜みたいだった。/太陽がのぼっている間はずっとシオンにいたぶられて、身体の内側がぜんぶべとべとになるんじゃないかっていうぐらい精液を注入された。〔中略〕これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注32)―、媚薬の注入に続く失禁の場面を経てどん底に達する(注33)彼女の惨めさは、やはり心とは裏腹に肉体が貪ることをやめない多量の快感によって意識が愚弄される以下のくだりにおいて、すでに明瞭すぎるほど明瞭である。

 体位が変わって、あたしの足がシオンのきゃしゃな肩のうえにのる。より深く、彼のものがさしこまれる。身体がしびれていて、自分の爪先(つまさき)がやけに遠い。
「ふあん」
 変な声が出て、顔を赤らめる。まだすこしは羞恥心があるみたいだ。
 厄介なことに、シオンはこういうことが上手だった。いやなやつなのに、気持ちよくされてしまう。へたくそ、とか罵(ののし)ってやれたらいいのに。気がつくと夢中になって、挑発なんてできなくて、全身の毛穴が開いちゃいそう。
 ちゅこちゅこと水音が響くなか、やがて異変が訪れる。
「あ、あう……?」
 呼吸がしにくい。ちがう、口のなかが唾液でいっぱいなのだ。目が見えない。それもちがう。涙が溢れてきたのだ。
〔中略〕
『あたし』という輪郭が崩れて、中身が溢れちゃいそうな。(注34)

例えばジョアン・コプチェクのようなラカン派精神分析に通暁した論者が、通常の快原理の支配の埒外にはみ出るような、死の欲動と一体になった耐えがたいまでに強烈な満足としての享楽(jouissance)の体験を手掛かりにして恥辱の現象の解明を試み、「恥ずかしさは、耐えがたい痛み―つまり、意識が所有できない苦しみを覚えるはめになった身体の、証言者である。精神分析はこの特殊な痛み、意識には吸収されない快楽を、リビドーの満足あるいは享楽と呼んでいる」と書いているのを読むと(注35)、いまさらながら日日日とラカン派の相性のよさというか、親近性には驚かされるほかない。望ましからぬ相手から自分の意に反して力ずくで性交を強要されること、しかも休む間もなく立て続けにそうされること、それはもちろんただでさえ屈辱的なことであり、受け容れがたい恥辱である。しかし状況を決定的にやるせなく、いたたまれないものにしてしまうのは、本来被害者として憤るべき「あたし」(おちば様)がまぎれもなく快感を覚えているということ、しかもその快感たるやおよそいわゆる精神的な(「高尚な」)ところがないばかりか、あべこべに例えばほかならぬ自分の身体から「ちゅこちゅこ」などという間抜けな音が出てくる始末であること、こういった否定しがたい事実なのだ。この点、忘れてはならないのは、仮に精神分析の参照が許されないとしても、我々にはドゥルーズによるT.E.ロレンス論が残されているということだろう。コプチェク以前に、すでに彼は『知恵の七柱』を批評する中で「肉体に代わって恥じる」という事態に言及しているばかりか、身体になしうることについての我々の無知に注意を促すという、ロレンスがスピノザと共有する姿勢を、ほかならぬ肉体の性的な反応(外部からの暴力の到来に際して肉体が覚える性的興奮)という面から次のように確認しているからだ。

精神は肉体へとかがみこむ。このかがみこみ、卑しきものへのこの磁力、精神の覗き趣味、それなしには恥辱はなにものでもなくなってしまうだろう。言い換えるなら、精神は肉体をきわめて特殊な仕方で恥じているということだ。しかし実際は、精神は肉体に代わって恥じているのである。あたかも、肉体にむかって精神がこう言っているかのようだ。おまえを見ていると恥ずかしくなるよ、恥を知ったらどうだ……、と。〔中略〕
 肉体に代わって恥じるということには、ひどく特殊な肉体概念が含まれている。この概念に従うなら、肉体は外的な反応を自律的に示すことになる。肉体は動物なのである。肉体が為すことがあるとすれば、それは単独で行なわれるのだ。ロレンスはスピノザの言葉を自家薬籠中のものとしている。つまり、肉体になにが可能なのかわれわれは知らないのだ。拷問のさなかに、勃起したりするのである。(注36)

このおぞましい境遇から脱出するためには、肉欲の抗いがたさを逆手にとることが、つまり破れかぶれになって羞恥心をかなぐり捨ててしまい、自ら性的な誘惑を行使することによって、もう一人の召使であるセノンを手玉にとり、さらにはあいちゃん本人をも罠にかけて死に至らしめるという骨の折れる作戦が必要だった。この自発的な汚辱への沈澱の中に、すでに能動性への転機が潜んでいることは疑いえない。なお、主人が死んで自由の身になった以上その場から離脱してもよさそうなのに、怒りに我を忘れておちば様に仇討ちを挑んだ結果、間一髪で彼女の救助に駆けつけたソプラノにあっけなく敗れるシオンの空しい忠義は―加工種(エルフ)の殺人鬼であるソプラノは、シオンと違って何ら特別な鍛錬の経験がないが、それにもかかわらず「単純に生物として強いということは、あらゆる理屈を無視する」(注37)がゆえにたやすく勝利する―、これはこれで、肉体に対する精神の地位を過信しないようにという、残酷なまでに皮肉な戒めでありうる。
もちろん、ここまでで終わってしまっては、単に精神は肉体に勝てないというだけの底の浅い結論にもなりかねない。むしろスピノザ主義者としての日日日の本領は、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」というあの不思議な教えから、ドゥルーズの表現を借りるなら「鬨声(ときのこえ)」(注38)を、すなわち我々自身の力能を増大させてくれるようなよい出会いの組織化に、そして喜びを介した受動性から能動性への転換に赴くための力強い号令のようなものを彼が引き出そうとする点にこそ存すると考えるべきだろう。
『エチカ』の体系においては、身体であれ物体であれ、およそ個々の体というものは、全ての属性にとって唯一無二の実体―それをスピノザは「神」と名づける―にほかならぬ、ある内在的な共通平面の上に見出される様態である。そしてそれぞれの体の個体性は、第一にそれらを構成する無数の微粒子の間に成り立つ運動と静止、速さと遅さの複合関係であり、第二にある体が他の諸々の体を触発し、あるいはそれらによって触発される力、すなわち変様能力なのである。『エチカ』の主に第二部(「精神の本性および起源について」)で集中的に論じられている物体論ないし身体論をこのようにまとめた上で、ドゥルーズはスピノザのことを、今日エトロジー(éthologie)という名で呼ばれる学問、すなわち動物行動学ないし生態学の始祖として考えようとする。「君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない」…この叫びとともに幕を開けるのが、まずは「個々のものがそれによって特徴づけられるような速さと遅さの複合関係、触発しまた触発される力についての研究」であり、第二にそのような複合関係、および触発ないし変様の能力の「状況に応じた具現のされ方、満たされ方」―これは、しかじかの情動が当の個体にとって毒となるか糧となるか次第で大きく異なってくる―の研究であり、最後に別々の個体の間で、それぞれの持つ関係や力の間に成り立つ複合的構成の研究、換言すれば「各個を構成している関係相互が(またどんな構成関係をもつものどうしが)直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『拡がりの大きい』構成関係をかたちづくることができるかどうか、各個のもつ力が相互に直接ひとつに組み合わさって、あらたな、もっと『強度の高い』力、力能をつくりあげることができるかどうか」を知ることである(注39)。
『のばらセックス』第III章「いつかは散る薔薇」の冒頭、「ソプラノの男性器は、見慣れないうちは異様だった」に続く、信じがたいほどに美しい性交の情景は、このような、スピノザ的な意味でのエトロジー、動物行動学ないし生態学の探究の具体例として読むことができる。もちろん、単に「あたしたちも動物だ」(注40)という文章が現れることだけが理由ではない。例えば、喋るためでも食べるためでもなく、男性器を愛撫するために口を使うことを学び、そのような未知の、いままで経験したためしのない用途に自らの身体を投じることで、他人の体との新たな組み合わせを模索するという試みのゆえに、我々はそう判断せざるをえないのだ。ただし、「その下着を押しあげて主張し始めたおちんちんを、指先でなぞる。どんどんかたちが明確になる。それはあたしたちの欲望のかたち」というくだり(注41)からもただちにわかるとおり、求められているのはあくまでも組み合わせ、ないし複合的構成なのであって、支配する側とされる側の不動の上下関係でも、ましてやそのような上下関係の存続でもない。それに、個体性に具わる二つの相、すなわち速度の変異と―「ソプラノがもう我慢できない、というようにあたしの後頭部を摑んだ。腕力がすごく、あたしは抵抗できない。ものすごい勢いで、彼の男性器が喉の奥までつっこまれた」(注42)―、触発したりされたりする、変様能力そのものについても―「そのままソプラノは射精した。〔中略〕あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える」(注43)―忘れてはならない。
なるほど、「お互いに体力を消耗し、互いの名前と『愛している』と、喘ぎ声しかでなくなる」という一文(注44)は、すぐ後に引用するくだりに先行しながら、あたかも、性関係の不可能性(その本質を言い表しえないこと)に直面して、決して重なり合わない両性の間の一致をいつまでも夢見ることを余儀なくされる「愛」の悲劇的な壮挙についてのラカン的な洞察(注45)、ひいては言語というものを何よりもこの不可能な結びつきの幻想的な代補とみなす彼の見解を―「二つの存在が結びつくことが出来ないから、彼らは話すのだ、とラカンは言う」(注46)―例証しているかのようでもある。

 なに。ちょっと待って休憩。と言おうとした瞬間だった。ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、当然のように前戯なんて概念知らないから。
 そのまま挿入してきた。あたしは上半身を寝台に突っ伏したまま、腰だけ持ちあげられておちんちんを突っこまれる。背骨が真ん中から折れそうだった。
「ひあっ!?」
 性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声。ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。心臓が震えて、停止しそうになる。相変わらずこっちのことをおもちゃみたいにして、全力で腰が振られる。ばちんばちんという互いの肉が当たる音は、もはや骨と骨がぶつかってがちんがちんになる。
 刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い。やっぱり戦いみたいだ。そして、戦いにおいてひ弱な人間のあたしは、頑健な加工種(エルフ)に勝てない。ということに、しておいて……。
 こ、これで勝ったと思うなよ……。
 がんがん欲望をぶつけられて、あたしはもはや何もわからない。年上の余裕なんて吹き飛んで、勉強したことぜんぶたいらにされて、ひたすら貪りあう。汗が飛び散り、水音が響き、互いの息づかいがすべてになる。
「ソプラノ、ソプラノ……」
「せんぱい―」
 名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに。不安になったみたいに、身体を押しつけあう。求められている。それが嬉しい。ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる。
 もう、逃げられない。
「あう、あうう、ふあううう」
 そばにあった枕を抱いて、何度も背中を跳ねさせて、あたしも積極的に応じる。お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける。
「ふあああ、ああああ」
 快楽にむせび、この世の幸福を味わっていると。(注47)

しかしながら、以上のくだりそのものは、やはり必ずしも合一の不可能性を強調するものとしてのみ読まずともよいようである。我々はむしろ、さりげなく書きこまれた「互いの息づかいがすべてになる」という感覚を素直に認めるところから出発して、一切の有機的組織化、一体化や全体化に抗いつつ、何ら欠如を知らぬ欲望の内在性と生成変化の倫理とを肯定するためにドゥルーズがアントナン・アルトーから借用した「器官なき身体(Corps sans Organes)」、ないしCsOの構成の試みをここに読みとるべきではなかろうか。それというのも、クロソウスキーにならって「気息は、それ自体としても、われわれの内においても、純粋な強度として認められるべきであると思われる」と述べるドゥルーズを信じるなら、「常に、私の気息の中には他の気息があり、私の思考の中には他の思考があり、私の所有するものの中には他の所有物があり」、このようにして「われわれは気息送入と揺らぎなのであり、われわれは気息送入や揺らぎによって互いに混じり合うのである」という事態が成り立つ(注48)一方で、まさしく「分節されない音のブロックに等しい息吹や叫び」を発して明瞭な発話に対抗する(注49)器官なき身体こそが、ただただ強度によってのみ占有される物体ないし身体、すなわち「強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない」ような、「有機体(オルガニスム)の成長以前、器官(オルガヌ)の組織(オルガニザシオン)以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵」(注50)であるからだ。
それゆえ、いましがた『のばらセックス』から引用したばかりの目もくらむほど鮮烈な性交の場面の前半に現れる「戦い」、「刃の鍔(つば)迫(ぜ)り合い」を思わせる真剣勝負の模様については、プルースト、あるいはむしろ「一つの並外れた〈器官なき身体〉」(注51)である『失われた時を求めて』の話者の文体における諸破片の終わりなき闘争についてドゥルーズが説明していること―「決して何ものもある友愛(フィリアー)〔une philia〕によっては平定されることがない。ちょうど諸々の場所や諸瞬間に関しても、結婚する二つの感情は闘争しながらでしかそうせず、そしてこの闘争においてある長続きしない不規則な団体〔un corps irrégulier de peu de durée〕を形成するように。藝術的な〈観点〉という本質の最も高度な状態においてすら、開始する世界は諸々の音をそれらに自らが立脚する当の終極的な齟齬せる諸破片として闘争させるのである」(注52)―を参照しなくてはなるまいし、また後半については、おそらく「ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」という一文を手掛かりにした、古代ギリシャのストア派哲学における非物体的なものの理論との比較が許されてよいはずである。
なんとなれば、ストア派によれば存在するのはひとり物体のみであり、「魂」もまた存在する物体であるばかりか、我々が接する諸物体とは、そもそも原初の火(能動的物体)が物質(受動的物体あるいは性質なき質料)と全面的に混合してその内側から働きかける際に、個別の一体性を保証する内的な力、すなわち「気息」として示すありとあらゆる緊張の諸状態にほかならず、この全面的混合の中で諸物体がもっぱらそれによって区別される内的な力(例えば、動物における霊魂や人間における精神)の性質的差異とは、実はそのまま緊張という強度の差異のことであるからだ。換言すれば、ストア派の宇宙は緊張に貫かれた諸物体が相互に浸透することをやめないトノス(緊張、張力)一元論の世界であり、あるいは、実体としては気息である内的な力がみせる、働きの個体化の様相が緊張なのである(注53)。しかるに、物体は相互浸透の結果として、ある非物体的なものを、すなわち動詞によって表現されるような出来事をその表面に産出する。ただし、言語の経験的・惰性的使用において単に物の状態の上に意味として現働化したかぎりでの出来事を表現しうるにすぎない、活用を受けた動詞と、そのつど純粋な出来事としての潜在性の次元の中でいわば反‐実現を遂げる表現可能なものに対応する不定法の動詞との区別が示唆しているように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」と「表現可能なもの(レクトン)」という二つの術語を混同してはならない。身体の力能を忘却したまま表面で分節化した言葉による言語活動においては意味が所与の条件として前提されるが、これに対して身体に生起する強度的な出来事の言語(「ドラマの言語」)の場合には、決してそのような再認の対象があらかじめ与えられることはないからだ。江川隆男によれば、ここからわかるのはとりもなおさず、有機的身体とは違い、感覚の可能性ならぬ必然性を教えてくれるような身体、すなわち器官なき身体の存在である。

要するに、物体の限界面に生じる非物体的なものを、〈意味されるもの〉(セーマイノメノン)ではなく、〈表現されるもの〉(レクトン)とするような身体が存在するということである。こうした身体が存在するということは、〈感覚されることしかできないもの〉が世界に存在することを示している。つまり、諸器官の総体としての有機的身体は感覚の可能性を意味するが、しかし、そうした器官のない身体そのもの(身体の本質)の存在は感覚の必然性を示しているのだ。(注54)

器官なき身体への生成変化のためには、表面の言葉の言語や「意味されるもの(セーマイノメノン)」から自由になった「表現されるもの(レクトン)」が、それを産出した身体の力を肯定するためにその身体に回帰することが必要である。しかるにストア派の哲学者たちが、諸物体からなる宇宙の外、当面物体によって占有される可能性が尽きているところに無限の空虚(ケノン)を、すなわち「緊張の度合が生み出す差異をけっして受け入れないという意味で、完全に不毛な無差異のうちにとどまり、それゆえそこにいかなる強度も存在しない〈強度=0(ゼロ)〉という非物体的なもの」を想定しながら、しかも周期的に発生する宇宙の大火―このときのみ、全物体は火へと解消して空虚の中に膨張する―を経て何度となく世界が再生を繰り返すという説を唱えたことは、「空虚という身体の本質に、身体の存在を強度として受け入れさせる」というこの課題に、彼らがすでに突き当たっていたことの証拠として理解できるはずなのだ(注55)。
少し回り道になったかもしれないが、ここでもう一度『のばらセックス』からの引用文に戻ろう。すると我々が気づかざるをえないのは、例えば「性感よりもまず驚きがきて、あたしは変な声」という文からもうかがえるように、「意味されるもの(セーマイノメノン)」の秩序に陥ることも、たやすくそれに還元されてしまうこともない「表現されるもの(レクトン)」を生ぜしめ、そのようにして「感覚されることしかできないもの」の実在(感覚の必然性)を強度的に教えてくれるような身体のあり方である。まさしく、「身体に何ができるか、我々にはわかっていない」のだ。ゆえに、「名前を呼ぶ。暗闇で、お互いを探すみたいに」云々と書いてあるのは、精神分析が悲劇的な調子で、あるいは斜に構えて宣告するような両性の合一の不可能性というよりも、むしろそのような身体、器官なき身体が、もっぱら火だけを受け入れて白熱するストア派の空虚のごとく、強度によってのみ占有される身体であり―「ソプラノの太いのが膣内を通過し、身体全体がびりびりと痺れる。〔中略〕ソプラノの存在を魂の奥底まで刻みつけられる」―、強度の卵であることが理由なのである。それと、「名前を呼ぶ」・「身体を押しつけあう」・「お互いの気持ちいいところを痒くてたまらないみたいに押しつける」…等々の、主語を欠き、いわば裸形のまま投げ出された不定法的な動詞の連続についても、それらがみな、先行する叙述の中では活用を受けて過去形ないし完了形となった動詞が明確な主語ないし主体に従属している(「ソプラノはかんたんにあたしの下着をはぐと、〔中略〕そのまま挿入してきた」)ことと比べて著しい文体上の対照を示しているのは見落とせない。もっともこれは『のばらセックス』に特有のことというよりは、日本語という言語の性質上、印欧語における動詞の不定法に相当するはずのものと、人称・数の変化に応じた直説法現在の活用形に相当するはずのものとが外見上区別できず、また文の主語についても適宜省略が許されており、必ずしもつねに明示しなくてよいという事情の然らしめるところなのであろう。
決定的なのは、ドゥルーズと彼の盟友フェリックス・ガタリにとって、器官なき身体(Corps sans Organes)ないしCsOとはそもそも「最もスピノザ的な意味における内在的実体」にほかならないという事実である(例えば性器がそうでありうるような「部分対象」は、その実体の属性である。換言すれば、器官なき身体が敵対することになる相手とはあくまでも身体の有機的組織化なのであって、器官そのものではない)(注56)。それゆえ彼らはこう主張する。

 結局、CsOに関する偉大な書物は、『エチカ』ではなかろうか。属性attributとはCsOのタイプ、あるいは種類であり、実体にして力、生産的な母体としての強度ゼロである。様態modeとは、生起するすべての事柄、つまり波と波動、移動、閾と勾配、一定の実体的なタイプのもとで、ある母体から産み出される強度である。属性または実体の種類としてマゾヒストの身体があり、身体を縫うことから、つまり零度から始まって、強度が、つまり責苦的な様態が産み出される。麻薬中毒者の身体はさらに他の属性であり、〈絶対寒冷〉=0から始まって、特異な強度を生産する。〔中略〕あらゆる実体にとって同一の実体があるか、あらゆる属性にとって唯一の実体があるか、という問いは、あらゆるCsOから成る一つの総体が存在するだろうか、という問いに言い換えられる。しかし、CsOがすでに一つの極限であるなら、あらゆるCsOの総体についていったい何を言うべきなのだろう。問題は一と多ではない。一と多の対立をまったく超えてしまう融合状態の多様体こそが問題なのだ。実体的属性の形相的な多様性は、このようなものとして実体の存在論的な統一を達成する。同一の実体のもとにあるあらゆる属性の、またはあらゆる種類の強度の連続体。そして同一タイプまたは同一の属性のもとにある、一定種類の強度の連続体。あらゆる実体の、強度における連続体、さらにあらゆる強度の、実体における連続体。CsOの、中断のない連続体。CsO、内在性、内在的な極限。麻薬中毒者、マゾヒスト、分裂病者、恋人たちなど、すべてのCsOはスピノザをたたえる。CsOは、欲望の内在野champ d'immanenceであり、欲望に固有の存立平面plan de consistanceである(そこで欲望はあくまで生産の過程として定義されるのであって、それに空虚をうがつ欠如、これを満たしにくる快楽などの、どんな外的契機とも無縁である)。(注57)

ここに、スピノザ的な器官なき身体の体現者、というよりも実例そのものとして、「恋人たち」と並んで「マゾヒスト」が姿を見せることは、『のばらセックス』をスピノザ主義の小説として読もうとする我々にとって無視できない。なにしろ、恋人の射精を咽喉で受けとめた直後のおちば様の苦悶は、以下のとおりに描写されているのだ。

 ソプラノは満足そうに、あたしの髪の毛を引っつかんだまま、長く吐精した。それこそ、縄張りを主張するように。あたしの体内に、容赦ない満足感が芽生える。
 えへへ……。
 ようやく男性器が引き抜かれ、よだれと精液とわずかな出血で、異様に輝く。まだ元気。あたしは口から溢れてくるいろんなものを手のひらで押さえたが、指の隙間から漏れてくる。床に染みができていく。
「ごほっ、げほごほっ」
 朦朧(もうろう)とした意識のなか、収まらない咳だけが痛みをともなう現実だった。目を閉じ、俯き、寝台に突っ伏したまましばし喘いだ。ソプラノとのいやらしい行為は、気持ちいいというよりも、むしろ戦いだ。どう死なずに乗り越えるかが肝心だ。
 何でそんな酷い目にあってまでソプラノを選ぶのか。疑問に思われるかもしれない。でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて。
 ならば、痛みを堪え、あるいは慣れて、快楽さえ得て、あたしは自らを調教する。ひとりよがりじゃない、ソプラノも努力してあたしに歩み寄ってくれている。以前はよりあたしを苦しめるために眼球とかに射精したし。(注58)

ここで彼女が自分自身に施す「調教」の過程は、まさに、次に引用するドゥルーズたちのマゾヒズム論に、この上なくみごとに呼応するものであろう。その要諦は、マゾヒストが苦痛から引き出そうとしているものとは、ありきたりのけちな快楽というよりもむしろ、いかなる欠如も知らない欲望の自足性である、という点に存する。

マゾヒストの苦痛は快楽にいたるための手段ではなく、外的な基準としての快楽に対して欲望が結んでいる偽りの関係を解体するための代価なのだ。快楽は決して苦痛による迂回によって獲得されるべきものではなく、肯定的な欲望の連続的な過程を中断するものとして、できるだけ遅延されなければならない。それはつまり、欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在するということである。この喜びはどんな欠如とも、不可能性とも無関係で、快楽によって測られはしない。なぜなら、快楽の強度をいきわたらせ、この強度が、苦悩や、恥辱や、罪悪神によって侵されるのを防ぐのは、まさにこの喜びだからである。つまり、マゾヒストは、一つの器官なき身体を作り上げ、欲望の存立平面を抽出するための手段として、苦痛を用いるのだ。(注59)

ゆえにマゾヒズムの本質とは、本能的な力を破壊し、あるいは強制的に組み替えてしまうことによって、所与の自然に抗いつつ動物への生成変化をもたらすような、一つの器官なき身体の構成として定義できるのである。

マゾヒズムの本質をなす〈動物になること〉があり、力の問題があるのだ。マゾヒストはこれを次のように示す。「調教の公理本能的な力に代えて伝達された力を得るために本能的な力を破壊してしまうこと。」実際は、それは破壊というよりは、交換であり、流通なのだ(「馬に起きることは、自分にも起こりうる」)。(注60)

とすれば、「あたしたちも動物だ」(注61)という自覚とともに、吐き気のような苦痛に満ちた「生理的反応」(注62)の克服に努めつつひたすら自分自身の「調教」に励むおちば様は、いわば模範的なマゾヒストなのだ。この際、彼女が「痛みを堪え、あるいは慣れて」に続けて「快楽さえ得て」とも述べていることは、ほんの些細な齟齬、ちょっとした言葉の問題にすぎない。むしろ、まさにそのような、自然的本能に反する特異な内在的「快楽」をも発明してしまう欲望の創造性を指して、ドゥルーズたちは「欲望には、あたかも自分自身によって、自分自身を見つめることによってのみ満たされるかのように、ひとつの内在的な喜びが存在する」と書いているのだと考えるべきであろう。
それでは、おちば様のこの自主的な調教の動機は一体何か。この問いの答は実に簡単明瞭で、「でも、これがあたしの愛したひと。あたしの愛すべきすべて」という彼女自身の決意が物語っているとおり、その動機とは愛、それも受動的ではなくて能動的な愛なのである。ところで、ドゥルーズたちによれば、欲望とは愛する力のことである。

欲望は、それ自身においては愛そうとする欲望ではなくて、むしろ愛する力である。すなわち、与え生産する徳、機械として働く徳である(というのも生の中に存在するものが、いかにして、なお生を欲望することができようか。誰が、こうしたものをもひとつの欲望と呼ぼうとするのか)。(注63)

ということはつまり、欠如なき欲望の内在野、欲望に固有の存立平面としての器官なき身体の獲得は、同時に愛する力が自律性を獲得することでもある、と判断してよいのではないか。そしておそらく、『のばらセックス』の作者とスピノザとの間に最も深い合致が成り立つのは、まさにその点なのである。というのも、『エチカ』第五部(「知性の能力あるいは人間の自由について」)は、「神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない」(注64)とことわった上で、神の属性の本質の妥当な観念から物の本質の妥当な認識へと進む直観知を源泉とするような、神への知的愛について、それは―人間精神によって説明されるかぎりにおける神が、原因としての自己の観念を伴いながら自己自身を観想する働きであるがゆえに―「神が自己自身を愛する無限の愛の一部分」でもあると断定しているからだ。つまり「神は自己自身を愛する限りにおいて人間を愛し、したがってまた人間に対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同一である、ということになる」(注65)。『エチカ』が至福とも呼び、事実スピノザ哲学の最高の境地としてあまねく知られる、この神の自己愛としての神への知的愛を、もはや愛されたいとも、愛し返してもらいたいとも思わない者だけが達することのできる、能動的な愛する力としての強度の母体ないし卵、そこから諸々の個物(様態)が強度として生じてくる一つの器官なき身体として理解してよいのだとすれば、「愛されなかったからって、哀しむのは、悔しいだけ」(注66)という反省を経たおちば様が、女性の量産という難事に身を削って挑み、ついに力尽きた生みの親(坂本緒礼)を前にして大詰めの場面で発する「ひとを愛するということが―『馬鹿みたい』じゃなかった時代が、かつていちどでもあっただろうか」(注67)という感慨は、瀕死の彼の意志を引き継いで自ら妹たちの母代わりになろうとする決心とあいまって、間違いなく、このような能動的で創造的な愛の奇蹟を祝福しているばかりか、それの実践に向けて決意を新たにし、ひいては我々読者にもそれへの参加を呼びかけているのであると信じなくてはならない。


(1)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(工藤喜作・小柴康子・小谷晴勇訳、法政大学出版会、2004年第6刷)265頁。
(2)桜井直文は、『スピノザーナ―スピノザ協会年報―第13号(2012)』(2013年)の「【巻頭言】スピノザのものとされているが、スピノザのものではないものについて」において、「平行論」ないし「並行説」(parallélisme)とは本来スピノザの論敵であるライプニッツが自説に与えた名称であることを理由に、この語をスピノザの体系に適用する習慣に対して疑義を呈している(5-10頁)。
(3)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー、2004年初版第2刷)134-135頁。
(4)スピノザ『エチカ(上)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第48刷)38頁(第一部定義6)。
(5)同書53頁(第一部定理15)。
(6)同書64頁(第一部定理18)。
(7)同書70頁(第一部定理25系)。
(8)同書37-38頁(第一部定義四、五)。
(9)同書95-96頁(第二部定理1、2)。
(10)同書108頁(第二部定理13)。
(11)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)266頁、『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)135-136頁。
(12)スピノザ『エチカ(上)』(前掲書)110頁(第二部定理13備考)。引用に際して、原文中の傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。以下においても同様である。
(13)同書180頁。
(14)同書177頁(第三部定理6)。
(15)同書178-179頁(第三部定理9とその備考)。スピノザは、衝動とは「人間の本質そのもの、―自己の維持に役立つすべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質そのもの、にほかならない」とすら書いている。なお、ここでは一応岩波文庫版の訳文をそのまま引用したが、「結局人間にそれを行なわせるようにさせる」は、使役が重複していてくどいから改める必要があろう。原文は« atque adeo homo ad eadem agendum determinatus est »であり、直訳すれば「そしてその上人間はそれらのことどもを行うことへと規定された」となる。つまり、この箇所は、「衝動(appetitus)」ないし「本質(essentia)」から「人間(homo)」への主語の転換を経た上で、完了受動態で書かれているのである。ただし、完了といってもそれは古典ラテン語文法の規範に照らして診断すればということであって、スピノザ本人のつもりではここの時制はむしろ現在なのではないか。
(16)同書181頁。
(17)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)34-35頁。
(18)同書86頁。
(19)同書37-39頁。
(20)スピノザ『エチカ(下)』(畠中尚志訳、岩波文庫、2004年第43刷)12頁(第四部定義一)。
(21)同上(第四部定義二)。
(22)同書20頁(第四部定理8)。
(23)同書38頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)41-42頁。
(25)同書42-44頁。
(26)同書51-52頁。
(27)同書53-54頁。
(28)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)151-153頁。
(29)同書180頁。
(30)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)54頁(第四部定理41)。
(31)同書55頁(第四部定理43とその証明)。
(32)日日日『のばらセックス』(前掲書)181-182頁。
(33)同書190頁。「どん底」という形容を支えてくれる根拠としては、ここに至って「どれだけ気持ちのいい行為も、過ぎれば吐き気になる」という、スピノザの快楽批判と同様の認識がおちば様本人に生じていることを挙げられる。この認識は前提として、狭義の性行為ばかりでなく強制された排尿行為の連続もまた快楽でありうるという命題の成立を、すなわち節の転換の直前ではなお屈辱感に耐えながら「負けるもんか……」という決意を固めていたはずの彼女の意識の惨敗を、当然要求しているはずである。
(34)同書185頁。
(35)ジョアン・コプチェク『〈女〉なんていないと想像してごらん』(鈴木英明・中山徹・村山敏勝訳、河出書房新社、2004年)305頁。
(36)ジル・ドゥルーズ「恥辱と栄光―T・E・ロレンス」、『批評と臨床』(守中高明・谷昌親訳、河出文庫、2010年)251-252頁。
(37)日日日『のばらセックス』(前掲書)235頁。
(38)ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(前掲書)265頁。
(39)ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』(前掲書)236-244頁。
(40)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(41)同書299頁。
(42)同書301頁。
(43)同書302頁。
(44)同書303頁。
(45)Cf. Joël Dor, Introduction à la lecture de Lacan, Paris, Denoël, 2002, p.531-534.
(46)ジャン‐クロード・ミルネール『言語への愛』(平出和子・松岡新一郎訳、水声社、1997年)127頁。
(47)日日日『のばらセックス』(前掲書)303-305頁。
(48)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 下』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)215-217頁。
(49)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 上』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)28頁。
(50)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)314頁。
(51)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.218.
(52)Ibid., p.148: « Jamais rien n'est pacifié par une philia; comme pour les lieux et les moments, deux sentiments qui s'épousent ne le font qu'en luttant, et forment dans cette lutte un corps irrégulier de peu de durée. Même dans l'état le plus haut de l'essence comme Point de vue artistique, le monde qui commence fait lutter les sons comme les morceaux disparates ultimes sur lesquels il repose ».
(53)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、エミール・ブレイエ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』(江川隆男訳、月曜社、2006年)146-150頁。
(54)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書192頁。
(55)江川隆男「出来事と自然哲学―非歴史性のストア主義について」、同書194-201頁。
(56)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(宇野邦一訳、河出文庫、2006年)206頁。
(57)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)315-316頁。
(58)日日日『のばらセックス』(前掲書)302-303頁。
(59)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上』(前掲書)318頁。
(60)同書319頁。
(61)日日日『のばらセックス』(前掲書)300頁。
(62)同書301-302頁。
(63)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 下』(前掲書)218頁。
(64)スピノザ『エチカ(下)』(前掲書)116頁(第五部定理19)。
(65)同書129頁(第五部定理39の本文、証明、系)。
(66)日日日『のばらセックス』(前掲書)284頁。
(67)同書378頁。
スポンサーサイト

category: 『のばらセックス』

CM: 0 TB: 0   

日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』 

全五巻の『魔女の生徒会長』の中でも、ちょうど折り返し地点に相当する第三巻『案山子たちのグランギニョル』は、まさしくそれが全体の中で占める位置にふさわしく自らの対もしくは同類を有さないことにより、珍しく探偵小説風の体裁であることともあいまって、いささか異彩を放っている。しかし、自らの外部に同類を有さないということは、この小説がそれ自身の内部に同類を住まわせることの妨げにはならない。それどころかむしろ、双子同然の対を作る姉弟の、自己完結を求めて何が何でも外界の影響を拒もうとする強固な意志こそが、『案山子たちのグランギニョル』の筋書を突き動かす最大の原動力なのである。

時は22世紀末、日本を三つに分裂させた内戦を終結に導くべく、さる大国が落とした魔素爆弾によって十数年後のいまもなお国土が汚染されたままの第三大日本帝国、通称「子供の国」の中にある、唯一の中立地帯に設けられた帝都世紀末学園が『魔女の生徒会長』の舞台である。四つの校舎のうち、天才児が集まるA校舎(通称「天国」)は副題なしの第一巻に、不良だらけのB校舎(通称「無法地帯」)は第二巻『超悦者ジュリエット』に、それぞれ背景を提供しており、となればこの第三巻の物語が、重い病人や怪我人揃いの「魔界」C校舎で起きなくてはならないのは容易に見当がつく道理であろう。
それに、「魔女の生徒会長」こと剣(つるぎ)シロオ率いる生徒会の面々が校舎で起きる大事件に対処し、主に彼女の問答無用の暴力によって事態が解決をみるという点も、さらには彼女の幼なじみにして、当時七歳だったシロオが「魔女」になるための生け贄のつもりで毒を盛り、危うく一命はとりとめたものの、それ以来10年後の今日に至るまで彼女からは死んだ者と思われ、身近にいても認識してもらえなくなってしまった「俺」こと恋塚(こいつか)ミミクロが主な話者を務める点も、これまでの二冊の巻、および続く第四巻『絶叫メリーゴーランド』とこの第三巻に共通している。
それでは、『案山子たちのグランギニョル』の、他の巻とは違う特性とは一体何か。この問いに答えるために、筋書の錯綜をいったん解きほぐして、内容を時系列順に整理してみよう。かなり多くの出来事が起きているが、便宜上、話者であるミミクロにとっての現在を基準として、それらを二つに大別したい。つまり、あたかも半年前のC校舎で発生した、実に61人もの犠牲者が命を落とした連続殺人事件―人呼んで「みんなの友達」事件―が再開したかのように、やはりC校舎の生徒が立て続けに三人殺された新たな事件の真相を追う、シロオたちの介入と調査が始まる以前と以後に分ける、ということである。
(一)烏魔(からすま)カカシの姉である迷ヒ処(まよいが)トトロが、本来別々の肉片から人間兵器として作り出された自分たちの「人格の模写と保存」という能力を溺愛する弟に明かしてから、口づけを介して自らの人格を弟に託し、弟の人格を我が身に複写した上で帝都世紀末学園に去ってゆく。ちなみに、人格の模写と保存だけならば対象の体液の摂取で足りるが、記憶を含めた全存在の模写のためには脳を食する必要があるという。そして彼女はC校舎の図書館の奥深く、個人用の閲覧室の一つに情報屋として居座る、「図書室の眠り姫」になった。
(二)カカシが姉を追って帝都世紀末学園に入学し、同じく新入生の断花(たちばな)シャムと知り合う。カカシはC校舎、シャムはA校舎に所属することになった。
(三)シャムとカカシの親交が深まる。もともと弟に自分以外の女性が近づくのを恐れるあまりに姉(つまりトトロ自身)の人格を演じさせていたにもかかわらず、この事態を目の当たりにしたトトロは焦り、シャムに対して嫉妬を募らせる。
(四)トトロはシャムを図書館に呼び出して脅迫し、弟との仲を裂こうとするが、口論のあげく彼女に重傷を負わせてしまう。駆けつけたカカシは、燃え盛る図書館の中で姉に心中を迫られるが躊躇し、その直後、絶望したトトロは偶然のいたずらで自らが仕掛けた罠によって首を切断され、即死する。
(五)悲嘆にくれるカカシは贖罪のつもりで、姉の脳を食してその死体を炎の中に投じ、そして彼女の人格に自我の座を明け渡すとともに本来のカカシ自身の人格は削除することで、亡き姉になり代わって自分が「図書室の眠り姫」を演じ切ろうとした。
(六)しかし、彼が姉(迷ヒ処トトロ)の代わりに「図書室の眠り姫」を演じるとなると、必然的にそれまではいたはずの「烏魔カカシ」の存在がC校舎から急に消え去ってしまう。この不自然さをごまかすべく、カカシが起こしたのが半年前の「みんなの友達」事件であった。そもそもC校舎の生徒は全員が日常生活もままならぬ病人や怪我人であり、一般人並みの生活が送れるようになることを目標に、日々養生に努めている。中には人生に絶望して死を願う者も少なくないが、連日の投薬のせいもあって、一人ではなかなか自殺を決行できない。カカシはそんな生徒たちに協力して自殺に手を貸し、死体は脳を食した上で第二大日本帝国に売却する一方で、C校舎に伝わる、身体の「悪い部分」を食べてくれるという「怪獣」の噂を利用し、ときに暴走して人間を食い殺す「怪獣」から身代わりとなって生徒を守る―つまり、生徒全員の「悪い部分」をことごとく我が身に引き受けてくれる―、聖者のような「みんなの友達」の噂を流していた。要人の中にカカシの父もいるらしい第二大日本帝国、通称「老人の国」では、子どもの肉体は臓器の供給源として、また観賞用の美術品として非常に高く売れるし、「怪獣」に怯えて「みんなの友達」にすがる周囲の生徒たちは気前よく金を払ってお守りの類を買ってくれる…というわけで、カカシは順調に荒稼ぎしていた(なお、くだんの「父」とは、実はトトロとカカシをそれぞれ由来を異にする肉片から培養した科学者であり、むしろ二人の「製造者」ないし「創造者」と呼ぶべき人物である)。これが、「烏魔カカシ」の後を追うように60人の生徒が次々と死んだ半年前の連続殺人事件の真相であり、あとは頃合をみて完全に「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロになりきればよいだけだった。
(七)当時、重傷を負った先代の生徒会長である耳寺(みみでら)ジュリエットから会長職を引き継いだばかりの剣シロオは、さすがに「みんなの友達」事件を放置しておくことができず、C校舎に乗りこんで「みんなの友達」と思しき烏魔カカシを見つけ、とりあえず生徒らの妨害を振り切って校舎の外に連れ出すことに成功した。すでに「怪獣」にやられた最初の被害者として自らの死を演出していたカカシは焦り、取引の際に名乗っていた淀川(よどがわ)ドロシーなる架空の人物になりきることに決め、以後半年間を生徒会の一員(書記)としてシロオやミミクロとともに過ごす。なお、「図書室の眠り姫」は火災後は休業中という設定だったが、それでもなお彼女を情報屋として頼ってくる生徒のために、カカシは姉のいた部屋を元通りに再建してそこに彼女に生き写しの精巧な人形を置き、生徒の相談には携帯電話を介して自らが答えていた。一方で、親友である「烏魔カカシ」が死んだと聞いた断花シャムは驚き、事件の真相を暴くべくA校舎からC校舎に転入してたちまち総代表にのぼりつめ、独力で調査を進める。
…ざっとここまでの経緯が、この第三巻『案山子たちのグランギニョル』において、主な話者である恋塚ミミクロにとっての現在よりも昔に起きたことを、時系列順に整理した上で箇条書きにしてみた結果である。対して、それ以降、すなわちこの巻の本来の現在において初めて生じる出来事は、おおむね以下のようにまとめることができるはずだ。
(八)懸命な調査の結果、死んだ生徒たちが第二大日本帝国に売却されていたという忌まわしい真実にたどり着くとともに、C校舎の生徒の卒業後の進路が悲惨なものでしかない―第一大日本帝国、通称「大人の国」での奴隷労働か、軍隊で捨て駒にされるかの二者択一らしい―ことを突き止めた断花シャムは、淀川ドロシー(実は烏魔カカシ)に協力して出荷を担当していた三人から真犯人の名を聞き出すと、彼らを裏切り者として殺害してから、素知らぬ顔でその事件の解決を生徒会に依頼し、まんまと剣シロオを生徒会の一員であるドロシーともどもおびき寄せた。シャムは、C校舎の全生徒を駆り出してシロオをも葬り去った上で、全ての悪行を淀川ドロシーになすりつけ、彼女を「魔女の生徒会長でも勝てなかった凶悪犯」として処刑することで学校の運営者にC校舎の生徒の有能ぶりを知らしめ、自分たちの待遇を劇的に改善させようという計画を立てていたのだ。
(九)調査の一環として図書館を訪れたシロオに、生徒会の本拠地であるB校舎から彼女に同行しつつ途中で別れた淀川ドロシー=烏魔カカシがじきじきに「図書室の眠り姫」に化けて応対しようとしたところ、深層意識の奥底から目覚めた迷ヒ処トトロ本人の人格が一時的に弟の精神を乗っ取った。「怪獣」の伝説をシロオに説明した彼女は、その後こっそりと事件の真相を携帯電話に録音してから、「淀川ドロシー」としてシャムに従容と捕縛される。このままでは、シャムは密売に手を染めた三人の生徒の殺害に加えて、一番の親友であるカカシをもそうとは知らずに自らの手で葬ることになってしまう。しかし、甦ったトトロの人格が、シャムを悪者にしてしまうくらいならむしろ騙してでも彼女の罪を軽くしてやりたいという弟の意を汲んで、シロオの電話にドロシーの声で「助けて」という一言を伝えたことで、事態は思わぬ展開を迎える。
(十)大劇場に到着したシロオは、ドロシーが断頭台に固定されている無残な姿を目の当たりにする。ついで、邪まな計画を得意気に明かしたシャムの号令一下生徒たちが彼女に襲いかかるが、病人ばかりのC校舎の面々では所詮激昂した魔女の生徒会長の敵ではなく、シャム自身も難なく打ち負かされて事件はあっけなく解決するかに思えた。だがそのとき、断頭台から解放された淀川ドロシーは、ついに自分こそが烏魔カカシであると名乗って敗北感に打ちひしがれるシャムをさらなる呆然自失に追いこみ、同時に「怪獣」としての本性を表わしてシロオを挑発し、二人は戦い始める。相手の動きをぴたりと正確に模写し、あまつさえこれまで登場した強敵の技もことごとく再現してのけるカカシにシロオは苦戦を強いられるが、かすかに残っていたドロシーの人格から助言を受けたミミクロによる援護射撃のおかげで、数戯(すうぎ)ヤンマ(耳寺ジュリエットの部下の一人で、忍者)をまねた分身の術を打ち破ったシロオはみごとに「怪獣」を退治した。
治療を拒み、シロオの腕の中で息絶える「怪獣」こと烏魔カカシだったが、ようやく姉への贖罪を果たして自ら死を選んだ彼の人格が消え去った後、その肉体には架空の存在だったはずの「淀川ドロシー」の意識がなおも残存していた。そして『案山子たちのグランギニョル』は、恋塚ミミクロではなくて病室で目覚めたばかりの彼女を一人称の話者として、力尽きて自殺する日まで懸命に生きた60人分の生涯の記憶をせめて忘れまいとしたカカシの決意を引き継ごうとする誓いの表明と、看病疲れからか眠りこける足元の生徒会長に向けた「ただいま」という優しい挨拶とで、静かに、しかし堂々と締めくくられるのである。

さて、以上十項目が『魔女の生徒会長』の第三巻の内容の要約ということになる。頁数(あとがきの最後の頁の右肩を見ると、316頁とある)に比して、なかなかに複雑でめまぐるしい。というより、残りの四冊と比べてもややこしさでこれに匹敵する巻は他にあるまい。
このややこしさの一因は、もちろん迷ヒ処トトロと烏魔カカシの姉弟が共有する、「人格の模写と保存」という能力にある。例えば、いましがたの整理では(一)に相当する、二人の別れの場面を読んでみよう。

 寂しかった。とても寂しかった。
 わたしたち姉弟は生まれたときからずっと一緒で。広いお屋敷に心を許せるのはお互いしかいなくって。その唯一の親愛を抱いた相手と引き裂かれる哀(かな)しみは、これまで味わったことのない苦痛だった。両親が離婚しお母様が去っていったときとも、故郷に別れを告げたときとも、比較にならないほどの……寂寞(せきばく)とした気持ちだった。
 その気持ちを素直に吐きだし、ぐずぐずとわたしは泣き言を吐いていた。
 姉はわたしほど見苦しく嘆いてはいなかったけれど、それでも目に涙を浮かべ―わたしの頭をずっと撫(な)でていてくれた。
 馬車の窓から身を乗りだし、わたしの頭を抱きよせ、姉は囁(ささや)いていた。
「寂しい。寂しいね。でもねカカシ、そんなに泣かなくてもいい。人間はみんな寂しいんだ。孤独で、不安なんだ。みんな独りで生きている―でもね」
 姉が細い指に精一杯の力をこめて、わたしの顔の両側に手を添えて、わたしに自分の顔を見あげさせた。長くて美しい姉の金色の髪が、視界いっぱいに広がっていた。その光景に心を奪われているうちに、姉がそっと顔を寄せてわたしの唇に口づけた。
 触れていた時間はほんのちょびっと。
 何をされたか、わからなかった。
〔中略〕
 そこで―微笑(ほほえ)み、姉は口元に指を添わせた。
「今さっき、わたしはあなたの唾液を摂取した」
 姉は悪戯(いたずら)っぽく尋ねてきた。
「さて問題だよ。正しい答えがわかるかな? 先ほどの説明を踏まえて、あなたの唾液を摂取したわたしは―果たして何を模写し保存したでしょう?」
「あ。う。え」
 わたしは思考もできず、ただ特に苦労もなく覚えた知識をそのまま吐きだした。
「人格。ぼくの人格を、お姉ちゃんは模写し保存した」
「そう。同時に、あなたもわたしの人格を模写し保存できたはず。これの意味がわかるかな? あなたには難しいかな? こうしてあげれば―わかる?」
 目を閉じ、開き、姉はわたしを正面から見つめてきた。
 雰囲気が豹変(ひょうへん)していた。先ほどとは様変わりした、姉の仕草も漂わせる気配も何もかも。何か覚えのある感覚だった。そうだ、まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような。
「これで、ぼくは、きみだ」
 目を閉じ、また開き、人格を切り替えて。
「同時に―わたしは、あなただ」
 御者がお父様と挨拶(あいさつ)し、わたしたちには声もかけずに馬車へと乗りこむ。わたしは難しい謎々(なぞなぞ)の解答が、何となく理解できて―姉の手をとり、微笑んだ。
「ぼくは、きみ。わたしは、あなた」
 胸に手を当て、そこに保存された人格を表出する。
 姉の―迷ヒ処(まよいが)トトロの、人格を。
わたしは、ここにいる」
「うん。ちょっとした余興をしよう」
 姉は男の子みたいな口調で、いいや、烏魔(からすま)カカシの人格で語った。
「今日からわたしはぼくとして生きる。あなたは今日からわたしとして生きなさい。肉体は離ればなれになるけど、心はずっとそばにいる。自分でもあり他人でもある肉と心が、離れずにずっとそばにいる。これでもう……寂しくないでしょう?」
 涙が一雫(ひとしずく)だけ、姉の綺麗(きれい)な頬(ほお)を伝い、風に乗って流れていった。
 こちらに手を伸ばした姉は―花咲くような笑みを浮かべる。
「永遠に、一緒だよ」
 そうして。
 わたしの姉であり―わたし自身でもある存在は、馬車に揺られて去っていった。でも寂しくはなかった。わたしはここにいる。ぼくもここにいる。永遠に、ここにいる。(注1)

フッサールが創始したいわゆる現象学の、フランスにおける継承と発展に大きな足跡を残した哲学者モーリス・メルロ‐ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)による児童心理学講義の記録として名高い「幼児の対人関係」の中の表現を拝借するなら、我々はこの場面から、自他の人格が未分化な三歳以前の幼児に顕著であるという、「癒合的社会性」の例を読みとるべきではなかろうか。ここで興味深いのは、話者であるカカシが「まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような」と感じていることであって、まさしくこの講義でもメルロ‐ポンティが言及している精神分析家ジャック・ラカンの鏡像段階論によれば、そもそも人間は目前の鏡に映った像を見ることで初めて自らの身体的な姿を知りうるのであり、そうである以上、このように像に「籠絡」される瞬間から、自己疎外が、つまりは理想的・虚構的・想像的自我の果てしない追求が―「私はもはや、私が直接に感じていたとおりのものではなく、鏡が私に提供してくれる私の像なのです」(注2)―、万人にとって不可避の運命であるということになる。したがって、両者を参照しつつ坂部恵が手際よくまとめているように、「鏡像とわたしとの関係のうちには、わたしとわたしの関係、わたしと他者(ひと)との関係(この二つの関係は、別のものというよりは、おなじ一つの関係の二側面といったほうがよい)の原型がある」のであり、この間の機微は不断の他者との関係を通じた自己の生成ないしかたどりの局面として、およそ次のようにも一般化できるはずなのだ。

 自己なるものは、けっしてはじめから一つの閉鎖し完結した操作系としてあるわけではなく、たえず他者との共通の場のなかにあり、自己の身体は、なかば無意識のうちにも、他者の身体の身ぶりを模倣しつつ、他者の「体位を受胎」しつつ、一つの共生的なシステムを生きている。模倣は、〈わたしの身体〉と〈他者の身体〉と〈他者そのもの〉とを結合するただ一つのシステムのあらわれである。自己と他者を含む共通の場の象徴的マトリックスは、メルロ=ポンティの表現を借りていえば、「〈わたしの行動〉と〈他者の行動〉という二つの項をもちながら、しかも一つの全体として働くような〈一つのシステム〉」を分節せしめるものとしてあらわれてくることになるだろう。(注3)

このような、私があくまでも私であるように他者はあくまでも他者であり、それ以外の何者でもありえないという同一律の命題の成立に先行する(そして、同一律の成立後の成人の意識の奥底にもなお根強く生き残っている)、原初的な自他の混合ないし癒合的社会性の状態がもたらす帰結として、残酷さや共感の態度をさしおいてメルロ‐ポンティがまっさきに「嫉妬」を挙げていること、また続けて、自分の中の気がかりな点を他人に帰そうとする「転嫁」の現象に考察を加えていることは、迷ヒ処トトロが断花シャムに対して抱く殺意に近い嫉妬や、烏魔カカシが連続殺人に手を染める傍らで流した、生徒全員の「悪い部分」を引き受けて「怪獣」に自らを捧げる「みんなの友達」の噂―ここでは、身代わりもしくは生け贄による浄化という理屈がご丁寧にも二重化されている―などを読み返すとき、まことに示唆に富む。
とはいえ、晩年のメルロ‐ポンティの思索は、1961年の急逝後に『見えるものと見えないもの』と題して刊行された遺稿を参照するかぎり、いささか行き過ぎとも思えるほどの執拗さで自他の一体性に、あるいはむしろ他人の影の射さぬ自分と世界との一体性に熱中していた観がある。私の身体は一方では見たり、触れたりするものでありながら、他方ではまた見られ、触れられるものでもある。メルロ‐ポンティの思考は、知覚する者が誰しも気づかざるをえないこの事実を徹底的に掘り下げた結果、見るものと見えるもの、触れるものと触れられるものとの癒着ないし蚕食から、世界と私をともに織りなす同一の生地としての、視覚や触覚の可能性一般を発見し、そして「すべての視覚には、根本的なナルシシズムがある」という宣言とともに、その生地を「肉(chair)」と名づけるのである(注4)。
しかしながら、ジャック・ラカンが1964年のセミネール(ゼミナール)『精神分析の四基本概念』で亡き友のこの遺稿における視覚論を称讃しつつもさりげなく力点の置きどころを変えた結果は、むしろ受動性の強調であり、私は見る者である以前に見られるものである、という事態にほかならない。

彼の指し示す道を通ってしっかりと捕らえなくてはならないのは、眼差しはあらかじめすでに存在しているということです。つまり、私は一点だけから見ているのに、私は私の存在においてあらゆる点から見られているのです。(注5)

『見えるものと見えないもの』が目指しているのが「見るものとしての私がそこから抽出される無名の実質の探究のようなもの」(注6)であるとすると、それに対してラカンが眼とまなざしの混同を戒めつつ唱えるところによれば、空間とはそもそも見る主体に先行する光であり、どこと定めがたいある一点から波紋状に拡散してくるその光としての視線が、主体をまだ見ることができないうちから捉えて絵にしてしまう、あるいは風景の中で主体を暗点化してしまう。眼の構造は見るという働き以前に、むしろそのような過度の光の流入に対する防衛機能のあることを教えており、擬態のさまざまな相、すなわち偽装・カムフラージュ・威嚇などはいずれも、視線にさらされる主体がどうにかして風景を制御しようとする試みである(注7)。視線と眼の関係がこのように非連続的であり、囮の関係である以上―「つまり器官としての眼は視線によって作用されるのだが、器官としての機能を果すときには視線を見失ってしまわざるを得ない」(注8)―、「愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは『あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない』、ということです。/逆に言えば、『私が視ているものは、決して私が見ようとしているものではない』ということです」(注9)などと、軽口めいてはいるが一種悲愴な調子の発言がラカンの口から出てきて、聞く者をとまどわせるのも無理からぬところであろう。この、「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」という命題が、第四巻『絶叫メリーゴーランド』でようやくシロオから再び認識してもらえるようになる日まで、『魔女の生徒会長』の主な話者である恋塚ミミクロが耐え忍ばなくてはならなかった試練の内実と全く同じであることには驚きを禁じえない。
この符合が示すのは、第一に、本人の自覚がどうであれ、日日日の小説がラカンの精神分析理論との間に有する深い親和性であり、また第二に、『魔女の生徒会長』という作品を、現象学と対決し、その批判を試みた小説として読む可能性である。特に注目したいのは後者の論点だ。例えば、『案山子たちのグランギニョル』に先立つ第二巻『超悦者ジュリエット』をひもとけば、我々は一体何を目にすることになるのか。第一の主著『論理学研究』(1900-1901年)の時期のフッサールにとって、「自分が語るのを‐聞く」という比類なき自己触発の活動は、自己の自己への現前、ないし意味するものと意味されるものとの絶対的な近さを決定的な真理の源泉として直観的に保証してくれるはずだったが、これに対して「私が自分が語るのを聞く代わりに、自分が書くのを見たり、身ぶりによって意味するのを見るときには、この近さは打ち破られるのである」(注10)と考えるジャック・デリダは、「知覚の言表(エノンセ)を理解するために、私は知覚する必要がないのと同様に、〈〉という語を理解するために、私は〈〉という対象の直観を必要としないのである」とも、あまつさえ「私の死は、〈〉という語を発するのに構造的に必要不可欠である」(注11)とも述べて、真理の源泉としての「自分の声の聴取」というものの権威に疑問符を突きつける。ちょうどそれと同様に、『超悦者ジュリエット』の読者は、第三大日本帝国の姫君であり、魔素による汚染で視力が失われたために自分の醜い外見に気づく機会のなかったジュリエットが、声の美しさを何よりも重んじるというそれまで育んできた価値観を―「視力の欠けたお姫様にとって、声の美しさは何よりも優先される価値観だった。すべてがそれを基準に彼女のなかで順位をつけられていた」(注12)―自らの美への確信ともども無残に粉砕される場に出くわすことになるのだし、もっと先へと読み進めば、あたかも、感覚するものと感覚されるものとの互換性としてのメルロ‐ポンティ的な「肉」はあまりに柔らかすぎて自立することができないので、決してそれだけで藝術が生まれるのに十分ではなく、枠構造を欠けばたちまち「骨にそって落ちてゆくだろう」というドゥルーズの不吉な予想(注13)をそっくりなぞるかのように、整形手術で作り上げたジュリエットの端正な顔面から頬の肉や眼球が崩れ落ちる光景を目撃することになる(注14)。
ことに、声による自己の現前の保証についてその有効性を根底から疑うというデリダ的な発想は、『案山子たちのグランギニョル』の終盤、あらかじめ録音してあったトトロの音声がミミクロに全ての真相を明かす場面において、なおのこと歴然としている。なにしろ、ここで語っている「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロは、ミミクロがこの録音に耳を傾ける現在の時点で死者であるというだけでなく、そもそもこの説明を携帯電話に吹きこみつつあった過去の時点で肉体的にはとうに死んでおり、偶然のいたずらで弟(烏魔カカシ=淀川ドロシー)の深層意識の中から一時的に目覚めたにすぎなかったからだ。なお、引用文中でミミクロが「先輩」と呼んでいるのは、生徒会の一員として日々彼に接していた淀川ドロシーこと烏魔カカシその人のことである。

「さて。長話はこんなところ」
『眠り姫』は区切りをつけ、吐息のようなか細い声を零(こぼ)した。
「今回のお礼とお詫(わ)びにかえて、疑問が解けるようお節介を焼いてみたけれど―なんだか、懺悔(ざんげ)に付きあってもらっただけのようで、申し訳ないね。それに……そろそろ、時間切れらしい。わたしは眠ることにするよ。今度こそ永遠にね」
 そこにいるのは人形だけど。声は過去の録音だけど。
 そこには『眠り姫』がいた。その意思があった。そんな気がした。
「ようやく……眠れる……」
 だから俺は、無駄かもしれないけど、そんな彼女に―運命に翻弄(ほんろう)され、嫉妬の炎に焼き尽くされ、死んでいった哀れなひとりの女の子に……告げた。
「この閲覧室さ、他(ほか)の部屋に比べてひとつだけ綺麗(きれい)だろ? 調べたらさ、先輩が貯金をはたいてここだけ個人的に修復したんだって―できるだけ、あんたが生きていたころの様子を再現してさ。ここ、あんたのお墓だったんじゃない? 弟さんが、あんたのさ……冥福(めいふく)を祈って。そりゃ、死者蘇生(そせい)が成功すればあんたは仮にでも生きかえるかもしれないけど、魂っつうかほら、その肉体を弔うために―って」
 携帯電話は沈黙している。もはやこの場で喋(しゃべ)っているのは俺だけだ。
「……もう聞こえねぇか」
 おやすみ。今度こそ、ぐっすり眠れるといいな。
 良い夢を―『図書室の眠り姫』。(注15)

大体、いくら模写が全体的にして高度の水準に達していようとも、ここで姉(迷ヒ処トトロ)の意思を語る「わたし」の声は、実際にはあくまでも弟(烏魔カカシ)の口から発せられているのだ。たぶん、日日日の小説がこれほどまでにデリダの思考に肉迫した例は珍しいはずである。
とはいえ、『見えるものと見えないもの』を執筆していた時期においても、メルロ‐ポンティ自身には決して他者の実在を消去しているつもりはなく、むしろ私にとって表裏一体の関係にある相方にして、唯一の同じ存在の秩序(「肉」)に属する鏡像の発見として他人の出現を考えようとしていたことは見落とせない。

 他人が真に他人であるためには、他人が厄介者だというだけでは、つまり他人は味方から敵への絶対的逆転というたえざる脅威であり、強迫観念のように、いかなる異議申し立ても無視してひとり聳え立ち、場所も相対的関係も顔もなく、一瞥のもとに私を私自身の世界の塵へと粉砕する力をもった裁判官だというだけでは不十分であり、またそのようなものであってはならない。他人は私を脱中心化する力をもち、私の中心化の働きに彼の中心化の働きを対立させる力をもっていなければならないし、その力をもつだけで十分であるが、彼がそのようなことをなしうるというのも、われわれが〔中略〕同一の〈存在〉への二つの入口だからであり、それぞれの入口は事実上は各自にしか近づきえないものではあっても他の一人にも権利上は近づきうるものであり、それらの入口がいずれも同じ〈存在〉に属しているからにほかならない。私の見る他人の身体、私が聞き私に与えられている彼の言葉は、私の領野に直接に現前しているという限りでは、私が決してそれに居合わせることがないだろうようなもの、私にはつねに見えないものであり、私は決して直接にその証人とはなれないようなものを、それらなりの仕方で私に呈示しなければならないし、その呈示でそれらの役目は終わるのである。そのようなものは、したがって一種の不在ではあるが、それはどんな不在でもいいというわけではない。それは、初めからわれわれに共通するような次元、つまり他者を私の鏡であるように―私が彼の鏡であるのと同様に―予定し、われわれ自身が誰かの像とわれわれの像とを別々にもつのではなく、われわれ二人がともに含まれているような唯一つの像をもち、そして私自身についての私の意識と他人についての私の神話が二つの矛盾ではなく、互いに他方の裏面となるといったさまざまの次元に応じた特定の不在、特定の差異なのである。おそらく、このことが、他人とは私の見られてあること(mon être-vu)に責任を有するXだ、と言われるときに意味されているすべてなのだ。だが、そのとき、次のことをつけ加えなければならないだろう、―他人がそのようなXでありうるのは、私には彼が私を眼差しているのが見えるからにほかならず、彼が、私、見えないものとしての私を眼差しうるのも、われわれが対自存在と対他存在とからなる同じ体系に属し、われわれが同じ構文法の契機となり、同じ世界に数え入れられ、同じ〈存在〉に属しているからにほかならないのだ、と。(注16)

ここで、我々が「同一の〈存在〉への二つの入口」であるとか、「それぞれの入口は事実上は各自にしか近づきえないものではあっても他の一人にも権利上は近づきうるものであり、それらの入口がいずれも同じ〈存在〉に属している」とかのやや抽象的な文章が暗示しているのは、一体どういうことか。メルロ‐ポンティの死の前年に公刊された論文集『シーニュ』の序文を参照するなら、それはつまり、ある不動の対象(例えば、食卓なら食卓)が、それ自体は同じ地点にとどまりながら、しかも同時に、私とは違う位置からそれを見る者の目には、きっとこの瞬間に私が見ているのとは別様に映るはずだという事情に気づくとき、我々の中に、私と同じく唯一の可視性そのもの(「肉」)の異本の一つであるような何者かとして他人の実在を認めるという態度が自ずと生じてくる―それというのも、このとき「彼らは、私が自分の砂漠に住まわせてでもいる架空の存在(フィクション)、私の精神の産物、永遠に現在とはならない可能態といったものではなく、私の対になる双生児、ないしは私の肉の肉〔第二の自己〕だからである」(注17)―ということだ。我々人間が身体的存在であるかぎりにおいて不可避な、自他の間の視座のずれについての了解、あるいはむしろこのずれからの他人の発見への注目は、未完のままに放置された著作で、『見えるものと見えないもの』と同じくやはり没後に刊行された『世界の散文』の中の、「他者の知覚と対話」と題された章からもうかがえる。そして、この「他者の知覚と対話」における記述は、ともすれば肉への埋没が目立つ『見えるものと見えないもの』と比べると、年代的には先行するものでありながら、むしろのちにラカンが『精神分析の四基本概念』で展開するような、光にさらされる一方の主体の側の受動性ないし傷つきやすさと、防衛的な反応とを強調する点で際立っているのだ。

私が眠って動かないこの人をみつめていると、突然その人がめざめる。彼は眼をあけ、自分のかたわらに落ちていた帽子へと身を動かし、太陽をさえぎるためそれを拾いあげる。〔中略〕他者は存在のうちのどこにもいるわけではなく、他者が私の知覚のうちにすべりこんでくるとしても、それは背後からなのである。私がおのれの世界把握についてなす経験こそ、―もしその私の世界の内部に私のに似たある所作が粗描されさえするならば―私がもう一つの世界把握を認め、もう一人の私自身を知覚することを可能にしてくれる当のものなのである。太陽の日射しで人がめざめ、帽子に手を伸ばす瞬間に、私に照りつけ私の眼をまばたかしめるこの太陽と、そこの離れたところにあって私の〔眼の〕疲れを癒やしてくれる所作とのあいだに、またそこの日に焼けた額と、それが私に求める保護の身ぶりとのあいだに、私がなにひとつ決定する必要もなしにあるきずなが結ばれるのであり、たとえ私が他人の感じているやけどを実際に体験することは永久にできないとしても、私がおのれの身体の上に感じているのにも似た世界の咬み傷が、私と同様それにさらされている万人にとっても傷になるのであり、とくにその咬み傷に対して身を守りはじめている他人のこの身体にとって傷になるのだ。この咬み傷こそが、いましがたまで身動きもしなかった眠れる人に生気を与えることになるのであり、彼のさまざまな所作に順応して、その存在理由となるものなのである。(注18)

メルロ‐ポンティ自身の関心からはいささかずれてくるようだが、ラカンのまなざし論との思いがけぬ符合に劣らず、ここで彼が各人に刻みつけられた「世界の咬み傷」について書いていることはなかなかに興味深い。『見えるものと見えないもの』には「同一の〈存在〉への二つの入口」とあったわけだが、傷という語にはもう少し微妙な陰影が加わっている。
ストア派の特異な唯物論の伝統に新たな息吹を吹きこんだ主著『意味の論理学』の中で、狭義の原因、すなわち物体の深層における混在によって左右される能動や受動と、「準‐原因」、すなわちこの混在の非物体的な効果として理解すべき表面における出来事が、同じく非物体的な別の出来事に対して有することになる地位とを区別しようとするドゥルーズが、そのような出来事を簡潔に「意味」として定義した上で、意味と現実的な対象との関係を説明するために主観や意識に訴えるフッサールの理論を批判しながら主張しているとおり、むしろ意味を構成する諸々の特異性から出発して世界や個体や人格の静的発生を考えなくてはならないのだとすれば、およそ出来事というものが一方では事物の状態や個体や人格に受肉を遂げながらも、他方では個体以前の、非人称的な「端的な出来事(eventum tantum)」としての半面をも具えているということ、この二重性を教えてくれるのは―ちなみにこの二つの相貌は、二種類の時間の区別とも重なる。前者が有限な現在としての「クロノス」に、後者が過去と未来へと無限に分割されうる「アイオーン」に関わるからである―、傷や死のような一見脅威的な出来事であり、あるいはむしろ、そのような出来事についてこそことさら到来を意志する、ストア派的な賢者の運命愛である。これは単なる諦念ではない。賢者は、物理的な実現に裏地を張る反‐実現によって出来事を迎撃し、出来事の輪郭と光輝だけを保存しようと企てるのだ。第一次大戦に従軍して下半身不随となった作家・詩人ジョー・ブスケの「私の傷は私よりも前に実在していた。私は傷を受肉するために生まれた」という箴言が、ドゥルーズにとって再三の引用に値するほど大切なのは(注19)、これが理由である。

 モラル[=道徳]に意味がないにせよ、モラルに意味がないということがモラルの言わんとすることであるにせよ、モラルが語るべきは、われわれに到来することにわれわれは値しないものではないということ以外ではない。反対に、到来することを不正で不当なものと捉えること(それはいつだって誰かの過ちだ)が、われわれの傷口を厭うべきものにし、ルサンチマンそのもの、出来事に対抗するルサンチマンにする。これ以外に悪しき意志はない。真に反道徳的なことは、正・不正・功績・過ちといった道徳的知見を利用することである。では、出来事を意志するとは、どういうことであろうか。戦争が到来するとき戦争を受け入れることであろうか。傷と死が到来するときに傷と死を受け入れることであろうか。たぶん、諦観もまたルサンチマンの一つの姿である。ルサンチマンには実に多くの姿がある。出来事を意志することが、何よりもまず、出来事を養う火のごとき永遠真理を出来事から解き放つことであるならば、この意志は、戦争を戦争に反して導くこと、まるですべての傷の傷跡のように傷を生々しく描くこと、すべての死者に対し故意の死を返すことを意志するまでに到る。意志的直観、あるいは、突然変異である。ブスケは述べている。「私の死の趣味は、意志の挫折であった。それを私は死ぬことの切望で置き換えるだろう。これが意志の光栄である」。趣味から切望へ。何も変わっていないとも言える。ただし、意志の変化、その場での全身の一種の跳躍があって、有機体の意志を霊的な意志に取り替えてしまう。いまや精確には、霊的な意志は、到来することを意志するのではなく、到来することの中の何ものか、到来することに符合して来たるべき何ものか、ユーモアの曖昧な符合の法則に従って来たるべき何ものか、すなわち、〈出来事〉を意志する。運命愛(Amor fati)が自由な人間の闘争と一つになるのは、この意味においてである。あらゆる出来事には私の不幸があるが、光輝があるし、不幸を乾かす閃光もあるということ、そして、出来事が意志されるなら、出来事は、その最も細い尖端において、手術刀においても実現されるということ、これが静的発生あるいは処女懐胎の効果である。閃光、出来事の光輝とは、意味である。出来事は、到来すること(事故)ではなく、到来することの中で、われわれにサインを送りわれわれを待ち受けている純粋な表現されるものである。〔中略〕出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(注20)

「他者の知覚と対話」の中で「世界の咬み傷」と書くとき、その語にメルロ‐ポンティがどれほどの思い入れをこめていたのかは、私には知る由もない。しかしながら、何人の場合にも生きることはすなわち原初の傷口への対処である、と言わんばかりの彼の文章の調子は、『意味の論理学』から引用した以上のくだりに近づいているのみならず、いまや、まさしくこの接近ゆえに『魔女の生徒会長』の読者にとっても大いに参考になるものではないかと思えてくる。
思えば、この第三巻までに現れた主な登場人物たちは、戦災孤児として日々苛酷な境遇に耐える中で超人的な身体能力を獲得したのがあだとなって、痛覚の欠落ゆえに他人の苦痛や死の恐怖が想像できないまま凶行に及んでしまった陽月(ひづき)オセロにせよ、第二大日本帝国からやって来た視察官で、かつて初恋の人である耳寺ジュリエットの願いを聞き入れて駆け落ちの約束を交わした直後、あまりにも醜すぎる彼女の外見に恐れをなして断ってしまった過去があり、のちにせっかく彼女の手引きで骸(むくろ)兵団から脱走する機会が与えられたにもかかわらず罪悪感からそれを見送った結果、よりによってジュリエットその人の暗殺という任務を担当するはめになったロミオ少年改め骸コロチカにせよ(なお作中の現在においては、彼は帝都世紀末学園の生徒会会計でもある)、彼に激しく罵倒され、拒絶されたのがきっかけで初めて自分の醜さに気づき、以後血のにじむような努力を重ねて人並み外れた美しさと強さを手に入れたジュリエットにせよ、みなが何らかの意味で傷跡を抱え、それへの対応あるいは補償を通じていま現にあるとおりの人物となっているのがわかる。

 戦争が終わってから、俺たちは生まれた。
 けれどその疵痕(きずあと)は、大人(おとな)たちの失敗は、俺たちの人生に亀裂(きれつ)をいれた。(注21)

それに、主人公である剣シロオにしてからが、以前魔女になるための生け贄として彼女自身にとって最も大切な存在にほかならぬ恋塚ミミクロを毒殺しようと試みたことがあり、いまだにそのせいで彼が死んでしまったという思いこみに囚われたまま、どうやら大きすぎる自責の念からか狂気のような必死さで己を「魔女」として規定することに躍起になり、そのようないかがわしい規定にしがみつくことで辛うじて自我の崩壊を食い止めているらしいということも、もちろん忘れてはならない。
私個人としては、正直なところ、自らに消しがたい負の特異性が烙印されているものと信じたがり、何かにつけてそのような特別な悲運をそれゆえの孤独ともども人前で嘆いてみせるという自意識過剰な態度は、謙虚を装っていながらなかなかに押しつけがましく、実際に日常的な人間関係の中で目にすればさぞ不愉快だろうとも思える。だが、こと『魔女の生徒会長』という小説の世界においては、そもそもオセロやコロチカやジュリエットらの境遇が笑いごとでなく深刻な悲劇性を帯びているがゆえに、その種の態度もいやらしさを払拭され、真剣そのものの無骨な青春の歌へと理念的に昇華されているようだ。そしてそれ以上に特筆すべきは、ことあるごとに周囲の目を気にしながら、おずおずと「自分はこんなにも病的で罪深い変わり者なのだ」と訴えずにはいられない衝動に加えて、ときにそのような衝動に混じることもあるずるい甘えを見分ける鋭敏な感性までもが、ここには抜かりなく働いているという事実である。
いましがた、私は「オセロやコロチカやジュリエットらの境遇」と書き、主人公である魔女の生徒会長こと剣シロオの名を挙げなかった。もちろんわざとである。彼女の問題、あるいはむしろ恋塚ミミクロが彼女の認識する世界に欠落しているという二人の問題は、この三人の場合と比べて若干性質を異にするものだからだ。相異はどこに存するのか。シロオの不幸、あるいは作中での用語を借りるなら、彼女がかかっていた「魔法」は自業自得であるという点にか。否、第四巻『絶叫メリーゴーランド』におけるあっけない破綻、ついで第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』における手際のよい解説から明らかになるとおり、「魔法」の実態は「催眠と暗示、および薬物などを用いた人格の歪曲(わいきょく)」にすぎず、要するに人為的な働きかけの結果だったのである(注22)。その点で、彼女の境遇は類例がないものではなく、脳に埋めこまれた機械と薬物によって人格を変質させられていた骸コロチカに通じるものがあるとわかる。真の相異、それは、オセロが犯した殺人やジュリエットの身体を蝕む魔素汚染が、骸兵団の一員としてのコロチカの身分と同様に、まがうかたなき現実の問題であるのと比べて、シロオの苦境は恒常的な認識の歪みであり、つまりは虚構的な性質を帯びているという点にあると考えなくてはならない。
だとすれば、オセロの登場する第一巻、およびジュリエットとコロチカに焦点を当てた第二巻『超悦者ジュリエット』に続く第三巻『案山子たちのグランギニョル』は、第四巻『絶叫メリーゴーランド』における「魔法」の破綻を準備すべく、傷口とその周りに生まれた問題というものに、虚構としての性格を授ける役割を担っているのではないか。それはちょうど、できてから一定の時間が経過したかさぶたは患部から剥がれ落ちなくてはならず、そうでなければ最終的な治癒が期しがたいようなものであろう。実際、『案山子たちのグランギニョル』には、開巻早々から、烏魔カカシが自らの「汚さ」に対して抱く、一読して明らかに妄想の類であるとわかる異常な嫌悪感が綴られているのだ。

 あぁ手が洗いたい。
 できることならば皮膚のすべてを、その下につまっている穢(けが)らわしい内臓のすべてを洗浄したいのだけれど、今はとにかく手が洗いたい。汚れている。手が汚れている。新品の制服に、周りにいる誰(だれ)かに、うっかりと触れて汚してはいけない。
 あぁ手が洗いたい。
 いちおう真新しい軍手を嵌(は)めてはいるけれど、そんなもので遮断できるだろうか。誰(だれ)かに触れる前に。誰かを汚す前に。手を洗わせて。お願い。手を洗わせて。
 わたしは汚れている。(注23)

カカシを日夜苛むこの嫌悪あるいは恐怖の感情は、もちろん本当に彼の身体が不潔であるという事実に対応するわけではなく―そのような事実はない―、姉である迷ヒ処トトロが録音を通じてミミクロに語る説明によれば、「男の子の肉体で女の子を演じることにより、周りを騙(だま)しているという引け目をおぼえていたらしい―無自覚にね」というのがことの真相であり、その引け目が「自分は汚れている」という感覚となってカカシにしみつき、彼を極度に内気な性格にしてしまったのだという(注24)。そうであるなら、嫉妬に狂った迷ヒ処トトロが断花シャムに重傷を負わせ、ついで錯乱のあげく燃え盛る図書館の中で命を落とした事件は、もちろんトトロの自業自得であるとはいえ、彼女の弟であるカカシの側にも、強いて探せば、自分が姉以外の誰かにとってもまんざら愛されるに値しないわけではないことに、気づくのが少々遅すぎたという落ち度を見つけることが可能なのではないか。たしかに地の文は、シャムと仲良くすることでカカシが覚える喜びと、彼の性格に心もち前向きの姿勢が生じた変化について、『オズの魔法使い』を引き合いに出しつつ「案山子はどこにでもいる、利己的で醜悪な俗物(ニンゲン)に成りさがる」という辛辣な注釈を加えているし、カカシ自身も図書館に到着した時点でそれを追認するかのような自虐的な内容の反省を思い浮かべているが(注25)、おそらく我々読者の正しい反応としては、ここはむしろ、姉に植えつけられたと判断してもよさそうな妙な引け目を捨てて、自分の人生は自分のものだとばかりに思い切って幸福の追求に邁進することは、決してそれ自体として間違いなのではないとカカシに教えてやるべきところであろう。そればかりではない。既述のとおりC校舎の生徒はみなが重病人か怪我人であり、入学の時点で何らかの身体的な苦労を抱えていること自体は本当である。だが、生徒たちが一様に目指す「人並み以下の状態から成長して一般人になる」という目標のほうは、「図書室の眠り姫」こと迷ヒ処トトロが彼女に化けた弟の口から語っているように、入学後の思想教育の結果として植えつけられるものなのだし(注26)、それに授業の一環としての不可解なほど大量の投薬にせよ、とても病人にふさわしいとは思えない、異常に味つけの濃い料理にせよ(薬の摂りすぎで生徒の味覚が鈍っているから、というのが一応の理由である)、C校舎の日々は病を治療するというよりも、どちらかといえば人為的に作り出し、回復の時を先延ばししているような観さえある。

 そんな益体のないことを考えていると、教室中を巡回している機械がわたしの机に白い袋を置いてくれる。投薬の時間だ。ひとりひとりに相応(ふさわ)しい薬の量と種類は機械が判断し処方してくれる。楽なものだ。考える必要はない。だからみんな、考えない。
 わたしは白い袋を開く。錠剤。カプセル。粉薬。注射もある。嚥下(えんか)の手助けになるどろどろと固体感のある液体に、嘔吐(おうと)したときのエチケット袋まである。わたしは手のひらに山盛りになる錠剤を口に含み、素直に飲みこんだ。味覚はもう随分と麻痺(まひ)してしまった。砂を口にいれるような違和感。
 周りを見ると、みんな同じようにしている。最初のうちは薬を嫌がる生徒もいたが、このC校舎ではこれこそが授業なのだ。卒業したいなら与えられた投薬をきちんと摂取しなくてはいけない。この学校を卒業するころには『一般人』に『成長』できる。
 それはC校舎の生徒が唯一、崇拝している希望だった。だからそれを馬鹿(ばか)にされるとみんな怒る。そうだ。わたしたちは自分の身体を壊したくて薬を摂取しているわけでも、身体を苛(いじ)めて楽しんでいるわけでもない。必要なことなのだ。投薬も何もかも。
 わたしたちは努力しているのだ。輝ける未来のために。
 その事実は、自覚は、わたしたちの誇りだった。
 だから本当にこんなので『一般人』になれるの? なんて疑問は、口にできる空気ではなかった。誰(だれ)もが流されるままに、強迫観念に突き動かされて与えられた課題をこなしていった。ついていけなかった生徒たちは―いつのまにか消えていた。C校舎の最奥で治療を受けているという話だが、たぶん嘘(うそ)だろう。死んだのだ。
 弱ければ死ぬ。適応できなければ死ぬ。シンプルだ。余所(よそ)の校舎だって同じだろう。どれだけ授業についていけたか、どれだけ積み重ねることができたかで、卒業後の進路が決まる。人生が決まるのだ。
 C校舎では、その目的地と脱落の条件が、余所よりちょっと酷薄なだけだ。(注27)

ここで「わたし」、つまり烏魔カカシの頭を一瞬よぎった疑問―「本当にこんなので『一般人』になれるの?」という疑問―は、たぶんC校舎の生徒であれば誰しも一度は抱くものであろう。なにしろ教科書の内容でさえ、怪しげな器具と薬物の助けを借りて脳に直接注入されるのだ。「特に両目と両耳に負担がある」らしく、着用後は「針を刺されるような頭痛」に襲われるというこの器具もやはり、生徒の健康にはよくなさそうである(注28)。そして案の定、第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』に至って、そもそも帝都世紀末学園そのものが、三つに分裂した日本の上に君臨する大国の利益を増進するための「優良な家畜小屋」として創設された経緯が明かされるとともに、「C校舎の出来損ないたち」にはもっぱら「投薬実験などの消耗品として」の役割のみが期待されていたという衝撃的な事実が判明するのである(注29)。換言すれば、C校舎の生徒たちが味わってきた苦境は、もちろん架空のものではないにしても、多分に外から強制された人工的なものであった、ということになる。
思うに、自分たちの弱さを逆手にとって相手を威圧しようと彼らがもくろむときに当てが外れてしまうのは、このかぎりで必然的な結果なのだ。それこそは、C校舎の誇る大劇場において、「魔王」を名乗るシャムの号令と同時に、各自が思い思いの魔物に扮した生徒たちがシロオに襲いかかった直後、彼らが身をもって経験しなくてはならなかったことである。

 次々と駆逐されていく魔物たちを見て、シャムが金切り声をあげた。
『ちょっと!? 乱暴はやめなさいよ―その子は肺の病気で、あ、あっ、その子は見てわからないの車椅子(くるまいす)で……てっ、手加減しなさいよ!!
「ふざけないで」
 魔女は一喝した。
 それは魔物すべてを吹き飛ばすような怒号だった。
甘えんじゃないわよ!!
 言葉のとおりに凄(すさ)まじい勢いで松葉杖(まつばづえ)をつく生徒の腹を蹴りつけ点滴を腕にさした生徒の頸骨(けいこつ)を蹴り砕き血の気のない病人たちを遠慮なく躊躇(ちゅうちょ)なく撃滅していく。何も感じていないわけではない。シロオは生徒たちを愛している。唇を噛(か)みしめ血を零(こぼ)し涙を溢(あふ)れさせそれでも彼らの考えを正すため心を殺して鬼となっているのだ。
「手加減してほしいなら最初からそう言いなさいよ!! 病人扱いしてほしいなら病室に引っこんでなさいよ!! 怪我(けが)が痛いなら無理して動かず安静にしてなさいよ!! 人並みに扱ってほしいんでしょう―他(ほか)の校舎のみんなと平等に! 公平に! 扱って欲しいんでしょう!? 平等っていうのはねぇ、公平ってのはねぇ、こういうもんなのよぉぉお!!
 嵐のように周囲の人垣を吹き飛ばし、魔女は獰猛(どうもう)に吼(ほ)えた。
「病人だから!? 怪我人(けがにん)だから!? 自覚があるなら身の程を弁(わきま)えなさいよ!! 精一杯に生きている!? 将来のために努力している!? だから何よ!? そんなのは誰(だれ)だって一緒だわ―自慢するほどのものでもないわよ!! 自分たちだけが苦しいと思ってんじゃないわよ!! どいつもこいつも胸くそ悪い……甘えんじゃないわよ!!」(注30)

ここでシロオが叫ぶ思想は、こと「戦争を利用する者」に限って実は戦争と無縁であるということ、あるいはまた「各人に、特別な自分の戦争、特殊な自分の傷があるなどと語るのも恥辱である」ことを力説するとき、ドゥルーズの念頭にあったはずの考えと共鳴するものであろう。再び『意味の論理学』を参照すると、個体以前の純粋な出来事の非人称的な特異性の光輝について考察しながら、彼は次のように書いているからだ。

それゆえに、私的な出来事もないしそれとは別の集団的な出来事もない。個人的なものも普遍的なものもなく、特殊性も一般性もない。すべては特異的である。そうしてすべては、同時に集団的で私的であり、特殊的で一般的であるが、個人的でも普遍的でもない。私事でない戦争があるか。逆に、戦傷でない傷があるか。社会全体に由来しない傷があるか。座標軸を、言いかえるなら社会的な非人称的特異性をまったく持たない私的出来事があるか。しかしながら、戦争が全世界に関わるなどと語るのはまったく恥辱である。そんなことは真実ではない。戦争を利用する者、戦争に奉仕する者、つまりルサンチマンの連中には、戦争は関わらないからである。そして、各人に、特別な自分の戦争、特殊な自分の傷があるなどと語るのも恥辱である。そんなことは、傷口を引っ掻く者、苦渋とルサンチマンの連中についてなら、真実ではない。それは自由な人間についてだけ真実なのである。というのも、自由な人間は、出来事そのものを捉えるからであり、出来事が実現するがままであっても、役者として出来事の反‐実現を操作するからである。そのとき、自由な人間だけが、あらゆる暴力を唯一の暴力において把握し、あらゆる致死的な出来事を〈唯一の出来事〉において把握することができる。(注31)

たとえ傷口が正真正銘の本物であっても、それを見せびらかして同情を買おうとする一方で同時に他人を攻撃するような振舞いは許されるものではない。いわんや、本人がどういうつもりでいようとも、日々の生活が傷口の完治を目指してではなくて、実はあべこべにそれの維持という方針に沿って組織されていたのであれば、なおさらである。
しかし、この一見すると手厳しい批判も、見方によっては、結局のところC校舎の生徒たちの病気や怪我は彼ら自身が思いこんでいるほど手の施しようがないものではないことの証明とともに、むしろ錯覚からの解放と真の自立への第一歩とを準備してくれるものでありうる。そのかぎりで、この批判には虚構の打破による現実性の救出という性格を認めてよいはずだ。だからこそ、「怪獣」烏魔カカシに苦戦を強いられるシロオを手助けすべく、かすかに残っていた「先輩」こと淀川ドロシーの人格の助言に従ってミミクロが分身の術の虚構性を暴露する以下の場面が、『案山子たちのグランギニョル』の大詰めを形作る決戦の、そのまた終幕でなくてはならないのである。

「恋塚(こいつか)くん」
 
 不意に、声がした。
 魔女を取り囲んだ十六人のなか、唯一、戦闘態勢をとらず、何だか手持ちぶさたに突っ立っていた『怪獣』が、暇つぶしみたいに語りかけてきた。たまたま俺のそばにいたその人物は誰(だれ)を模倣しているのか、誰の人格なのか、考えなくてもわかった。
 先輩だ。
〔中略〕
 劣勢にいる魔女を一瞥(いちべつ)し、困ったように笑って、先輩は無力な俺に歩みよってきた。三つ編みはない。でも先輩だった。優しくて。可愛(かわい)くて。俺が好きだった先輩だ。
「ずぅっと言いたかったんですけど」
 先輩は血まみれの俺のそばで、小柄な体躯(たいく)で精一杯に偉そうに胸をはり、腰に手を当てていつものようにお説教してきた。
〔中略〕
 そして俺の魂にまで響く、助言をくれた。

「あなたはシロオちゃんの魔法なんですよ」

 それは、どういう意味だろう。
〔中略〕
「あなたは魔法です。シロオちゃん専用の魔法です。それを忘れないで。魔法がじょうずに魔女の望むとおりの奇跡を起こしたら、『怪獣』なんかには負けません。だから……がんばって、ね。シロオちゃんを―守ってあげてください」
〔中略〕
 おまじないだって―信じればたまには実現する。C校舎のおまじない、伝説だった怪獣は実体化した。だったら馬鹿(ばか)で愚かで幼い子供が夢想した魔法だって。ただ虚栄心と向こう見ずな妄想から魔女になりたいと思った女の子の願いだって。
 実現することがあるかもしれない。
 いいや。今―ようやく、魔女になりたいと願った女の子の祈りは届くのだ。俺はそう信じた。手にした麻酔銃を必死に掴(つか)み、今まさに窮地の敵や味方に嬲(なぶ)り殺されようとしている幼なじみの元へ駆け、その傍(そば)で全身の力を振りしぼって。
シロちゃん!!
 あぁ出来損ないの魔法にできたことは、迫りくる十六人の『怪獣』へやたらめったら麻酔銃の弾丸を吐き散らしたことだけ。どれが虚像でどれが本物か見抜くことは俺にはできない。だができるだけ選択肢を減らすことはできる。弾丸が素通りし背後の壁や観客席が穿(うが)たれるものは偽物だ。弾丸を放つ放つ放つ。偽物。偽物。偽物だらけだ。
 ぜんぶ―偽物!?
「成る程」
 魔女が笑みを浮かべた。久しぶりの不敵な笑みだった。そうだ。俺は忘れていた。座頭衆の末裔(まつえい)たる忍者―数戯(すうぎ)ヤンマが用いた分身の術で生みだされる虚像は十六人。実体をもつ本物はそのどれでもない。隠れ潜み必殺の機会を待つ十七人目がいるのだ。
 弾丸に虚像を抉(えぐ)られ消えていく『怪獣』たちを見届け、魔女は大きく身を翻(ひるがえ)し、何やら自信満々に―いつもの彼女らしく吶喊(とっかん)を放った。
「侮られたものね……私は魔女よ? 魔女なのよ!?」
 そうだったな。おまえは魔女だ。
 今までは魔法が怠けて働かなかったせいで、何かと失敗していただけなんだよな。
 ごめんな―魔女。
「催眠術もッ、くだらない幻術もぉ……この偉大なる魔女である私には通用しないわ―そこよッ、小細工を弄(ろう)した己の愚挙に恥じいり吹っ飛べ『怪獣』ッッ!!」
 そして頭上から迫っていた十七人目の『怪獣』に、つまり実像をもった本体に、魔女は乾坤一擲(けんこんいってき)の気魄(きはく)を結集させた渾身(こんしん)の蹴(け)りをぶちかました。
 決着。(注32)

ここで見落とせないのは、「俺」、つまり恋塚ミミクロが、たびたび確認してきたように、シロオにとっては、現実的であることをとうにやめてしまった、五感で知覚することのできない人物であるということに加えて、彼に助言を与える「先輩」つまり淀川ドロシーもまた、元来烏魔カカシが殺した生徒の死体を第二大日本帝国に出荷するときに名乗っていた架空の人物にすぎず、したがって確たる実体を具えた独自の人格ではなかったということ(注33)、そして両者が力を合わせてシロオのために起こしてやる奇蹟、あるいはとっておきの「魔法」とは、要するにカカシの十六人の分身を銃撃で雲散霧消させることによる、それらがもともと単なる虚像にすぎないことの証明であり、それに尽きるということ、この三つである。この三つは、我々に何を教えてくれるのか。ここで起きているのが、ちょうど円環が狭まるようにそれ自身の中心、現実的なものという核へ向かって虚構が自壊してゆく過程にほかならない、ということである。
それゆえにこの場面は、続く第四巻『絶叫メリーゴーランド』における、シロオの「魔法」の破綻、すなわちミミクロとの再会を予告する、一種の布石ともなりうるのだ。すでに判明しているように、彼女にかけられた「魔法」もまた、「催眠と暗示、および薬物などを用いた人格の歪曲(わいきょく)」(注34)として、つまりは人工的な手段による現実からの強制的な乖離として定義できる以上、虚構的な性格を帯びているからである。運命の皮肉か、はたまた理の当然というものか、てっきり死に別れたものとばかり思っていた「クロちゃん」こと恋塚ミミクロにシロオを再会させたのは、何ら単独的で代替のきかない彼の現実的な個性ではなくて、D校舎(通称「汚染区域」)を舞台にシロオ自身が企画した次期生徒会総選挙において、彼女と組んで一緒に本戦(の第三試合)に出場すべき相方としてミミクロその人の名が電光掲示板に表示されたこと、そして機転をきかせたミミクロが、日頃からシロオが彼のつもりで持ち歩いている黒猫のぬいぐるみにそっくりな着ぐるみを急遽調達し、それに身を包んで再登場したことであった(注35)。この状況は、一体どう説明すればよいのか。『案山子たちのグランギニョル』の内容を読み終えた者にとっては、あまり頭を悩ませずとも答は明瞭だろう。墓標のごとき掲示板の中にしか見当たらない、文字通り名のみの存在であった「恋塚ミミクロ」が、目で見て手で触れることのできる生身の肉体とともに驚異的な復活を遂げた、あるいは生命なき彼の身代わりにすぎなかった黒猫のぬいぐるみが、思いがけずその正体を現し、血が通い、呼吸する「クロちゃん」本人へと変化した…シロオの立場になってみれば、起きたのはこういうことである。これを、作品の中にしかいなかった登場人物が現実化すること、あるいは現実への虚構の侵入として考えることは、さほど強引な説明ではあるまい。
虚構の輪が自壊を繰り返しながら狭まって、その奇蹟的な収縮の果てに、およそありそうにない恩寵の類にも似た最高度の新しさと充実と尊厳を平凡な現実にもたらし、あるいはむしろ回復させること―まさしく魔法のような驚きと喜びに我々読者をも巻き込まずにいないこの一連の過程は、それでいて、自らの手でそれを演出したミミクロが、彼自身も感極まってか再三にわたって「魔法は解けた」という確認を地の文の中で発するに及んで(注36)、逆説の頂点に達することになる。この逆説に直面して、ドゥルーズの絶筆とされる小論「現働的なものと潜在的なもの」〔« L'actuel et le virtuel »〕が、その第一部では「現働的なものが次第に拡がり、次第に遠ざかり、多種多様になってゆく〔自らとは〕別の潜在性に取り巻かれているケース」を考察したのに対して、第二部では叙述の力点を「円環が狭まっていくとき、そして潜在的なものが現働的なものに近づいて次第に区別されなくなっていくとき」に移し、現働的な(actuel)ものがそれ自身の潜在的な(virtuel)ものと共存し、結晶化としての最小回路の中で両者が区分されつつも識別不可能になる様子を追跡しようと試みているのを思い起こすのは、はたして的外れだろうか(注37)。
そのことの是非はともかく、少なくとも一つたしかなことがある。それは、第三巻『案山子たちのグランギニョル』が、先立つ二冊―副題なしの第一巻、および第二巻『超悦者ジュリエット』―と比べると、傷口とその周りに生じた問題とが、本質的に現実的というよりも虚構的な性格のものである点で異なっていながら、しかも他方で後に続く二冊―第四巻『絶叫メリーゴーランド』、および第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』―と比べても、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗という垂直的な関係ではなくて、水平的な関係、すなわち血のつながりこそないものの世界に二人きりの人間兵器としてお互いの人格を交換するほどに深く結びついた、迷ヒ処トトロと烏魔カカシという奇妙な姉弟の間の愛が主題である点に明確な違いが存する、ということだ。それは、さながら自らの鏡像に籠絡された主体がそれに対して覚えるような、とことん閉鎖的で出口のない愛であり―思い起こせば、カカシは、口づけを交わした直後の姉が彼自身の人格を再現してみせるのに接して、「そうだ、まるで鏡を覗(のぞ)きこんだときのような」という感想を抱いたのだった(注38)―、その中ではいかなる反抗も、たとえ兆しが芽生えたところで結局は未遂のままに終わるほかない。なにしろ、嫉妬に狂って大切な親友(断花シャム)に重傷を負わせたあげく勝手に自滅した姉の死体を迫りくる炎と煙に悩まされながら粉々に破壊している最中ですら、「お姉ちゃん……ごめんなさい……」という謝罪の言葉のとめどない連呼からもわかるとおり、カカシの心の中はもっぱら猛烈な悔恨と自責の念のみで占められていて、到底こんな始末に負えない厄介事を起こして自分に迷惑をかける彼女への悪意が意識化される余地はないようなのだ(注39)。トトロはトトロで、そんな弟が亡き姉を思うあまりに陰惨な連続殺人事件に手を染め、シャムを騙し、シロオを挑発してとうとう倒されたあげく治療を拒んで自ら死を選んだという成行きに満足して、ミミクロのために用意していた録音の中で「わたしは死んだ。弟も死んでくれた。わたしを追いかけて、同じ地獄に堕(お)ちてくれた」と語っており、これには聞き役に徹するミミクロとしても、一方ではどこか釈然としない印象を抱きながら―「あの魔女すらも物語の脇役(わきやく)にして、『眠り姫(姉)』と『怪獣(弟)』が紡ぎだした陰惨な演劇(グランギニョル)は終わった。誰(だれ)も救われなかった。みんなが等しく哀(かな)しみと罪の汚泥と血にまみれた」―、彼は彼でいっそシロオが自分と一緒に死んでくれればよかったと願ったためしが皆無ではないだけに返す言葉がなく、結局は「けれど―すべてが、無意味だったとは思わない。/あの結末を幸せな終わり(ハッピーエンド)と思ったものが、たった独りでも……いたのだから」という、中途半端に好意的な総括で応じることを余儀なくされる(注40)。
ここで私は、この論稿の冒頭で書いたことに、そろそろ立ち戻らなければならない。「双子同然の対を作る姉弟の、自己完結を求めて何が何でも外界の影響を拒もうとする強固な意志こそが、『案山子たちのグランギニョル』の筋書を突き動かす最大の原動力なのである」という点については、たったいま証明したばかりだ。残るは、この小説が『魔女の生徒会長』全巻を通じてちょうど折り返し地点を占める(全五冊中の第三巻である)ことに注目したのが、どの程度正当な判断であったかを確かめることである。しかしこの確認も、いまやそれほど手間取るとは思えない。というのも、これまたすでに述べたように、第四巻『絶叫メリーゴーランド』と第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』はともに、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗が主題であるからだ。それは、D校舎が舞台の第四巻においては、いままでシロオにかかっていた「魔法」はどうやら何者かの悪意ある陰謀によって人為的にもたらされた結果らしいという新たな事実の判明から、また、かつて魔素を克服するために奇怪な研究を積み重ねた果てに獅子守(ししもり)フォルテシモが開発した糸状の新生物である「悪魔の双子」こと境(さかい)ガガガラとグググチの兄妹が、フォルテシモの妹にしてD校舎総代表でもあるメゾピアノにシロオの魔法が解けた責任を問われ、抵抗もむなしくばらばらにほどかれて吸収されてしまうという悲劇的な筋書からわかることである。同様に第五巻には、魔素汚染で肺を病んだシロオの妹であるルリヲ―五歳の頃には、シロオがミミクロと野外で元気に遊ぶ姿を羨むあまり、毎日のように姉の目を盗んでは彼女になりすまして「ミミクロお兄ちゃん」を彼の家に訪ね、逢瀬を重ねていたという―が登場し、人格の模写と自己暗示の「魔法」を使った入れ替わりの技術によって、自らが犯した通り魔殺人事件の罪をシロオに着せて彼女を厄介払いするとともに、自分は世間から隔離された帝都世紀末学園の中で姉の代わりにミミクロとしあわせに暮らすという邪悪な計画を明かすのである。「同様に」と書いたが、幸いオセロの大活躍のおかげで未然に防がれたこの入れ替わりの計画が、作者に対する作品の、あるいは創造者に対する被造物の反抗とどう関係するのか。それを理解するには、プラトン哲学においては、差異がそれ自体として肯定されることなく同一性と類似性から出発して思考されるのがつねであるため、いたるところで見本(モデル)としての原本(オリジナル)に複写(コピー)が隷属するという結果を招くことになると指摘した上で、必ずや階層的な上下関係をもたらさずにはいない両者の概念そのものを疑い、むしろプラトンが追放しようと望んだ見せかけ(シミュラクル)を呼び戻すことでプラトン主義の転倒を図ってはどうか、と提案するドゥルーズの不敵な姿勢が参考になる(注41)。つまり、我々がルリヲの失敗から教訓として学ぶべきなのは、嬉々としてシロオを拷問する彼女の前で怒りに震えるミミクロの頭に思い浮かんだ批判が示すように―「入れ替わりなど―言語道断。絶対に、受けいれられない。それに、他人の人生を奪っても、それは所詮(しょせん)、偽りなのだ。そこに幸福はない。ルリヲにはそれが理解できていない」(注42)―、他人の人生を横取りしたところで出来合いの見本をまねるのと変わらないのだから、そのような安易な手段に頼るべきではない、ということなのではないか。彼女がしていることは、「怪獣」烏魔カカシの分身の術が破られたとき、あるいはシロオの「魔法」が解けたときのような、先に我々が検討した虚構の輪の自壊による収縮と比べれば、未知の現実の発見へと到達するのではなくて既知の現実の隠蔽から出発するのであるから、まるで方向が反対である。実際、ルリヲは独力でこんな陰謀を思いついたわけではなく、彼女にこの計画を入れ知恵したのも、それどころか獅子守フォルテシモの研究成果である「糸」を応用して病弱だった彼女の身体を強化してやったのも、シロオとルリヲの実の母にして、例の大国の代理人として三つの大日本帝国の管理を司る、「ママ」と呼ばれる人物であった。このママこそが『魔女の生徒会長』という小説の黒幕であり、シロオたちの最後の、そして最強の敵である。それゆえ、自らの後継者になるはずだったシロオの素行がミミクロとの交際を通じてすっかり悪化してしまったのに苛立つ彼女が、ルリヲを操るために弄する「あなたが良い子でいるかぎり、あなたの望みは叶(かな)うでしょう」(注43)という甘言は、帝都世紀末学園そのものが大国のための「優良な家畜小屋」として創設されたというおぞましい真実を明かした上で、なお平然と全生徒に子が親に果たすべき奉仕を要求するときの高飛車な台詞―「生んであげたのは、わたしたちです。あなたたちは、わたしたちの所有物です」(注44)―とあいまって、本作が究極的には創造者に対する被造物の反抗、ひいては独立という目標に向かわなくてはならないことを、逆説的ながらすこぶる雄弁に教えてくれるのである。
こうして、『魔女の生徒会長』の第三巻『案山子たちのグランギニョル』が単に位置の上で全篇の中間を占めるのみならず、内容に関してもいわば蝶番の役を実際に果たしていることは確認できたと信じる。あえて単純化するなら、第一巻や第二巻におけるオセロやジュリエットらの物語が負の領域(マイナス)からゼロへの上昇だったのに対して、第四巻や第五巻への筋書はゼロから正の領域(プラス)への上昇として要約することも可能であろう。それゆえに、中間を占める第三巻は、迷ヒ処トトロと烏魔カカシの間の、さながら向かい合わせの鏡の間で生じる鏡像の限りない反射を思わせる、他人が割り込む隙のない閉鎖的な愛の物語として、基本的にはそれ自身の内部で完結しなくてはならないのである(なお、C校舎の生徒を悩ます病気や怪我が、もちろん架空のものではないにせよ、「治療のため」という名目で入学後に強いられたおかしな日課のせいでかえって悪化していった可能性については先に指摘した。換言すれば、彼らが一様に「人並み以下の状態から成長して一般人になる」という目標に向かって努力を重ねているとしても、それは先行するオセロやジュリエットらの物語とは似て非なるものであり、いわばその戯画なのだ)。これは例えば第二巻のジュリエットにとって、自分の鏡像を見るという行為が―ずっと幼い時分に失った視力が、ロミオ少年に投げつけられた石のせいで幸か不幸か一時的に回復したために、彼女は水たまりの泥水に映った人間とも思えぬ醜悪な顔を目にするはめになった(注45)―、ラカンやメルロ‐ポンティの説とは裏腹に、自らの美と価値についての確信を粉砕される絶望的な幻滅の体験にしかならないのと比べると、なんとも対照的である。こうなれば、『魔女の生徒会長』を現象学への批判として読むという私の試みにも、新たな展望が開けてくるというものだ。なんとなれば、この閉鎖性はまた、トトロの説明を信じるならほかならぬ彼女の人格を演じてきたせいで、周囲を欺いているという罪悪感から「自分は汚れている」という病的な妄想に悩むようになったらしいカカシが、姉の浪費を支えるのと、自分の価値を実感したいという二重の動機で手を出した男子生徒相手のいかがわしい「仕事」―詳細は略されているが、たぶん売春まがいの内容であろう―を終えた後で、シャワーを浴びながら自身の肉体的存在そのものを端的に「汚れ」と同一視するに至る、以下の場面にもありありと反映していると考えてよいからだ。

 どんどん、汚れていく。
 熱い液体を浴びる。ぜんぶぜんぶ汚れも気持ちの悪さも何もかも洗い流せればいいのに。汚れが落ちない。拭(ぬぐ)っても拭っても。たぶん肉を削(そ)ぎ落とし何もかも消し去らないと、わたしの汚れもまた洗い流せはしないのだ。(注46)

注目すべきは、「熱い液体を浴びる」という一文から、実際には身を清めているはずのカカシが、まるでいままさに精液を顔面に浴びて汚されているかのような両義的な趣が生じてくることだ(ちなみに、「両義性」はメルロ‐ポンティの哲学にとっては最も重要な概念の一つである)。生身の「肉」そのものを捨てでもしないかぎり、どこにもこの「汚れ」から脱する出口はない。晩年のメルロ‐ポンティが『見えるものと見えないもの』で探究していた「肉」の存在論と感性論に対する異議申し立てとして、これほど痛烈なものはめったにない。
ただしこの閉鎖性ないし自己完結性は、あくまでも「基本的には」そうだということであって、実際には、ミミクロが敵(カカシ)の十六人の分身を銃撃で雲散霧消させることで、絶体絶命の窮地に陥ったシロオの逆転勝利を手助けする、という成行きの内に認めうる、虚構の自壊による収縮とその後に結果として見出されるひとかけらの現実という構図が、続く第四巻における両人の再会のために布石を準備していることはすでに検証済みである。いや、それどころか、この構図はそもそも『案山子たちのグランギニョル』の結末において、カカシの自我が先に死んだ姉(トトロ)の後を追うようにこの世から消滅し去った後もなお彼の身体に残る、これはこれで奇蹟か魔法のような淀川ドロシーの意識の存立を支えているはずなのだ。はっきりそう書いてあるわけではないので推測にすぎないが、こんなことになったのはどうやら、死んでいった60人分の生徒たちの生涯が忘却されるのは忍びないので、可能ならば自分の代わりに別の誰かに記憶してもらいたいというカカシの遺志と、常日頃から自分たちの仲間(書記)として「淀川ドロシー」に接してきたシロオ以下生徒会の面々の、彼女と別れたくないという懸命な思いとの相乗効果が原因らしい。「自分で自分がわからない」(注47)目覚めの経験、それに加えて期待や愛を寄せてくる他者との関係が私の実存に及ぼす存在論的な影響力、この二つはいずれも、自然的態度―もっぱら目前の雑多な諸対象に関心を払いつつ、自らが生きる世界そのものについては暗黙の前提として自明視するのみでことさらその存在を問わない日常的な意識の態度―から脱却し、現出してくる事象そのものの本質をその与えられ方ともども純粋に看取すべく余計な判断を停止させる、という還元(Reduktion)の方法の深化が、やがてフッサールをして主観による世界の構成という理論すら想到せしめたことを思えば、現象学にとってはそうなじみ深いものではなさそうである。
第一、シロオの猛攻に全く同じ動作で応じて彼女を翻弄するカカシの戦いぶりを見たミミクロは、なんとも意味深長なことに、「鏡に反射した虚像が実体をもったみたいだ」という印象を抱いているのだ(注48)。この観点からすれば、それに続く分身の打破の場面も、何はさておき乱立する鏡像の破壊という文脈の上で読むことは可能だし、むしろ絶対にそう読まなくてはならないはずである。例えば、スピノザ的な心身の並行論―精神と身体の間に存するのは実在的な因果関係ではなく、単に一方が能動的(受動的)であるときにはつねに他方も能動的(受動的)であるという類の並行関係のみである、と考える理論―を引き継ぎつつもそれを経験主義的な方向へと転用することで、「〈精神的‐物理的〉に取って代わる言わば〈裂的‐体的〉(schizo-corporel)並行論―要するに、〈分身論〉」を提案する江川隆男が、そのようにして精神の本質の触発と身体の本質の変形、あるいは「鏡に映る諸器官の総体としてのわれわれの現実の有機的身体」から、それとは別の身体、かつてドゥルーズが「器官なき身体」と名づけたものへの変身とを企てながら、そのためには「ラカンの鏡像段階を生み出す鏡」を含む、ありとあらゆる鏡の「徹底した破壊作業」が欠かせないと主張しているのを知るとき(注49)、この信念はいよいよ動かしがたい。ついでながら、この鏡の破壊という作業が、例えば幼児の身体から大人の身体への変化や記憶喪失のごとき、我々が死体になる以前にも到来しうる死の経験、あるいはむしろそれを通じた不死性の体験のためのいわば条件として考えられていることも(注50)、あたかも『案山子たちのグランギニョル』の結末における「あたし」こと淀川ドロシーの目覚めを小説の外から予言するかのような趣があり、これはこれで無視できない。
しかしこの傾向は、第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』の終盤で描かれるシロオとママの決戦の場において、もはや単なる現象学への批判にはとどまることなく、フッサール的な「自分が語るのを‐聞く」という明証性の権威に比べればいかにも対極的なものと評さざるをえない積極的な代替案、つまり誰かを応援するために「全員で教わった歌を‐聞かせる」という行動に結実するのだ。その口火を切ったのは、他のどの校舎の連中よりも『案山子たちのグランギニョル』と縁が深い、これまでずっと人並み以下という地位に甘んじてきたはずのC校舎の生徒たちである。

 鞠(まり)のように飛び跳ね、魔女は床を転がる。
 残るのは血の痕(あと)だ。
 思わず飛びだしかけた俺たちだが―。
 そうだ。
 この程度で、魔女がやられるものか。
「歌いなさい」
 魔女が飛び跳ねた。相手の攻撃など意にも介さずに。否、顔面からは滂沱(ぼうだ)と血を流し、決して軽傷とはいえないダメージを負いながら、それでも楽しそうに。闘技場のようになっている、体育館の中心、生徒に取り囲まれたその真ん中で敵と相対する。
 最悪で最強の難敵と、遊ぶような気軽さで、一対一で殴りあう。
「とびきり愉快に歌いなさい!」
 その言葉の意味が、周りにはすぐに伝わることはなかった。だがその楽しそうな姿と表情、声を確認し、盛大な溜息(ためいき)をつくものがいた。断花(たちばな)シャムだ。猫の帽子をかぶった彼女は、自棄(やけ)になったように地団駄を踏み、みんなを見回した。
 そして彼女の属するC校舎の生徒たちを見つめると、片手を掲げた。
 指揮者のように。
 それに導かれ、かすかだが歌声が生じる。弱々しい、その旋律。病弱で、だからこそ虐げられてきたC校舎の生徒たちの、それでも澄んだ美しい音色だ。
「悔しいけれど、他(ほか)にできることがありません」
 シャムが涙目になって、それでも吼(ほ)えた。王者のように。
「それでも、歌えますわ! 応援はできるし、気持ちは伝えられます! わたくしたちは出来損ないなんかじゃない!! そうでしょう、皆さん!! 声を嗄(か)らして主張しましょう、誰(だれ)に恥じることもない、わたくしたちの生命(いのち)を!!」
 歌声が重なっていく。
 この学園で暮らしているかぎり、嫌でも聞き慣れてしまう、あのメロディ。素(す)っ頓狂(とんきょう)で、意味がわからず、ほとんど迷惑でしかなかった。でも、だからこそ覚えている。この学園らしい―それは魔女の歌だ。魔法の国からやってきた、魔女っ娘(こ)シロオたんの歌。
「断花のやつは、C校舎で聖歌隊を結成したらしいからな」
 ジュリエットが感心したように、満足そうに頷(うなず)いた。シロオに助力をしようと踏みだしかけていた足を止め、むしろこっちのほうが面白そうだと大口を開いて。
「聞きにいったことがあるが、なかなか大した歌声ぢゃぞ。『通常より劣っている』などと卑下することはない。『魔界』の連中の歌声を、妾(わらわ)は誇りに思う。よぉし、皆のもの! 我らも歌おうぞ!! 四面楚歌(しめんそか)というものを、とくと味わわせてやれい!!」
 そしてジュリエットも歌いだす。お世辞にも上手とは言えなかったが、声量は人一倍だ。俺(おれ)たちの主軸だった人物の熱唱に導かれ、体育館に割れんばかりの声が轟(とどろ)いた。最初は恥ずかしそうにしていたのが、誰もが声を振り絞り、最後は全力で。
 馬鹿(ばか)げた光景だった。
 だが間違いなく力を有していた。
 腹の底から震えるような大合唱のなか、魔女は両手を広げる。すでに血まみれだ。小柄で、頼りない。だがその姿は魔法のような歌声に支えられ、揺るぎなくそこにある。表情は満面の笑みだ。手を叩(たた)き、闘うのも忘れて囃(はや)している。
「ほら、ほら、もっと大きな声で! こういうのはね、みんなで歌うのが楽しいのよ!!」(注51)

この全校生徒の声援に後押しされて、シロオはついに実の母にして宿敵のママを打ち負かし、学園に迫る大国の脅威をひとまずは撃退することに成功する。冷酷非情にして傲岸不遜な母親と絶対に和解の余地のない仇敵として真正面から対決すること、そして、ただでさえ常人ならば身体の他のどの部位にもまして当人の性格や内面の変化を色濃く表出するはずなのに、ことこの場合に限ってはその種の個性的な色調をもともと欠いている顔面を―「視覚。嗅覚(きゅうかく)。聴覚。触覚。味覚。五感としての、感覚器としての機能しか有さない顔の部分。そこに表情はない。感情もない。機械と同じだ。そこからは何も読み取れない。かすかに浮かんだ嫌悪のようなものも、雑音として処理される。/残ったのは、完全な無表情」(注52)―子(娘)が自らの意志で蹴り砕いて彼女を絶命させること、このような成行きは、はたして母との関係における深刻な不足やそれゆえの不満を成長の過程で経験せずに済んだ男性作家に思いつくものであろうか。むしろ、絶えざる母の不在が自分の中に残した傷跡への対処の努力が、他人に依頼するわけにはいかず、自分で自分に施すしかない痛々しくも孤独な手術の行程に似たものが、ここに隠れていると感じるのは気のせいだろうか。少なくとも、ラカンの理論の中でもことのほか謎めいている「母による去勢」と同様の発想は(注53)、そのような背景からでないとなかなか生じてこないように思える。いずれにせよ、我々はすでに、ジョー・ブスケの箴言に即してドゥルーズが熱心に説く「運命愛」の思想を知っている。もう一度、先に引用した『意味の論理学』の中の一節を読み返してみよう。

出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。さらにブスケは述べている。「君の不幸の人間になれ。君の不幸の完全性と閃光を受肉することを学べ」。これ以上のことは言えないし、一度も言われたことはない。すなわち、われわれに到来することに値する者になること、したがって、到来することを意志し到来することから出来事を解き放つこと、自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること。出来事の息子であって、自分の作品の息子ではない。出来事の息子だけが、作品そのものを生産するからである。(注54)

いまや『ママはあなたが嫌いみたい』の検討を経てこのくだりを再読する我々には、傷跡への対処を迫られて四苦八苦するのは、なにもシロオたち登場人物ばかりではなさそうだという印象が避けがたい。「自己自身の出来事の息子になること、そして、それによって再び生まれること、出生をやり直すこと、肉の出生と訣別すること」―そのとき初めて人は真の創造者になることができるというこの理を、『魔女の生徒会長』に匹敵するほどの説得力で教えてくれる小説は稀であろう。というよりも、『ママはあなたが嫌いみたい』を読み終える瞬間を目前にして、名残惜しさを噛みしめる我々をまるで小粋な別れの挨拶のように不意打ちするわずか二頁足らずのミミクロの回想が、かつてシロオが子どもらしい無邪気な正義感から「悪いやつから世界を救う、正義の魔女になるわ!」と宣言したときの情景を忘れかけていた記憶の奥底から発掘してくるに及んで(注55)、虚構の自壊による収縮と、その果てに残るひとかけらの現実という我々が何度か出会った構図は、頭の中で思い描いた夢を自らの手で実現することとして新たに規定しなおされ、それとともに作家の執筆活動そのものを祝福し始めるかのようなのだ。さながら全篇の前置きのごとく第一巻の冒頭に置かれた警察の資料―この文書が、ルリヲの犯した大量殺人事件の容疑者としてシロオを追跡するにあたって作成されたものであることが判明するのは、ようやく第五巻に入ってからである―の中に記録されている、幼なじみに毒を盛った直後のシロオが口走った「私は友達を生け贄にして―悪魔と契約した魔女なのよ!」という痛々しくも錯乱した叫び(注56)よりもさらに古いはずのこの輝かしい宣言は、それでいてあの叫びに一連の波乱万丈の物語を隔てて事後的に呼応することで、いまや誰の目にも否定しがたい具体性を伴って生成してきたばかりの作品それ自体に、「出生をやり直す」ための傷や死のような出来事への対処、あるいは浄化に似た過程としての性格を与え、そのようにして他の誰にも肩代わりすることの不可能な励ましを創造者に投げ返す。なぜ、出生をやり直すための試みなのか。それは、ここで起きているのが起源の再設定だからである。なぜ、浄化に似た過程なのか。それは、完結を目前にした地点でほかならぬ当の作品の誕生に関わるいきさつが判明するというこの巧みな構成が、文学史における立派な先例には違いないプルーストの『失われた時を求めて』の終盤で、ついに書くべき小説の理念を発見すると同時に執筆への着手を決意した話者を脅かす、残り時間の少なさゆえの焦りや自身の創造力への疑念―「いったいまだ間に合うのだろうか。そして私はまだそれができる状態にあるのだろうか」(注57)―とはいかにも対照的な、何の屈託もない熱烈な希望の宣言を以てあの叫びの錯乱に対峙し、そしてそれを虚構として、すなわち錯覚や虚妄の類として雲散霧消させてしまうばかりか(なぜなら、「魔女になる」ことは決して身近な誰かを犠牲として要求するような、後ろめたい悪事の一種ではなかったからだ…)、より古くて真正なものの権威の事後的な参照という形式でそのことを遂行するので、その結果時間のねじれが、筋書の進行自体にさながらメビウスの輪の上をたどる線のような趣を、要するにヘーゲルならばさだめし「無から無への運動」(注58)とでも呼びそうな、仮象の揮発していく過程としての虚構的な性格を最終的に与えるからだ。陰から陽への変化は、ここでは、前者から出発して進んできたはずの歩みが円環状に曲がり、出発点をすぐ間近に控えた、ただし面に関してだけはいつの間に裏返ったのやらまるで正反対と評さざるをえない地点、すなわち後者へと我々を導いていく―という風に生じる。
これほどの必死さで自律性を求める作品のあがきは、一体いかなる動機を、いかなる孤独を寓意的な反転の背後に隠しているのか。おそらくこの問いは、母親がいない、いやむしろ要らない生として自律性がこの場合に意味すべきものの内実を理解するとき、多くの読者にとって避けがたくなる。とはいえ、痛々しかろうとなんだろうと、安易な同情は慎むべきだろう。大体、これが同時に生み落とされたばかりの作品から作者への別れ際の挨拶でもあらねばならないことは、シロオたちの運命に一喜一憂してきた果てに、真の独立を求めて大国の陰謀に抗い続けるという決意を新たにする彼女の英姿に全校生徒ともども喝采を送る我々読者にとっては明々白々である以上、慰めなどという湿っぽい態度は場違いに決まっている。それに、ともかくドゥルーズの信念によれば、これまでの人類史において、あらゆる真正の思考は裂け目の縁で生れてきたし、あらゆる偉業は裂け目から生じてきたのである。

何故、裂け目が望ましいのかと問い尋ねられるとすれば、それは、おそらく、裂け目を通って裂け目の縁でだけ思考してきたからであり、人類において善良で偉大であったことはすべて、自己破壊を急ぐ人びとにおける裂け目を通って出入りするからであり、われわれが勧誘されるのは、健康よりは死であるからである。(注59)

日日日の傷跡、あるいは裂け目の実態について、ここでこれ以上立ち入った穿鑿をしたがるような無遠慮な趣味は私にはない。むしろ私に興味があるのは、結局そこからは何が出てくるのかと問うてみることだ。例えば、そこからはC校舎の生徒たちの澄んだ歌声が流れてくるはずである。もしも真剣に耳を傾ける者がいれば、そして一人また一人と合唱の輪に加わる者の数が増えれば、とびきり元気な新生児の産声のように、その歌声は全世界を揺るがすに違いない。


(1)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(MF文庫、2008年)232-238頁。引用に際して、原文中の傍点が付された箇所を太字の表記に改めた。
(2)メルロ‐ポンティ「幼児の対人関係」(滝浦静雄訳)、『メルロ=ポンティ・コレクション 3 幼児の対人関係』(木田元編、みすず書房、2001年)78頁。
(3)坂部恵「人称的世界の論理学のための素描」、『坂部恵集 3 共存・あわいのポエジー』(岩波書店、2007年)205-206頁。
(4)メルロ‐ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1989年)192-193頁。
(5)ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、岩波書店、2000年)95頁。
(6)同書109頁。
(7)若森栄樹『精神分析の空間』(弘文堂、1988年)241-246頁。
(8)同書248頁。
(9)ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』(前掲書)135頁。
(10)ジャック・デリダ『声と現象』(林好雄訳、ちくま学芸文庫、2005年)178頁。
(11)同書215-216頁。
(12)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(MF文庫、2008年)178頁。
(13)ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(財津理訳、河出文庫、2012年)301頁。
(14)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(前掲書)270-272頁。
(15)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)302-303頁。
(16)メルロ‐ポンティ『見えるものと見えないもの』(前掲書)117-118頁。
(17)メルロ‐ポンティ「序」(海老坂武訳)『シーニュ I』(みすず書房、1969年)20頁。
(18)メルロ‐ポンティ「他者の知覚と対話」(木田元訳)、『メルロ=ポンティ・コレクション 3 幼児の対人関係』(前掲書)198-200頁。
(19)ジル・ドゥルーズ「内在―ひとつの生……」(小沢秋広訳)、『狂人の二つの体制 1983-1995』(河出書房新社、2004年)300頁、『意味の論理学 上』(小泉義之訳、河出文庫、2007年)258頁、ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(江川隆男・増田靖彦訳、河出文庫、2011年)112頁、ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』(前掲書)269頁。
(20)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)259-261頁。
(21)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(MF文庫、2009年)265頁。
(22)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(MF文庫、2008年)213-216頁、『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)129頁。
(23)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)11-12頁。
(24)同書290-291頁。
(25)同書137、143頁。
(26)同書115頁。
(27)同書125-126頁。
(28)同書128-129頁。
(29)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)291-292頁。
(30)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)216-217頁。なお、原文では「溢(あふ)れさせ」の「溢」の字体が違うが、表示できないので引用文のとおりに改めた。
(31)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)265頁。
(32)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)276-280頁。なお、「今まさに窮地の敵や味方に嬲(なぶ)り殺されようとしている幼なじみの」は原文通りである。「敵や」はともかく「味方に」とは不可解な気もするが、もし書き損じの類でないとすれば、目下シロオを窮地に追いこんでいる「怪獣」烏魔カカシが生徒会書記の淀川ドロシーとしてこれまで半年間シロオに協力してきたことを指すか、あるいは話者であるミミクロ自身の己の無力さを歯がゆく思う気持ちが反映した自虐的な修辞であろう(もちろん、両方が正しいという可能性もある)。
(33)同書249-250頁。
(34)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)129頁。
(35)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(前掲書)195-213頁。
(36)同書207、209、214頁。
(37)ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』(前掲書)253頁。
(38)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)236頁。
(39)同書241-243頁。
(40)同書298-302頁。
(41)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)188-196、338-344頁。
(42)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)189頁。
(43)同書110頁。
(44)同書293頁。
(45)日日日『魔女の生徒会長II 超悦者ジュリエット』(前掲書)185-186頁。
(46)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(前掲書)131-132頁。
(47)同書306頁。
(48)同書264頁。
(49)江川隆男『死の哲学』(河出書房新社、2005年)43-46、104-106頁。
(50)同書110-116頁。
(51)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)300-304頁。
(52)同書282頁。
(53)同書291頁。
(54)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)260-261頁。
(55)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(前掲書)323頁。
(56)日日日『魔女の生徒会長』(MF文庫、2007年)15頁。
(57)マルセル・プルースト『失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時II』(鈴木道彦訳、集英社文庫、2007年)253頁。
(58)ヘーゲル『大論理学 2』(寺沢恒信訳、以文社、1983年)30頁。
(59)ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』(前掲書)279頁。

category: 『魔女の生徒会長』

CM: 0 TB: 0   

日日日『魔女の生徒会長』 

生れて初めて目にしたのにどうにも他人事とは思えない、どころか思わず「ここに書いてあるとおりだ、これはきっと私の経験したことに違いない」と叫びたくなる。
他の誰でもないこの私の青春というもの―私が一度も身を以て生きたためしのないそれを日日日が、日日日だけが私に与えてくれる。それは、なんと稀有な幸福だろう。
たぶん、私たちは世界に開いた傷口そのものなのだ。そしてこの小説は、その上にできたばかりでまだ生乾きのかさぶたのようなものである(注1)。必ずしも見た目がこぎれいに整っていないのはもちろんのこと、そもそも端的かつ無条件に善ないし偉業と呼んでよいかも怪しい。なるほどかさぶたには傷口を塞いでくれるというありがたい効能があるわけだが、それは当人の意志というよりはむしろ生体の自然な(勝手な)反応なのであるし、傷が先在していなければなお結構だったはずだ。何より問題なのは、傷口が塞がりきってしまえば、私たちの生もまた窒息してしまうということである。だから、どんどん血を流そう。膿や、汗や、涙や、そのほかそれに類した分泌物を。私たちには、それ以外に交流の術などありはしない。

 急いで教室から出て、バケツに水を汲(く)む。雑巾(ぞうきん)を濡らし、搾(しぼ)って舞い戻る。床を掃除する。他人の吐瀉物。血と胃液の混じった汚泥。これはわたしたちの生命だ。(注2)

近さと遠さ、現前と不在、自己と他者、男性と女性、本物と偽物、善と悪、無垢と罪深さ、能動性と受動性、加害者と被害者、美しさと醜さ、強さと弱さ、幸福と不幸、栄光と恥辱、成功と失敗、優しさと厳しさ、喜びと悲しみ、愛と憎しみ…対照的にして相反的な性質の同居が息つく間もなく次々と現れて読者を小児同然の惑乱と分裂に叩きこむのはこの作家のつねだが、他の諸作品と比べても『魔女の生徒会長』(メディアファクトリー、MF文庫)におけるこれらの両義性は、その執拗なこと、組織化の緊密なことで随一ではないか。筆圧が原稿用紙を突き破らんばかりの、半ば自暴自棄とも思える怨念にも似た得体の知れぬ気迫はベートーヴェンの初期から中期のピアノ・ソナタさながらであり、『ささみさん@がんばらない』や『反抗期の妹を魔王の力で支配してみた。』等に比べれば、あるいは単調で洗練が足りないのかもしれない。しかし、こういう見方は「悲愴」や「熱情」を例えばストラヴィンスキーの華麗な管弦楽曲(とりわけ「火の鳥」や「ペトルーシュカ」)と比べるようなもので、あまり有意義とも思えない。少なくとも私にとって目下貴重なのは、覆いかぶさるかさぶたの存在が各自を各人から隔てる以前に、そもそも誰の生も本当はそれ自体が傷口であり、実体も同一性もない底無しの穴であり、そしてそのかぎりで我々は原理的に孤独を運命づけられているという認識である。何をやっても、そのつもりがなくても、私たちの言動はことごとく自らの受苦への居直りもしくは固執という、ある意味でぶざまな依怙地さへと帰結してしまう。それが青春というものではないか(もう一歩踏み込んだ説明をするなら、誰に頼まれたわけでもないのに、そのようなひねくれた状況をあえて自らの手で何もないところに設定せずにいられない、ということであろうが)。
例えば、読む人によってはあまりの生真面目さに閉口し、少々図式的すぎて不自然な問答だという感想を抱きかねない以下の場面で、それでも「噛みついてやるわよ」という啖呵が放つ否定しがたい可憐さは一体何に由来するのか。

 淡々と語って、ママは両手を広げた。それは命令だった。
「奉仕しなさい、子供たち。この世に産みだしてあげた恩を、わたしたちに返すのです」
「お断りよ」
 シロオが叫んだ。
「糞(くそ)食らえよ! 私たちの人生は、私たちのものよ!!」
「それが傲慢(ごうまん)だというのです」
 会話は平行線だった。
 ママは目を見開いた。
「生んであげたのは、わたしたちです。あなたたちは、わたしたちの所有物です」
「未来をつくるのは私たちよ! あなたたちこそ、子供のために綺麗(きれい)な世界を維持することもできなかったくせに、今さら偉そうな顔をしないでよ! あんまり馬鹿にしてると、噛(か)みついてやるわよ!!」
「下品ですね」(注3)

むろん、読んだ人は誰でも知っているように、この後実際に起きるのは、噛みつくどころでは済まないもっと殺伐とした陰惨な闘争であり、その果てに全ての黒幕であった「ママ」は実の娘のシロオに蹴り殺されて息絶える。そのような真剣な、娯楽として片手間に読むにはあまりにも真剣すぎる勝負が、それにふさわしく発言者の声や顔つきまで伝わってくるような対照性のくっきりした問答によって入念に準備されていながら、にもかかわらず主人公が口にする敵意の表現の上限はほとんど遊戯的とすら呼べる他愛ない次元に抑えられていること、このことがこの場面の読者をして、子どもの幼い生を大人以上の密度で満たす異様な緊張を思い出させる、あるいはむしろ再発見せしめるのである。非人称の話者の手で進行するここの叙述の背後には、不幸にして、いやむしろ必要に迫られて大人の語彙を身につけざるをえなかった中学生が―もしかすると小学生かもしれないが―隠れているのではないか。ほかにも忍者、それもちょっととぼけたところというか、間が抜けたところのある忍者という点で『反抗期の妹を魔王の力で支配してみた。』のテツローに通じる数戯(すうぎ)ヤンマなど、根が真面目な作家がなんとかしてライトノベルらしさを出すべく陽気にふざけようとする努力の跡をとどめた登場人物には事欠かないが、その悪戦苦闘も決してあざとさだけが目立つような結果には終わらず、むしろ理念として夢見られたかぎりでの小児性(幼稚さではない)の探究へと我々を呼び招いている。
この痛みがもっと欲しい、一日でも長生きしたい、こういう小説をもっと読みたい。ちなみにこの三つの願望は決して因果関係によって連結しているのでもなければ、かといって目的論的に連鎖しているのでもなくて、実質的には同義だ。それをあえて一文に要約するなら、一体どうなるのだろう。私は、自分の血のにおいと味に飢え渇いているのか。
つけ加えれば、伏線の回収、謎の解明が一箇所に集中しすぎることなく、息の長い緊張感を保ちながら読み手の興味を間断なく前へ前へと牽引していくのも頼もしい。文体については「滂沱(ぼうだ)と」と「蹈鞴(たたら)を踏む」の頻出が目につく気もするが、それは例えばスタンダールの文体の単調さと同様、奔馬のように疾駆する作者の息づかいの刻印であるから、別に欠点としてあげつらいたくなるような類のものではない。なお、絵の担当は鈴見敦で、表紙や口絵に関してはあえて狙ったと思しき色使いの毒々しさが好き嫌いを分けそうだが、本文中の白黒の挿絵は、登場人物の表情の描き方が絶妙で感嘆のほかない。ことに、緑色の長髪にクリスマスツリー用の飾りつけを施されて泣きそうになっている第五巻『ママはあなたが嫌いみたい』223頁のシロオの姿は、前後の文章と一体になって、先へ読み進めるのが惜しいほどの至福の一時をもたらしてくれる。まさしく夢のようだ。

140307_0137~01


(1)日日日『魔女の生徒会長IV 絶叫メリーゴーランド』(MF文庫、2008年)196頁。
(2)日日日『魔女の生徒会長III 案山子たちのグランギニョル』(MF文庫、2008年)127頁。
(3)日日日『魔女の生徒会長V ママはあなたが嫌いみたい』(MF文庫、2009年)292-293頁。

category: 『魔女の生徒会長』

CM: 0 TB: 0   

日日日『のばらセックス』16 

(一)ドゥルーズの時間論
ジル・ドゥルーズは主著『差異と反復』〔Différence et répétition〕(1968年)の第2章「それ自身へ向かう反復」で、三つの局面ないし三通りの総合から成る独自の時間論を彫琢した。
その内実は、第一に想像力による諸瞬間の縮約ないし受動的総合、すなわち習慣にもとづく連続性への期待としての「生ける現在」であり、これが時間の土台(fondation)である。しかるに、現在は不断に過ぎ去る。ドゥルーズによればこの事実を説明してくれるのが、彼が時間の根拠(fondement)と呼ぶもの、すなわち本来的な記憶としての過去であり、そもそも第一の総合(習慣)は、このいっそう深い受動的総合(記憶)の中でこそ生じる。そして、この場合の過去とは決してかつて現在であったものがその後変質をきたした結果なのではなく、むしろ一つ一つの古い現在が―能動的総合としての(派生的な)記憶によって―個別的に対象化される境地(場)としての、一般的な意味での過去、つまり「純粋過去」なのだという。過去が現在としてのそれ自身と同時的であるということ、どの新たな現在にも過去の全体が共存しているということ、過去一般という純粋な境地は過ぎ去る現在にあらかじめ先立っていなくてはならないこと、結局のところどの現在も、いわば円錐の頂点として、最高度に縮約された状態における過去全体以外の何ものでもないこと(ベルクソン)、これら四つの逆説が、純粋過去に関しては無視できない。
ところで、即自的に保存されているそのような過去をまた我々自身のためにも救出したければ、一体どうすればよいのだろうか。プルーストの長篇小説『失われた時を求めて』の話者(主人公)が幼年期を過した架空の田舎町コンブレーを例に挙げつつドゥルーズが述べるところを信じるなら、その答は想起(アナムネーシス)、すなわちいまだかつて現在的であったためしのない本質が忘却のただなかで遂げる復活である。

事実、想起(アナムネーシス)は、〔派生的な〕意志的記憶のあらゆる能動的総合とは本性上異なるひとつの受動的総合、つまり〔本来的な〕非意志的記憶を指示している。〔『失われた時を求めて』に登場する〕コンブレーという町は、それがかつて現在(プレザン)であった〔現前した〕ようには、またそれが現在でありうる〔現前しうる〕ようには、再び出現することはない。むしろ、その町は、それがかつては現在であったその〔古い〕現在にも、それが現働的な現在でありうるようなその現働的な現在にも、共に還元されえないということを、結局はそれら二つの現在の衝突に乗じて開示してしまうようなひとつの純粋過去が存在するのであって、コンブレーは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現するのである。古い現在は、忘却が経験的に克服されるかぎりにおいて、忘却の彼岸において、能動的総合のなかで、表象=再現前化されるがままになる。だがしかし、コンブレーが、かつて現在であったためしがない〔純粋〕過去という形式で、すなわちコンブレーの即自という形式で出現するのは、まさに忘却のなかにおいてであり、記憶にないほど古いものとしてである。過去の即自というものが存在するのであれば、想起(アナムネーシス)こそが、その即自の可想的存在(ヌーメノン)〔経験の対象にはならない本体〕であり、あるいは、それにエネルギーを備給する思考である。想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない。その場合でもやはり、過ぎ去るそれらの現在に乗じてそれらを利用し、表象=再現前化の下で出現する純粋過去を、たとえば、かつて生きられたためしがなく、愛人なるもののかなたに、そして母なるもののかなたにありながら、その愛人とともに共存し、その母と同時的であるような聖処女を、それら過ぎ去る現在どうしの関係は説明してくれないのである。現在は現実存在し(エグジステ)〔外に立ち〕、〔純粋〕過去だけが存続する(アンシステ)〔内に立つ〕。そして、現在がそこで過ぎ去り、諸現在がそこで衝突する当の境地を、その過去だけが供給するのである。(注1)

一度も現在的であったためしのない、それでいて現在が過ぎ去るという事態を理解しようとすればどうしてもその根拠として不可欠であるような純粋過去を想起すること―この発想がそれ自体として独創的でもあれば興味深いものでもあることは論を俟たない。
とはいえ、ドゥルーズの時間論の神髄は、これに続く第三の局面、すなわち、デカルトの説の不十分さを批判するカントが、規定作用と未規定なものの間、「私は思考する」という文と「私は存在する」という文の間に、「未規定なものがそのもとで(規定作用によって)規定されうるようになる当の形式」、「存在と思考をア・プリオリに関係させている内的な《差異》」として持ち込んだ、「規定されうるもの」という論理的価値であり、あるいはそのような形式としての時間である。そして実は、先回りしてドゥルーズの時間論の結論を明かしてしまうと、これ(自我に亀裂を走らせる空虚な形式)によって初めて、彼にとっては最も大切な、未来という時間が導入されることになるのである。

私の未規定な存在は、ひとつの現象の存在として、すなわち、時間のなかで現われる受動的あるいは受容的な現象的主観として、時間のなかでしか規定されることができないのであり、したがって、私が〈私が思考する〉において意識する自発性は、実体的かつ自発的な存在者の属性としては理解されることができず、ただ、ひとつの受動的な自我における触発としてだけ理解されうるのであって、その受動的な自我は、おのれ自身の思考、すなわち、おのれ自身の知性、すなわちおのれがそれによって《私》と言える当のものが、その受動的自我によっては活動せず、ただその自我においてかつその自我に対して活動する、ということを感知するのである。〔中略〕思考の能動性が、受容的な存在者へと、つまり受動的な主観へと振り向けられるので、この受動的な主観は、その能動性を働かせるというよりは、むしろそれをおのれに表象=再現前化するのであり、その能動性の主導権を手に入れるというよりは、それの効果を感じるのであって、結局、その能動性を、おのれのうちにおいてひとつの《他》なるものとして生きるのである。「私は思考する」と「私は存在する」に、「受動的、受容的な」自我を、すなわち受動的な位置(カントが直観の受容性と呼ぶもの)を付け加えなければならない。言い換えるなら、規定作用と未規定なものに、規定されうるものの形式を、すなわち時間を付け加えなければならないのである。とはいえ、「付け加える」というのは、まずい言い方である。なぜなら、むしろ差異をつくる〔差をつける〕ことが、そして差異を存在と思考のなかに内化することが問題だからである。《私なるもの》には、一方の端から他方の端まで、言わば亀裂が入っている。《私》は、時間の純粋で空虚な形式によってひび割れている。この形式のもとで、《私》は、時間のなかで現われる受動的な自我の相関項になっている。《私》のなかの或る裂け目、亀裂、そして自我における或る受動性こそ、時間が意味するものなのである。こうして、受動的な自我とひび割れた《私》との相関関係が、超越論的なものの発見を、あるいはコペルニクス的転回の境地を構成するのである。(注2)

思考そのものに時間の形式を持ち込むこと、これがもたらす成果とは、ドゥルーズによれば神の死、ひび割れた「私」、受動的な自我であり、それらの帰結を追求したのはカントその人ではなくて、詩人ヘルダーリンだったのだという。もっとも、先に検討した第二の時間、すなわち記憶が、一方では純粋過去として表象(再現前化)の根拠でありながら、他方ではそれ自身が根拠づける相手であるはずの表象(再現前化)に相関的でもあるほかないということ、すなわち記憶の領域では依然として、見本の側の同一性と、それの影像の側の類似性とが支配しており、その結果として根拠は円環を形成してしまい、思考に運動を導入するのではなくて心に周期的な運動を導入するにとどまるということ、このような記憶の弱点を克服したのは、まぎれもなくカントの功績である。こうなると時間は、循環や周期性からも、またいかなる内容からも解放されて、空虚な形式としての純粋な順序と化す。いわば歴史哲学への詩学の応用の試みとでも形容できそうなヘルダーリンの批評―とりわけ『オイディプスへの注解』―における卓抜な表現を借用するなら、それはツェズーア(Cäsur)、すなわち区切りもしくは「中間休止」によって前後に分断される、直線的な時間である。そのような「前」と「後」は互いに不等であり、非対称的であり、したがって何人にも後戻りを許さないのである。

 時間の空虚な形式あるいは第三の総合とは、何を意味するのだろうか。デンマークの王子〔ハムレット〕は、「時間はその蝶番から外れてしまった」と語る。〔中略〕蝶番、カルドーcardoとは、時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルディナル)な点に、その時間が従属しているということを、保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間、すなわち運動の数である)。反対に、おのれの蝶番から外れてしまった時間は、発狂した時間を意味している。発狂した時間とは、神が時間に与えた曲率の外に出て、おのれの単純すぎる循環的な形態から自由になり、おのれの内容をつくってくれたもろもろの出来事から解放され、おのれと運動との関係を覆してしまうような、そうした時間であって、要するに、おのれを空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間のなかで繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち、円環であることを公然とやめるのである)。時間は、機軸的(カルディナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり、純粋な順序としての時間へと生成するのである。ヘルダーリンは、時間は「韻を踏む」のをやめる、なぜなら、時間は、〔詩の〕始まりと終りがもはや一致しなくなるような「中間休止」の前半部と後半部に、おのれを不等に配分するからであると語っていた。わたしたちは、時間の順序を、以上のような中間休止に応じた不等なものの純粋に形式的な配分として定義することができる。そうなれば、〔詩の〕長かったり短かったりする過去〔前半部〕と、その過去に反比例する未来〔後半部〕が区別されるわけだが、ただし、その場合、そのような未来と過去は、時間の経験的あるいは動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのア・プリオリな順序に由来する形式的かつ固定的な特徴になる。その場合、時間はもはや運動に従属していないがゆえに、そうした総合は必然的に静的なものである。もっとも根本的な変化の形式〔順序〕があるわけだが、この変化の形式は変化しないのである。《私》の亀裂を構成するものは、まさに、中間休止であり、またその中間休止によって〈これを最後に〉順序づけられる〈前〉と〈後〉である(中間休止は、まさしく亀裂が誕生する点なのである)。(注3)

それではなぜ、円環状ではなくて直線状の、空虚な形式としてのこの第三の時間が、ドゥルーズにとって大切なのか。この問いに答えるためには、不等な諸部分としての時間の総体(すなわち「前」と「後」)を包摂する、行動の映像(イマージュ)に注目しなくてはならない。彼はこれを象徴とも呼んでおり、中間休止はその中で決定されるのである。この観点から、第三の時間そのものにおける三つの局面―「前‐中間休止‐後」、あるいは「過去‐現在‐未来」―を論じるなら、以下のようになる。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注4)

この引用文の内容は、おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである。そのことは、過去がそれ自体としては―この時間においては、行動が「私にとっては大きすぎる」手本として現われるがゆえに―欠如による反復であるのに対して、他方ではまた、現在(中間休止)における変身によって構成される別の反復、等しくなることによる反復を準備するものでもある、ということ、すなわち反復は何か新しいものが産出されるための歴史的な条件であり、そもそも行動というものの条件であるということをドゥルーズが我々に説くに至っていよいよ明らかである。なぜならば、このようにして産出される新しいものとは、欠如とも等しくなることとも違う、過剰による反復であり、未来であるかぎりでの未来、永遠回帰としての未来の反復であるからだ。
いささか謎めいたというか、もってまわった書き方をしてしまったが、詳しい検討は後回しにして、とりあえず引き続き彼の考えに耳を傾けてみよう。例えば、フランス革命の立役者たちは「復活したローマ人」としての自らを生きるべく定められていたのであり、ついで行動を起こすことが可能になるや、自らを歴史的過去に属する人物と同一視するという条件において、本来的な過去の様態で反復を行うことで本格的に行動を開始したのである。

わたしたちは、過去を構成しているそのような様態でいったん反復し、変身の現在においてもう一度反復するという条件のもとではじめて、何か新しいものを産み出すのである。そしてこの産み出されるもの、つまりそれ自身絶対に新しいものは、これまた、反復、換言すれば、今度は過剰による第三の反復、すなわち永遠回帰としての未来の反復にほかならない。なぜなら、たとえわたしたちが、永遠回帰を、あたかもそれが、時間の全系列あるいは時間の総体の全体に関与するかのように、つまり、未来におとらず過去や現在にも関与するかのように説明するにしても、この説明は導入的なものにとどまるだけであって、それが有する価値は、問題的で未規定な価値にほかならず、それが有する機能は、永遠回帰の問題を立てるという機能にほかならないからである。永遠回帰は、その秘教的な真理性において、系列たる第三の時間にしか関わらず、また関わりえないのだ。永遠回帰の規定は、ひたすらそのようなところにある。それゆえに、永遠回帰は、文字通り、未来への信仰、未来における信仰と言われるのである。永遠回帰は、新しいものにしか、すなわち、欠如〔過去〕を条件として、しかも変身〔の作用者、現在〕を介して産み出されるものにしか関与しない。しかし永遠回帰は、条件作用者も還帰させることはない。反対に、永遠回帰は、その遠心的な力のすべてによって、それらを追放し、それらを否認する。永遠回帰は、所産を自律的なものにし、作品を独立させる。永遠回帰は、過剰による反復であって、これは、そのような欠如もそのような〈等しく‐なる〉ということもまったく存続させないのだ。永遠回帰は、それ自身新しいものであり、まさに新しさの全体である。永遠回帰はそれだけで、系列たる第三の時間であり、未来であるかぎりでの未来である。(注5)

こうして空虚な形式としての第三の時間が行き着く先として導入されたドゥルーズ的な永遠回帰は、字面とは裏腹にいかなる循環性とも同一性とも無関係であるどころか、むしろそれらを振り払ってしまうとともに、根拠を没落せしめて、他なるものの偏心的で脱中心化した円環、無名の平民をその彼方に到来させるように働くのである。

クロソウスキーの言うように、永遠回帰とは、私自身の一貫性も、私自身の同一性も、自我の、世界の、神の同一性も、すべて排除することによってはじめて定立される秘密の一貫性である。永遠回帰が還帰させるものは、〈平民〉、すなわち〈名もなき人〉である。永遠回帰は、おのれの円環のなかで、死んだ神とひび割れた自我を招き寄せる。永遠回帰は、太陽を還帰させはしない。なぜなら、永遠回帰は太陽の炸裂を前提にしているからだ。永遠回帰は、星雲にしか関与せず、星雲と混じり合っており、星雲のためにしか運動しないのである。〔中略〕順序としての時間が《同じ》ものの円環を打ち砕き、時間を系列に変えるのは、系列の終りに《他》なるものの円環を再形成するためでしかない。順序の「これを最後に」が現にあるのは、ただひたすら秘教的な最後の円環〔永遠回帰〕の「その都度」のためである。形式としての時間が現にあるのは、ただひたすら、永遠回帰における非定形なものの啓示のためである。極限的な形式性が現にあるのは、ただひたすら、過度に非定形なもの(ヘルダーリンにおける無形なものUnförmliche)のためである。こうして、根拠は、無底(サン・フォン)に向かって、すなわち、それ自身において回転し、そして〈将‐来〉しか還帰させない普遍的な脱根拠化に向かって、越えられてしまったのである。(注6)

ここで注意すべきは、同一性や循環性を排除するということは、決して単なる破壊に終わることなく、以下の著者自身による簡明なまとめの一節からもうかがえるように、作者の消去に伴う作品の独立という肯定的な成果を必ずもたらすという点であろう。だからこそ、先にも触れたように、この時間論の要となるのは過去でも現在でもなく、未来ではなくてはならないのである。

 さてこうなると、現在と過去は、以上のような時間の第三の総合においてはもはや、未来の二つの次元でしかないのである。すなわち、条件としての過去、そして作用者としての現在。習慣の総合たる第一の総合は、過去と未来が依存している受動的な土台において、生ける現在としての時間を構成していた。さらに、記憶の総合たる第二の総合は、現在を過ぎ去らせ別の現在を到来させる根拠という観点から、純粋過去としての時間を構成していた。しかし、第三の総合においては、現在はもはや、消去されるべく予定された当事者、作者、作用者でしかない。過去はと言えば、それはもはや、欠如によってことにあたる条件でしかないのである。所産がその条件に対して無条件的な性格をもっていること、および、作品がその作者もしくは当事者に対して独立していることを、或る未来が同時に肯定するのだが、こうした未来を、時間の第三の総合が構成するのである。現在、過去、未来が、三つの総合を通じてそれぞれ《反復》として開示されるのだが、ただしこの開示は、きわめて異なった様態でなされるのである。現在は反復者であり、過去は反復そのものであるが、しかし未来は反復されるものである。ところで、その総体において把握された反復の秘密は、反復されるもの、すなわち〔過去と現在によって〕二度〈意味される(シニフィエ)〉ものにある。最高の反復、それは、他の二つの反復をおのれに従属させ、それらから自律性を剝奪する未来という反復である。なぜなら、第一の総合は、内容と土台としての時間にしか関わらず、第二の総合は、根拠としての時間にしか関わらないのだが、第三の総合はそれらを越えて、時間の順序、総体、系列、および究極目標に関わっているからである。(注7)



(二)ジャック・ラカンの「もの」
1895年10月8日のこと、ジークムント・フロイトは、医師で生物学者だったヴィルヘルム・フリースに二冊のノートを送った。記念碑的な大著『夢解釈』の発表(1900年)に先立つこの時期、まだ精神分析という新しい心の理論の創始者として世に知られる以前のフロイトが試みていたのは、神経学者として積み重ねてきたそれまでの知見を活かして臨床的な精神病理学のために基礎づけを提供することだったのであり、その成果をかねて親しく文通していた友人に問おうとしたのである。やがてフリースの没後他人の手に渡り、フロイト自身は破棄を望んだにもかかわらず結局1950年に初めて日の目を見たこの手稿が、いわゆる「心理学草案」である。その中には、想起と判断という心的活動の発生をめぐって、乳児の体験を再構成しようとした以下のくだりが存在する。いまだ活発に動き回って欠乏を自力で満たす術を知らないこの未熟で無力な生き物にとって、乳を飲ませ、かいがいしく身体的な世話を焼いてくれる母親(最も身近な養育者)は、唯一の充足の源泉でありながら、まさにそうであるがゆえにこそ、空腹なのに授乳が遅れたとか、肌寒いのに毛布を掛けてくれなかったとかのちょっとした不手際が理由となって、容易に憎しみの対象へと変わりうる。そのような両義的な同類として、いわば人間の原型でもあるこの母親にはすでに二面性が見出されるのであり、そこにさらに重なってくるのが、彼女に関して主体(乳児)が形成する知覚複合体の中の、主体自身の行動の想起を介して同一化しうる部分と、そうでない部分との区別である。そしてこの後者こそ、のちにジャック・ラカンが、主体にとってどこまでも外的で異質でありながら同時に最も近くて親密でもあるという逆説に注目しつつ、「外密性」なる奇妙な造語を献呈することになる当の相手なのであり、フロイトはそれを「ダス・ディング(das Ding)」すなわち「もの」というそっけない語で呼んでいる。訳文中に出てくる「事物」とは、ほかならぬこの「ダス・ディング」のことだ。

 知覚が提供する対象が主体と類似のもの、すなわち同じ人間であると想定しよう。この場合の理論的関心もまた、援助を与えてくれる唯一の力がそうであるように、そうした対象が同時に最初の充足的対象であること、さらには最初の敵対的対象であることで説明できる。こうした理由で、人間は認識することを同じ人間において学ぶのである。このとき、この同じ人間から発する知覚複合体は、一部は、例えば視覚の領域でのその人間の容貌のように、新しくて比較できないものであろう。他の視覚的知覚、例えばその人間の手の動きの知覚は、主体のうちで自分の身体についての自身のきわめてよく似た視覚的印象の想起に的中するだろう。この視覚的印象には、自分自身で体験した動きの想起が連合しているのであるが。対象のさらに他の知覚は、例えば対象が叫んだ場合、自分が叫んだことの想起を、それと共に自身の痛みの体験の想起を呼び起こすだろう。このようにして同じ人間の複合体は二つの構成部分に分かれるのであって、その一つは恒常的な組織体によって印象を与え、事物としてまとまっているが、もう一方は想起の作業によって理解されうる、すなわち自身の身体の情報へ帰着されうるものである。知覚複合体をこのように分解することがその複合体を認識すると呼ばれ、判断を含んでおり、目標を最終的に達成すると終結となる。(注8)

ラカンがほかならぬこのくだりを参考にしつつ、1959年から翌年にかけてのセミネール(ゼミナール)『精神分析の倫理』〔L'éthique de la psychanalyse〕で―とりわけその第IV講と第V講で(注9)―本格的に術語として導入した「もの(la Chose)」とは、端的には「近親相姦の対象」として定義され、「主体にとって外部ではあるが最も親密であり、構造的に接近不能で(近親相姦の)禁止として印され、主体が至高善として想像する主体の存在そのもの」である(注10)。それは、福原泰平の表現を借りるならば「一般に乳児期において始原の母親から乳児に与えられた、すでに失われてしまった原初の快なる感覚の記憶痕跡」であり、象徴界(le symbolique)、つまり言葉の世界に参入するとともに始原にあったはずの存在の充溢から切り離されるという運命に囚われた人間主体にとっては、二度と再会できる見込みはないにもかかわらず、一生そのまわりで堂々巡りを続けなくてはならない現実界(le réel)の核心である(注11)。

 このように「もの」とは私の始原にあって私にとって最も本質的なものでありながら、われわれの外部へと奪われた到達しえぬ地点にあるようなものであった。先にも外密性として述べたように、これは日頃から慣れ親しんだ身近なものでありながら、一方で無限の彼方にあってとらえがたい不可能なものなのである。
 フロイトはこれを隣人という概念でとらえようとする。隣人とは始原にあった母のことでもあり、それは一見身近な人間と見えながら、決してそこにわれわれがなにかを見て、これに一体化することができるといった人物のことではない、隣人は自己の内部にあって親しいものでありながら、自分を呑み込んでしまいそうな不気味さをかねそなえた違和感を持つ異次元の異物のことである。われわれは次元を異にするそれと出会おうとしながらも、常にそこから離脱し、出会いそこねていくという経験を繰り返している。
〔中略〕
 われわれは影を介して「もの」の幻影と出会う以外には手段を持たず、直接「もの」を見聞きすることなどできることではない。それは見ると同時に失われ、不甲斐ないどこにでもころがっている醜い物体へとすぐに変貌する。われわれが目にする至高の物体であるはずの対象は、燃え尽きた花火の黒く焦げた残骸であり、美しい蝶(ちょう)のはらわたを剥き出しにした死骸のようなものとしてその形態を露呈する。
〔中略〕
 それでもわれわれはヴェールの向こうの「もの」の呼びかけに応じて、それにひたすら接近しようとする。しかし、結局無いものとしてしかそこにない「もの」を手にすることはできず、その欲望は満たされぬままに「もの」のまわりをめぐってその出発点へと戻ってゆく。「もの」とはあくまで虚なる焦点としてあり、至福の場所にありながら欠けたものとして何ものをも満たさず、われわれの欲望をどこまでも喚起するだけの位置にとどまる。
「もの」との出会いはあくまで出会うことに失敗した出会いとしてあり、出会うことが奪われることであるような根源的な出会いである。
〔中略〕
 このように、われわれが出会いそこねていく「もの」とは、主体がその成立の時点において失った、主体における本質的な喪失物のことである。それは主体の側においては、最初の充足体験の記憶として、また母なるものとの接触による快なるものの痕跡としてその跡を残すことになる。しかし、すでにこれらはラカンのいうように主体において取り返しがたく失われており、満足の体験それ自体を取り戻そうとしても、もはやそれを手にすることは不可能であった。
 それでも主体は「決定的な声」を聴いた者として「もっと光を!」と欲望し、原初にあるはずの「もの」それ自体を再現しようとやっきになる。以後、主体の最大の課題はイデアの想起よろしく、忘れ去った天上の記憶をそれとして回復することとなった。
 元に戻ることが一生の仕事になる、という一つの倒錯がここに成立する。これは言い換えれば母なるものとの一体化を回復する試みであり、それによって主体は母なるものに呑み込まれ、みずからの存在をこの合一の中に解消してしまうという自己の死をも含みこむ危険極まりないものであった。そのため、主体は先にも述べたように、「もの」の手前に禁止の標識を立ててこれを取り締まり、「もの」に接近することを固く禁じたのである。
〔中略〕
 しかし、罪を恐れるあまり、「もの」に接近することを回避することは、主体の本質を構成するはずの「もの」の呼びかけを無視することになる。人間存在の根底にある「もの」の決定的な声を聴きながら、これにかかわらないなどということが、われわれ人間にとって許されることだろうか。世俗の法が「もの」の呼びかけに勝るなどということがあってよいことだろうか。〔中略〕
「もの」のありかはラカンのいうように、人間世界においては常に禁じられた地点に求められ、そこに近づく人々に罪の烙印を押すという構造を創りだす。フロイトはここに原父殺しの神話における罪の源泉を理論化した。つまり、この罪は「もの」への接近をマークする印としてあったわけである。
〔中略〕
「もの」は一つの物体として目に見える形で存在しているわけではない。それは不可能なものとして禁止の彼方に、それに枠づけられたシルエットとしてその姿をほのめかすだけなのである。 
 不可能なものがわれわれの知らない世界の外側で、その出現の時を待ちながら脈々と存在してきたわけではない。禁止の札を立てることによって、それは法という標識の前にはじめて出頭してきたものでしかない。この標識なくして「もの」は決して存在しえないのである。人はこうした「もの」と掟との同時出頭性の中に、不可能な対象を禁じられたものの彼方で捕まえようとやっきになっている。
 このように、失われた不可能な対象は現実世界で捕まえることができるようなものではないが、人々の中に悦びへの可能性の次元を切り開いていく。実際、人間は前にも述べたように、現実の対象があるかないかという存在の次元を特別重視しているわけではない。そうではなく、それが快か不快かといった快感への傾向、つまり失われた悦びの回復への虚(うつ)ろな幻影を優先して、その決定的な判断をくだしているということができるのである。これがフロイトにおいて、存在判断よりも属性判断が優先されるということの重大な意味となっている。(注12)

癖のある文章を長々と引用してしまい恐縮だが、文意そのものは十分に明瞭だろう。それにしても、このように「虚なる焦点」ないし「主体における本質的な喪失物」として、「禁止の彼方」から間断なく我々に呼びかけ、しかも我々の探求から逃れ続ける「不可能な対象」との避けがたく挫折に終わる関係という相から見てみれば、欲望の生に定められた運命たるや、なんともいじましいというか、みすぼらしいかぎりではないか。それは、つねに同一の不動なる「もの」(至高善)に隷属したまま否定神学的な磁場の中で延々と翻弄され続ける一方で、しかも結局はこの「もの」本体よりも手近な代理の対象に甘んじることをいつも余儀なくされるという運命であり、この意味で欲望の生は二重の劣位を強いられているのだ。

(三)ドゥルーズの精神分析批判から日日日へ
こうしてようやく我々は、『のばらセックス』の本文を参照する準備が整った。といっても、何も難しいことはない。我々はさしあたりただ、日日日のこの小説と、『差異と反復』の第2章でドゥルーズが展開した時間論との間に認めうる、驚くべき符合に目を見張るだけでよいのである。
少なくとも、主人公のおちば様がたどる、いまだかつて実在したためしのない彼女の母親―全人類が崇拝する神のような存在である坂本のばら様―に変装し、そしてその上で自らの死を衆目の前で上演する、というii章「謝肉祭のハーモニー」の成行きは、ドゥルーズが純粋過去(第二の総合)と、未来としての未来に通じる空虚な形式としての直線状の時間(第三の総合)について書いていることに、かなりの程度まで重なると判断してよいのではないか。なにしろこの母親たるや、二千年の時を隔てて復活したこの世で唯一の女性として全人類の崇拝を一身に集めながらも、その正体は生来の性別を捨てた彼女の父(綿志)の兄(緒礼)であるのだし、他方で謝肉祭(カーニヴァル)に浮かれる町の喧噪の中に繰り出した彼女の見た目は、単に母親そっくりなどという次元を超えて、一時的とはいえ素肌を覆う特殊な着ぐるみのおかげで「二千年ぶりの女性、この世で唯一の女性、坂本のばら様そのもの」(注13)なのである。そして、前者、つまり純粋過去についてプルーストの『失われた時を求めて』におけるコンブレーの町の復活を例に挙げつつドゥルーズが書いていることが正しいなら、想起(アナムネーシス)においては「かつて生きられたためしがない光輝のなかで」即自的な過去(過去それ自体)が「記憶にないほど古いものとして」出現するのであり、それゆえ「想起(アナムネーシス)は、わたしたちを、単純に、現働的な現在から古い現在に送り返すのではないし、わたしたちが抱いた最近の愛情を小児期の愛情に、またわたしたちの愛人をわたしたちの母に送り返すのでもない」のだから、むしろそれが垣間見せるのは「母なるもののかなた」だったのである(注14)。同様に、後者、つまり自我に亀裂を走らせる中間休止によって不当な前と後に二分される、純粋な形式ないし順序としての第三の時間についても、我々がすでに学んだとおり、反復はそもそも行動というものが可能になるための条件であるという真理を、中間休止における変身、あるいは行動の映像(イマージュ)への「等しくなること」が教えてくれたのである。思うにおちば様の変身に次ぐ自殺は、「女性一般の不在(絶滅)」という現実を、または「母親の不在(非存在)」を、自他双方のために確認すべく反復しているのだ。
とりわけ、先に私が「おそらく『のばらセックス』の読者にとって決定的なものである」と感じた以下のくだりには、ここでもう一度読み返してみるだけの価値があるはずだ。

総体としての時間に妥当するそのような象徴は、多くの仕方で表現されている。たとえば、〈時間をその蝶番から外す〉、〈太陽を炸裂させる〉、〈火山のなかに身を投じる〉、〈神あるいは父を殺す〉。その象徴的な映像は、それが中間休止を、そして〈前〉と〈後〉を寄せ集めているかぎりにおいて、時間の総体を構成する。しかしその映像は、それが、〈前〉と〈後〉を不等なものとして配分するかぎりにおいて、時間の系列を可能にする。映像における行動がその時間においては「私には大きすぎる」ものとして定立される、といった〔第一の〕時間が、実際、いつでも存在するのである。そこにこそ、過去あるいは〈前〉をア・プリオリに定義するものがある。出来事はそれ自体成就されるのか否か、行動はすでに起されているか否か、ということはほとんど重要ではない。過去、現在、そして未来が配分されるのは、そのような経験的な基準によるのではない。オイディプスはすでに行動を起してしまった。ハムレットはまだ起していない。しかしいずれにせよ、彼らは、象徴〔行動の映像〕の前半の部分を過去のなかで生きるのだ。彼らは、行動の映像を彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去のなかで生き、過去のなかに投げ返されているのである。第二の時間は、中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく‐なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動の映像への理想自我の投射である(そのような時間は、ハムレットの航海によって、あるいはオイディプスの尋問の結果によって示されている。主人公は行動を起すことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第三の時間に関してはつぎのように言えよう。すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当のもの〔出来事、行動〕は、即自的には不等なものである。そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる「平民」を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである。(注15)

さしあたり、この一連の文章は読む者をして次の二点に想到させてくれる。第一に、上述のごとく『のばらセックス』ii章の成行きが狭義の中間休止に相当するのだとすれば、それに先立つ「前」の時間、つまりII章「ずっと薔薇色なわけがない」においては、必ずや映像における行動が「私には大きすぎる」ものとして現れてこなくてはならないはずだ、ということである。そして事実、義父の「あいちゃん」こと坂本逢の館に監禁され、召使に強姦されて心身が疲弊したおちば様は、指一本という奇妙な姿で自分の前に現われた母親ののばら様―実は彼女本人ではなく、逢の弟でおちば様の実父である綿志がラジコンのように操作していた―から、この「あいちゃん」は偽物であり、彼の父親(つまりおちば様の祖父)が化けているのだと明かされるに至って、主役の重荷に耐えかねて泣き言をこぼすのである。

「何で、あたしばっかり……」
 あたしは、ついに泣き言を漏らした。我慢して、戦いつづけて、もうだいぶ―くたびれていた。疲れきっていた、もう嫌だった。
 女に生まれただけで。
 あたししか、いないってだけで。
 こんなふうに、物語の主人公じみた、過酷な運命なんて遠慮したい代物に―人生を踏みにじられるのはもうたくさんだった。当たり散らしたかった、せめて文句を言いたかった。あたしをこの世に産み落とした、この世界でいちばんの女性に。
「あたしは、お母さんとはちがう。もう無理だよ、ぐずっ、限界だよ―あたしは、のばら様みたいになれない。枯れて、踏みにじられる、おちばだよ。くすんだ、つまんない、おちばだよ。お母さんがそんなふうに生んだんだ……!」(注16)

とはいえ、ほどなく彼女はこのような愚痴を振り捨て、のばら様の後押しと協力を得て自らの手で逢の偽物を絞殺する。どうやらかつて彼女が誰にもまして慕っていた「あいちゃん」本人のための復讐も兼ねているらしいこの殺人は、これはこれで、彼女がこの世に生を享ける以前のほとんど神話的な歴史の筋書、すなわち坂本三兄弟(逢、綿志、緒礼)が妹である女性(すなわちのばら様)の力を借りて横暴な父親を打倒する、という「のばら様の、英雄譚(たん)」を反復しているのだ(注17)。第二に、ドゥルーズが列挙している行動の映像の具体例のうち、少なくとも「太陽を炸裂させる」および「神あるいは父を殺す」という二つについては、労せずして『のばらセックス』の作中にほとんど文面そのままの状態で見つかる、ということである。なんとなれば、のばら様は「この世界の中心で、輝きつづけていた太陽」(注18)と呼ばれているのみか、ii章のおちば様はこの母親を―自殺を通じて―殺害するに先立って、「いちど、きれいな太陽を見あげると」(注19)という仕草を示しているからだ。むろん、世界で唯一の女性として人々が信仰してやまない坂本のばら様の神性については(注20)、いましがた確認したばかりの父殺しという行為と同様、多言を要しない。
しかしそれ以上に決定的なのは、同一性や循環性を排除する純粋な形式ないし順序としての時間の先に見えてくるもの、すなわち未来であるかぎりでの未来としての永遠回帰に関する、引用文の末尾にある説明だろう。それは、無名の平民の還帰であり、他なるものの偏心的で脱中心化した円環の生成、さらには作品の独立であった(注21)。そしてドゥルーズが書いているとおり、行動ないし出来事に等しくなってしまった結果として自我に亀裂が走るということが、そのために不可欠な代償なのである。「そのようなわけで、時間の順序に従ってひび割れた《私》と、時間の系列に従って分割された《自我》は、互いに対応し、共通の結末を見いだす―名もなく、家族もなく、資格もなければ、自我も《私》もない人間のうちに、秘密の所持者にしてすでに超人たる『平民』を、すなわち、そのバラバラになった肢体が崇高な映像の重力に引き付けられてそのまわりを回るような超人を見いだすのである」。はたしてこれを、のばら様に変身したおちば様がii章で遂げる母殺しとしての自殺を反復するかのような、坂本三兄弟の次男にして彼女の生みの親でもある緒礼がIII章で被る磨滅―「身体の七分の一ほどしかない、それは緒礼さんの残骸だった」(注22)―に厳密に呼応する文章として、あるいはむしろ彼の運命の予言として読むのはいけないことだろうか。なにしろ、緒礼のこの断片化によってこそ、女性の量産という最大の偉業が達成され、それは以下のごとく神聖性から解放された他者性(異性としての女性)の端的な肯定と、停滞から脱した時間の流れの再開という結末に通じているのである。

 世間には、これまでいなかった女が溢れた。
 のばら様が独占していた珍獣としての、あるいは至宝としての価値は下落した。数が多いものは、需要と供給の法則にのっとり、価値が目減りするのだ。女性の神性は下落し、単なる『男性とは異なるもの』になった。
 自然界では、ごく当たり前なんだけど。
〔中略〕
 神話の時代は終わり、男女が当たり前に紡いでいく、二千年前に中断していた歴史が再び動き始める。あたしは、その曙(あけぼの)を眺めていこう、のんびりと―あたしなりに。(注23)

それでは、『差異と反復』の時間論と『のばらセックス』との間の、これらの符合が我々にとって最終的な成果だと考えてよいのだろうか。否である。なんとなれば、ほかでもなくドゥルーズその人が、自らの時間論を精神分析理論の知見と照らし合わせつつ反復しているという事実がある以上、それをも無視するわけにはいかないからだ。先にラカンの「もの」に言及したのも、実はこのための下準備のつもりだったのである。
さて、ドゥルーズによれば、心的生において時間の第一の総合、つまり生ける現在に相当するのは、散在した興奮を拘束する受動的総合としての習慣による―例えば目は、光にもとづく散在した興奮を身体の表面上の特定の部位で再生することによって形成されるのであり、この意味でそれ自体が拘束された光である―エスにおける組織化なのであり、諸々の局所的なナルシシズム的自我を生ぜしめるそのような組織化は、快原理に先行しているのみならず、むしろそれこそが初めて快原理を可能ならしめるのである。しかるに、続く第二の段階においては、一方ではそれらの受動的な自我に対して現実原則に従う能動的総合が働くことによって大域的な自我が発生するとともに、他方ではその能動的総合にとって相補的な、受動的総合のある深化が起きる。これが、能動的活動の虚焦点としての潜在的対象の構成である。両者の関係は、幼児における歩行の開始という具体例に即して、次のように整理されうる。

歩き始めたばかりの幼児は、おのれの興奮を、それが内因的なものであり幼児自身の運動から生じるものではあっても、受動的総合において拘束するだけで済ましているわけではない。幼児はけっして内因的な仕方で歩いたのではない。幼児は、一方で、興奮の拘束という段階を越え出て、ひとつの〔現実的な〕対象の定立、あるいはそれへの志向性へ向かう。たとえば、努力の目標としての母、すなわち、「現実において」能動的に立ち戻るべき項としての、つまり幼児がそれと比べて自分の成功と失敗を測るその項としての母。しかし幼児は、他方でしかも同時に、自分のためにそれとは別の対象を、つまりまったく別のタイプの対象を構成するのであって、それは、幼児の現実的な能動的活動の進歩を統制し、その失敗を補償するようになる潜在的な対象あるいは焦点〔虚焦点〕なのである。たとえば、幼児は自分の口のなかに指を何本か入れ〔おしゃぶりをし〕、他方の腕でそのような〔潜在的な〕焦点〔としての母〕をかき抱き、そしてその潜在的な〔焦点としての〕母という観点から状況の総体を把捉するのである。幼児の視線は現実的な母〔という対象〕に向けられるということ、かつ、潜在的な〔母という〕対象はみかけの能動的活動(たとえば、おしゃぶり)の項になっているということは観察者に誤った判断を吹き込むおそれがある。おしゃぶりは、受動的総合の深化において観照さるべき潜在的な対象を提供するためにしか、なされないのである。現実的な母の方は、逆に、能動的総合における行動の目標として、かつそうした行動の評価の基準として役立つためにしか、観照されないのだ。〔中略〕まことに、拘束という受動的総合から出発して、あるいは拘束された興奮から出発して、幼児は二重の系列に沿っておのれを構築するのだ。もちろんその二つの系列は、対象的(オブジェクタル)なものである。一方は、能動的な総合の相関者としての現実的な対象の系列であり、他方は、受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象〔虚焦点〕の系列である。深化した受動的自我が、いまやおのれをナルシシズム的映像で満たすのは、まさしく虚焦点を観照することによってである。一方の系列は、他方の系列なしには存在しえないだろう。(注24)

このような、現実的な対象の系列と潜在的な対象の系列の二重性は、自己保存欲動と性欲動との分化に呼応するものでもあるという。もっとも、ここでのドゥルーズの哲学的関心にとって両者は決して等価ではなく、だからこそ彼は、潜在的な対象を現実的な対象から採取する分離の働きについてひとしきり考察すると、今度は前者が後者の中に体内化されているという事態へと筆を進めるのである。明らかに、叙述の力点が置かれているのは、後者つまり現実的な対象ではなくて、前者つまり潜在的な対象である。

分離の本領は、現実的な対象からひとつの部分を抜き出すことにあるばかりではない。抜き出された部分は、潜在的な対象として機能することによって新たな本性を獲得する。潜在的な対象は、〈部分対象〉なのである。そう言えるのは、たんに、潜在的な対象が、現実的なもののなかに残存している対象を欠いているからというだけでなく、さらに、潜在的な対象が、それ自身においてかつそれ自身に対して、〈分裂〉し、二分化され、互いに一方が、つねに、他方において欠けているような二つの潜在的な部分になるからである。要するに、潜在的なものは、現実的な対象に関わる大域的な特徴には服従していないのだ。潜在的なものは、その起源からしても、またそればかりでなくその固有な本性からしても、切れ端であり、断片であり、剥皮である。潜在的なものは、それ自身の同一性において欠けるところがあるのだ。〈良い母と悪い母〉、あるいは父親的二重性に基づく〈謹厳な父と遊んでくれる父〉は、二つの部分対象ではなく、分身においておのれの同一性を失ってしまっているものとしての同じもの〔自体〕なのである。能動的総合が受動的総合を越え出て、大域的な〔自我の〕統合および全体化可能な同一的な〔現実的〕対象の定立へ向かうとき、受動的総合は、深化しながら、おのれ自身を越え出て、全体化されえない部分対象の観照へ向かう。(注25)

このように分離についての考察が、潜在的な対象に特有な、つねに部分的にして断片的であるという性格を教えてくれるとすれば、体内化という事態は、潜在的な対象を現実的な対象の中に解消すべく統合してしまうどころか、逆に現実的な対象の中から何がそれに欠けているかを告げることで、そのような統合や全体化を拒む異分子を表わしている。

体内化は、〈分離〉に対立するどころか、反対に分離を補完するものである。だが、潜在的な対象は、どのような現実のなかに体内化されていようと、どの現実のなかにも統合されてはいないのである。潜在的な対象は、現実のなかに、むしろ植え込まれ、打ち込まれているのであって、現実的な対象のなかに、その対象を補う半身を見いだすことはなく、反対に、その現実的な対象のなかに、あい変わらずその対象に欠けている別の潜在的な半身を証示しているのである。メラニー・クラインが、どのようにして母の身体は潜在的な諸対象を含むのかという点を指摘しているが、その場合、母の身体は潜在的な諸対象を全体化あるいは包括していると考えるべきではなく、またそれらの対象を所有していると考えるべきでもなく、むしろ、それらの対象が母の身体に〔中略〕植え込まれていると考えるべきである。(注26)

したがって、両者つまり分離と体内化には、潜在的なものとしての潜在的なものの権利を認めるよう我々に迫ってくるという点が共通している。ここからドゥルーズは、大胆にも、潜在的な対象は純粋過去の切れ端である、という非常に興味深い帰結を引き出そうとする。

 潜在的な対象は、本質的に過去的なものである。〔中略〕潜在的な対象は古い現在なのではない。なぜなら、現在という質と、過ぎ去るという様態は、能動的総合によって構成された系列であるかぎりでの現実的なものの系列に、いまやそれしかないといったやり方で関与するのだが、しかし純粋過去は、すなわちおのれ自身の現在と同時的で、過ぎ去る現在に先立って存在し、あらゆる現在を過ぎ去らせる過去としてすでに定義された純粋過去は、潜在的対象の質を表わしているからである。潜在的対象は純粋過去の切れ端である。虚焦点〔潜在的対象〕に対する私の観照の高みからしてはじめて、私は、過ぎ去る私の現在と、虚焦点が体内化されている現実的対象の継起とに立ち会い、それらを司るのだ。その理由は、そうした虚焦点の本性に見いだされる。現前する現実的(レエル)対象から採取されている潜在的対象は、本性上、その現実的対象と異なる。潜在的対象は、それがそこから抜き出されてくる当の現実的対象に比べて、何ものかが欠けているばかりでなく、さらに、それ自身において、何ものかが、すなわち、つねに自己自身の半身であるものが欠けているのであって、潜在的対象は、自己自身のそうしたもうひとつの半身を、異なるもの、不在のものとして定立するのである。ところでこの不在〔のもの〕は、やがてわたしたちが見るように、否定的なものとは反対のもの、つまり永遠の〈自己の半身〉である。こうした不在のものは、存在するべきところには存在しない場合にのみ、それが存在するところに存在しているのである。それは、存在しないところで探し求められる場合にのみ、それが発見されるところに存在しているのである。またそれと同時に、不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである。不在のものはいつでもひとつの「存在していた」ということなのである。(注27)

そして彼によれば、このような純粋過去としての潜在的な対象―決してそれが存在すべきところに存在しない、それ自身の断片にしてそれ自身の過去であるような何か―についての最も洗練された説明は、ジャック・ラカンの精神分析理論、なかんずく現実的なものとの対比における、象徴的なものの概念の内に見つかるのだという。

わたしたちにとって以上のような意味で範例的に思われるのは、ラカンの著作〔『エクリ』〕の或る箇所であり、そこで彼は、潜在的対象をエドガー・ポーの盗まれた手紙になぞらえている。ラカンの教えるところでは、現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は反対に、それがどこへいってしまおうと、それが存在するところに存在しかつ存在しないということを特性としているのである。「隠されているものとは、結局のところ、あるべき場所に欠けているものでしかないのであって、それはちょうど、図書館のなかで或る一冊の本の行方がわからなくなったときに、その本を探すといったことで表現されるような事態である。これはあるべき場所に欠けている、と文字通りに(ア・ラ・レトル)〔その手紙において〕言えるのは、その場所を変えうるもの、すなわち象徴的なものに関してだけである。なぜなら、ほかならぬ現実的(レエル)なものこそが、その現実的なものにどれほどの混乱がもたらされうるにせよ、〔あるべき場所に〕つねにどんな場合でも現存するからであり、またあるべき場所をおのれの足裏にくっつけて運んでゆき、その際おのれをあるべき場所から追放しうるようなものについては何も認めないからである」。純粋過去、すなわちその普遍的な可動性、普遍的な遍在性が、現在を過ぎ去らせ、そして永遠に自己自身と異なるような純粋過去に、過ぎ去り、そして自己と共に運び去られる現在を、これほどうまく対立させた者はだれもいなかった。潜在的対象は、ひとつの新しい現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのではまったくないし、その対象がかつては現在であったという場合の現在と比べて過ぎ去っている〔過去である〕というのでもない。潜在的対象は、凝固した現在のなかで、その対象がそれであるところの当の現在〔現前するもの〕と同時的であるものとして、換言すれば、潜在的対象が、一方では同時にそれであるところの当の部分を他方では欠いているものとして、すなわち、潜在的対象があるべき場所に存在するときに遷移したものとして、過ぎ去っている〔過去である〕のだ。だからこそ、潜在的対象は、自己自身の断片としてでしか現実存在(エグジステ)しないのだ。すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである。潜在的対象は、現在〔現前するもの〕としての自己と同時的であり、おのれ自身にとっておのれ自身の過去であり、現実的な系列のなかで過ぎ去るあらゆる現実に先立って存在するのであって、まさにそのような対象こそが純粋過去に属しているのである。潜在的対象は、純然たる断片であり、自己自身の断片である。だが、たとえば身体的な経験におけるように、質を変化させ、現実的諸対象の系列のなかで現在を過ぎ去らせるのは、まさにそうした純然たる断片の〔現実的対象への〕体内化なのである。(注28)

このように、純粋過去としての潜在的な対象というものは、根源的に失われたものとして再発見される、という以外のあり方を通じては知られることがない。しかるに、ここに一つの奇妙な事実がある。すなわち、潜在的な対象に固有のそのような性格を我々に教えてくれる、いましがた読んだばかりのドゥルーズの文章―「すなわち、潜在的対象は、失われたものとしてでしか見いだされず―再発見されたものとしてでしか現実存在(エグジステ)しないのである。この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―は、むしろ現実界の核心を占めるあの「もの(ダス・ディング)」について語るときのラカンの言葉づかいにそっくりなのである。ラカンは言う。

 もし〈もの〉が根本的に覆われていなかったとしたら、我々は〈もの〉とのあいだに次のような関係を持たずにすんだでしょう。つまり、〈もの〉を把握するためには〈もの〉を取り囲み迂回せざるをえないという関係です。精神というものは全てそれを余儀なくされているのです。そして、〈もの〉が確かに認められるところでは、〈もの〉は飼い慣らされた領野に認められます。ですから、そのような領野について、〈もの〉はつねに覆われたひとまとまりとして現れる、と定義できます。
 〈もの〉は、フロイトが快原理という主題系を基盤にして定義した心的構成のなかでこのような場所を占めています。この〈もの〉とは、現実界に属しており原初的な現実界であるにもかかわらず、シニフィアンを言うなれば受苦するものだからです。ここで現実界とは、まだ我々が限定すべきではないひとつの現実界、全体性における現実界、主体の現実界でありながら、主体が彼の外部にあるものとして関わっている現実界のことだと理解して下さい。
〔中略〕
 一方で、発見に対する反応の以前として、つまり「再発見されたwiedergefundene」対象が存在する以前として、フロイトが示したものは、まさに〈もの〉の領野に位置づけられなくてはなりません。「再発見された」、これこそがフロイトにとっては、対象がもつ主導的機能に関わる根本的な定義です。この定義の逆説についてはすでに触れました。逆説というのは、この対象はすでに実際に失われていたとは言えないからです。対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です。しかしそれは事後的にそうなのです。ですから、対象は再発見されますが、対象がすでに失われていたということを我々はこの発見によってしか知りえないのです。
〔中略〕
 これが、覆われたものとしての〈もの〉の第二の特徴です。つまり〈もの〉はその本性上、対象の再発見という形で、他のものによって表わされるのです。(注29)

はたして、ドゥルーズは潜在的な対象の概念を創造するにあたって、「もの」についてのラカンの所説を参考にしたのだろうか。のちに『精神分析の倫理』と題して刊行されることになる一連のセミネール(ゼミナール)において、この発言をラカンが口にしたのは1960年1月27日のことであり、一方ドゥルーズの博士学位主論文である『差異と反復』が上梓されたのは1968年のことであるから、少なくとも時間的には十分な余裕があったと判断してよさそうである。だが、いま私の手元にはこれ以上の資料があるわけでもないので、あまり憶測をたくましくするのは気が進まない。
ただ、使う用語こそよく似ていても、ラカンが現実的な(réel)ものについて語りつつ、どうやら紛失という特徴を再発見の結果として考えようとしている―「対象とはその本性上再発見された対象です。対象が失われていたというのはその帰結です」―のと比べて、ドゥルーズの叙述はもっぱら潜在的な(virtuel)ものに焦点を合わせながら、紛失を積極的な規定として評価しようとしている―「この場合、紛失と忘却は、乗り越えられるべき規定だというわけではなく、反対に、忘却のただなかで、かつ失われているかぎりにおいて、再発見されるようなものの客観的な本性を指示しているのである」―という対照性は見落とせない。もちろん、対象(「もの」)の見失いや忘却について、それが避けがたいことをラカンの考えに即して理論的に証明することなら可能であるにせよ(注30)、そのような対象、ないし「もの」に関して、ドゥルーズがしているように、そもそも現在的であったためしがないという意味での潜在性を云々するなどということが、はたして許されるのだろうか。
換言すれば、ドゥルーズはラカン的な「もの」が本来現実界に属する、というよりも主体にとって最も原初的な現実そのものにほかならないという事情は承知した上で、強引にそれを潜在的なものの領域の解明のために転用し、独自の理論的展開を試みているのではないか、ということだ。そうだとすれば、その操作はほとんど牽強付会に近い(第一、ラカンその人の関心にしてからが、ドゥルーズが『差異と反復』を執筆していた頃はともかく、もっと後年になると明らかに象徴界から現実界に移っているのだ)。
とはいえ、象徴的器官としての男根、ないしファルス(phallus)について、それが幼児にとっては、母の中の欠如を埋め合わせるものであり、つまりは母の欲望の対象である(具体的には子である幼児自身、ついで父が母に愛されるゆえんであると思しい彼の持ち物を指す)という精神分析の知見を参照しつつ―ちなみに、少し前に『差異と反復』から引用したくだりの中の「不在のものは、その不在のものを持つ者たちによっては所有されていないのであり、逆に言えば、不在のものは、その不在のものを所有していない者たちによって持たれるのである」(注31)という箇所は、この間の機微を念頭に置いた記述であろう―、「おのれ自身の不在と、過去としての自己とを証示していること、本質的に自己自身に対して遷移していること、失われているかぎりでしか見いだされないこと、分身において同一性を失うようなつねに断片的な存在であること」等々の理由から、これこそ部分対象としての潜在的対象の典型であるとドゥルーズが書くとき(注32)、我々としては、少なくとも『のばらセックス』という小説の批評にとっては、あるいはこのほうがラカン的「もの」よりも好都合かもしれない、という予感が抑えがたい。例えば、義父の「あいちゃん」の館に監禁されたおちば様の前に現われた母の指、あるいは指の姿になった母とは、もっぱら母の側で探し求められるというそのようなファルスのことではないのか。

 あたしの眼の前で、何かが動いた。ちいさい。虫? と思って悲鳴をあげそうになる。暗闇に慣れた目でそれを凝視し、あたしは想像よりもなお気味の悪いものを見つけてしまって、絶句する。
 指に見えた。
 人間の指だ。
 人差し指だか中指だかはわからないが、天井をさして一本の指が立っている。その根元には蜘蛛(くも)の足みたいな、機械の質感があるものが複数生えていて、その指を自立歩行させている。(注33)

単に残余の身体から分離された小部分であるのみならず、その状態のままで、つまり部分的かつ断片的であることをやめないで活発に動き回り、持ち主であるのばら様がとうの昔に死んでいるという衝撃的な真相を告げるこの指は(注34)、辛うじて保存された小脳のおかげでまがりなりにも彼女自身の人格のなごりをとどめているという表向きの説明とは裏腹に、すでに触れたとおり、実際には彼女本人ではなく、おちば様の実父である綿志が操作していたのであり(注35)、そしてその事実の発覚がきっかけとなって、母親の絶対的な不在といういっそう衝撃的な真理―坂本のばら様という女性はもともと坂本三兄弟の合作であり、一度もこの世に存在したためしがなかった―を、主人公であるおちば様が知ることになるのである。このような成行きと相性がよいのは、やはりラカンの説く現実的な「もの」以上に、ドゥルーズの説く純粋過去としての潜在的対象であろう。
とりわけ、現働的な現在から古い現在に向かって生じる反復の実態を問う中で、反復強迫に関する精神分析の理論はなおあまりにも現実主義的・唯物論的・主観的ないし個人主義的であり、古い現在における同一性の原理と現働的な現在における類似の規則とに支配されていて、したがって不十分であるという趣旨の批判を展開するに先立って、その場合の古い現在は反復されるべき「もの(chose)」の不動の源泉であるはずだと彼が書いているのを読むと、ことによると『差異と反復』の時間論、なかんずく純粋過去の理論には、ラカン的な「もの(das Ding/la Chose)」の概念の改作という意図が隠れているのではないか、という我々の印象はひとしお強まるのだ。

 もとより、いま検討しているのは、反復が有する精神分析的な、すなわち愛に関する遊び=ゲームの全体である。現実的(レエル)な系列において、一方の現在から他方の現在へ向かって、すなわち現働的な現在から古い現在へ向かって遂行されるような反復を理解することができるかどうか、それが問題なのである。そのような反復があるとするなら、古い現在は、或る複雑な点の役割を、言わばあるべき場所にとどまって引力を発揮するような究極的なつまり根源的な項の役割を果たすだろう。その古い現在こそが、反復さるべきものchoseを提供するだろうし、またその古い現在こそが、反復の全過程の条件となるだろう。(注36)

それでは、ドゥルーズ自身はどう考えるのか。この文脈で同一性の原理と類似の規則の支配に従うことを拒むとは、一体何を意味するのか。二つの現在の系列(古い現在と現働的な現在)は、実は何らかの潜在的対象、ファルスがそうであるようにたえず循環する同一性を欠いた対象に対して共存しているのであり、したがってどちらかが根源的でどちらかが派生的であるような関係にはないこと、それゆえ反復や遷移や偽装はそれら自体が説明の原理として肯定される必要があること―これが彼の出した独創的な答である。

 これまでわたしたちは、反復の過程を考えるにあたって、その難しさを何度も強調してきた。二つの現在、二つの〔原〕光景、あるいは二つの出来事(幼児期のものと成人期のもの)を、時間によって隔てられたそれぞれの実在性(レアリテ)〔現実〕のなかで考察する場合、古い現在は、現働的な現在に間隔を置いて作用し、その現働的な現在を〔おのれをモデルにして〕つくりながら、反対にその現働的な現在からおのれの全有効性を受け取るというのは、いったいどうしたことであろうか。また、時間的間隔を埋めるために必要不可欠な想像的な働きを援用する場合、その想像的な働きは、反復を独我論的主体の錯覚としてでしか存続させないにもかかわらず、結局のところそれら二つの現在の全実在性を吸収してしまわないというのは、いったいどうしたことであろうか。しかし、それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の遷移は、したがって、他のもろもろの偽装とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性(レアリテ)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でどちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかもそれら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、おのれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象がファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(注37)

決して実在するものとして表象の中に現前することはないまま、つねにそれ自身に対して遷移し、探す者の目から逃れ去って循環し続ける潜在的対象、および、この対象に対して共存する新旧二つの対等な現在の間で生じる、偽装としての反復―ドゥルーズがことさらラカンを引き合いに出しながらここで試みている精神分析理論の変奏、ないし精神分析批判の当否は、このような構図をこのとおりに積極的に肯定できるかどうかにかかっているはずである。かつて実在したことのある不動の同一的な根拠も、ましてやそれの抑圧も、反復や遷移や偽装に先行しているわけではない。
いまや我々には、『のばらセックス』こそが、以上のようなドゥルーズの思考の理路に狭義の哲学の外から最も力強く呼応する実例であることが理解できる。少なくとも確かなのは、生来の性別を捨て、「文字どおり、己を殺して」(注38)偶像としての女性(坂本のばら様)を演じ続けたあげく狂気の所業(弟との近親相姦、および娘の強姦)に走り、その結果名前も人格も失うはめになった緒礼、他の全人類と同様、娘であるおちば様もその正体を知らぬまま探し求めてやまない母なるもの、ただし「架空の母親」(注39)である彼が、つねにそれ自身に対して遷移を続け、決して現前するものとして把捉することのできない潜在的な対象に相当するということだろう。実際には巻頭の時点で―「ななちゃん」こと坂本綿志として―姿を見せているにもかかわらずついに生身の坂本緒礼本人として娘と言葉を交わすことはないまま、女性の量産と引き換えに力尽きて廃人と化し、「身体の七分の一ほどしかない」残骸として再登場する(注40)という彼の運命も、疑いなくそう考えるよう促している。
だが、それだけではない。そもそも主人公であるおちば様にしてからが、幼少期に生みの親である緒礼に強姦されており―そしてこの事件は、それ自体が、かつて坂本三兄弟がでっちあげた、幼いのばら様が強姦されたという架空の事件を反復しているのである(注41)―、ゆえにI章「きれいな薔薇には棘がある」において彼女が加工種(エルフ)の男性たちに犯されるという成行きは、それとの関係によってすでに反復(二回目の性交)なのであり、にもかかわらず続くi章「殺人鬼のシャンソン」の末尾で恋人(ソプラノ)と交わる彼女がことさら自身の処女性に言及するのは(注42)、これはこれで、修辞の力を借りた演出の中で初回を反復しようとする意志の表れなのである。おそらく、『のばらセックス』の作中で起きる出来事は、そのほとんどがこのように何らかの意味で反復として規定することが可能なのであって、しかも、「おちば様はソプラノのものを貪り、何度も求め」(注43)、「これで何度、交わっただろうか。六回? 七回? 十回以上?」(注44)、「何度も何度も何度も、繰りかえし水をたらふく飲まされて、すぐに排泄(はいせつ)させられて」(注45)、「身体の奥にある気持ちのいいつぶつぶを、ソプラノがひとつずつ潰して、何度も掻きむしってくれる」(注46)、「何度、そのちいさな膣のなかに精を吐きだしたことか」(注47)…等々のくだりが教えてくれるとおり、反復の歴然たる影響力は個々の文章の中にまで及んでいるのである。とりわけII章「ずっと薔薇色なわけがない」を読めば、そこにはまた遷移と偽装も欠けてはいないことが明らかになる。かねて憎からず思っていた義父の「あいちゃん」(坂本逢)から、結婚と、瀕死ののばら様に代わる新たな三人目の女子の出産、すなわち母親の地位の代行とを要求され、彼の館に監禁されたおちば様は―ちなみにこの際彼女は、かつてI章でのばら様(緒礼)から受けた「身体が書き換えられるような激痛」(注48)を反復するかのごとき、「お腹の奥で何かが書き換えられている」ような苦痛を与えられている(注49)―、しかしなぜか義父本人ではなくてその召使、研究所で生まれた女性の出来損ないにして、身体の一部に過剰で奇形的な女らしさ(複数の乳房)を宿すシオン(姉音)に連日強姦され、あるときなどは大量の水を無理やり飲まされて疑似的な妊娠と不毛な出産(もちろん、排尿は決して新生児へと結実することがない)の体験を繰り返すことになる(注50)。これらがおおむね「遷移」の相を表わしているとすれば、くみしやすいもう一人の召使であるセノン(妹音)を性的に誘惑して味方につけ、すでに触れたようにこれまた「のばら様の、英雄譚(たん)」(注51)を反復するという形で、実は「あいちゃん」の父親が化けていた彼の偽物をやはり演技を駆使して性的に籠絡してしまい、ついで自らの手で殺害する、という章の大詰めにおけるおちば様の行動のほうは、明らかに「偽装」の相を反映しているのである。やがて直後のii章「謝肉祭のハーモニー」がこの親殺しを今度は父ではなくて母に対するものとして反復することだろうし、そこに導入される虚構の現実化、あるいはむしろ有効化(effectuation)という状況は―「TVのなかの、夢のなかの住民だった母親、憧れと―愛されなかったことへの怨みがぎゅうぎゅうに詰まった、ほとんど崇拝の対象。そんな相手が、自分の恥ずかしい部分に手を添えている。少年はそんな嘘みたいな事実に、正気を失わんばかりになっていた」(注52)―、全篇を締めくくるべくさらに後続するIII章「いつかは散る薔薇」において、緒礼によってもっと完全に達成されることだろう。「もっと完全に」とはつまり、同一性を保つ根源としての母あるいは「もの」(ラカン)が至高善の王座から最終的に失墜し、代わりに複数の、無数の仮面が乱舞を始めるということ、そのような成果に緒礼の尽力を通じて万人が与るに至るということだ(注53)。先に私が『のばらセックス』の読者にとって決定的なものと考え、二度にわたって参照した、時間の空虚な形式あるいは第三の総合についてのドゥルーズの文章は、こうして三度(みたび)我々の行く手を照らしてくれることになる―「その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである」。そしてここから、劣らず決定的と思える以下の帰結が生じる。すなわちドゥルーズは、我々の愛情を母なるものの(母という「もの」の)磁場から解放するとともに、むしろ母そのものを際限なき仮面の戯れへと粉砕しようともくろむのである。

要するに、究極的な項などは存在しないのであって、わたしたちの愛は母なるものを指し示してはいないのである。母なるものは、たんに、わたしたちの現在を構成する系列のなかでは、潜在的対象に対して或るひとつの場所を占めているだけであって、この潜在的対象は、別の主体性の現在を構成する系列のなかで、必然的に別の人物によって満たされ、しかもその際、つねにそうした対象=x〔潜在的対象〕の遷移が考慮に入れられているのである。それは、言ってみれば、『失われた時を求めて』の主人公が、自分の母を愛することによって、すでにオデット〔スワンの妻になる人物〕に対するスワン〔主人公が子どものころに知り合った人物〕の愛を反復しているようなものなのだ。親の役割をもつ人物はどれも、ひとつの主体に属する究極的な項なのではなく、相互主体性に属する中間項〔媒概念〕であり、ひとつの系列から他の系列へ向かっての連絡(コミュニカシオン)と偽装の形式であって、しかも、その形式は、潜在的対象の運搬によって規定されているかぎりにおいて、異なった諸主体にとっての連絡と偽装の形式なのである。仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもやひとつの隠し場所なのである。何かの、あるいは誰かの仮面をはがして正体を暴くというのは、錯覚にほかならない。反復の象徴的な器官たるファルスは、それ自体隠れているばかりでなく、ひとつの仮面でもある。(注54)

もともと緒礼は兄(逢)や弟(綿志)と同じく「父の遺伝子をそのまま複製した、クローン人間」として生まれ、「坂本のばら様と同じ顔をした、三兄弟」の一人(次男)であった(注55)。換言すれば、坂本三兄弟においては、いわば生まれつき素顔そのものが仮面であり、仮面以外の素顔はなかったのである。いまやその彼から、またしてもクローン技術によって「ほとんど同じ見た目」をした「坂本のばら様の、量産品」、おちば様の妹たちが何人も誕生する(注56)。本来ならばここで、『差異と反復』第2章を締めくくる、永遠回帰としての未来の時間において主役を務める見せかけ(シミュラクル)についての一連の記述の検討に入らなくてはなるまいが―見せかけ(シミュラクル)は、第一にそれを構成する諸系列の非類似と、諸視点の発散とを内化しているがゆえに、同時に複数の事物を見せてくれ、複数の物語を教えてくれるものであるばかりか、第二に「同じもの」ではなくて「他なるもの」という見本を非類似の源泉として指示し、ひいては第三に、見本(モデル)と複写(コピー)という階層的な対立図式そのものに異議を唱えるのだという(注57)―、すでにこの記事は当初予定していた分量を大幅に超過しているので、その検討は他日にまわさざるをえない。
ともかく以上のような次第で、哲学的な美と強さの点で『のばらセックス』に匹敵する小説がそうざらにあるとは、私には思えない。これは、厳密な意味で各人のための書物、我々一人一人を欲望する者として個体化に(したがってまた孤立性に)与らしめる書物であると同時に、まさしくこの普遍的な当事者性の達成ということのゆえに、真に万人のための書物でもあるのだ。以前私は日日日を「現代のスピノザ」と呼んだことがある。それに加えて、いまや次のことも認める必要があるようだ。やはりスピノザ主義者だったドゥルーズの哲学は、他のどの日本語の小説にもまして巧みに『のばらセックス』において反復された、つまり新たな生命を獲得したのである。


(1)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(財津理訳、河出文庫、2007年)235-236頁。ただし引用に際して、訳文中の「コンブレ」を「コンブレー」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「エレメント」を「境地」に改め、また傍点が付してある箇所を太字の表記に改めた。
(2)同書238-240頁。ただし引用に際して、訳文中の「先験的」を「超越論的」に、「エレメント」を「境地」に改めた。
(3)同書245-246頁。
(4)同書247-249頁。ただし引用に際して、訳文中の「イマージュ」を「映像」に、「セリー」を「系列」に、「イデア的な自我」(原語は« un moi idéal »である)を「理想自我」に改めた。
(5)同書250-251頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(6)同書251-252頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に改めた。
(7)同書257-258頁。ただし引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「最終目的」(原語は« le but final »である)を「究極目標」に改めた。
(8)ジークムント・フロイト「心理学草案」(総田純次訳)、『フロイト全集3』(岩波書店、2010年)44頁。
(9)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(小出浩之・鈴木國文・保科正章・菅原誠一訳、岩波書店、2002年)63-105頁。
(10)「もの」、R.シェママ・B.ヴァンデルメルシュ編『新版 精神分析事典』(弘文堂、2002年)488頁。
(11)福原泰平『ラカン 鏡像段階』(講談社、2005年)210-211頁。
(12)同書211-220頁。
(13)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)274、279頁。
(14)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)235-236頁。
(15)同書247-249頁。
(16)日日日『のばらセックス』(前掲書)212頁。
(17)同書215-216頁。
(18)同書148頁。
(19)同書290頁。
(20)同書262、290頁。
(21)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)251-252、257-258頁。
(22)日日日『のばらセックス』(前掲書)376頁。
(23)同書381-382頁。
(24)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)271-272頁。訳文中の「セリー」を「系列」に、「イマージュ」を「映像」に改めた。
(25)同書274-275頁。ただし引用に際して、« lambeau »の訳語を「切片」から「切れ端」に改めた。
(26)同書275-276頁。
(27)同書276-278頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「切片」を「切れ端」に、「控除されている」(原語は« prélevé »である)を「採取されている」に、「もっている」・「もたれている」を「持つ」・「持たれる」に、それぞれ改めた。
(28)同書278-280頁。訳文中の「置き換えられているものとして」(原語は« comme déplacé »である)を「遷移したものとして」に改めた。
(29)ジャック・ラカン『精神分析の倫理(上)』(前掲書)177-178頁。引用に際して、訳文中の「快楽原則」を「快原理」に改めた。
(30)若森栄樹『精神分析の空間』(弘文堂、1988年)194-195頁。
(31)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)278頁。
(32)同書280頁。「置き換えられていること」を「遷移していること」に改めた。
(33)日日日『のばらセックス』(前掲書)159頁。
(34)同書161頁。
(35)同書238-289頁。
(36)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)281頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「プロセス」を「過程」に改めた。
(37)同書284-287頁。引用に際して、訳文中の「プロセス」を「過程」に、「アクチュアル」を「現働的」に、「セリー」を「系列」に、「置き換えられる」・「置き換え」を「遷移する」・「遷移」に、「審廷」を「審級」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に、それぞれ改めた。
(38)日日日『のばらセックス』(前掲書)265頁。
(39)同書290頁。
(40)同書376頁。
(41)同書117-118、265-266、347頁。
(42)同書109頁。
(43)同書110頁。
(44)同書182頁。
(45)同書190頁。
(46)同書284頁。
(47)同書343頁。
(48)同書46頁。
(49)同書156頁。
(50)同書188-190頁。
(51)同書216頁。
(52)同書286-287頁。
(53)ただし、枝川昌雄著『ラカン空間を読む』(青山社、2008年)218-221頁にも書いてあるとおり、「もの(das Ding)」とは厳密には母の身体そのものというよりも、むしろ「『母の身体』を代入することの可能な構造的な枠組み」として、「シニフィアンの連鎖によって構成される象徴界に空いた裂け目、穴」として考えられるべきであり、だからこそそこへと表象の世界が収斂していく当の欠如でありうるということ、そしてラカン自身がメラニー・クラインのよく似た理論に対して自説の差別化を図るという文脈においてまさしくこの点に言及していることは、ともに注意されてよい。
(54)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)287頁。引用に際して、訳文中の「セリー」を「系列」に、「置き換え」を「遷移」に、「男根(ファルス)」を「ファルス」に改めた。
(55)日日日『のばらセックス』(前掲書)258-259頁。
(56)同書375頁。
(57)ジル・ドゥルーズ『差異と反復 上』(前掲書)341-344頁。

category: 『のばらセックス』

CM: 0 TB: 0   

日日日『ささみさん@がんばらない 9』 

代表作が必ずしも文句なしの力作・一番の傑作とは限らない、というのは現代のライトノベル界の宿命なのか。
決して手抜きというわけではないのだろうけれど、個人的にはいささか不完全燃焼気味な感の否めない『ささみさん@がんばらない』の後半。
理由はいくつか思いつく。世界各地の神話に手を広げすぎた結果、とりあえず素材を咀嚼・消化して小説の姿に仕立てるだけで手一杯である(各巻の頁をほぼ使い切ってしまう)とか、るるなちゃんこと月読(つくよみ)るるなを除けば適当な時機をみはからって新しい登場人物が投入されるということもなく、前半で悪徳オカルト結社「アラハバキ」の首領が種を撒いていた陰謀への対処がひたすら延々と続くとか、世界の安寧を脅かす最終的な敵である月読日留女(つくよみ・ひるめ)が、記憶能力もなければまともな人格もなく(それゆえに説得を通じて改心させることは不可能に近い)、ただ食欲に任せて神々を食い散らかすだけの自然災害のような存在であるがゆえに、筋の展開を錯綜させて盛り上げる要因としてはいまいち力不足であるとか、個性の棄却と大いなる全体への融合という事態が、一方では彼女のもたらす災厄の内実そのものでありながら、他方では世界中の神々が知恵を絞って考え出したそれへの対抗手段でもあることによって、結局どっちつかずの両義的な性格を帯びてしまうとか、他の登場人物たちと比べれば一応最も主人公の地位に近かったはずのささみさんこと月読鎖々美(つくよみ・ささみ)が途中からは完全に話者に徹し、こともあろうに神々と日留女の最終決戦すら眠ったままやりすごしてしまうとか(注1)、いつの間にか彼女が各巻・各章の冒頭で決まり文句のごとく繰り返すようになった「これも後から聞いた話である」という前置きの文が(ちょっと森鴎外の『雁』みたいだ。第10巻には「沈黙の塔」なる題名の章もあり、日日日と鴎外との関係は今後なお考えてみる余地がありそうである)、以下に続く頁で何が起きようと実際にはその事件がすでに「解決済み」であることを読む前から予想させてしまうとか、作中の随所に見え隠れする一神教への批判的な問いかけが、あくまでも「宗教」ではなくて「神話」を相手どるという作品の基本姿勢ゆえに、あるいはそもそも問い自体のきわどい政治性ゆえにいまいち明瞭にならない(なりえない)とか、一神教の代表格と目されているはずのキリスト教について肝心の作者の理解が十分かどうか不明であるとか―ことに、邪神(やがみ)かがみが「ユダヤ神話」の体現者となったがゆえに十字架の力を使いこなせるという第11巻の設定はいくらなんでもまずい。元来不名誉な刑死の象徴でしかなかった十字架に神聖な権威を認めることができるか否かは、大袈裟に表現するならキリスト教徒をユダヤ教徒から決定的に分かつ相違点ではないのか。この設定には、日日日のキリスト教観の中には旧約聖書があっても新約聖書(なかんずく福音書)の影は薄いということ、換言すれば本人の思惑がどうであれ、それが実質的にはユダヤ教観にすぎないことがはしなくも露呈している。それに、キリスト教会が十字架を掲げながら永年にわたってユダヤ人に加えられる差別や迫害を黙認し、ときにはそれに加担してきた歴史も、決してうやむやにされてよいものではない―、まあ、いろいろ。
その中でも第10巻は、もともと猛々しい戦士たちの血沸き肉躍るような世界観を反映した北欧神話がライトノベルと相性がよかったのか、はたまたいつも能天気で何の屈託もなさそうな邪神たまが、新米のるるなちゃんにお株(日留女に立ち向かうという役割)を奪われそうになって嫉妬と焦燥のあまり一計を案じるという、後ろめたくも屈折した事情が背景にあるからか、全巻を通しても屈指の一冊たりえているように思う。

とはいえそれに先立つ第9巻は、おかしな方向に歪曲されたまま固着しそうになった歴史の流れを正常に戻すという、前半を読んできた人ならなにやら既視感を覚えそうな内容である。
首領の狙いどおり宇宙人に汚染され、日留女に立ち向かうはずの「対抗兵器」から「破壊神」シヴァへと変質してしまったヴィシュヌだったが、海千山千の彼女はそう見せかけて実はもともとの自我を保っており、首領の思惑の裏をかいて独自の計画を練っていた。それは、月読鎖々美をはじめ全ての太陽神を吸収した上で、歴史を改変する能力を持つ厄介な玉藻前(たまものまえ)を排除しつつ日留女の復活を未然に阻止する―というもの。これこそが世界を救う最善の方法なのだと言わんばかりのシヴァだったが、鎖々美の宿敵にして親友である蝦怒川情雨(えどがわ・じょう)は、彼女はおろか自身の母親である玉藻前までも犠牲にしようとするこのもくろみを、到底納得して受け容れることができない。そこで、情雨はひとまずいなくなってしまった鎖々美の立場を自ら代行して時間を稼ぎながらヴィシュヌの過去に探りを入れる一方で、玉藻前にシヴァを追わせることにした…というのが大体この第9巻の前篇(第一部「ヨーガ」)の粗筋である。
後篇(第二部「モークシャ」)に入ると、今度は打って変わって「地下王国パタラ」に閉じこめられた玉藻前とかがみが脱出するまでの顛末が描かれ、ついで舞台は、世界中の太陽神を吸収し尽くしたヴィシュヌ=シヴァの放った霊的核爆弾(アグネア)の威力で全ての神々が死に絶えてしまった、「終末の世界」へと移る(ちなみに、使用中のアグネアが発揮する火力のほどを知りたいと思う読者の期待は、ようやく第11巻に至って満たされる。このおあずけの巧妙さは、さすがに堂に入ったもの)。

 玉藻前さんの周囲は、異様だった。
 基本的に真っ暗である。
 墨を広げたような、漆黒(しっこく)。
 だがそのなかに、星くずのように散らばっているものがある。
 切れ切れとなった、何かだ。
 よく目を凝らして見ると、それはいろんなものの断片だ。
 建物だったり、乗用車だったり、山や河だったり。
 だが物理的に切断されたというより、写真をてきとうにちぎってばらまいた感じだ。
 無数の、粉々にされた写真の欠片(かけら)が散らばった闇(やみ)―そうとしか表現できない、得体のしれぬ光景である。
 玉藻前(たまものまえ)さんのそばには足場もなく、ふわりと髪や衣装を揺らしてゆるやかに落下していく。
〔中略〕
 途中にあった断片のひとつ、どうも桜ノ花咲夜(このはなさくや)学園の校舎らしいいちぶに、玉藻前さんは着地する。
 壁と屋上のいちぶだけがあって、それ以外は空間が途切れているかのように消失している。
 異様な状況に怯(ひる)みながらも、玉藻前さんは警戒して周囲を観察した。
 すぐそばでは、切り取られた樹木の下半分だけが、にょきりと生えている。
 鋭利な刃物で切断されたような断面。
 地面らしき土くれもへばりついていたが、ぼろぼろと剥離(はくり)して零(こぼ)れていく。(注2)

ほとんどこれ見よがしと呼びたくなるほどに、ここではベンヤミンが論じたような、バロック時代のドイツの悲哀劇における寓意(アレゴリー)表現と同様の、粉々になった世界への趣向が働いているのがわかる。

 悲哀劇によって歴史が舞台にもち込まれるとき、歴史は書きものとして入ってくる。自然の顔には、有為転変のはかなさを表わす象形文字で「歴史」と書かれているのである。舞台上で悲哀劇によって設定される自然の歴史を帯びるアレゴリー的相貌は、実際に廃墟として目のまえに現われる。具体的に歴史は、廃墟と化しながら舞台へ入ってきたのだった。しかも、そのような形をとったとき、歴史は永遠の生命の過程としてではなく、むしろとめどもなく崩壊してゆく経過としてくっきり姿を現わす。したがってアレゴリーは、自分が美の圏外にでているのを認めていることになる。事物の領域における廃墟にあたるのが、思念の領域におけるアレゴリーである。ここからバロックの廃墟崇拝が生ずる。〔中略〕取り壊されてそこに瓦礫となって残っているもの、すこぶる重要な断片、破片。それこそが、バロック的創造のもっとも高貴な素材なのである。(注3)

このほかにも、古代の神々の衰亡、あるいはむしろ形骸化、特にキリスト教世界におけるそれをはじめとして、『ささみさん@がんばらない』における、まるでベンヤミンと共鳴し、あるいは競合するかのような寓意的思考の存在を裏づけてくれる証拠には事欠かない。
ことによると作者は実際に『ドイツ悲哀劇の根源』を座右に置き、執筆中にちょくちょく参照しているのかもしれない。突飛な仮定だが、ふとした瞬間にそう思わせるほどの露骨な符合が、あるいは読者の側の自由を狭めるという意味でかえって物足りなさの印象につながるのだろうか。なんとも贅沢で手前勝手な感想もあったものだ。
ただ、忘れてはならないのは、ベンヤミンの寓意論にとって、髑髏の転がる廃墟という荒涼たる光景は、決して究極的なものではなかったという事実である。むしろ彼にとって真に肝要だったのは、寓意表現というものにおける記号と意味との間の避けがたいずれないし断絶をいわば梃子にして、そのような光景の無常さという特徴を、今度は復活の寓意として再解釈するという段階なのだ。

 最後にバロックの死斑のなかで―いまはじめて、後ろに向きを変えた極大の弧を描いて救済しながら―アレゴリー的な考察は急転する。〔中略〕
 どれほど細断しつくされたものでも、どれほど死滅しはてたものでも、どれほど散りぢりになったものでも、これによってそれらの暗号が解ける。〔中略〕
 まさにつぎの点こそ、メランコリックな沈潜の本質である。メランコリックな沈潜は、その究極の対象のなかに埒もないものをもっとも完全に確保していると思っているが、その究極の対象がアレゴリーに急変する。究極の対象は、無のなかに姿を現わし、その無を満たし、そしてその無を否定する。ちょうどアレゴリーの志向が、最後には死骸の光景にどこまでも忠実にとどまることはせず、忠実を捨て復活へ飛び移るのと同じように。〔中略〕
 なんの収穫もなく帰るのがアレゴリーなのである。アレゴリーがいつまでも続く深みとして育んできた悪そのものは、アレゴリーのなかにしか存在せず、アレゴリー以外のなにものでもなく、現にある自分とは別のものを意味する。しかもこの悪そのものは、まさしく自分の表わしているものが存在していないことを意味する。(注4)

道籏泰三は、ベンヤミン的な寓意の作り手がたどるこのような経緯についての注釈として、「高慢にして空疎な主観的真理ないし善に背を向け、自ら破壊的な悪に始終手を染めながら、やがて、自らの悪魔的な破壊行為にひそむ主観性をそれと自覚することによって、これを最終的に滅却させようと自ら転身すること、この二つの相反する行為の『神秘的均衡』のなかから、善も悪も存在しなかったかつての楽園状態、今は忘却されてしまった定かならぬ主客融合状態としてのあの『原史』なるものが浮かび上がってくるかもしれない」と述べている(注5)。
この整理はいささか善悪という道徳的な局面を強調しすぎているきらいもあるような気がするが、ともかく主観性の自壊による「原史」(原‐歴史)の救出という方向性を打ち出している点で示唆に富むことは疑いえない。もっとも私としては、『失われた時を求めて』における紅茶の風味をきっかけとしたコンブレーの町の復活について、それは連想の鎖を断ち切って出現するものであり、「その本質における、かつて生きられはしなかったようなコンブレー。いまだかつて見られたためしがないような、〈観点〉としてのコンブレーである」(注6)と書いてはばからないドゥルーズ、のみならず「生成変化の線状システム(あるいはブロック)は、記憶の点状システムと対立する。〔中略〕生成変化は反‐記憶である」(注7)とも断定するドゥルーズが考えているような、「かつて一度も現在であったことがなく、あらゆる現在に対して先存する純粋過去のうちに〈出来事〉を反‐実現する超越的に行使された記憶」(注8)としての無意志的記憶の働きをここに見たいと思うし、ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について(歴史哲学テーゼ)」における「虎の跳躍(ティーガーシュプルング)」(注9)は明らかにそのようなもの、すなわちいまだかつて一度も現在的であったためしのない本質の「想起(Eingedenken)」(注10)という逆説的な企図として読まれうると考える。
だがいずれにしても、ここでは、つまり『ささみさん@がんばらない』の第9巻にとっては、「反‐記憶」や「反‐実現」に訴えなくとも、主観性の自壊を伴う想起という構図でとりあえず十分なはずである(そのことが、はたして作品としての強みなのかそれとも弱みなのかは問わない)。なんとなれば、自分が霊的核爆弾(アグネア)で神々を滅ぼしたのは、人類を神々から自立させ、独り立ちさせるためであると言い張るヴィシュヌ=シヴァに対して、情雨は、それは本音ではない、と切り返しつつ、本当は「ひとの言いなりになって、奴隷みたいに酷使されて」(注11)信者の願いを叶え続けたあげくとうとう疲れ切ってしまったのではないか、ただそれだけのことではないのか、という問いを投げかけ、その結果かつてヴィシュヌがガルーダとの間で交わした約束を思い出させているからだ。その約束とは、いずれ人間がヴィシュヌへの感謝の念を忘れ果て、憎悪と苦痛に満ちた彼女が世界にとって不要な存在となったとき、ガルーダが彼女を殺す、というものにほかならない。
結局、この約束はそのまま実現をみることはなく、シヴァはガルーダに優しく褒められてから、満足して穏やかに40億2千万年の眠りにつくことになるのだが、このような結末から、神々なら神々という役割に束縛された生と、個体がそれ自身として肯定される生との対照という問題を、前者への批判と後者への希求ともども読みとることはいともたやすい反面、そのたやすさは、あくまでも断片や廃墟それ自体から弁証法的に救済への転換が生じてこなくてはならないとするベンヤミン的な寓意論の徹底性と比べると、あるいは安易さの別名ではあるまいか、少なくともこれは、第9巻を一貫して規定するインド神話という枠組から自然的かつ必然的に導き出せる問題系ではないのではないか、という疑問も抑えがたい。よしんばとってつけたような、とまでは行かないにしても、例えば『のばらセックス』が、汚辱にまみれた瀕死の坂本緒礼―切り刻まれ、「七分の一ほどしかない」断片、あるいは「残骸」と化した彼の肉体(注12)―を、すなわち「死せる男性」を、同時に「女性の再生」の寓意でもあるものとして提示していた鮮やかな手際と比べると、どうにも中途半端な印象がぬぐえないのだ。
おそらく、大いなる全体の中へと個性を失って融合するという事態が、上で確認したように単に日留女の体現する脅威であるばかりでなく、神々に残された唯一可能な対抗手段、したがって一縷の希望でもあるという両義的な筋書からしても、個体性の強調は他者(ガルーダ)から私(ヴィシュヌ=シヴァ)に与えられる人格的承認の重要性という論点―これ自体はすでにヘーゲル(『精神現象学』)が気づいていたことである―に無邪気に依拠するばかりでなく、もっと念入りに仕上げられる必要があったはずだし、そもそも『ささみさん@がんばらない』における過剰なまでの遠近法主義(perspectivism)、換言すれば、各個体の占める「観点」の相異からほとんど世界の複数性という結論を引き出さんばかりの、ライプニッツ的な、あるいはむしろ超ライプニッツ的な(すなわち、ライプニッツの形而上学体系の帰結を、創始者の意図した範囲を超えて追い求める場合に初めて成り立つ)遠近法主義は(注13)、同じ作者の例えば『ビスケット・フランケンシュタイン』のような作品からうかがえる歴然たるスピノザ主義とは、ある種の解消しがたい緊張関係にあり、それゆえどこかしら不徹底なものにとどまるほかないように思える。例えば、第9巻の「あとがき」では、「語り部は『現代の鎖々美(ささみ)さん』だけど主に行動するのは『情雨(じょう)や玉藻前(たまものまえ)』で、そのうえ事態の中心となってるのは『過去の鎖々美さん』というややこしい感じ」が「三重らせん視点」と名づけられているが(注14)、実のところ、このうち「過去の鎖々美さん」については視点人物として成り立っているのかどうかやや判然としないし、残る二者については、たしかに「現代の鎖々美さん」の視点という大枠の中で、あるときは情雨の化けた偽の鎖々美が、またあるときは異なる時系列に属する彼女本人がこの話者(現代の鎖々美)を見返す瞬間が存在するとはいえ、あるいはまた偽の鎖々美になりすました情雨がしきりと情雨本人と親睦を深めたがるというなかなかに気色の悪い喜劇的な一幕が出てくるとはいえ、「らせん」構造とまで断定することが許されるかどうかは少々疑問である。
読者の態度としてはいささか変則かもしれないが、私としては、それでも『ささみさん@がんばらない』の第9巻を凛乎たる一篇の小説として自立させているものは、結局のところいくつかの印象的な場面であり、おのおのはせいぜい二、三頁しかないそれらの断片が、それ自体も断片であることをやめず、かつまた他の断片を強引に一体化することも全体化することもないまま、危うい均衡を保ちながら縫い糸のごとく事後的な統一性をこの作品にもたらしているのだと考えてみたい。

何が一つの作品の一体性を作るのか。何が我々を一つの作品と「交流」させるのか。何が芸術の一体性というものを作るのか、もしもそのようなものが一つでもあるのだとすれば。我々は諸部分を一体化するはずのある一体性だとか、諸断片を全体化するはずのある全体だとかを探し求めることを断念した。というのも〈理(ロゴス)〉なるものを同じように論理的一体性としても有機的全体性としても排斥してしまうということこそが諸部分ないし諸断片の固有な点にして本性であるからだ。しかしこの多なるもの、この多様体一体性〔l'unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là〕であるようなある一体性は、これらの断片ある全体と同様に〔comme un tout de ces fragments-là〕あるのだし、あらねばならないのである。原理ではないはずの、かえって反対に多なるものとそれの綻(ほころ)びた諸部分との「効果」であるはずのある〈一者〉にしてある〈全体〉だ。原理として作用する〔ことなく〕代わりに、効果として、数々の機械の効果として機能するはずの〈一者〉にして〈全体〉だ。原則として定立されるのではないはずの、かえって諸々の機械とそれらの切り離された諸部品から、それらの交流しない諸部分から帰結してくるはずの交流だ。(注15)

『失われた時を求めて』〔À la recherche du temps perdu〕におけるプルーストの探究(recherche)を手がかりとしてこう主張するドゥルーズは、そのような断片的な一体性という逆説的な代物を、共存するばらばらな諸観点の間に比喩の力で共鳴を生産するような説明的な文体に事後的な統一性を授けるものとしての、藝術作品の形式的構造から、ひいては横断性(transversalité)から手に入れようとする。

新たな言語的慣習、作品の形式的構造とは、ゆえに横断性であり、それは文全体を横切り、本全体の中で一つの文からある別の文へと赴き、そしてひいてはプルーストの本を彼が愛好していた本たち、ネルヴァル、シャトーブリアン、バルザック…に結合する。というのももし一つの藝術作品が公衆と交流し、その上公衆を掻き立てるとすれば、もしそれが同じ藝術家の他の諸作品と交流し、また諸作品を掻き立てるとすれば、もしそれが他の藝術家らの数々の他の作品と交流し、また来るべき数々の作品を掻き立てるとすれば、それはつねにこの横断性の次元においてなのであって、そこでは一体性と全体性とがそれら自体のために樹立されるのであり、対象らや主体らを一体化することも全体化することもない。〈探求〉の諸々の登場人物や、出来事や部分が占める諸次元に付け加わる補足的な次元だ―それらが空間の中で占める諸次元と共通な尺度を欠いた時間の中のこの次元。それは諸観点を互いに浸透させ、諸々の封じられた壺を交流させるがそれでいてそれらは封じられたままなのだ。〔中略〕そのようなのが時間であり、話者の次元なのであって、それはこれらの部分全体〔le tout de ces parties〕でありながらそれらを全体化することはなく、これらの部分全て一体性〔l'unité de toutes ces parties〕でありながらそれらを一体化することはないという力能(ピュイサンス)〔puissance〕を持っている。(注16)

このように『プルーストと記号』が説く、複数の観点、複数の時系列を単一の全体へとまとめあげることはしないまま強引かつ短絡的に連結してのける横断線(transversale)の働きは、『ささみさん@がんばらない』第9巻から以下に引用するいくつかの小粋な例の中にも、たしかに話者の、あるいは叙述そのものの時間性にほかならぬものとして発現しているようである。

 嚙(か)みくだかれたポテトチップスのように空中に亀裂が走って、その奥から羽を広げた小鳥がふわりと飛びだしてくる。(注17)

 腹を切り裂かれた人体から零(こぼ)れでた内臓のように、むっとする血臭を漂わせた大量の腕が―揉(も)みあうかがみと玉藻前さんの全身に絡みつき、一気に渦中へと引きずりこんだ。(注18)

「失礼しま~すの」
 カーテンが開かれるようにして、空間が横にずれる。
 その奥から、玉藻前(たまものまえ)さんが「ひょこっ」と顔を覗(のぞ)かせた。
 ちいさな、幼女の態である。
 いつものメイド服にふわふわの九尾(きゅうび)。(注19)

「まずはお風呂ですかね」
 悲惨なことになった自分の服を見下ろして、お兄ちゃんが肩をすくめる。
 そして、わたしが窓の外を見ているのに気づいて、「どうしました?」と小首を傾(かし)げる。
「いや―」
 わたしは目をぱちくりとさせる。
「そこに、誰か……」
 窓の向こうを、何だか複雑な表情を浮かべて通過する、長い白髪の女の子がいる。
 彼女はわたしに気づくと、くるりと踵(きびす)をかえしてどこかへ去っていく。
「うん」
 そんな彼女から何かを受けとったように、わたしは自然に表情を綻(ほころ)ばせて。
「がんばるよ」
 消えいりそうな声で、けれど心をこめて―わたしはそう言った。

                   @ @ @

「……ふん。ま、こんなとこね」
 わたしとお兄ちゃんを窓越しに一瞥(いちべつ)し、そのまま背を向けて遠ざかりながら、蝦怒川情雨(えどがわじょう)ちゃんが満足げにぼやいた。
〔中略〕
 いちどだけ、振り向いて。
 何も知らずにいる過去のわたしに、宿敵らしからぬ、優しい声で告げてくれるのだ。
「……がんばってね」
 そして、もう振り向かずに―彼女の居場所へと帰っていく。(注20)

列挙していくときりがないのでこのくらいにしておく。ともかく齟齬や落差や差異をそれ自体として肯定しうる横断性というものをこれらの断章に認めることは、そう筋違いでもないのではないか。付言すれば、このように考えてこそ、月読鎖々美における主人公らしさの明らかな不足(減少)というすでに触れた事実も、単に解決を要する問題とは異なる、一つの生産的な成果として理解することが可能になるはずなのだ。
ただ、それを勘定に入れてもなお、『ささみさん@がんばらない』が単なる無難さや洗練を超えて、このような作品―神話を換骨奪胎することで成立したライトノベル―として達成しうるかぎり最高の成果を収めえているか否かは判然としない。私は冒頭で、作者のキリスト教理解がはたして十分なものかどうかという点について疑問を呈しておいた。実際、「神の御子であるイエスが全人類の罪を贖うべく十字架上で刑死を遂げ、そして復活した」こと、および「父なる神と子なる神(イエス・キリスト)と聖霊は三にしてしかも一(三位一体)である」こと、最低限この二つの教義が揃っていなければ、たとえエデンの園やノアの方舟への言及があろうとも、そもそもそれをキリスト教と呼ぶことは難しいのではないか。である以上、真にキリスト教を批判したければ、当然この二つの教義を集中的に検討しなくてはならないはずなのだ。
しかるに、間違いなくドゥルーズ的な美学の要諦の一つである横断性の概念がこのためにどの程度有効であるのか、私には確信がない。キリスト教においては、「まことの神にしてまことの人」という逆説そのもののような存在としてのイエス・キリストに加えて、聖霊ないし教会もまた、信者と超越的な神とを隔てる絶対的な溝ないし落差を埋め立てることはないまま、なおかつ両者の間の絆として機能する。しかもそのイエスたるや、実に俗世の歴史の中へと歩み入り、人類の救済のために従容と死に赴いたほどに人間的な神であり、自己犠牲の鑑であるのだ。私自身は生まれてこのかた教会の敷居をまたいだ経験のない無神論者であり唯物論者であるが(そして将来的にもそうだろうと思うが)、このような宗教が容易に批判の試みを受けつけない、すこぶる難攻不落な思想体系であることくらいはまあ見当がつく。別に日日日に限ったことではないが、ことキリスト教を批判的に相対化しなくてはならないとなると、今日でもなおとかく作家や藝術家の態度から歯切れのよさが失われがちなのは(と、私は感じるのだがいかがなものでしょう)、思うに普遍的な人間性やかけがえのない個性を強調しようと、はたまた悲壮な自己犠牲の物語に尊ぶべき手本を求めようと、ひいては断絶や横断性を謳歌しようと、それらがいずれも決定打たりえないという事情のゆえではないのか。それに、罪とその贖いとを別々に考えるのではなく、むしろ最大限の距離を挟んで向かい合いながらも間に一連の波乱万丈の過程を生ぜしめる相関的な両極として見定めようとする神学者の視線も、日々虚構の創作に携わる者にとって、倫理学的というよりも方法論的な次元で、無視しえない先例たりうるのではあるまいか。
しかしながら、神々が力を合わせてまがりなりにも日留女の脅威を封印することに成功したはずの第11巻の巻末に見出される「あとがき」の文章を信じるなら、『ささみさん@がんばらない』はなおもキリスト教批判の書として書き継がれなくてはならないはずなのだ。となればまずは、どちらも非合理な直観の飛躍によってただ信じるしかない(知的な理解を拒む)、どこまでも逆説的なイエス・キリストという存在の特異性と三位一体という、最も基本的な上記の二つの教義をきちんと作中で確認しつつ、なおかつ寓意的・横断的な思考の歩みを、ことによるとドゥルーズやベンヤミンが思いも及ばなかったほど推し進める必要が出てくるのではないか、と予想せざるをえない。これ以上の具体的な予想はあまり実り多いとも思えないので控えたいが(すでにいろいろと抱えこんでいる邪神三姉妹がさらに三位一体をも兼ねることになるのだろうか…)、さしあたり指摘しておきたいのは、読む者を始末に負えぬほど欲情させ、超越者を穢すように誘惑し、そして弁明の余地のない一人の共犯者として恥じ入らせずにおかない『のばらセックス』の猥褻性が、自らのばら様に扮しておちば様が決行する間接的な自殺の上演(representation)―「間接的」という形容詞は、二重の意味で欠かせない。すなわちおちば様の自殺は、第一に手段に関して間接的であり(彼女は、恋人の手に掛けられて命を落とすという、ヴィシュヌが表向き希望してもついに体験することのできなかった状況を体験する)、また第二に、目標に関して間接的なのである(この死は単なる自害ではなく、一度も実在したためしのない彼女の母親、つまりのばら様の殺害という迂回路を経由する)―による、すなわち原理としての表象(representation)の能動的にして受動的な(したがって絶対的な)死(注21)による自立の促しとあいまって、ここでもはるかに『ささみさん@がんばらない』の先を行き、たぶん人類の文化史を端から端まで通覧してみてもその徹底性において極度に稀と評してよい宗教批判として、すでに立派な手本を示しているという事実である。


(1)もちろん、ささみさん「は」―特に貢献できることもないので―がんばらない(他の誰かが適任者としてがんばる)、という意味では、この人を食ったような成行きも、これはこれでむしろ忠実に題名を反映しているわけであるが…それにしても、奇をてらいすぎて少々空回りになっているのでないかどうか、判断に迷うところではある。
(2)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(小学館、ガガガ文庫、2012年)253-254頁。なお、原文で傍点が付してある語(「何か」)を、引用に際して太字の表記に改めた。
(3)ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』(岡部仁訳、講談社学芸文庫、2001年)282-283頁。
(4)同書379-381頁。
(5)道籏泰三『ベンヤミン解読』(白水社、1997年)93-94頁。
(6)Gilles Deleuze, Proust et les signes, Paris, P.U.F., 2007, p.183: « Combray dans son essence, tel qu'il ne fut pas vécu; Combray comme Point de vue, tel qu'il ne fut jamais vu ».
(7)ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中』(宇野邦一・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出文庫、2010年)280頁。
(8)江川隆男『存在と差異』(知泉書館、2003年)205頁。「先存」は「先在」の誤記ないし誤植かもしれないが、一応原文を尊重しておく。
(9)ヴァルター・ベンヤミン(浅井健二郎訳)「歴史の概念について」、『ベンヤミン・コレクション』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳、ちくま学芸文庫、2004年第2版第5刷)659頁。
(10)「想起(Eingedenken)」がまさしくプルースト的な無意志的記憶として「追想(Erinnerung)」に対立することについては、道籏泰三『ベンヤミン解読』(前掲書)140頁以下に説明がある。
(11)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)275頁。
(12)日日日『のばらセックス』(講談社、2011年)376頁。
(13)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.196.
(14)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)311頁。
(15)Gilles Deleuze, Proust et les signes, op. cit., p.195-196: « Qu'est-ce qui fait l'unité d'une œuvre? Qu'est-ce qui nous fait "communiquer" avec une œuvre? Qu'est-ce qui fait l'unité de l'art, s'il y en a une? Nous avons renoncé à chercher une unité qui unifierait les parties, un tout qui totaliserait les fragments. Car c'est le propre et la nature des parties ou fragments d'exclure le Logos aussi bien comme unité logique que comme totalité organique. Mais il y a, il doit y avoir une unité qui est l'unité de ce multiple-là, de cette multiplicité-là, comme un tout de ces fragments-là: un Un et un Tout qui ne seraient pas principe, mais qui seraient au contraire "l'effet" du multiple et de ses parties décousues. Un et Tout qui fonctionneraient comme effet, effet de machines, au lieu d'agir comme principes. Une communication qui ne serait pas posée en principe, mais qui résulterait du jeu des machines et de leurs pièces détachées, de leurs parties non communicantes ».
(16)Ibid., p.202-203: « La nouvelle convention linguistique, la structure formelle de l'œuvre, est donc la transversalité, qui traverse toute la phrase, qui va d'une phrase à une autre dans tout le livre, et qui même unit le livre de Proust à ceux qu'il aimait, Nerval, Chateaubriand, Balzac... Car si une œuvre d'art communique avec un public, bien plus le suscite, si elle communique avec les autres œuvres du même artiste, et les suscite, si elle communique avec d'autres œuvres d'autres artistes, et en suscite à venir, c'est toujours dans cette dimension de transversalité, où l'unité et la totalité s'établissent pour elles-mêmes, sans unifier ni totaliser objets ou sujets. Dimension supplémentaire qui s'ajoute à celles qu'occupent les personnages, événements et parties de la Recherche ― cette dimension dans le temps sans commune mesure avec les dimensions qu'ils occupent dans l'espace. Elle fait se pénétrer les points de vue, communiquer les vases clos qui restent clos poutant[...]. Tel est le temps, la dimension du narrateur, qui a la puissance d'être le tout de ces parties sans les totaliser, l'unité de toutes ces parties sans les unifier ».
(17)日日日『ささみさん@がんばらない 9』(前掲書)37頁。
(18)同書207頁。
(19)同書252頁。
(20)同書306-310頁。
(21)もちろんこの場合、単一の出来事(のばら様に化けたおちば様の落命)に具わった自殺としての側面が表象の能動的な死(「のばら様が―おちば様の死を通じて勝手に―死ぬ」という文)に相当する一方で、親殺しとしての側面が表象の受動的な死(「のばら様が―娘であるおちば様の意志によって―殺される」という文)に相当するのであることは論を俟たない。

category: 『ささみさん@がんばらない』

CM: 0 TB: 0   
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。